20 マミちゃん
bijouではどんなに頑張って働いたところで、時給千円の契約だった。
お客さんにベチョベチョにつけられた唾液や汗やそれ以外にも滲み出した得体の知れない体液の匂いがプンプン臭い、オイルも染み込んで、ジットリと湿り重くなった制服を、やっと脱ぎ捨て、ヘトヘトに疲れ果て、それで受け取れる金額が、いつも八千円だった。12時~20時までの受付だったから。
20時から来るお客さんには23時とかまで接客するのに、それでも貰える額は8000円…
Cocoaでは一日に3万円位は大体いつも受け取っていた。泊まり込んで長時間働けば、一日に4、5万円持って帰れる事もある。同じ仕事をするなら八千円より3万円で働きたい…
bijouに行く日が足手まといな気がして来た。
それでも、面接時に
「他に働いていません」
「たくさん働きたいです」
と言ったのは自分自身なので、週の半分は絶対に出ないといけない事になってしまっていた。
(お金って…こんなに不公平な分配をされても良いものなのか…)と悩んだ。
(単純にbijouを辞めてしまえば良いだけの事なんじゃないのか…)
とは思ったけれど、向こうから辞めてくれと言われてもいないのにこちらから辞めさせて下さいとはなかなか言い出しにくい。
これまでのクビになり続けだった自分の経歴から考えて、ここで拾って貰え、働かせて貰えている事自体を奇跡な幸せな事だと思わなければいけない。こちらから辞めると切り出すなんてできなかった。
店のコンセプトは違うし、多分、安全さも格段に違う。bijouでは壁一つを隔てた隣の部屋が受付で、そこには受付のアルバイトのスタッフがいつも居るという安心感があった。
でも他のビルにも、bijouの部屋はいくつかあり、受付と隣り合っていない個室へ行かされる日はCocoaと同じ状況になる。隣は一般の人が住んでいる普通のマンションの一室だった。
大通りを隔てて窓から受付の窓を見る事ができたが、これでは受付が存在しないCocoaとそう違わない。
何かあっても対応は遅くなりそうだ。
シフトをCocoaに増やし、bijouを減らしていこうとすると、
「面談できますか?」
と高嶺さんからLINEが来た。
「最初は週4で働けるって…ねぇ?言われて…ましたよね…?」
高嶺さんはとても優しかった。ちょっとおもねるくらいの態度だったかもしれない。向き合って座り、話している時には、緊張でカチカチに硬直していた私だったが。
(何を言われるんだろう…掛け持ちがバレて怒られるのかなぁ…)と思っていた。
高嶺さんはエクレアとレモンティを勧めてくれて、一緒に食べながら、おっとりと優しく、
「今までは残業の分も何も言わずに働いてくださっていましたね、これ、その分のお金です」
と丁寧に手書きで残業分を計算した紙と一緒に、封筒に入れたお金をテーブルの私の前に置いてくれた。
「わぁ!」
怒られる覚悟を決めていた私は、急に心が晴れ渡った。
「ありがとうございます!」
「不安にさせてしまっていた分、少しですが多めに入っています。頑張って下さっているので、ボーナスという形で…」
「わぁ~、ありがとうございます」
もっと何か違う事を言って憧れの高嶺さんの気を引きたかったが、
「夢野さんは忙しい方ですので、すぐ失礼しますね…
あんまり女の子の部屋に上司がいつまでも居座っていても気が休まらないですもんね」
とこちら側の気持ちを汲み、控えめだった。
彼女ももともとはセラピストをされていた方なので、セラピストの気持ちがよく分かるらしく、本人も
(自分は良き理解者でいなければ…)
(それが私の役割だから…)
と考えているみたいだった。
時々、呟くように自分にも言い聞かせる感じで、
「本当はもっとお食事をご馳走したり、女の子達のお話や悩みに寄り添ったり、私がもっとしっかりしないといけないんですけどねぇ…」
と言っていた。
何故だか分からないが私の事を滅茶苦茶に嫌っているらしい当たりのキツい受付の女の子達と、私との間に立って、どちらの言い分が正当なのか判定しようとしてくれた時には、毅然とした態度で
(公平でいよう、舐められてはいけない…)
と気を張っているのが伝わって来た。根が優しく真面目な人なのだ。
若くして人を束ねる立場に就かされ、慣れないながらもなんとか役割をキチンと演じようと奮闘している姿には共感が持て、やっぱり素敵だなぁと感じた。見せかけが美しいだけじゃないのだ。中身も綺麗な努力家さんなのだ。
受付の女の子達は美人なよく似た子ばかりで何人いるのかもよく分からず、全員が団結して私を嫌っているようで、言い方が物凄く意地悪なだけで言っていること自体は別に間違った事を言うわけではないので、こちらは黙って怯え、耐え、逆らわないようにして来た。それに気が付いていてくれたのか、高嶺さんは若干、私に味方するジャッジを下してくれた。
部屋を汚したのが私なのか、それともその前にその部屋を使っていた女の子のせいなのか、という問題が起きた時のことだ。間に掃除に入った受付の子は、
