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メンズエステ  作者: みぃ
2/38

2 酔っ払い

 彼と私は、同じ学校に通う生徒だった。

全然度があっていない眼鏡をかけて、よく目が見えずに、いつも前の方の席を選んで座っている彼の癖毛のふわふわした頭は、いつも私の視界の中に入っていた。私は後ろの方の席を選ぶ事が多かったから。

 学校では、私はできるだけ顔を伏せてコソコソ卒業までやり過ごそう、

(アルバイトがバレないように…)

と戦々恐々としていた。

 学校の男の先生達も、同級の男子生徒も、別の学科の男子も、アルバイト先で出会っているかも知れず、こちらが覚えていなくても向こうはこっちの顔を覚えているかも知れない。

(…既に男子たちの間では噂になっているかも知れない…)

そう考え始めると顔を上げている事ができず、とにかく俯いて過ごしていた。

 

 対照的に、彼はすごく目立つ人だった。

とにかく奇抜な服装で、4月の初日から一発で名前を覚えられた。彼が着てくる服装は時々はコスプレの域だった。鱗が色んな色をした鯉のぼりを服に仕立て直して着て来たり、どう見ても女性物の民族衣装みたいな巻スカートを履いて来たり、モンスターズインクのどこかに登場してそうな脇役の一匹みたいな触手の生えた姿で登校してきたり、今日はどんな突拍子も無い格好で現れるのかとみんなをワクワク期待させていた。

 朝寝坊の常習犯でもあり、彼が1限目から来て机に座っているとクラス中がざわめくほど珍しい現象だった。彼は2限目から来る人だった。いつも。きっと服を着るのに手間取っているのだ。

 彼がいない1限目の間にみんなで今日は彼がどんな格好をして現れるかを予想し合って期待を高め、2限目で大喜びして出迎え、コレクションに写真を撮ったり羽みたいなものを1枚ずつ引っ張ってみたりしてひとしきり弄って遊ぶネタにしていた。


 でも派手なのは服装だけで、極端に喋ることにかけては恥ずかしがり屋さんで、入学式からすぐは、特に女子が、こぞって面白がって彼の机の周りに群がり話しかけていたが、ほとんど何とも返事ができないみたいだった。

 こんなにも人々から注目しか浴びないようなキテレツな格好で家から電車に乗って学校まで来れるほど度胸があり派手好きなのに、と不思議になるほど、声が小さい。自己表現する方法が身に付ける衣装に偏ってしまい、口から出す余力が残ってないみたいだった。


 入学してから早々の各授業の1番初めとかによくある自己紹介を、教壇に立って1人ずつやらされた時も、途中で長いこと口籠もり、みんなの注目を集めたまま硬直する数秒間が流れた。ヒヤリ…とこちらがし始めた頃になって、やっと一言、

「好きな事…は、街歩き…です」

とぽそぽそ小さな声で締めくくり教壇を降りて自分の席へ戻って行った。

「あの時は折れそうな心と闘っていたんだ」と後から私に教えてくれた。


 後から少しずつ分かってきたことだけれど、彼は大勢の初対面の人といっぺんに話すのが苦手なだけで、一対一でなら結構お喋りができる。一度人見知りの壁が溶けてなくなると、

(もうこの人とは友達だ、緊張しない…)と本人が認めた相手には、普通に話せるし結構冗談を言うこともある。


 彼はモテるというのではなかった。多分。

みんなが真っ先に愛着を持つ、遠くからでも分かる、遊園地の入り口に立っているマスコット的存在だった。大柄で、ゆっくりとしか動かなくて、ちびっこに蹴飛ばされてもビクともしないような。中に人が入っていない着ぐるみそのものみたいな感じの人だ。

 女子はおじいちゃん先生とかと一緒で、そういう無害で優しそうなおとなしい生き物が大好きだ。


 実はそれに加え、内心で誰もが、もしや彼は男の子を好きになるタイプの男の子なんじゃないかという疑念もモヤモヤさせていた。ちょくちょく巻きスカートとかワンピースみたいな服とかを着て来るからだ。口を開くと出てくる、優しすぎる話し方も、そういう疑惑に拍車をかけていた。

