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メンズエステ  作者: みぃ
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7 クビ

 学校が終わると毎日直行するアルバイト先は、2つあった。私はマッサージの他に大阪で派遣のホールスタッフの仕事も掛け持ちしていた。できるだけ時給の高いところで選んだからなのか、派遣される場所は豪華なレストランが多かった。ホテルの高層階とか、夜景が見渡せるビルの最上階とか。

 宴会場のセッティングや後片付け、皿洗い、給仕、ナプキン畳み等料理を作る以外の雑用なら何でもやっていた。学校帰りは1日も休まず毎日、どちらかのアルバイト先へ直行していた。


 学校の最寄駅の西宮から、大阪へ向かう電車に乗る時と、反対方向の神戸へ向かう電車に乗る時、どちらにしても井上くんがくっついて来るようになった。大阪方面へ向かうときにはマイマイもチーちゃんもしばらく一緒だった。2人は普通電車に乗るので、私も時間に余裕があれば2人が降りる武庫之荘の駅までは一緒に普通電車に乗る事にしていた。ニコニコしてついて来る井上くんには簡単に、

「この子、2つバイトを掛け持ちしてるんだって」

とだけマイマイがかわりに説明してくれていた。


 鋭い彼女には、なんとなく私の片方のグレーな職種に薄々勘付いているような感じが言葉の節々から見え隠れしていた。ちょっとずつちょこちょこ突ついてみて、どこまで何が出てくるのか面白がって観察している猫みたいなところがあって、アルバイトについては今日はこれだけ、また明日はもう少し、という風に加減しながら聞いてきている節もあった。

「時給って、他のアルバイトに比べて高い?」

とかいうところから始まり、

「…仕事帰りとか、危なくないよね?」

「個室?でも周りには従業員が居るんよね?他の店員たちが。部屋を出たらすぐに?何人もいるんでしょ?」

とか、だんだんと核心を突かないだけにこの頃は心配が増して来ているようだった。

 私もマイマイにまで死に物狂いで徹底的に自分の職種を隠し切れる自信が初めからなく、なんとなく彼女になら多少秘密を漏らしてしまっても大丈夫そうかなと気を許しているところもあり、調子良く喋っているうちにポロポロこぼすように本当の事やヒントを散りばめて喋ってしまっていた。

「何のアルバイト?」

「マッサージ」

までは良かったけれど、

「アルバイト先マッサージ店?私も受けに行こうかなぁ、肩が凝るんだよ、いやマジで。」

そう言って肩こりの原因になりそうな重たそうなタップリした胸を揺らし、腕をぐるぐる回した。羨ましい限りだなぁと思いながら眺め入ってしまった。

「私も中腰とかで仕事してるから肩も腰も凝るよ。でもどうせ凝るんならマイマイとおんなじくらいおっぱいがあっても良かったのになぁ」

「お前はバイト先の友達とかにやって貰えるんじゃないの?私は客として一回行ってみたい、妹分がどんなところで働いてるんだか見てやろう…」

それに対して私が、

「男の人しか来ないし、高いし、やめた方が良いよ。絶対。普通の本気なマッサージ屋さんに行った方が良いよ、ちゃんと真面目に肩凝り治そうと思ったら。」

とか言ってしまったのが運の尽きだった。

 多分本気になって秘密を隠そうとするなら、手短に、

「どれ、ここで今肩揉みしてあげるよ」

とか、

「高いしみんな下手だからやめた方が良いよ」

とか言うのが、きっと模範解答だったのだ。

マイマイはすぐ変な顔をしてジッと私を見つめてきたし、私も、(あぁ今不味いこと言っちゃったなぁ)

と思ったのが顔に出てしまった。


 早く自分でお金を稼ぎたくて堪らなくて、焦っていた高校生の頃、仲良しの友達に

「水商売ってどう思う?」と聞いてみた事があった。

返事によっては誘って一緒にアルバイトの面接をどうにかして受けに行けないか、二人で知恵を絞りたいなぁと思っていた。ところがその子は鼻筋に深々と皺を寄せ、見たことない醜悪な顔つきになって、吐き捨てるように

「汚らわしい」

と一言、本気の語調で言ったので、ちょっと圧倒されてしまい、それ以上何も言えなくなってしまった…という過去が私にはあった。

 母親が自分を女手一つで育ててくれたその方法が水商売の私にとっては、そうではない人から見るよりもお水の世界がすぐそばにあり、多分偏見も薄かった。世間の水商売に対するイメージがあまり良くないということは教えられたり薄々じんわりと感じたりはしてきていたが、まさか

(そんなに…?)