「私が入った時には壁に染みなどなかった」
と言っているらしく、私は私で、
(うわぁ、何これ…)
と部屋に入って最初に目に付いた壁の汚れを落とそうとちょっと擦ってみて、でも予約が満載だったのであとは放って置いた。簡単に取れるものでもなさそうだったし、夜にはもうヘトヘトで壁を磨いているどころではなく、あとは店に任せて早く帰って眠りたかったのだ。
もちろん自分が汚したのではないし…と軽く考えていた。でも受付のスタッフ達は友達同士で庇い合い、私が犯人に仕立て上げられそうだった。
(この店には自分の味方なんて一人もいない…)
と憂鬱になりかけていた。
お客さんからこんな話を聞いた事があった。
「この店、セラピストとしてはツンケンしすぎてクレームが多すぎて接客には向かないなという子は、受付に回すんだよ。
女の子を簡単に見捨てないのは良い事なのかもしれないけど…
時給千円とかで働いてる子達から見たら、高級取りの君ら花形セラピストはムカつくんじゃないの…もともと高給に惹かれて入って来たわけだし、な」
「私も時給千円ですよ!」
そう言うとお客さんはビックリし、信じてくれなかった。
「嘘だぁ」
と言い続けていた。
なんで早く出来高制に変えてもらわなかったのか、今となってはもったいない事をしていたと思う。でも無知だったのだ。この業界では新人にはとにかくお客さんが付くので、最初ほど出来高制にしておいてもらうべきだった。私は使い勝手の良い駒にされていた。どこでも社会に出たら同じようなことが起こるのかもしれないけれど…
要領が掴めないうちは食い物にされるのだ。
でも後々、bijouの社長さんには、こちらが落ち目になった時に救済措置を講じてもらえた。
高嶺さんとの面談を終え、ボーナスや頑張りを認めてもらえた事への満足感も次第に落ち着いて来て、またしばらくすると、
(やっぱりCocoaでは4、5万円稼げるのに何故ここで汗だくになって同じ仕事を4分の1の額で引き受けているんだろう…)
という感覚がジワジワと蘇って来た。
それはひとえに自分の弱さのせいなのだった。
たった一言、高嶺さんか受付の業務連絡メールに、
「時給制をやめて出来高制にして欲しいです」
と言えば良かったのだ。
でもその勇気が出せなかった。
ならば、お客さんに、この店のコンセプトを説明し、1時間千円の中での自分に出来る事を模索するべきだったのか…でもそっちの方が毎回の事で、難しい。多分給料の交渉よりも難しい。
給料の交渉ができない私には、とにかく自分が我慢することしかできなかった。それが自分にできる最大に簡単で自然な選択だった。
「最近調子どう?2chで結構散々言われてるみたいだけど大丈夫?叩かれるにしろ話題になってるって事は元気な証拠?夢野がそっちでの源氏名だよね?」
とマミちゃんから連絡をもらい、
「実はねー…」
と長文で悩みを打ち明けようとして、どう返事を返そうか考え、一晩二晩悩んで返さずにいたら、登校中に電話がかかってきた。
朝日とマミちゃんの声の意外な組み合わせから、自分が勝手にマミちゃんは夜行性だと決めてかかっていた事に気付かされた。久しぶりに聞くマミちゃんの声は弾んで元気そうだった。
「はい?もしもし」
「ねー、飲み行こうよ」
マイマイと違って、マミちゃんはお酒が好きそうに見えて全然飲めない。本人も
『へー意外〜』とか
『かなりお酒強そうに見えるのにねー』
と人から言われたり、飲みの場自体は大好きなので飲めない事も相当悔しいらしく、時々
「もう飲めるようになったかと思って飲んでみたー…まだダメだったー…」
などと言いながら、胸元から中身が見えそうなほど奥まで手を突っ込み、浮いてきた蕁麻疹をボリボリ掻いて悔しがる。
マミちゃんの
「飲み行こう」
は、そのままの意味ではない。とにかく
「会お〜」
という誘い文句なのだ。
「いつが休み?」
「シフト出しちゃったばっかりだよ…1ヶ月分…」
「次の休みは?」
「だから、来月の…うーんと…」
「それじゃ、今日は?」
「えっ?今日は休みじゃないよ…」
「手を怪我したって事にすれば?」
「えぇー、適当だなぁ」
私は笑い出してしまった。マミちゃんは大真面目に、
「適当でいい仕事なんだから適当にやらなくちゃ!」
と、むしろこっちが常識を言ってるんだよという口振りで喋った。
「学校の実習の授業とかで包丁使ってるんでしょ?それで手を切っちゃった、って事にすれば?」
「それじゃあ今日だけじゃなくて、2、3日は痛いふりして絆創膏貼ったりしなくちゃいけないよ。嘘ついたのがバレないように…」
「そんな見にまで来るの?」
「bijouは休みの理由までキチンと報告しなくちゃいけない、と思う。カチッとしてるから。
Cocoaはたまに宮家さんが部屋に補充の備品を届けに来たり、更新する新しい写真撮りに来たり、掃除しに来たりするよ」
「へー、気合入ってるねぇ」
「宮家さんが店長だから」
「…」
(しまった…!)と思った。
変な間があった。
