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メンズエステ  作者: みぃ
25/38

25 断捨離

 学校に戻ると、分かり切っていたはずの事だったがまた時間に追われ目を回しながら走り回る日々が始まった。沼の底から這い上がるように目覚め、ともかく電車に乗り込み、授業中にもう一度うつらうつらと眠る。学校には9時〜16時まで居なくてはならず、アルバイトには17時から後の時間しか使えない。住み着いているネットカフェのシステムが何だかおかしくて、6時間以上滞在すると急に割高になるので、アルバイト先が許してくれる限り営業後のお部屋でちょっと仮眠をとったり歯磨きしておいたりしてからネカフェに寝に行った。

 睡眠は細切れ、宿題はプリントを汚しただけみたいなやっつけ仕事で、テスト勉強なんて全然やる暇がないのでこのまま行けばぶっつけ本番の実力勝負になりそうだった。むしろ最初から追試に望みをかけていた。


 隙あればどの科目でもウトウトしたけれど、どう頑張っても起きていられない科目が一つだけあった。

 公衆衛生学だ。

90分間立っているのだけでも凄い事なのじゃないのかというくらいお年を召された、白い眉毛が目に落ちかかり頭の髪も真っ白な90代のお爺さんが受け持ちのクラスで、この老人は受け持ちの教科についての話は90分間一切しない。世間話をずーっとしている。それも隣の家と自分の家との境目にある植木の枝の処理はどちらがするかとか…根っこがどっちの土地から生えているか、枝がどっちの敷地に広がっているかとかの完全なる自分ちの問題をいつまでもぐるぐる話し続けているのだ。入学したての春にまだ真面目だった頃、途中までは我慢してジッと聞いていたが、30分経っても40分経っても教科書のどのページを開けとも言われないし、周りを見渡すとみんなとっくに他の授業の宿題を進めたり爪をいじったり寝たりしていた。それが正しいこの授業の受け方なのだ。だから私も寝ることにした。

 この先生は90分が経った後にみんなが席を立ちだすと突然、

「教科書の何ページを開いて…」

と言い出し、震えながら慌てて早口に

「今日やったところは何ページから何ページまででした」

とビックリするような真っ赤な嘘をつくのだ。

信じられなくて初めての授業を受けた日には思わず笑ってしまいかけた。

 この先生はシュナウザー先生と呼ばれ可愛いと言う子も沢山いたがとんでもない。私には彼こそ給料泥棒のように見えた。こんな授業にもお金を払っていると思ったらもったいなかった。こんな授業なら私にだってできるんだから同じ時間拘束されるならもうちょっとはマシな授業を私がやるからお金をもらいたいところだ。

 ところが、犬好きで老人にも優しいマイマイにこの先生の授業は授業ではないから寝て良いんだと言うと、

「あの先生が教えてるのは教科書には載らない話なんだよ。深い一般教養とか常識について話してくれてるんだって。そう思って聞けば凄いためになる事言ってくれてるよ」

と言われてしまって参った。そんなに優しく解釈できるほど私の気持ちには余裕がなかった。


 心を新たにもう一度学校に戻ってきたことでもあるし、シュナウザー先生も今ではキチンと授業をやっているかもしれないと思い、二度目のチャンスを与えるつもりでしばらく眠らずに聞いていたが、いつまで経っても自分ちの近所の話をまだやっていた。今日は自分の額にできたたんこぶを指差し、

「皆さん、このタンコブ。このなぜこんなものができたかと言うとね…」

とたんこぶが出来た由来について長々と説明し始めた。植木の高い枝を切りに梯子に登っていて落ちて出来たコブなのだそうな。初めは台所の小窓から心配して覗いて見ていた奥さんが、だんだん老人が梯子を上に登るにつれ外へ出て近づいて来て心配して見上げていたので、落ちた時に奥さんを下敷きにしなくて良かった、病院にもついて来てくれた二十歳の時から結婚している良い奥さんです、今日ここへ来るのにも一緒に車に乗ってついて行くと言うので丁重にお断りして1人で来ました、という可愛くてほのぼのした物語を語っていたので、

(うん、寝よう)

と思った。マイマイもこの授業の時だけは無理に起こさないで寝させてくれた。


 

 学費はまだ貯まらず、学校も一日も遅刻もできない中、最悪の予想外の事態が起きた。泊まらせてもらえないbijouに出勤した日の夜に、もう一刻も早くバッタリ倒れて眠りたいぐらいヘトヘトだと言うのに、神戸中のどこのネットカフェも漫画喫茶も満室で空きがないと言われたのだ。