と、ちょっと悲しく、ビックリして、衝撃で、悔しいような、弁明したいような複雑な心境になった。

 でもどう言っていいのか分からない。親がクラブに勤めそのお金でここまで生きて来れた自分だから、その言い方はちょっと私にはキツかったなぁ…なんて言うと、なんだか相手に謝らせることになりそうで変な空気感になりそうだった。もうしばらく時間をおいていつか機会を見て話そう…と思った。その場ではとにかく自分もショックで言葉が簡単に出て来なくなっていた。仲良しで身近にいた友達の思わぬ凄い偏見にたじろいで。


 でもマイマイは、何となく察してくれ、自分が勤めていたクラブの話を明かしたりして私に気まずい思いをさせないよう気遣ってくれた。

「地元の学校じゃ放課後はトイレでみんなが仕事に行くメイクに直すから鏡の奪い合いでよ、みんなアメリカ兵相手の飲み屋に働きに行くからよ。中学生でだぜ」

とか、

「そのお前の店で変なのが絡んできてややこしくなったら、姐さんに相談して来いよ。ちょっとした知り合いがいるからな。沖縄のその筋のは、ここら辺のとは一味違うぜ。こっちのがピストル出して来ても沖縄はバズーカだから。米軍から仕入れてるからな」

と嘘か本当だか分からない派手な事を言っていた。


 アルバイトがマイマイにバレても多分後悔はしないだろう。身近な人に秘密を隠すのは私には難し過ぎる。秘密を隠すどころではなく、隠し事をしている事自体を隠すのもなかなか大変なのだ。相手が勘の鋭いマイマイなので特に何も隠せない。彼女は頭の回転が鈍い私自身が次に何を思い付くかさえ先回りして知っている事もいっぱいあるのだ。

 彼女がもしチーちゃんとチョウさんと秘密を共有したとしても、チーちゃんも大人だし、チョウさんも大人しくてあまりベラベラ人と話さないから、この4人から外へ私の仕事の秘密が漏れる事はなさそうだった。

 それよりも、お店で直接学校がらみの誰かに会ってしまうとか、そっちの確率の方が高い気がした。


 マイマイには聞かれるままポソポソと本当の事を言ったりもしていたけれど、マイマイの方が気を使って、私と二人だけの時にしかアルバイトのことは聞かないようにしてくれているみたいだった。

 私の方が開き直りが早かった。チーちゃんやチョウさんや井上くんだけなら、声の聞こえる範囲にいることがあっても、会話を続けた。


 井上くんは大阪方面に送ってくれるときは改札の手前までついてきて、外へは定期を持っていなくて出られないので、そこで立ち止まり、

「アルバイト頑張って」

と大きな手を小さく振って見送ってくれた。彼はそれからまた学校へ引き返して茶道か華道の教室に向かうのだ。

 マイペースなので、いつも必ずついてくるというわけでもなく、私も血眼になって帰り際を見張られているわけではなかった。彼はついてくる時もあればついて来ないときもあった。

 放課後別の友達に話しかけられたらそちらに意識が向いて、彼が話し込んでいるうちに私達4人は学校を出ている事もあった。茶道や華道で男手が必要な時は1人しかいない男手で力持ちな井上くんは早く呼び出されるし、他の先生に別件で呼び出されたり、何でかは分からないが姿が見当たらない事も多かった。

 大抵いつも後ろにいるからと思って、振り返るといなかったり、あれ、さっきまで着いて来ていたのにと思ってキョロキョロ辺りを目で探していると、隣からマイマイに

「お前、自分のストーカーを探すな」

とからかわれた。

(今いないなんて残念。タイミング悪いやつだな)

と思うような面白い出来事が起きた時や、ふと聞きたい事が心に浮かぶ事もあり、そんな時は

(なんで今いないんだよ)

と理不尽にイライラさせられた。



 派遣元は一つで、変わらなかったけれど、派遣先は色々あった。メンズエステと掛け持ちし始めてからは、有名なホテルの高層階の高級中国料理屋さんに派遣され、そこのホールスタッフとして働いていた。