マミちゃんは恋人である店長から店を任せてもらえていないのだ…多分。宮家さんともし本当にバチバチのライバル関係だとしたら、もっと配慮した喋り方をしないといけなかった。後悔しかけていたら、
「働かされて、可哀想に」
マミちゃんは鼻で嘲笑うような口調で言い、私はちょっと背筋がゾクリとした。
「相談したいことがあるんだぁ」
「え?マミちゃんが私に?」
「うん」
「珍しい…」
「そうだよ。珍しいから聞いてくれる?」
「そういうことなら…仮病使おうかな」
「モコは普段真面目だから良いよね。疑われないでしょ」
「多分…鉢合わせない限りは…」
「どんだけ心配症なの、そんな偶然どんな確率よ」
「そうかな」
「心配し過ぎて死ぬよ?そんなんじゃ」
「死なないための心配だよ」
「ま、じゃあ、今日学校終わったら連絡して。何時頃?終わるの」
「んーっと、17時には終わるかなぁ」
「バイクで迎えに行くよ」
「えっ、かっこいい!後ろに乗せてくれるの?」
「うん。…で?学校はどこ?」
「最寄駅は西北。」私は学校名も告げた。
「分かった。じゃあ、17時頃」
アルバイト先と学校との、それまでは別々だった世界が一つに繋がるのは不思議な感覚だった。
バイト先の待ち時間で学校の課題をやっつけたり、たまに調理実習で余った料理をタッパーに詰めて持って帰れたので、お腹が空いていると言うお客さんにあげて、好感度を高めようとしたりする事はあっても、学校の方へアルバイトの要素が持ち込まれる事は無い…あったらマズイ…と思っていた。
でもマミちゃんがバイクで学校に乗り付けてくる…自分を迎えに…というのは楽しい発想だったので、ルンルンで、朝一番の授業中からずっと放課後のことばかり考えていた。
「お前、モカポン、起きてても寝てるのと一緒だな」
授業中はマイマイに呆れられた。
「萩原くんと正反対だ。ねっ?」
萩原くんにもマイマイは声をかけたが、彼は返事をする必要がないと判断したのか、眠り続けている。二人は熟年の夫婦みたいに素っ気なくも、隣合う席に座っていた。
反対側の私の隣は、1限目は留守だった。
2・3限目には班別に席が指定されている生体学の授業だった。教科書の図をプリントに書き写せば、各々お昼休みに入れた。マイマイが容量よく適当に仕上げ、丁寧なチーちゃんとチョウさんと時間がかかる私に、
「要点を押さえたら早い者勝ちなんだよ」
と、自分のプリントでお手本を示してくれた。
なかなかなスレスレ合格になりそうな大雑把な図の描き写し方だった。本気で描けばマイマイならきっともうちょっと繊細にも描写できるはずだろうけれど、本人に美しく描こうと言うやる気がなく、速さを追求した結果こうなったみたいな、極太線の、一切無駄のない、それでいて要点だけはしっかりと把握した、下手くそに見られても構わないから食堂に早く行きたい、という願望が現れ出た絵だった。
丸の中に描かれた図の要所要所に線が伸びていて、名前を書く枠が図の外にカッコで指定されている。小腸の断面図から、どれが絨毛でどれが柔毛だとか、栄養がどのように体内に取り込まれていくかとかを学ぶ授業だった。
「この( )のやつがどれかさえちゃんと分かるように描き分けてれば、下手くそでも何でも構わないんだよ。芸術を極めてたら昼休みが無くなるぞ。旨いパンから売り切れる」
(なるほど…これが世渡りと言うものか…)
と思った。
適度な力でサッサと仕事をこなしていくのもこの世を生き抜く能力なのだ。
「もう、貸せ」
図の残り半分をマイマイが描いてくれ、方側半分は神経質なのにもう方側半分からは突如大胆になった、あからさまに二人で描いた図になってしまった。
「これは流石にバレるんじゃないかなぁ、途中から何かが起こったな…って。先生にも…」
と言ってみたが、私も早く課題から解放されたいので、
(まぁ一旦このプリントは提出してみよう…)
という気になり、立ち上がった。
「先に食堂行ってるね、何か欲しいものある?」
「うーん、ないかなぁ」
真面目っ子組なチーちゃんとチョウさんは実験室に残して行くことにして、出がけに、ドアのそばに座っている今日初めて顔を見る井上くんに挨拶がてら、ちょっとどんな絵を描くのか見てやろうと肩越しに覗いて見た。
息を飲んだ。
細胞の一個一個まで忠実に、細密画みたいな教科書通りの完全コピーをプリントに再現しようとしていた。
「凄い…」
あの破れかぶれのノートの井上くんが…信じられない…
ビックリしすぎ、感激し過ぎて、自分一人の胸にはしまっておききれず、
「ちょっとちょっと、めっちゃ凄いよ、マイマイ!来て来て!見て見て!」
とワァワァ騒いでマイマイを呼び戻してしまった。
「これ見て!凄くない?芸術的だよ」
マイマイはチラッと覗いて見て、興味がなさそうに頷いた。
「うん、行くよ」
私はもっと見ていたかった。井上くんは描くのをやめてしまっていたので、
「描いて描いて、早く」と促した。
「えぇ…」
そう言いながら井上くんが大きな背中を屈め、ふっくらしたクリームパンみたいな手の甲をしていながら、爪の色が白とピンクになるほど指先には力を込めてギュッとペンの下の方を持ち、細胞一個一個の描き写し作業に戻った。