そこのところがどうなのか、みんなハッキリさせたくて気になって気になって仕方がなかった。

 それで初めのうち彼の机の周りには女子が人だかりを作って賑わっていたのだけれど、大勢で押し寄せると逆に何にも答えられない人だと分かってき、初めの物珍しさも薄らいできて、やがて彼は普通に男子生徒に混ざって学生生活を送るようになりだした。

 登場する時にだけワァッとみんなを盛り上げて、後は静かに席に着いて授業を聞いていた。



 夏休み中、アルバイト先でココちゃんと一夜を明かした飲み会とはまた別に、私にはもう一件だけ飲みの予定が入っていた。

 それが彼と、あと2人、学校で仲良しだった女子の友達との飲み会だった。

「あいつを誘い出してやったんだから今日こそ本性を暴いてやろうぜ」

と、その飲み会を企画したマイマイが当日、歩きながらほくそ笑みを隠しきれず私に耳打ちした。

 マイマイは沖縄出身のものすごく面倒見のいい姉御肌な友達で、クラス中の女子も男子もほとんど全員と気軽にお喋りできるほど社交的な人だ。常勤の先生とも外から来る講師の先生ともすぐ打ち解けて仲良しになれる、お酒を飲むのが大好きなグラマラスなお姉さんだ。授業中眠りこけている私のほっぺたの下からノートを引っ張り出し、自分の分と私の分まで2冊とも板書してくれて、休み時間になったらそのノートでペンペン叩いて起こしてくれ、次の移動教室まで引っ張って行ってくれる、とても頭が上がらない先輩みたいな友達だった。クラス中の誰でもと仲がいい彼女がなぜ私なんかと連んでくれるのか不思議だったけれど、彼女がいるおかげで学生生活がすごく楽しめていた。


 飲み会の場所は、マイマイがドクターの彼氏に連れて来てもらったことがあるという大人っぽい雰囲気のイタリア料理屋さんだった。4人がけ用の個室に通され、

「まず腹ごしらえ」

と舌舐めずりしてメニューを開きながら、

「ここはお肉とお酒が美味しい店だから…」

とマイマイがジロっと私を睨み、

「草なんか頼むなよ」

と釘を刺した。

 もう1人の女の子は真面目な優等生のチーちゃんという子で、毎日和風の手作りのお弁当と完璧な仕上がりの宿題をきちんと持ってくる、あまり自分からは話さない大人しい子だった。

 よくこの3人にもう1人、中国人の女の子を加えた4人で学校ではお昼を食べていた。今日は来ていないその子は新婚さんだった。夜は家を空けて出て来られなかったのだ。

 そのかわり珍種の南国の鳥みたいな服装の例の彼が、のっそりと参加していた。まるで、セサミストリートのビッグバードが無口になってしまって目だけキョロキョロさせながら女子会に参加させられているみたいな場違いさだった。


 面白い取り合わせ過ぎて、マイマイにあまり笑うなと言う目で睨まれるたびに、余計にクスクス笑いが止められなくなりながら隣に座った彼をチラチラ盗み見ていた。

 口下手なくせに誘われたら断りきれなかったんだろうか、それにしてももう1人くらい誰か自分の友達か味方でも見つけて連れて来なかったとは、不器用なのか肝が座っているのか、やっぱり謎な生態の男子だった。キョドキョドしているようで可哀想なのやら面白いやらで、自分の隣に座ったことでもあるし、私が横からちょこちょこ話しかけたり、大皿に盛られてみんなの前に出てくる料理をこちら側で彼の小皿と自分の皿とに取り分け、好き嫌いを聞いたり、ニヤニヤ笑いかけたりして観察しまくっていた。

 