 そこでは私の大の苦手な〝速さ″が求められた。〝臨機応変な対応″や〝常に笑顔″なども苦手分野だった。まだ自分自身についてよく知らなかったから、何が苦手で何が致命的に出来ないかもよく分からないままただ我武者羅に働いていた。考えてみれば、得意なことなど私にはそもそも一つも無かった。

 忙しい時間帯はテンテコ舞いだった。テーブルナンバーやコースメニューを出す順番など、覚えの悪い私でもようやく覚えてきたはずの事を、ちょっと頼み事を続けざまにされたりすると全部忘れたり、間違えたり、ちょっと体がしんどいなという時に大失態を犯したりした。


 最後の失敗は、テーブルを間違えて、もうコースメニューを食べ終えてホッコリ寛いでいた結婚式の二次会らしき若者たちが着飾って頰を酔いにほんのり染めた卓に、どこか別のテーブルに出すはずのメインメニューを運んで行って、置いてしまった事だった。皿を置き

「なんとかかんとかの包み揚げ、なんとかかんとか風、でございます…」

などと、もう忘れてしまったけれどその料理の説明をしながらも、…何か妙だな…とは自分でも気が付いていた。

そこへ、グイと横から腕を掴まれ、ビックリしているうちに

「失礼いたしました」

などと卓に詫びを入れて、皿と私の腕を掴み、ホール長が、隅っこに私をエスコートするように背中に手を当てて連れて行って、一言、

「明日から来なくていいから」

とだけ言った。

頭が真っ白になっているところに、更に別の混乱要素が投げ込まれた。私の思考回路では、間違えたっ、どうしようっ、怒られるっ、…からの、(へ?)だった。

(なぜ今シフトの話?)と思った。

最初は言われている意味がよく分からなかったのだ。裏の意味よりもそのままの言葉を真っ直ぐに受け取ってしまい、

「えっ…、でも…、私、明日もシフト入ってます」

などと口答えしてしまった。


 他の従業員の人たちからは嫌というほどしこたま恐ろしくすごい剣幕で叱られてきてはいたのだけれど、この支配人だかホール長だかだけが、この時までは一度も私に話しかけて来たことがなく、いつもレジの側の持ち場を離れず、遠くから死神のように細く長い体をピンと立ててホール全体を見晴るかしていた。高みにいるようなところが神みたいだった。

今までは他の人たちの方がよほど口も悪く、怒鳴り合ったり罵り合ったり嫌みを言い合ったりしていて恐ろしかったのだけれども、この人だけはどこか達観していて、(下界の些末な事象にはわざわざ私が手出しなどしないのだ)と言っているみたいなところがあった。

 でも社員さんの皆んながこの人の前ではちょっと萎縮して怖そうにしているから、いつも1番偉いのはこの人なんだなとは分かっていた。


 さっきの言い方も、怒気や含みが見つけられないほどにシンプルな、感情を削ぎ落とした言葉だった。それで私も勘違いして間に受けた返事をしてしまったのだが、流石に

「明日もシフト入ってます」

にはとうとう堪忍袋の尾が切れてしまったのか、

「いいえ、もう来なくていいから」

と繰り返していう声音には若干の震えが滲み出していた。

腕を離してもらい、ぼんやり反芻しながら衝立に隠されたバックヤードに戻ってきて、

(ああぁ…クビってことなんだ…)

と、じわじわと理解した。


 フワフワした頭でその後はあまり急がず、それよりももう一つも間違えないように丁寧に裏方の作業をこなそうとした。

(ぼんやりするな、集中しろ、)

と何度も自分に言い聞かせていないとすぐボーッとし始めてしまう。それか、手が震えだすかのどちらかだった。

 入れ替わり立ち替わり出入りする、韓国からの留学生の男の子、二児の子を持つキビキビしたお姉さん、派遣元が同じ凄く怖い男の先輩、入ったばかりのいっぱい話しかけてくれる人懐こい女の子、中国からの留学生の女の子、私と同じくらいよく叱られるおっちょこちょいな可愛いおばさん、派遣元が同じ優しい女の子達、ダメな私をいつも慰めてくれていた友人たち、忙しく出たり入ったりして働いている仲間達の顔を見るのも今日が最後なんだ…と思った。

 今日でお別れになってしまったと後で伝えなければと思いながら、派遣元には今にも伝わっているんだろうか、派遣元もクビだろうか、等とぼんやり混乱した頭ながら、これ以上現在進行している目の前の作業を間違えてしまってはダメだと冷や汗もかきながら、働いた。