「信じられない…こんな事ってあるんだ…最悪だよ…」

と井上くんにブチブチ文句を垂れながら深夜の神戸の街を徘徊した。

「もうここにぶっ倒れて寝ちゃいたいくらいしんどい」

目の前の柔らかそうにすら見えるアスファルトの道路を指差し、泣きそうになりながら立ち止まった。歩くのも立っているのももう無理だった。しゃがみ込んだが、本当にどこでも良いからぶっ倒れて寝ちゃいたかった。心の底から。それができるならもう明日目が覚ませなくても上等だというくらい今がキツかった。

「おんぶしようか?」

井上くんはおずおずと聞いてくれたが、私は殺気立っていて鋭く斬り込むように聞き返した。

「おんぶしてどこに連れて行ってくれるの?」

「…ホテルでも行く?」

あーあー、お前もか…と思った。胸の中で男はみんな一緒だ、どいつもこいつも結局一緒くただ、という暗い思いが渦巻いた。その日のお客さんが酷い人達揃いだったか、こちらが切羽詰りすぎてヤケクソの極みに達していたのか、生理前に差し掛かっていたのか、そのどれもが一度に襲いかかって来ていたかだ。毒のあるウニのように鼓動が脈打つたびにそばに近づく者を攻撃しようとしていた。

「カラオケは?」

「寝れる?」

「うーん…店員さんに見つかったら怒られるだろうけど。一人が起きてれば大丈夫かな。俺が起きて見張ってるよ。巻多さんは少しでも寝なくちゃかわいそうだから…」

ちょっと優しいことを言われ、今度は極端にグラっと井上くんの男らしさに倒れ込みたくなった。

「ホテル行こう」

ヤケクソでこちらから提案し直した。もうどうとでもなれ、井上くんとサッサとヤってしまって布団で寝よう、と腹積りしたのだ。それほどやさぐれヘトヘトになっていた。

「どこか知ってるホテルに連れて行って」

私達はシャッターの降りたセンター街の真ん中までトボトボ歩いて来ていた。足早に通り過ぎていく誰もが見向きもしない深夜の光のショーが鬱陶しく私達を青に照らしたり赤に照らしたりしていた。

 井上くんの顔は別に全然ヤッターという感じでもなかったが、ややそそくさと携帯電話を取り出してしばらく調べ、どこかに電話をかけて咳払いをして改まった大人の声音で何事か質問し始めた。

「あ…もしもし…お伺いしたいことがあるんですが…今夜なんですが…あー…はい…ええ。はい…」

そんな喋り方をしているのを聞くと彼がものすごく背伸びをしてお兄さんのように振る舞おうとして頑張ってくれているようで何だかこそばゆく、嬉しくて頼もしかった。電話を切るとこちらを向いて、彼が言った。

「普通のホテルで安くて新しくて行ってみたいところがあったんだけど、今夜は埋まってるって…」

「今夜は神戸で何が起きてるんだろう」

「本当だね…」

「知ってるとこないの?」

井上くんはちょっと肩を膨らませ、深呼吸して、

「じゃあ…」

と言って先に立って歩き出した。坂の上までひたすら歩いた。地元のラブホテルについて神戸と姫路と明石の知識を出し合ったが、もともと物知りな井上くんに比べて私は何も知らなかった。そもそも一人暮らし同士の元彼としか付き合ったことがないからラブホテルに入った経験が無かった。

こっちの地元姫路のホテル事情まで井上くんは詳しそうなので、

「それって通ったから知ってる情報?」

と思わず聞いてしまった。

「いや、まぁ、色々…ネットで見て知ってるのとか。友達の情報とか…」

沖縄の風俗事情にも精通しすぎて地元民のマイマイに薄気味悪がられていたのを思い出した。井上くんって謎な子だ…よく知っているようでよく分からないところが多い…のんびりとした受け答えで話したくない質問を煙に巻くのが上手なのだ…慣れた人にはよく喋ると思いきや、ウンチクとか他人の話とかをしているので惑わされてしまって、実は本当には彼自身の肝心なところはよく知らない…と思った。


(まだ?)(そんなに遠い?)