 2軒目にお酒しか出ないようなバーに行く計画を知らされていたので、いっぱい食べてあまり飲まないようにお酒は控えておこうとしていたのだが、マイマイに

「お子様ジュースを飲むな」

と叱られ、一軒めで2杯もお酒を飲んでしまった。

 お酒は2杯くらいが自分の限界値だと踏んでいる時期だった。普段から学校で頭の上がらないマイマイの言う事でなければ聞いていないところだ。

 私の注文したクランベリーなんとかとかいうお洒落な細いグラスにちょっと口をつけて味見してみて、

「けっ、店員がお前を見て手加減してるな。こんなもん酒とは言わない、薄い薄い」

と酒豪のマイマイは笑い飛ばしてくれた。私も気心の知れた友達しか周りにいなくてすっかり安心して良い気持ちで楽しくて仕方なく、〝2軒目″へ行くのも〝バー″へ行くのも人生初で、舞い上がってずっとヘラヘラ笑っていた。


「じゃあ、そろそろ次に移動しよっか」

という段になって、急に、食べ物を残すのが嫌いだったらしく、それまで遠慮がちだった彼が、

「これはもう残すの?誰も食べない?」

とみんなを見回し、最後まで大皿に残っていたものを片っ端から、大きな片手で皿の底を持ち上げ、右手に持ったお箸を熊手のように使い、お皿のふちに当てた口にすいっ…すいっ…と吸い込ませるように入れて、モリモリ食べ出した。

 独特な掃除機のような早食いの技で、面白くてついついなんだか見入ってしまう。

 きっと世の中には不快だとか下品だと感じる人もいるかもしれない食べ方だなとはチラリと思ったけれど、私にはそんなに嫌な感じがしなかった。残さないで食べてしまいたいという精神も、後に残ったお皿も、見事に綺麗に見えた。

「…足りてなかった?」

とみんなが不安になって尋ねたけれど、彼は首を横に振りながら静かにモグモグ咀嚼し、ゴクンと飲み込んでいた。落ち着いているように見えたが、やはり他のみんなを待たせているため急いではいるらしく、見つめていると手が震え、焦っているのが伝わって来た。あまり噛まずに飲み込むので、3人いた女子が全員それぞれの言葉で心配して

「もっと噛め」とか

「そんなに焦らなくていいよ」とか

「もう残せば…」と労った。

さっきまではそんなに早食いではなかったのに…

再び座り直しながらマイマイがニコニコして、

「いっぱい食べるなぁ…男の子だねー」

と言った。その言葉が、だんだんエコーのように女子3人の頭の中で響き渡りながら、

(男の子だよね?そうだよね?男の子なんだよね?それとも?心は女の子?どっちなの?)

と変化していた。

2軒目でその真相が分かるはずだった。


 マイマイが計画していたのは、それも彼氏に一度連れていってもらったらしいブラジル人ダンサーが経営しているバーで、1時間に一度くらい、フッと照明が暗くなり、ついさっきまでそこに居てお酒やおつまみを出していたママさんの姿が見えないなと思っていたら、急に隠されていたドアから飛び出してきたママがステージに上がり、そこで踊り狂うというのだが、その格好が激しく全裸に近いようなとってもちっちゃなビキニ1枚の姿らしいのだ。

 それを見て興奮すれば彼は男。

私達は彼の鼻の下に注目していれば良い、というわけだった。


 私はワクワクではちきれそうだった。これから罠にかけられに行くのだとも知らずに黙ってついてくる彼に、つい満面の笑みでニヤニヤ笑いかけてしまうのを止められなかった。

 2軒目に向かってマイマイを先頭にぞろぞろ歩きながら、ついつい振り返って彼の顔ばかり見上げ、ニタニタしてしまう。そんな私の足元を、かわりに、彼の方が注意したり心配したりしてくれた。

 