 今日シフトに入っていなかったここに来ていない友達にはサヨナラも言えないまま会えなくなるんだ…と思った。が、そんなことは当たり前の事だった。

 派遣従業員は上がりの指示が出て、更衣室で着替えている時、他の子達の会話の切れ間を待って、自分が今日で最後になってしまった事を報告しようと思っていたが、なかなか会話の切れ間が訪れず、

「えー、ちょっと、見過ぎですよ、なに男の目になって必死に人の着替え見てんですか」

とからかわれ、結局雰囲気的に言い出せなかった。


 帰り道の電車が川を渡っている時、夜に浮かぶ光の街並みが滲んで見えた。遠去かって行く大阪の街がわざわざよく見えるような進行方向に逆向きの座席に私は座っていた。小学校の終わりがけから中学高校にかけても本格的に気が付き悩み始めていたが、自分にはどこか障害があるのかもしれない。どんなに頑張っても平均的に求められる速度に追い付いていけないのだ。鈍臭いなぁ嫌だなぁと自分でもつくづく嫌になる。

 一粒流れ落ちると止まらなくなって溢れてくる自己嫌悪の涙を人に絶対バレないように、窓の外だけを向いて、いつもは綺麗だなぁと見惚れる夜景を歯を食いしばって見つめ続けた。流れ過ぎていくこの景色を見ることもしばらくなくなるかもしれない、大阪での仕事は全ておしまいになったかも知れない、と思った。

いつか大阪に慣れたら東京に住んだりもしてみたいなぁと夢みたいに憧れていたがとんでもない事のようだった。私には。


 アルバイトや社員の仕事をクビになるのはもう何度目か数え切れないほどだった。毎回落ち込むし、自分にできる仕事なんてこの世に一つも無いのかもしれないと思い、自分自身のことが心底から嫌になってしまう。


 自分に残されたのは今のところ神戸三宮でのメンズエステの仕事だけになった。



 翌朝、起きて学校へ行くとすぐにマイマイやチーちゃんにこの話を面白いネタにして話そうと考えたけれど、なんとなく機会を逃し続け、放課後になってもまだ言えていなかった。

 自分の中でまず動揺や心の傷がある程度癒えてからしか、他の人に面白おかしくは話せないものなのかも知れない。

 大阪の方のアルバイトのシフトが入っていたんだけれど、そのバイトを昨日クビになり、今日は暇だ…と言い出せないまま、大阪へ行く電車に揺られていた。

かわりに、

「朝から玄関を出てすぐに亀虫を踏んじゃって、それから一日中、ずっと靴が臭い」

という話をし、電車の横並びの席で靴の踏み合い大会をやり始め、向かいの席の年配の奥様たちの顰蹙を買ってしまった。

 マイマイやチーちゃん達が降りてしまっても1人で向かいからの冷たい視線を一身に浴びる事にならず、井上くんがいてくれて、この日は本当にホッと救われた気がした。


 女子4人が座っている間はつり革を掴んで立っている井上くんは、他のみんなが降りてしまうと私の横に座ってくる。ニコニコしたいつもながらの嬉しそうな笑顔に癒されそうだった。

「今日は本当は大阪に行かなくても良くなっちゃったんだぁ」

と思わず彼にだけ打ち明けてしまった。

 つい最近、いつも飲み会に行きたいマイマイに1週間分の予定を聞かれ、

『明日も大阪バイト』と答えてしまっていたので、当然のことのようにみんなと一緒に大阪方面行きのホームに立ち、そのまま隠していたわけでは無いがずっとなんだか言い出せなくて大阪へ向かう電車に乗って揺られ続けていたのだが、ついに相手がニコニコ笑うばかりの井上くんだけになってしまったので、ポロっと口から本当の事が出ちゃったのだ。