「これじゃあ私よりも遅いよ。お昼休み中にも終わらないんじゃない?だけど、…凄いなぁ…芸術だなぁ…」
感心してそう言うと、井上くんはまた手を止めてヘラヘラ照れた。
「描いて。終わらないよ」
要領などこの際一切度外視した、無限に時間があるか、描くことが職業の絵描きのような描き方だ。
これまでは、手が大きかったり指が太い人ほど細かい作業には向かないんだろうという先入観を持っていた。同じ家で育った従兄弟たちも二人とも雑な男の子たちだったから、男の子ってみんなそんなもんなんだと思い込んでいた。
男の中でも大きい方の井上くんのような特に大きい太い指では、絶対に細かい作業は苦手に違いない、と勝手に決め付けていたので、意外で意外で、こんなにも大きな手からこんな精巧な線が引かれていくのが珍しくて見ていて飽きず、井上くんの手元から目が離せなくなり、
「こら、そんなすぐそばでジっと見てたらウェイも緊張して進まないよ」
とマイマイに引っ張られて、渋々その場を立ち去った。
「コピー機みたいなくらい凄かった…」
と廊下を歩きながらまだ興奮が醒めないでいると、
「コピーはコピー機の仕事だ」
とマイマイが言った。
「あれなら、コピーして貼っときゃいいんだよ」
私はマイマイの横顔を窺った。今は井上くんがちょっと嫌いなのかなぁと思った。
入学から始めの頃には、井上くんの長所をいっぱい挙げて、
「あいつは面白そうなやつだ…」とか
「犬に好かれるのに心根の腐った奴はいない」とか
「モカちゃんはあいつに服を選んでもらえば良いんじゃない?足して半分こしたら、ちょうど良い色合いになりそう」
などと言って、すごく褒めていたし、私とくっつけようとしているのかなという雰囲気もあったので、この頃のマイマイの井上くんへの煙たがり方が不思議だった。私はマイマイが推薦してくれたのもあって、井上くんに好感を寄せていったところもあるのにな…と首を傾げ、寂しく思った。
最後の授業の終わりかけ頃に、マミちゃんから連絡が来た。
「窓の外を見て」
外を覗くと、マミちゃんが校門の正面にバイクを停めてこちらを見上げている。
教壇では先生がちょうど、
「これで授業を終わります」
と言ったところだった。教室は一斉にざわつき、みんな立ち上がって荷物を纏めだしたり帰り支度をし始めている。
ガラガラと窓を開け、窓枠から身を乗り出して大きく手を振った。漠然とだったマミちゃんの視線がこちらへ定まり、手を振り返してくれた。
「誰?」
マイマイが隣に並んでマミちゃんを見た。
「バイトの友達」
マイマイはちょっとお辞儀をするとすぐ顔を引っ込めて机に戻り、教科書を片付け始めた。
「誰?」
今度は井上くんが隣に来て一緒に外を見た。
「バイトの友達だって」
私が答える前にマイマイがチーちゃん達に返事しているのが聞こえて来た。
「セクシー?」
と笑顔で井上くんを振り返ると、何も見えていないらしく、変な顔をして目を細めている。
「メガネ変えたら良いのに…」
「あれ女の子?」
「そう。同い年」
「女の子かぁ」
井上くんは急にヘラヘラしだした。
「見に行かなくちゃあ」
近寄って見るとマミちゃんはなんだかちょっと肌が艶艶して綺麗になり、ピアスが減っていた。もともとは左に3つだった揺れる飾りが今は左右対称に一つずつになり、控えめな揺れないダイヤモンドの粒になっていた。
ライダースーツの腰に腕を巻き付け、バイクの後ろに乗せてもらい風を切ってちょっと走ってから、
「冬だからね」
とすぐ寒さにやられ、大きなショッピングモールに入り、フードコートで向き合って座った。
「悩みって?」
と聞くと、
「そっちは?上手くいってる?」
と逆に質問で返された。
私はちょっと考えた。Cocoaに比べてbijouでは同じ仕事をしても貰える金額が桁違いに低いんだ…と、マミちゃんに相談してみようかな…と。
「うーん…あのね、悩んでる。今、私も」
「何で?」
「店によって、給料がすごく違くて」
「bijouとCocoa掛け持ちしてたよね」
「そう!
bijouはスタッフが多くて管理が厳しくて、融通が効かない分、お客さんから守ってくれてる安心感はあるんだけど、給料が時給制で…」
「時給制?」
「Cocoaは宮家さんが一人で回してる分、他に経費がかからないからかな…3万円くらいは一日に少なくとも貰えるんだけど…
bijouでは同じくらい働いても1万円くらいにしかならないんだよね…」
「時給制なんてやめて貰えば?」
「そうだよね、…それだけの話だったな…」
マミちゃんにサクッと言われると、当たり前な馬鹿みたいな事で悩んでいたのが分かった。
「でも言い出すの難しくない?」
「なんも。だってお金稼ぎに行ってるんだから多くもらえる方取るに決まってるじゃない。」
「…確かに…」
「モコちゃん、前から思ってたけど、この業界で遠慮なんてしてちゃダメ。貰えるものは貰う、貰えないものも貰う気でグイグイいかないと。基本料金は上限まで交渉して上げてもらって、それだけじゃなく、チップだってこっちからでも請求して良いんだよ?