 けれどいざ、ブラジルバーのスツールに半分お尻を乗せて、なんだか濃い冷たいお酒を片手に握りしめ、照明が暗くなり、すごい高いハイヒールでミラーボールの明かりの下を激しくシャラシャラ無限の鈴を鳴らしながらせっかく半裸で外国人のママが踊り狂っているというのに、彼の顔ばかりにジイっと目を凝らして見ていたが、彼はどうにもハッキリしない態度だった。なんとなく目のやり場に困って視線を彷徨わせているとも見えるが、私があまりに彼に注目しガンを飛ばしすぎて、こっちの視線に気付いてしまい、集中できなくなってしまったのか、チラチラ目が合い、鼻の下は伸びているのかどうかよく判別できなかった。

 マイマイは本来の目的を忘れて

「ブラボー!ブラボー!!」

と大声で叫び、チーちゃんは隣の席のブラジル人男性達と流暢に異国語で声を張り上げお喋りしていた。

 大音響だった音楽が止み、正常なBGMとまともな服装のママが戻ってきた。私は他にする事もないのでもう一度ジイっと彼の顔を見つめた。変化が分からないので、ついに痺れを切らし、

「興奮した?」

と直球で聞いてしまった。彼はどう答えていいか分からない表情で、

「うぅ~ん…」

と小さく唸りながら頷きでも否定でもない首の捻り方をした。

結局どちらか分からないではないか。釈然としないまま、私は握りしめていたグラスのお酒を飲み、氷の味しかしなくなるまで液体を飲み干し、ガリガリ氷を噛み砕いて、どんより濁った目で彼の顔ばかりジロジロ睨んでいた。


 チーちゃんがお持ち帰りされてしまいそうな勢いで隣の席の男性客達においでおいで!と激しく手招きされ出したので、

「危ない、撤退だ」

とマイマイが小声で招集をかけ、私達は席を立った。


 立ち上がった瞬間から床が脈打っているみたいにフニャフニャしていた。一体何杯飲んだんだったかよく覚えていなかった。私が頼んだのよりもマイマイが頼んだやつの方が甘くて美味しく、交換してもらったり、チーちゃんにも味見させてもらったりしていたし、いつの間にやら誰が頼んだのかもよく分からないグラスがゴチャゴチャと狭いテーブルに林立し(そう言えばマイマイが、店員が持ってくるのが遅いからと言って一度に3杯ずつ頼んだりしていた、)それに多分、勝手に隣のテーブルからの奢りでどんどんこっちでは頼んでない物までが持ってこられたりしていた。

 結局何杯、何を飲んだのだったか…

店を出て階段を降り、壁にもたれ、指を出して、自分が飲んだ数を数えかけたが、途中で分からなくなってしまった。

「何の数を数えてるの?」

と彼が近寄って来て私の指を見て優しく問いかけてきた。


 そう言えばあのとき私はお金を払った記憶もない。今になって思い出してきた。払っていないかも知れない。後日払ったかどうかももう忘れてしまった。一番美味しくて忘れないでおこうと繰り返し唱えたピニャコラーダというカクテルの名前だけは記憶に焼き付いている。逆に言うとそれしか覚えていない。


 夜風が気持ちいいなぁとうっとりとしていると、突然、マイマイとチーちゃんが悲鳴を上げて走り出し、私は訳が分からないながら急いでついて行こうとし、よろけてこけかけた。それを、すぐ側にいた彼が素早く動き、手を伸ばして自分の体に当てるようにして地面に倒れるのを防いでくれた。

「大丈夫?」

と聞かれたが、必死でそれよりも早く先を行く2人に置いてけぼりを食うまいとして、また走り出した私の隣を、肘を掴んだまま並走するようにして彼も大股になり、ついてきた。