と途中で文句をつけようかとも何回か思ったが、わがまますぎるかなと思ってやめた。普段はこんな遅い時間に一人では来ることがない場所を歩けてワクワクし、キョロキョロ辺りを見回していると、着くまでに看板がヒントのように所々に出ていて、向かっているホテルの名前が分かったような気がした。

 住宅街の中に紛れ込んで突如姿を表した押せば開くガラス張りのドアの中に、

「ここでいい?」

と聞かれ、頷いて目を見交わしてから入り込んでいき、手続きは全部井上くんにやってもらって、古いガタガタ揺れるエレベーターに乗り込んだ。

狭い箱の壁に所狭しと貼られた色んな催し物を全部読んでみたくて、目が冴え、いちいち物珍しくて弄ってしまった。

「コスプレだって。どれがやりたい?」

「俺がやるの?」

「コスプレは井上くんの領域でしょ…映画も観れるって!凄い数…」

「大体ちゃんと映るか怪しいもんだよ」

「モーニング無料!予約必須だって。予約しとこう。無料だよ!卵付き!豪華だよ、サラダもついてる…和定食も。選べるんだって!」

「うん…着いたよ」

「見て、貸し出し美顔器なんてある!」

「また下に戻っちゃうよ…」

「でも全部読みたい…」

井上くんがドアを押さえて待ってくれているうちに急いで全部の貼り紙にザッと目を通した。

 部屋番号がチカチカと黄色く明滅するドアには鍵がかかっておらず、井上くんが引っ張って開け、私を先に入らせてくれた。

「うわぁ、綺麗」

「ここ神戸では安くて綺麗で有名なんだよ」

「何か色々ある~」

「その辺の使い捨ての物は多分どれも無料だよ」

「うわぁ、こんな所に電子レンジが…」

私達は手分けして部屋中のあっちこっちのつまみを全部引っ張って開けてみた。窓までが押し入れの中みたいな場所に隠されていた。今夜泊まる部屋の空気を新鮮なものに入れ替えようと、私は窓を全開にした。爽やかな冷たい夜気が流れ込んで来た。意外なほど近所の普通のマンションや民家の窓が近く、中で人が動いているのが分かる家庭もある。井上くんが隣に並んできてしばらく二人でニコニコラブホテルの窓から別に何も綺麗なものは見えない夜の住宅街の風景を眺めていた。

「夜景は見えないね」

「正面老人ホームだね」

「ほんとだ」

「多分俺ら馬鹿に見えるよ」

「向こうもボケかも」

「どうだろ…あれなかなか金持ちの老人ホームっぽいよ」

「ふーん…」

寒くなって来て興味も失せ私達は開け放ったままの窓から離れた。

「お風呂すげえ広い、溜めとこう」

井上くんが浴室から何か言ってる声が響いて来たが私は黙って布団をジトっと見ていた。さっきまでは物珍しさから一時的に湧き上がって来ていた活力が底をついて、意識が飛ぶ間際だった。

 おい井上くん、やるなら今のうちだぞ…と思いながら黙って布団をめくり、モソモソその中に入っていって何も言わずにドロリとした眠りの深みに落ちていった。


 次に目を開けたときに見えたのは部屋を横切る光の筋だった。目に見える真っ直ぐな隙間風のように、一直線の冬の朝日が絨毯に何本もの細い線を描いていた。それは窓の隙間から差し込んできていた。細かい金箔のような埃が光の帯の中を漂っていた。横を向くと井上くんが半開きの白目を剥いてスースー寝ていた。モズクちゃんの寝顔のように可愛かった。片方の手が私の頭のすぐ横にあった。

 私は光の中の金箔に一緒に感動してもらうために彼を起こすべきかどうしようか迷いながらしばらく横たわって彼と光とを交互に見比べていた。まるでスノードームの底に沈んで眠っていたみたいだ…天井の古い埃の積もったシャンデリアも蜘蛛の巣もなぜか素敵な飾りに見える…


 アラームの音で二人とも飛び起きて、顔を見合わせた。

「二度寝した!」

「眼鏡眼鏡…」

「これ何時のアラーム?」

「えっと…8時だ!」

「もう止まった」

「アラームじゃない。モーニングが来たんだ」

慌ただしい動きにかき乱され光の帯の中で空気が渦を巻いた。もうあの黄金の塵は見られなかった。光の質か角度が変わったのだ。私は窓を開けに行き、井上くんが朝食の乗ったトレーを取ってきた。