「どこか行ってみたいところある?井上くん」

突然そんな事を言い出されて、戸惑った顔をして、

「バイトは?」

と井上くんが当たり前の疑問を口にした。それなのにギクッとして、

「なんか…シフトを勘違いしてたかなぁ」

とかなんとか有耶無耶に誤魔化した。

「うーん…」

井上くんは考え込んでしまった。

「なんか、降りたことない駅で降りてみよっか」

と私は、井上くんが入学したての自己紹介の時に自分で言っていた『趣味は街歩きです』という言葉を思い出して、提案してみた。

「あー…、じゃあ、岡本とかお洒落なんじゃないんかなぁ」

と井上くんが言ったちょうどその時、

「岡本、岡本です。ドアが開きます」

とアナウンスが入り、私は思わず歓声を上げて席から飛び立ってしまった。

「ここじゃん、降りよ降りよ」

井上くんが落とした荷物を素早く拾って持ったまま、先に立って初めて降り立つ駅のホームに出た。

「ここに来るのは何回目?」

と続いて降りてきた井上くんに尋ねてみると、

「初めてかなぁ」

などと言う。

「えーっ、じゃあなんで岡本がお洒落って言えるの?本当はよく知らなかったの?」

と詰るように言ったら、

「雑誌とかによく載ってるから」

と穏やかに言い返された。

「ふーん」

そう言いながら私は、もう前を向いてウキウキしだしていた。久しぶりのお休みで、天気も良く、風も涼しく、空気も澄んで、隣には大きな子分のような自分の味方が付いて来てくれていて、明るい気持ちになって来た。


 駅を出ると坂道だった。見るからにお洒落な街並みだった。うろ覚えだけれど。でもとにかく天国へきたように楽しかった。

 茶色と白の石畳の道に描かれた可愛い市松模様を踏んで歩き、坂道を登ったり降りたり、迷ってクルクル回ったりしながら、狭い道の両脇にずらりと並ぶ雑貨屋さんや服屋さんやお菓子屋さんやらに、一つ一つ入ってみたり、細々した可愛らしいものを手に取って見つめ、買わずにまた元の位置に戻したり、やりたいと思った事全部をやってみた。

「これ可愛くない?」

と私が見つけた小鳥の鉛筆削りを見て、

「こっちも可愛い」

と彼が確かにもっと可愛い、何やら言いたげな絶妙な目つきをした猫の置物を指差した。

「うわぁ、ほんとだ…

でも置き物はズルいよ、使い道が無いんだから」

と突如自分のルールを作り出し、

(こいつ、やるなぁ)と内心思いながら、もっと可愛いものを探して競い合いみたいなことをした。


 次のアンティークショップに入ると、軋む黒い木の階段を登って二階まで上がって、ときめくけれど手は届かない、古き良き芸術作品みたいな猫足家具やアクセサリーや道具類を見て回った。

 買えないし日常的には被れないのは分かっていながらも、すごく魅力的な帽子を手に取り、縁取りの美しく施された鏡に向かってソロソロと頭に載せて見ていると、後ろから井上くんが別の帽子を持って現れて、

「これも被ってみて」

と言って渡してきた。

 それはちょっと自分の趣味とは違うかも知れないなぁと思いながらも、その帽子を受け取り、被っていたのを脱いで彼に手渡そうとしていると、スイッと店員さんが横から現れて、

「お持ちしますよ~」

と言うので、そちらに渡した。

 ソッと被ってみると、やはり自分で選んだ方が自分には好みだけれども、店員さんが

「あん、可愛いっ!ねぇっ?彼女さん可愛いですねぇっ?」

と褒めちぎってくれ、井上くんもコクリと頷くので、そうかしら…と良い気になった。

でも買わないでそのお店も後にした。

 店員さん達から見れば冷やかしの嫌な客でしかないが、あれこれと煌めくものに触れては元あった場所にそれを戻し、あっちの店でもこっちの店でもそれを繰り返していくというのは、展示品を手に取って見ることの出来る美術館に来たようなもので、女子にとっては極めて楽しいひと時なのだ。買わなくても手に触れたものの煌めきは胸に残るのだ。これぞウインドショッピングというものの醍醐味だ。

 結局その日何かを買ったという覚えは全く無いのだけれど、ストレスは吹っ飛んでいき、とっても有意義なお休みの使い方をしたという大満足と充足感と嬉しい楽しい気持ちでいっぱいになってしまっていた。思いがけず。


 最後に、人通りの多い道からどんどん外れてきてしまい、少し疲れてきたところに喫茶店らしき館を見つけた。森の中のように入口を木がこんもり茂って囲み、ハッキリと中が見通せない。グリム童話に出て来そうな、もしかして醜い悪い魔女とかが出てくるかも知れない、一度入ったら二度と日の目を見ることができなくなるバージョンもありそうな、どっちに転ぶか分からない感じのワクワク感のあるお店だな、とか2人してヒソヒソ言い合いながら、すぐには入らず私達は店の周りを一回りしてみて、