何のためにこの世界に残ったの?短時間で高額を稼ぐためでしょ?
誰に遠慮してるの…そんなんじゃダメだよ、しっかりして?
自分で掴み取りに行くしかないんだよ。使われるんじゃなくて。どんどん手を伸ばさなくちゃ。黙ってたらやられっぱなしになっちゃうよ…世の中、強い者が弱い者を食ってのし上がって生き残るんだから。強くなろうとしなきゃ!」
「分かった」
「鏡見なよ。冷静に客観的に見て。自分にどれだけの値打ちがあるか?把握して。男が貴女にいくら払うのが妥当か?自分の値打ちを自分で低く見積もらないで。高く高く設定して。今が一番若くて値打ちがある時なんだから。下げるのは後からいくらでもできることだから。」
マミちゃんは言葉を切り、ちょっと挑むような目をして私を見つめた。
「実は、私の方の悩みなんだけどね…」
私は頷き、身を寄せてきたマミちゃんの方へ自分も耳を近付けた。
「私と組んで2人で店しない?」
「えっ…?」
「簡単だよ。部屋は持たない。だから無駄に家賃もかからない…」
「でも部屋がなくちゃ…どうするの?どこでやるの?マッサージ…」
「聞いて。ネットに広告を載せるんだよ。お客さんがそれを見て予約して来る。マンションエステと一緒。そこまではね。
ただ、私達はホテルに出張するだけ。ラブホじゃないよ、ビジネスホテルか、それよりランクの上な立派なホテルにしか行かない。だからお客さんもリッチで、勘違いしてる人は来ないよ。遠くから仕事で来た人達だから素性もしっかりしてるし。面白いはずだよ」
「ホテルに出張…」
私にはイメージがつかなかった。ただ漠然と凄く危なそうだとだけは感じた。
「給料もCocoaよりも稼げるよ」
「お客さん、風俗と間違えて予約して来ないかなぁ?」
「大丈夫。絶対。電話の予約時点でそこはしっかり断り入れておくし、サイトにもマッサージ店って明記するんだから」
「でも…なんで…マミちゃんは今は何のアルバイトしてるの?」
「最近はカラオケ屋とか…色々だよ」
「それじゃダメなの?」
「お金が足りない。」
マミちゃんはパッと私から離れ、苛々と髪を振って10本の指を頭皮に差し込み、手櫛で長い艶やかな髪を梳かした。
それから、突然ガバッとしがみついて来た。一瞬見えた顔は泣き出しそうに歪んでいた。
(どうしたどうした?!)と唖然とした。
(こんなに情緒不安定な子だっただろうか、マミちゃんって…)
驚いて、そろそろと抱き締め返した。
「考えてみて。モコしかいないの。」
私の肩口に唇をつけてくぐもった声でマミちゃんが言った。
(でも、私、まだマンションの個室でもビビってるんだけどなぁ…)
と苦しく懊悩した。何とも返事ができず、ぐるぐる頭の中で天使と悪魔と不安と楽観と友情とを混ぜこぜにして返事に窮していると、だんだん平常心を取り戻したマミちゃんが鼻をすすり上げ、顔を上げた。チューしそうな近さだ。花と闇の香水の香りに包まれた。マミちゃんの体温で温められて立ち昇る懐かしくどこか手の届かない…母と同じ香りだ。
「考えてみてくれる?」
「うん」
考えるくらいなら、うんと答えていいだろう、と私は思った。
「ありがと…」
アイラインに縁取られた目のお化粧を気にして、マミちゃんはトイレに立った。ぼーっとその後ろ姿を見送った。
食べかけていたヘタっとしたクレープをちょっと囓り、周りを見回して見た。このショッピングモールは巨大で、学校から近いのでマイマイやチーちゃんとも何度かこれまでにも来たけれど、いつも出口を見失う。迷宮のようだ。
地下のフードコートから、最上階の高級フレンチレストランまで、貧者も富者もここへ買い物をしに働きに様々な目的で集まってくる。
マミちゃんの言う通りだ…と思った。
(給料の交渉をまず、しよう。それくらい自分で出来なくては…)
この世には生まれ落ちたその時から輝かしい楽勝の人生を手にしている者と、もがいて這いずってまず足枷から抜け出してからしかスタートも切れない者とがいる。
私なんて恵まれている方だ、と思った。のしかかってくる借金も毒親も今はいない。何の障害もない。自由の身だ。ただ自分が高望みをして学校に通い、学費を求めて小狡いアルバイトに手を染めている子悪党なだけだ。アルバイト先は学校ではないのだから、優等生でいる必要はない。
着信音が鳴り、携帯を見ると、
「何の話だったの?」
とマイマイからLINEが入っていた。
ホテルに出張する仕事に誘われた…などと言ったらきっと物凄く心配するだろうと思い、
「シフトを代わってあげただけ」
と返した。