「終電ないからぁっ、」

とマイマイが首だけ捻ってこちらに叫んだ。

「あんたらは走らなくてよろしい!」

「また連絡するねー」

とチーちゃんも手を振ってきた。

 私たちが飲んでいたのは神戸三宮で、私が住んでいたのも三宮だった。2人が乗る電車は大阪方面で夜は終電が早く、彼が乗る下りの電車は12時を過ぎてもまだ走っていた。


 なぜだか、飲み会と言われているのに彼は電車ではなくバイクで来ていた。


「は?バイクで来た?」

とさっき、腹ごしらえのイタリア居酒屋で、初っ端から彼はマイマイに叱られていた。

「どうすんの?帰りは…?今日は呑むんだぞって言ったよね?…やめてくれよ?飲酒運転で今日がお前を見た最後の日になるとか。冗談じゃねぇって。笑うな、お前らも。洒落にならんて。置いて帰れよ?バイクは。電車で帰れ」

すると彼はモゴモゴと

「別に帰らなくてもいいし…夏だし…そこら辺でブラブラして明け方にでも…」

と言いかけ、

「は?野宿するつもり?」

と眉を釣り上げかけたマイマイに本腰を入れて叱られそうな気配を察知して、

「泊まるし、漫画喫茶とかに…」

とかなんとか、ごにょごにょ答えていた。


 私と彼は遠くにどうにかマイマイとチーちゃんが改札に入って行き、一瞬こちらに手を上げて「バイバイ~」と振るところまでは、なんとか走り続けて見届けられた。

 私は駅まで来たんだから彼もここからは電車に乗って一旦は家に帰るだろうとすっかり思い込んでいた。バイクは明日また取りに来れば良い。マイマイからもキツくそう言われていた事でもあるし…

 ところが、彼はまだなんとなく私の肘のそばに手を添え続けたまま、黙ってこちらを見下ろしぼんやり突っ立っている。

「バイバイ」

と言って手を振っても、伝わっていない曖昧な笑みを浮かべてその場から動こうとせず、私がかわりに時刻と案内板の表示を見上げ、

「あ、今、行っちゃったから…、次に来るのは快速、23時58分、その次は普通、24時03分だよ」

と教えてあげた。

「送っていくよ」

ととても優しい声で彼が言い、私はビックリしてちょっと頭が混乱しながら彼を見返した。今から私を送っていたら自分は家に帰れなくなるのだぞ。そう言うと同時に、彼がもともと帰るつもりがなかった事を私は思い出した。

「送っていくって」

と彼が真面目に本気そうに言うので、

「いやいや」

と私は笑った。でも彼はいたって真面目だった。しかし、こちらだって本気だ。

「帰りーって!」

と改札口の方へ向けて私は彼の体の脇腹のあたりを押したが、ビクともせず、かえって自分がクラクラした。彼は私の履いているヒールを不安げな目付きで覗き込むようにして、大げさな仕草で見下ろした。

「俺はどうとでもなるけど、そっちが危なそうだから…」

と言った。

 その、〝俺″と彼が自分を呼ぶ初めての瞬間を目の当たりに聞いて、天明のように、まさか、と私は衝撃を受けた。今やっと謎が解けそうな気配がした。分かってしまったような気がした。いや、それでも、まだ早とちりかも知れない。もしかしたら、自分がでかい男の子にしか周りからは見えないことが分かっているから一応女の人は家まで見送ってあげなければいけないと思っている、心の底は実は女の子の男の子なのかも知れない。まだ分からない。

 自分1人で彼の正体を突き止めマイマイやチーちゃんに得意げに後から話したいような気持ちもちょっと疼きはした。が、それと同じくらいもういい、もうそれよりも今はもう帰りたい、眠たい、面倒臭い、という気もした。


 2人して前にも後ろにも動かないうちに電車だけが頭上を通り過ぎて行き、

「帰りぃってば!」

「送るって…」

と言い合っているのにもだんだん嫌気がさし、ウンザリしてきて、

「じゃあ私は帰る」

と言ってまだ終電は来ないうちに立ち去ろうとした。終電があるうちに自分が1人で帰ると言えば、彼もついて来ないかもしれないと思ったのだ。が、彼はついて来ようとした。ちょっと走って逃げ出そうとしたら、彼はもっと早く、すぐ隣を大股で歩いていた。