「なんで8時なんかに頼んだの」

「ちょうど良いかなと思って」

「遅刻するよ」

「持って行こう」

「お味噌汁は無理」

喧嘩しながら朝ごはんをかき込み、コートを着て靴を履き鍵を返して朝日の中に目を瞬かせながら出てきた。夜とは違って見える光景に周りをキョロキョロ見回し、後ろを振り返り、(こんな所にいたのかぁ…)とホテルを見上げた。朝に見るとハッキリと分かるラブホテルだった。外にまで部屋の料金やメニューや映画が観られるなどと謳った宣伝文句が垂れ幕のようにかかっていた。

よろけながら坂道を下っている時に、

(何もして来なかったな…)

と井上くんの顔をチラチラ見てしまった。

「何?」

髭剃りあとを確かめるように顎を触ってみながら井上くんが見返してきた。



 マミちゃんへはできるだけ欠かさず毎日電話をかけていた。あれ以来音信不通だった。自分も学生に戻り学費や試験やの事で時間がなくて忘れかける時もあったけれど、日に一度はどこかで

(マミちゃんはどうなっただろう…)

と思い出した。大概授業中とかマッサージ中のふとした瞬間にはっと思い出すのだ。休み時間になったら必ず電話しようと思う…けれど授業終わりには大事な事を言われがちだし、次の授業のために急いで移動したりやってなかった宿題を思い出し急いで書き写させてもらわなければいけなかったりする。バイトの空き時間もそうだ。やる事は次々迫ってくる。

 夜眠りかけながらハッとまた思い出して目覚め、ネットカフェの個室から深夜に電話をかける事が日課になっていた。マミちゃんはいつも出ない。昼にかけても出ない。赤ちゃんは…マミちゃんはどうなったんだろう…

 呼び出し音が7回鳴り終わると留守番電話に切り替わり、何か言わなくてはならなくなるので、そこで慌てて通話を切る。


 ある夜は繋がらなかった携帯電話を机に置くとすぐに震えだしたので、パッと手にとり、マミちゃんだと思って出たら男の声だった。

「もしもし?モカ…久しぶり…」

電話を腕の限り遠ざけ、画面をよく見ると元彼だった。咄嗟に用件が分かった気がした。

「もしもし?」

「もしもし…あのさ、荷物どうすんの?」

「学校へ持って行く」

頭に浮かんだままを言葉にした。

「は?学校って…今どこにいるわけ?」

「漫画喫茶」

はぁ、と溜息が聞こえた。

「難民か…?」

何故みんな漫画喫茶に寝泊まりする事をそんなに特別物悲しいことのように思うんだろう…ここは住み慣れれば快適で安全だし、別にそう貧しいわけでもない。部屋を持つよりも少しは安いかもしれないが、ちゃんとそれなりにお金だって払っている。お金持ちでも楽しいから来ることだってあるだろう。…ないかなぁ…

「実家は?」

実家はない。母の彼氏が合鍵を持っていて突然入って来る。祖父母の家からは学校まで距離が遠すぎる。それに大きなお世話だ。もう付き合っていないんだから。勝手にする。

「荷物取りに来いよ。俺に会いたくなかったら仕事の時間中に来れば良いだろ。全部捨てるぞ」

ああ捨てろ捨てろ、と思った。何も持っていなくたってこんなに生きられる。人生に本当に必要な物なんてリュック一つに収まる。この頃は特に痛感していた。色々持っておきたがるから部屋などという余計な物がまた必要になってくるのだ。

そんなの要らないわ、と思った。

 思い出せる失って惜しいと思う品物はごく少なく、それすら取りに行く手間隙と天秤にかければ要らない物だった。

「捨てていいよ。全部捨てて」

「はぁ…」また溜息が聞こえた。

「靴とか。いっぱいあるぞ、鞄とか。服とか…お気に入りだった物も全部置きっぱだ…ルビーのネックレスも…」

あまり細かく思い出させられると惜しくなってきそうだった…それにルビーのネックレスはお母さんが何故か貸してくれた物だった。お母さんは私のお父さんか昔のお客さんか誰かからそれを貰ったのだ。別にどこかにつけて行くあてもないし頼んだわけでもないのに勝手に貸してあげると言って持って来て私の首にかけてくれ、そしてそのまま帰ったのだ…