まだ自分でもやる気になったわけではない。相談する段階ではない…と思った。
根本さんからも連絡が来ていた。
「スパ行こうよ」
と言いながらマミちゃんが戻って来た。
「ここまでお化粧崩れちゃったらもうスパ行くしかない」
「恥ずかしいな」
まだマミちゃんには裸を見せたことがない。
「何言ってんの」と笑い飛ばされた。
「あっ、そう言えば、ミサさんからも温泉誘われてたんだった」
「ミサポンとココちゃんと全員誘おう。誰かは来るでしょ」
マミちゃんと手分けして招集をかけることにした。文字を打とうとしていると、
「電話せい、時間が無い」
と叱られた。電話はちょっと久しぶりなので人見知りが発動しそうだが、今の今から「遊ぼう」と言う誘いなので電話の方が(気が付かなかった…)となりにくいのは確かだ。
ミリマイとミサさん、ミサさんの娘ちゃんも来れそうだということが分かった。佐藤さんは電話に出られないらしく、ココちゃんは出勤中、アカリちゃんは電波が届かないか電源を切っているか。…アリアさんは誘わなかった。
「お客さんから、アリアさんが私の悪口を言い触らしてるって聞いたんだ…」
と思い出して私がポロっと愚痴をこぼすと、
「そんな人居るんだよね」
とマミちゃんが暗い声で応じた。
「競争相手の株を下げようとしてるんだよ。それだけ脅威に感じられてるってこと。僻まれるのは売れっ子の証だよ。
もう会うこともないし。お客さんにも悪意は伝わるからアリアさんが自分で自分の首絞めてるだけだよ。心配しなくて大丈夫」
と慰めてくれた。
スパには色んな種類の浴槽があった。深いのや濁ったのや何かハーブが浮かんでいる湯舟もある。湯気の立つ滝も、ミストサウナも。運動器具が半分水中に浸かっている湯船では、近所の友達同士らしいおばさまやお婆さま達が順番待ちをしていて、当分空きそうになかった。
空には流れる雲の合間に月が出ていた。
誘ってきた割にはマミちゃんは小さいタオルでメリハリのあるボン・キュッ・ボンの肉体美をやたら隠そうとしているので、一生懸命、自分の目がそちらに向かないように視線を引き剥がすようにして空ばかり見上げていた。岩にもたれ、
「はぁ〜」
「極楽じゃ〜」
「良きかな〜」
と顎まで浸かり、隣同士の肩を触れ合わせたり誰も見ていないからと言って
「天然の美容液だよ」
と、顔まで湯に浸けたりのびのびと好き放題しながら、湯煙の向こうには内湯へ続くドアが見える岩陰で、後から来る4人を待った。
現地集合となったのでとりあえず先に来て2人だけで湯船に浸かっていたのだ。
湯煙の向こうから人影が現れるたびに、
「来たかな?」
「あれは…そう?違う?」
と首を伸ばしたが、大抵お婆さまかおばさまが多い。若い子や奥さんが現れると物珍しさでついジッと体つきを見ないようにしながら、チラチラ見てしまった。
「モコ、男の子みたい」
マミちゃんがケラケラ笑った。暑くなってきて最初の恥じらいは何処へやら、タオルを岩の上に放り出し、大の字になって岩場の湯の底に白い揺らめく体を漂わせている。
「もう恥ずかしくなくなったの?」
見ようとして見ても、湯気とチャプチャプ波立つ水面の動きと仄暗さで、よく見えない。
「見ようとし過ぎだよ」
マミちゃんはケラケラ笑いながらまた少し恥じらいを取り戻し、身をよじって長い脚を交差させた。それでいて
「あ〜、暑い〜」
と呻きながら、首を後ろへ大きく反らし、岩にもたれて滑らかな喉を天に向け、弓なりに身を反らせた。頰は赤く染まり、高く纏めた髪の後毛がビッショリかいた汗で額に張り付き、目は官能的にとろんと気怠げだった。張りのある肌に覆われ躍動するマミちゃんは生きて動く彫像みたいだった。彼女の体は素晴らしかった。女を極めた姿だった。
マミちゃんが手を繋いできて、引っ張って私を立ち上がらせ、違うお風呂にも場所を変えて浸かった。
寝転べる浅いベッドのような浴槽もあり、並びで二つ空くのが見えると、冷たい岩の上をペタペタ走ってそちらへ移った。
身体の半分は湯に浸かりもう半分は蒸気と共に夜気に触れるベッドのような露天風呂だった。仰向けに寝そべると身体の前側半分が夜気に晒され、うつ伏せに寝るとお尻や背中や肩が波間から丘のように湯の外へ出た。
自分の身体からも湯気が夜空へ立ち昇っていく。たまに波が全身をひたひた浸す。温かくて涼しい。
「のぼせかけてたから、このくらいがちょうどいいやぁ〜」
「寝ちゃいそう〜」
「寝たら起こしてね」
「誰かに頼もっか」
「二人とも寝ちゃうよ〜」
ととろんと目を閉じて言い合った。