「ここ本当にお店かなぁ?」

「マイナスイオンだらけっぽいな」

「雑貨屋さんか喫茶店どっちかかな?」

「どっちもかな…てか今やってるのかな」

「あっ!テラスの席めっちゃお洒落」

「虫に刺されそう…」

などと言い合いながら偵察してみて、表に戻って恐る恐る中へ踏み込みつつ、奥を覗いてみた。中で後片付けをしていた店員さんはおばあさんともおばさんとも言える年代の小柄な可愛らしい人で、私たちに気付くとフリルの付いたエプロンで手を拭き拭き、慌てて出てきて、

「いらっしゃいいらっしゃい、どうぞどうぞ、」

と、お喋りが好きそうで大歓迎みたいだったので、

「お庭のテラス席が可愛いなぁと思って…」

と言ってみた。

「ああ、あそこね。空いてますよ、どうぞこちらへ」

と案内してくれた。ついて来ながら井上くんが後ろで小さい声で

「虫が…どうのこうの…」

と呟いていたけれど、夢のように可愛い席に思えたので絶対座ってみたくて、聞こえないフリをした。


 テーブルに落ちていた枯れ葉をサッサと手で払い除け、多分1人でやっている奥さまは、キビキビとテーブルクロスとメニューを持って来てくれた。しばらくニコニコして横に立って待っていようとしていたけれど、私達は選ぶのに時間がかかりそうだとみて、

「ゆっくり決めてくださいね」

と奥へ引っ込んだ。

「お上品そうな奥さんだね」

とまず店員さんの感想をヒソヒソ話した。

「岡本だからなぁ」

「岡本マダムだね」

「岡本グランマかもな」

「あははっ」

「グ、グダンムくらいかな」

「ふふっ」

とか、しょうもない事を言い合いながら一つしかない大きなメニュー表を2人で覗き込み、時間をかけて焼き菓子と紅茶を1つずつ選んだ。

改めて注文を取りに来たグダンムが、

「紅茶はポットで2人分来ますから、量が多いですよ」

と親切に忠告してくれたので、私達は2人のどっちかが選んだ片方に絞った。


 奥さんはまた奥に引っ込み、彼は椅子の背もたれに背中をゆったりともたせかけて、

「うぅ〜ん…」

というようなくぐもった小さく抑えた唸りを喉の奥で上げながら、体の緊張を解いていった。

テーブルの下では、ダボっとした布に包まれた長い脚もゆったりと伸ばしていた。いつも持ち歩いているやたら何でも入っている大きな重たそうな鞄も、空いた席に下ろし、彼は落ち着いてリラックスし始めた。頭を軽く振って前髪をちょっと弄った後、再び背もたれに大きな体を預け、チラッと盗み見るように一度目が合うと、確かめるように何度も視線を外してからまたもう一度目を見てきた。大きな体をして臆病そうな目付きだなぁと思いかけていると、真っ直ぐに視線を逸らせずに落ち着いてニッコリを向けてきた。

 森の中にいるみたいに、風が吹くたびに頭上で木の葉が揺れ、夕暮れの木漏れ日があちこちでキラキラ煌めいていた。

 彼は眼鏡を外し、鞄から眼鏡拭きを取り出して丁寧に眼鏡を拭き始めた。

「前髪を上げて見せてよ」

とふと思いつきで頼んでみると、

「えぇ~」

と照れながらも言った通りにして見せてくれた。彼はいつも眼鏡の上からかぶせるように長い前髪を下ろして顔を隠している。そんな鬱陶しい髪の毛をしているから何も見えないんだよ、と、私だけでなく色んな人々から日頃注意を受けていた。そのままにしてたら近い将来車にぶつかるか目が見えなくなるぞ、と。それでも頑なに彼はその髪型を貫いていた。

「えっ、絶対その方が良いよ、ヌボッとしてなくて」

と言うと、また元通り拭き上げた眼鏡をかけ、髪を戻して彼はニヤッと笑った。

「ヌボッてなんやねん」

と小声で優しく突っ込んで来た。

「もう一回やってみて。てかずっとそうしとけば良いのに、」

と褒め称えると、

「眼鏡外してたらモテちゃうよ」

と呟いてまたニヤリとした。そこまでカッコイイわけは無いので冗談だと思ってアハハと笑った。午後のおやつを待っている間にのんびりそんな事をしていると、自然にそれ以外の何もかも忘れ去っていた。