「でっかいスーツケースもあるぞ。俺が捨てていいわけないだろが…自分で後始末つけろよ」

そう言われるとそうなのかもしれない。

はぁ…と思った。

 でっかいスーツケース…それはお母さんとそのお客さんと三人で一緒に一ヶ月ヨーロッパを旅行するという時に2人が無理やり買ってくれた物だ。私は行きたくなかった。でも三人ともが気を使いあって行って帰って来た記念品だ…いらない…

物なんて持つと後始末に大変だ。リュック一つで好きな場所で生きるのがこれからの時代だ。だけど確かに元彼の言うように、自分のゴミは自分で捨てなくてはならないんだろう。大人と思われたかったら…自分でやるべきなんだろう…行くしかないかなぁと思った。

「分かった」

「うん」

「捨てて」

「はぁ?」

「もう全部捨てて。ごめん、迷惑かけるけど…私あと5日で10万円貯めないとこれから学校へ通えなくなるから。これからのお金稼ぐ方が大事だから。」

「5日で10万?何やって貯めるの?貯まる?」

「何とかして貯まるように頑張るしかない」

「貸そうか?」

「いや、いい」

貯まらなかったら多分それが私の運命なのだ、学校へ行くなと言うことだ、とその瞬間に思った。

「じゃあ…良いんだな、捨てるぞ」

「はい」

「うん。…じゃあ、ここあと3日で出るから…本気だな?捨てて良いんだな?」

「はい」

ため息をつきながら元彼はプツッと通話を切った。


 携帯電話を耳から離し、画面を見るとメッセージが届いていた。根本さんだ。

「またお土産があるよ。いつか会える?」

今さっき来たばかりだ。2分前。すぐに電話をかけた。

「はい?」

「あ、あの…すぐに会いたいです…明日にでも…でも…」

私は胸の中でモヤモヤ考えて言葉に詰まった。

 根本さんはお茶やお食事をしたら1万円をいつも帰りに持たせてくれる人だ。すごく優しい有難い人だ。けれど、今の私には短時間でもっとお金が必要だった。あと5日で10万円が…多分間に合わない…かもしれない…

 お店では1万円よりも平均的には多く稼げる。でも、お客さんが少ない日もたまにはある。17時~24時まで予約を受け付けていても1人しか来てくれなかった日もあった。そんな日の収入は1万円にも満たない。

 チップを貰えるならこの際何だってやってやる覚悟でいたが、こちらがそのつもりで待ち構えていてもお客さんの方で別に余分なサービスを求めて来なかったりもする。

「どうした?」

根本さんが改まった口調で耳を澄ませていた。

「あの…」

お金を借りたい…でもそれを口に出して言ったらお父さんみたいに顰蹙を買ってもう会ってもくれなくなるかもしれない…

「必ず返すので…」

言い訳から切り出した。

「少しお金を恵んでくれませんか…必ず返します。」

そして今度はこちらが耳を澄ませた。

「え…何があったの…?」

「…」

「まぁとりあえず会おう?何に使うお金か聞いてからにしたいし。いくらなのかも…」

とりあえず会うとか、そんな時間がないのだ…

こんなこと言い出さなければ良かった、普通にとにかくいつも通りアルバイトしていれば良かった…と思い始めた。すると根本さんの方が考えて気を回してくれて、

「そのお金っていつまでかにいるの?期限が迫ってるとか?…学費?」

と聞いてくれた。

「そうです、そうなんです」

嘘のように聞こえるのではないかと危ぶみながら全力で肯定した。学費や生活費や子どものために働いていると言うのが一番聞こえが良くて可愛がられやすいから本当はそうでなくてもそういう風に言う子も多いのだ。何故か本当のことを言っている自分がジワリと脇に冷や汗をかいた。

 学校へ行きたいという事だって別にシャネルのバックが欲しいと言うのとあまり変わらないおねだりだからかもしれない…直接欲しいものをねだっているか間接的にねだっているかの違いだ。

「いつまでにいくらいるの?」

「あと5日で10万円貯めないといけないんです」

「よし。分かった。お貸ししよう」

「ありがとうございます!」

張り切って私は根本さんと会う日はあの立派な千賀さんに買ってもらった綺麗な服を着て行こう、と思った。

「明日でいい?早い方がいいね?」

「はい、本当にありがとうございます!」

電話を切ってから思い出した。千賀さんに買ってもらった服を着て行くことはできない。

「捨てて」とついさっき元彼に頼んだばかりだ。


「明日はすみません、休ませてください」

とシフトを入れていたcocoaに連絡し、寝ようかな…と横になった。でもだんだん嬉しくなってきて眠れなくなってきた。

 学費の心配が急に無くなって体が浮き上がりそうなほど軽く感じられ、目を閉じて明かりを消せばどこまでもこの狭い箱から漂い出て神戸の夜景が見える遥か上空まで伸びて広がって行けそうな気がしてきた。いてもたってもいられず、目がぱっちり冴え、隣の壁を叩いて井上くんを起こそう、ちょっと散歩に出よう、付き合ってもらおう、気が済むまでスキップがしたいと思って、立ち上がった。