夜は深まり、月が綺麗だった。私達のいるところまでは、建物からの照明は薄くしか伸びてこず、月が雲を潜るたびに辺りは薄闇に沈んだ。
うつらうつら眠りかけていた。マミちゃんが不意に私の手をとり、
(また移動するのかなぁ)
と目を覚ましたら、私の腕は二人の間の湯の底に引かれた白線を越え、掌がマミちゃんのお腹の上にポンと乗っけられた。
「どうしたん?」
返事はなかった。顔だけを起こしてマミちゃんの横顔を見たら、目を閉じて私の手を掴み眠ったフリをしている。
肘をついて起き上がり、横たわるマミちゃんのお腹をマッサージの要領でゆっくり撫でてあげた。
月が雲間を出入りしていた。青白い光に浮かび上がらせられた彼女の体にはあちこちに赤黒い痣があった。見間違いかと思ったが、そうではない。薄いグレープフルーツ色の治りかけた痣から、血の滲む痛々しい最近の傷痕まで…
内湯の方からキャーキャー
「寒い寒い」
「早く浸かっちゃおー」
と騒ぎながらミリマイとミサさん親子が現れ、飛沫を上げてさっきまで私達が浸かっていた岩場に飛び込んで行った。ミサさんの娘さんが一番大人で、ちゃんと足からお腹、胸に順番に3回も掛け湯をしてからソロっと湯に入って行った。竹藪を挟み、少し離れた場所にいる私達にはまだ気が付いていない。
マミちゃんは首をもたげて4人を確認すると、静かに起き上がり、身体にバスタオルを巻いた。
「行こう」
私達は合流した。
ミサさんは親権をめぐって争いながら同じ家に住むことの苦悩をポツポツと語り、ミリマイはガールズバーで働き出したと近況を報告してくれた。相変わらずお客さんの悪口をボロカスに言っていた。
それよりも私の頭の中はさっき目にしたマミちゃんの痣の残像に埋め尽くされ、他の話を聞く余地がなかった。
久しぶりにミリマイに会ったのに、身を入れて話を聞くことができない。でもそれは向こうも同じだったようで、ミサさんと私がマンションエステの話をしだすと何とも言えない表情を浮かべ、チラチラ目を見合わせていた。互いに、
(そんなに文句があるなら仕事を変えればいいのに…)
と思えてしまうほど、共感できないくらい、もう別々の道を歩き始めていた。
ミリマイを乗せてきた車でミサさん親子が帰って行く時、二人して手を振りながら、
「この後うちに来る?」
とマミちゃんに誘われた。
彼女のマンションは外観も内装もお洒落で真新しく、室内のそこかしこに男物の衣類や品々が散在していた。靴や帽子、コート、マミちゃんは吸わない煙草の箱があっちにもこっちにも。灰皿や電子タバコや靴下や腕時計、水着の豊満な女の子が表紙の雑誌、漫画、ゲーム機…
マイマイの家では彼氏の影を感じなかったが、マミちゃんちは今にも彼氏が帰って来そうな気がした。
忘れていたけれど、マミちゃんの彼氏って店長じゃないのか?と思い出してヒヤヒヤした。
「ソファに座ってて」
と言われ、来たばかりなのに帰りたいとすぐに言い出せず、仕方なくソファの端っこに座った。
マミちゃんと彼氏さんの香水が混ざり合っているのか、また別のお香か何かの香りか、なにやら良い匂いと嫌な匂いの両方を感じた。
「彼氏は帰って来ないから。寛いで」
通学鞄を膝の上に抱えた私に、マミちゃんはオープンカウンターの向こうから温かいキャラメルマキアートみたいな飲み物を作って持って来てくれた。
「これお酒?」
「少しだけ入れた。美味しいでしょ?」
「えっ、マミちゃんのは?」
「こっちも少し」
「大丈夫なの?」
「まぁ大丈夫でしょ、このくらい」
私が聞いたのはマミちゃんの体の事だけではなく、自分の帰り道の事も少し心配したのだ。彼女が酔ってしまっては帰りに困る…マミちゃんの運転するバイクの後ろにしがみついてここまで来たので、ここが何処だか分からないのだ。一人では帰れないかもしれない…
「あ、そっか…」
とマミちゃんも気付いたが、
「泊まって行きなよ、もう明日帰ればいいじゃん」
と言った。もう眠そうにあくびをしている。
「どこで寝るの?」
「あっち」
隣の暗い部屋が寝室のようだ。
「明日は何時に起きる?」
「三宮までここから何分?」
「15分もかからないよ。バイクなら」
「じゃあ…」
私は頭の中で逆算した。三宮まで15分、そこから家までの往復で30分、服を着替え制服や荷物を鞄に詰め替えるのに15分…
「5時30とか…かな」
「ゲェ、そんな早いの…もう寝よう!」
買い置きしていた新品の歯ブラシを出してくれ、パジャマも貸してくれて、同じベッドで寝ることになった。