「もう、じゃあ、勝手についてくれば」

と言って私はずんずんそのまま歩き続けた。

けれどしばらくして、彼が、すごく優しい声で控えめに少し後ろから

「鞄重くない?持とうか?」

と声をかけてきたのでまたもっと驚いて、立ち止まって彼の顔をじろじろ見つめた。しかし言われてみれば、そう言えば重たい。持ってもらえれば確かにありがたい。鞄を渡してみると、それはそれで今度はなんだか逆に持つ物が何も無さ過ぎて、頼りないような気持ちになった。カバンの紐を普段握りしめて歩く癖もあったようで、手も、なんだか掴むものがなくて落ち着かない。そわそわと両腕を体の脇に垂らしたり、お腹や脇腹を撫でたり、片手でもう片方の手を掴んだりしながら歩いた。


 その当時、私と彼氏が住んでいたのは三宮の駅から海の方へ15分ほど歩いたところだった。ふと、だいぶ家のそばまで来たところで、彼氏が今のこの2人を見たらどう思うだろうと突然思い当たった。その時間帯に家の近所に彼氏がふらついているはずはないし(彼は自分の仕事場で寿司を握っているはずだった…)この極楽鳥みたいな人と自分との関係が怪しいものというわけでもない。話せばすぐ分かるはずのものだ。それでも、話す手間すら無いに越したことはない。


 私はしれっと家と違う方向へ曲がった。

どうしよう、この辺りに座れるベンチとか公園みたいな所はあったかな、と思い探し回りながらぐるぐる歩き回っているうちに、疲れ果ててきて、もうどこでも良いからどこかに座り込みたくなってきた。隣で彼も不思議そうに辺りを見回し、不安げにキョロキョロしていたが、ついにとうとう

「もしかして、迷ってる?」

と恐る恐る聞いてきた。

「ちょっと座りたいだけ」

「ふーん…この辺にベンチがあるとことかあったかなぁ…」

彼が立ち止まって考え始めたのを見て私は力尽きそうになり、地面に座り込みかけた。

「ああっ、ちょっと、待って…」腕を支えられ、

「あそこまで行こう」

と、彼が指差す方、植え込みの影みたいな所まで連れて行かれた。そこに座れそうな階段状の石畳があった。

「お水飲む?コンビニで買って来ようか?」

彼がそう言ってくれた時、薄暗い影の中ですぐ近くを2人組の男達が突然通り過ぎ、私はビクッとなった。彼も不審げに2人組が通り過ぎた後も後ろ姿をじっと目で追っていた。すぐ近くで車のドアがバタンと開閉し、走り去る音が聞こえた。

 セブンイレブンの看板は座っている場所からも明るく光が灯っているのは見えていて、その先にもローソンの看板も光っていたけれど、こんな暗いよく分からない怖いところで一刻も1人きりにされるのは嫌だった。彼の方でももうお水を買って来てあげるとは言わなかった。


 彼がそばから離れずに座っていてくれてどこにも行かなそうだと分かると、すぐに今度は眠気が襲って来た。頭を真っ直ぐにして立てているのも難しくなって来た。何か喋らなくちゃ起きていられない…と思いながら、何か話し出したのに途中でコクンと首が垂れた。ハッとして、またコクンとなって、ハッとした。

ケラケラ笑われ、私も眠たいながらニヤリとした。彼のその明るい笑い方に少しも嫌な感じがしなかったからだ。

 

 うっすらと目が覚めかけた時、目の前には膝が見え、なんとなく眠りに落ちる前のこともチラッと脳裏をかすめたのだけれどやっぱりまだ眠り足りなくてもう一度貪り足りない睡眠の世界に戻っていこうとして、寝返りを打ちかけるとサッと大きな手に肩を掴まれ、階段から転がり落ちずに済んだ。それですっかり目が覚めた。