 多分ここでの一番のマナー違反は上から別のブースの中を覗き込む事だけれど、背の低い私にはやろうと思ってもそれはできない。自分の小屋のドアを開けて隣の井上くんの小屋のドアを手を伸ばしてノックした。井上くんはすぐ顔を出した。

「散歩に行こう」

「え?うん…なんで…?」

そう言いながら足を出し、靴に突っ込んで、外に出て来てくれた。


 ルンルン夜道を歩きながら不思議そうな顔で見てくる井上くんとお喋りした。

「いつもは鬼みたいに早く寝なくちゃって必死で怒ってるのに…なんで今から散歩?寝なくて大丈夫?」

「うん」

「どこに向かってるの?」

「さぁ」

「もうすぐ試験だよ…」

「じゃあ、今からルビーのネックレスを取りに行く。取って来たらすぐ帰って寝る」

私はクルリと向きを変えて登り始めていた坂道を降りだした。井上くんも立ち止まり、向きを変えてついてきた。

「それはどこにあるの?彼氏さんの家?」

「そう」

「いきなりだね…さっきバイト帰りについでに寄れば良かったのに…」

「確かに」

井上くんは怪訝な顔のままだったがもう何も言わなかった。急に行先を変えたし、最初から散歩なんて行きたくもなかったかなと思って、

「嫌なら先に戻ってて良いよ」

と言ったけれど井上くんはついて来た。マンションの前に着くと、

「ここらへんで待っとく」

と言って明るい自転車置き場を指差した。

 久しぶりに入った元彼の部屋は荷物が半分片付いていてベッドが無くこんなに広かったかなと思えた。懐かしい気もした。行かないと言っておきながら断りもなくすぐさま来てしまったので少しコソコソした気持ちだった。何をしてるんだろう…ここに来て何がしたかったんだろう…と思った。ハンガーにかかっているまだ今もお気に入りの服や鏡の前の細かい品々や鞄や靴を見ると、捨てられてしまうのは惜しく、悲しい気持ちになって来た。

(ルビーのネックレスを探しに来たんだった…)

と思った。

でもそれは置いたと思っていた場所に無かった。ウロウロ視線を彷徨わせ、何か一つくらい持って出ようかなと、目ぼしい物一つ一つに目を凝らしてみたが、これがその一つだと思う物は無かった。どれか持ち出そうとするとあれもこれもと持てるだけ持ち出したくなるのだ。物を置いておく場所を持ってない私には、持ち出した物は常に背負って歩かなければいけない重荷になる。全部持って出ない事にした。玄関に鍵をかけ、その鍵をドアポストからポトリと中へ落とした。


 外へ出て、井上くんの姿を見ると涙が出そうになって来た。

言葉にならない虚しさがこみ上げて来た。人ってこんなに価値が無いものかと思った。今までの人生で大事にしてきた何もかもがこんなにいらない、必要の無い物だったとは…何か欲しい物を買うために必死で働いてお金を貯めて他のものを買わないでやっと手に入れた物だって、もういいと思って捨ててきた。それを買うために費やした時間も憧れた気持ちも全て捨てたのと同じことだ。これまでの自分の人生も無くて良かったものだったという事だ…

 これからだってそうだ…生きている事自体にも価値なんて無いんだ…何をこれから大事にして生きていけば良いんだろう…正解を教えて欲しい…いややっぱり教えて欲しくない…私はすでに踏み外した間違いの中を歩いているから。正しさなんかとは無縁なんだ…


 井上くんはしゃがんで野良猫を膝に乗せていた。片手でゴロゴロ満足げに唸っている猫の顎を撫でてやり、もう片方の手には火のついていない煙草を指に挟んだまま持っていた。タバコを吸おうとしていたところへ火をつける前に猫が来たのでそのまま今まで火がつけられなかったようだ。