ベッドが大きいのか、部屋が小さいのか、寝室はベッドだけで空間を満たされていた。この部屋の明かりは壊れているらしく灯らず、隣の部屋からの明かりを頼りにして、一旦2人でごそごそベッドに入り、それからマミちゃんだけが出て行って、部屋の戸口から
「消すよ」
と言った。明かりが消え、真っ暗になった。マミちゃんが潜り込んできた。
「寒くない?」
「ちょっと寒い…いつも電気毛布を付けて寝てるから」
「くっついたら暖かいよ。もっとこっち来て」
柔らかい温もりが全身に押し当てられ、包み込まれた。顔に胸が、お腹にお腹が、脚に太腿がギュッとくっついてきた。暑いくらい。マミちゃんの両腕が私を抱き締めて、微かに、意図を持って一定のリズムでゆっくり揺れ始めた。
しばらく息を止め、身を固くしてジッとしていた。この状況をどう捉えていいのか分からなかった。
高校生の時にも、中学生の時にも、小学生の時にも、私は同級生の女の子にベッドで抱きしめられた事がある。それぞれ違う女の子達で状況も様々だったが、その全部をただの友情と捉えたら良いのか、何か少し別のものと考えた方が良いのか、よく分からなかった。
両手を相手の体に回し、抱き締めて背中を撫でるだけに留めた。すると、焦ったそうにマミちゃんがモジモジ肩を揺らし、今までの揺れ方とは違う揺らし方で体を押し当ててきた。
マミちゃんの手が私の手を掴み、自分のパジャマの中へと導いた。手がおヘソに、それから上に滑っていき、乳房に当たり、マミちゃんの息遣いが変わった。かすれたため息のような声がこう言ったように聞こえた。
「触って?」
私は慎重に手のひらで右のおっぱいを包もうとした。が、大きすぎて包めない。温かい張りのあるフヨフヨしたその一部分に右手を当てて、押したり引いたりしてみた。
「もっと…」
マミちゃんが私の手の上から自分の手でグイグイ胸を鷲掴みにし、上に下に激しく動かした。
「えぇ…そんなにして…痛くないの?」
ヒソヒソ声で聞くと、
「うん。もっと、して…?」
ヒソヒソ声が返ってきた。相手の顔はよく見えない。目の濡れた光だけしか。
柔らかさや重みや滑らかさや耐久性を確かめるように、私は握っては緩め握っては緩めして、胸の形が歪み元に戻り揺れ弾む感触を味わった。そればっかり繰り返していた。マミちゃんの手がパジャマのボタンを下から一つずつ外していき、私は布をめくり、肌に鼻と唇を直につけて香りを嗅いだ。
「脱がせて?」
くぐもって、かすれた囁き声。寝たままもがくように服を脱ぎ、肌と肌をぴったり合わせ抱き締め合い、互いの背中や髪や首や腰やあたりかまわずどこでも撫でた。マミちゃんの手がまた私の手を探り、掴んだ。パジャマのズボンの中に手が潜り込み、下に何も履いていないのが分かった途端、
(これ以上は…本当にどうしたらいいか分からない…)
と怖くなってしまった。
手を引っこ抜き、両腕にマミちゃんを力いっぱいギュウッと抱き締めた。今度は彼女の方がジッと身を硬らせる番だった。
「気持ち悪かった?」
「んーん。…私、今、爪が伸びてるかもしれない…」
私は自分の指を自分の中に入れるのも怖くて、それさえやったことがない。それなのに他人の体の中に自分の指を入れるのはおそれ多過ぎた。経験が無く、マミちゃんの体を傷付けない自信が無いし、それに、これ以上を求められると自分が期待外れにならないか不安だった。
マミちゃんが本当にこのまま突き進んでいきたいのか、ただ寂しいだけなのかもよく分からなかった。
「今はこうしていよう?」
私達は揺りかごのように揺れながら抱き合って背中をさすり、互いの体温に温められているうちに、だんだん浅い眠りに落ちていった。私達に必要なのはただの癒しだった。たぶんエッチの相手ではない。もっと原始的な繋がりを求めているんだ…親子とか、姉妹間のような優しいだけの。
眠りながら幸せだなぁと実感した。
誰かと隣り合ってこんなふうに眠れるのは久しぶりのことだった。遠く離れた冷えたベッドの中に置き去りにしてきた寂しさをチラリと思い出し、自分の顔が微笑むのを感じた。
マミちゃんが寝返りを打ち、私達は解け、夢うつつでまた探り合い、手を繋いで深い安定した眠りの底までたどり着いた。
明け方頃に一度、男が部屋の戸口から眠っている私達を見ているような気がし、目を開けて見返してやろうとしたが、頭が重く、頑張っても頑張っても起き上がれない。きっと夢だ…と思ったら、そこから少し、重苦しい夢を見た。マミちゃんの痣とそれをつけた暴力に関係する夢だった。
続く