 ケーキと紅茶が来た。

 大き過ぎる指の第一関節だけしか入らないような小さなカップの丸い取手に、トトロのように、指先を引っ掛けるようにして、ゆっくりソロソロと熱い紅茶を音を立てずに啜ろうとする彼の髪の房の先一つ一つや幅の広い肩や大きな体全体に、揺れ動く薄緑色の葉影が落ちていた。もしかしたら、すごく絵になりそうな風景かもしれないなぁ、今目の前にあるものは…と思えた。

 彼は意外と独特に優雅な佇まいの男の子だった。咳のしかた一つとっても、前々から密かに実は思っていたのだが、どこか遠慮がちで抑えた好感の持てる感じなのだ。ちょっと横を向いてコホン、とたてる音の、その中にはどことなく男性の色気の一成分となりそうな何かが含まれている気もするのだ。

 生まれつき彼に備わっているらしい上品さと、手とか体の大き過ぎて不器用になりかねないのにそうならない絶妙なバランスとが、危うくて、ジッと観察していたくさせる。そしてじーっと見ていればいるほど、心根の優しさや身体は大きいくせに実は小心者な可愛いところに気が付いてきて、なんだかもっとますます見ていたくなってきてしまうのだ。パンダとかみたいに。

「井上くんって、癒されるねー…」

と思わず本音で褒めたら、

「ええぇ…」

と言ってニヤニヤ照れ、前髪を引っ張りながら視線をウロウロ泳がせていた。


 三宮に帰ってくる頃には、もう辺りは真っ暗だった。

「変にちょっとだけ食べたせいで余計お腹が空いて来た…」

と彼が言うので、

「じゃあご飯屋さんを探そっか」

という事になった。

下手すると同級生が働いているお店に入っていってしまうかもしれないなとチラリと脳裏をよぎった。あの子はスシローで働いているとか、この子は鳥貴とカラオケ屋を掛け持ちしてるとか、聞いたことのある有名チェーン店でアルバイトしているらしい同じクラスの子たちの顔が浮かんでは消えた。

 きっと私たち2人でご飯を食べに入って鉢合わせにでもなったら、もう付き合っていると確定されるだろう。私は二股をかけていると思われてしまうのかな、と内心ザワザワした。

 何も有名店でだけ同級生が働いているわけでもなく、無名の居酒屋にだっているかも知れず、スシローと鳥貴族を避けたところでどこで出会すか分かったものではない。

 それでもご飯屋さんを探すと口に出して言ってしまった後なので、今更取り返しもつかず、ウロウロ三宮の海や山や街を彷徨い歩いた。

 もうどうでもいい、どうにでもなれ、と言うくらいに疲れ果てて、やっと一つの店に決め、中に入って座った。座っただけで幸せになれるくらいに歩き回って今度は少し不機嫌になりかけていた。

 ちょっと意地悪な事を言ったり、したりしても、受け止めて穏やかにとりなしてくれる井上くんのお陰で、私は女王さまのように振る舞い、しばらくして美味しい豪勢な料理が運ばれてくると、今から食べるものを見てすぐさま機嫌が治った。


 私達は夜食をお腹いっぱい食べた後もまだブラブラして、なかなか帰らなかった。

 井上くんがコンビニにトイレに行くと言って入り、手にフランクフルトを持って出て来たので、

「まだお腹いっぱいじゃなかったの?」

と仰天して聞くと、

「お腹いっぱいにはなったことないかなぁ」

みたいな事を言いながらフランクフルトにかぶりついていた。

「いる?」

とまだ齧っていないアメリカンドックを差し出し聞かれたけれど、私は首を横に振った。


 私は割と食べる時は食べる方で、食い意地が張っているので、注文してしまったものはあまり残さない。男の人よりも外食ではよく食べ、驚かれることも多いのだ。


 彼氏に誕生日に連れて行ってもらった、料理人ならみんな憧れるという有名な素敵な創作和食のコース料理屋さんでも、先に食べきれなくなってギブアップしたのは彼氏の方だった。カウンターの中からも、隣の席からも、

「よく食べるねぇ」と感心して褒めてもらえた。

「美味しいものを残したくないんです」

と言ってデザートまで辿り着いた。帰り道で、うずくまって、

「お腹が痛い…」

と言って彼氏に

「ほらー」

と呆れられた。

「ほどほどでやめときなさいって言っただろうに」

と年上らしく優しく窘められた。あの時はまだ仲良しだった。




続く

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