私が近づいても猫は逃げなかった。

「ルビーのネックレスは?」

「無かった」

井上くんはゆっくり立ち上がって猫を下ろそうとしたが、猫は爪を立てて抵抗しているらしく

「痛…痛い…痛い…」

と言いながらちょっと手こずっていた。

「めっちゃ懐いたね…何あげたの?」

「何にもあげてない。冬は猫は乗ってくるよ。結構。寒いから。多分」

井上くんは脚をペンペン払った。その顔が膝から下ろされて恨めしそうな猫の方をまだ見ながら、愛おしそうで、まんざらでもなく嬉しそうだった。

「気紛れな子達だから。夏は暑いからあんま乗ってこないよ。」

「猫派だもんね、井上くんは」

「猫好きは結構振り回されるのが好きなんだよ」

(ふーん)と思った。

しばらく黙って帰り道を歩いていたが、急に思い付いて

「遠回りしよう。前にちょっと居眠りしたところ覚えてる?」

と聞いてみた。

「さぁ、行き当たりばったりで行ったからなぁ…辿り着くかなぁ…」

「その辺でいいよ」

私はすぐに前に来た場所を見つけた。植え込みの中に隠れた階段だ。井上くんを引っ張り込んでグイグイ押して座らせ、その脚の上にまたがって座った。さっきの猫が羨ましかったのだ。猫とは違って私は爪の代わりに腕と脚とをギュッと巻き付け、正面から井上くんに抱きついた。

彼の方は黙ってしばらくジッと我慢してくれていた。それからちょっと背中に手を回してポンポンと叩いてくれた。

「あんまり暖かくないなぁ」

「コートの前同士を開けたら体温が通い合うよ…」

「逆に寒くないかなぁ…」

そう言いながら試しにやってみた。

「さっきより温い?」

「どうだろ…」

「井上くん、もっとお腹くっつけて…」

どんどん井上くんが腰を曲げて変な角度にモゾモゾしだし、逃げて行くような感じがした。離れては体温が通わないし風が入るからと思って、彼の腰を押さえて離れた分を取り戻すように押し付けてくっつけようとした。すると余計にジリジリ逃げようとする…

(なんで?離れたら寒いのに…)と不可解に思っていると彼の左のズボンの中にあまり話題にしてはいけない感じの硬いものの感触をこちらも感じた。

(あぁ、これか…)と思った。(私にこれが当たらないようにしようとしてくれていたのか…でも無視すればいい事じゃないの?気がつかなかったフリをしよう、私が知らんぷりしてれば済む話でしょ)と思い、さっきと同じくらいか、もっとしっかりくっつこうとした。が、

「痛…痛い…痛い…」

と井上くんが痛がりだしたので痛いなら可哀想だなと思って仕方なく彼の膝から降りた。男の子の体は不便なんだなぁと思った。ただしっかり抱き締め合うことができないなんて…だから男女の友情は成立しにくいとか言われるのか…と思った。

「悪い奴だなぁ」

井上くんがそう言ったのは自分の体の一部に対してだと初めは思ったが、彼がちょっと睨むような目でこちらを見てきたので、私のことを言ったのかと気が付いた。悪いことをするつもりはなかったのだ。

「痛くなるとは知らなくて…ごめん」

私は謝りながらちょっと笑いそうにもなった。へっぴり腰でズボンのそれがあるらしい辺りをあちこち摘んで位置をどうにかしようと奮闘している井上くんの姿が面白かった。私のせいでそうなったのだとしたら自分が育てた植物みたいで可愛くもある。

「何その染み?」

それは言ってしまってから(あっ、言わなければ良かったかな)と思ったが、もう仕方ない。井上くんもヘラヘラ笑い出したし、過去には私の胸の大きさを語り明かした夜もあったのだから、もうお互い様だと開き直ってネタにした。

「そんなところまで来るなんてどんなデカさなの」

「そうでもないって。世界基準にしたらそうでもない。」

「得意げに謙遜するな」

「いやぁ…それより戻らん。これ。どうしよ」

「さぁ?戻す方法ないの?私が知るわけないんだけど…」

はーふーと井上くんは天を仰いで深呼吸した。そしてもう一度下を見て、

「ダメだ、どうしよか」

と笑い出した。ガニ股になってゆっくり歩いて帰る事になった。そうするしかないと言って井上くんが歩き出したので、私も吹き出しそうになるのをこらえて何度も立ち止まりながらついて行った。




続く

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