 私は彼の膝に頭を乗せて眠ってしまっていたらしかった。慌てて姿勢良く座り直し、あちこち見回し、彼の顔を見ると、彼の方も少し眠っていたみたいで今起きたばかりのところのようにシパシパ目を開け閉めさせていた。

 あたりは暗かった。鞄を引き寄せ携帯を見ると2時前だった。

「どうする?」

と彼が聞いてきた。

「家探す?」

その言い方が可笑しくて私はヘラヘラ笑ってしまった。

 自分の家を見つけられないんじゃなくて、行き先を変更しただけだ、彼氏のことを思い出して、と私は白状した。それでもまた送ってくれるというので、もう何も考えず送ってもらうことにした。


 歩き回って知らないところまで来ていたので家の方角がどっちか迷ってしまったが、

「だいたいあっちの方から来たんじゃなかったかな」

と、彼が落ち着いて教えてくれ、そっちの方へ引き返していくとすぐに知っている道に出た。


「このコンビニでバイトしてたんだー。試用期間の二週間だけ…学校に入る前だけど」

と私が家から1番近いコンビニを通り過ぎながら、指差して教えると、

「じゃあちょっと挨拶しに寄ってみる?」

と入って行こうとしたので、慌てて彼の肘のあたりの羽か鱗だかを一握り掴んで引っ張り、止めた。

「クビになって世界中で1番入りたくないコンビニなんだから。近くを通るのも普段は避けてるのに」

「なんでクビになったの?」

「早く動くことができなくて。覚えも悪かったし…」

そこから私の過去のアルバイトが何をやっても長続きしなかったこと、それかクビになるかばかりだったという逆自慢話をし始めた。

 今の自分のバイトについて話すわけにはいかないので、過去のバイトについて話し出したら、自分でもネタが尽きないなぁと思うくらいクビになったり続けられなかったり大惨事を巻き起こしたりしたアルバイトの数々の苦い経験が山ほど出てきて日が登るまで語れそうだった。

「スーパーのレジにはメインの一台があってね、まだ入ったばかりの新人なのにそこでレジを打ってて。なんか間違えたボタン押したのかブー!!って大きな音が鳴りだした事があったの。

 店内にブーーーーッて、こだましてるから、他のレジから先輩の人が駆けつけて来てくれて、どこかのボタン押して止めてくれて。いっぱいお客さんが並んでこっちを見てるから、恥ずかしいし焦るし手も震えてるんだけど、また間違えてブーーーーって鳴り出して…

 先輩がまた来てくれて、

『ここのボタンだよ、次からここね!』

って言うんで、そのボタンをジィッと見て覚えたはずなんだけど、次またブーーーーって鳴り出した時に、そこを押してもブーブー音が鳴り止まないの。だから必死になってそのまわりのボタンとか色々あちこち押したり、長押ししたりしてたら全部のレジからブーーーー!!!!ってすごい音が鳴り出しちゃってね…」

私はブザーの凄まじさを両手を両耳の横でバタバタ最大限に振り回して表現した。

その時は洒落にならない大惨事だったが今思い出すと笑えてきてしまう。彼もケラケラ笑ってくれた。

「全部のレジが鳴りわめいて、故障しちゃって、私の使ってたレジがなんかメインのレジだったから、まず大元のこれを直さなくちゃどれも動きませんって、修理会社の人が来て言われたらしい。そこからは半日くらい臨時閉店にして、スーパーの営業できなかったんだって。後から聞いたけど」

「後から?その大惨事の間はどこにいたの?」

「走って店の外に逃げてたよ」

彼はアハハハハ…と大笑いしてくれた。最後の方はちょっと嘘だったけど、今は笑ってくれているのでまぁいいや、そのうち今度また訂正しよう…と思った。もうとっくに自分のマンションの下に着いて、しばらく前から立ち止まっていた。


 さっきからずっと立ち止まっているので、

「ここ」

と壁を指差した時、彼ももう知ってる、みたいな顔をして頷いた。彼が上を見上げ、

「何階?」

と聞いてきた。

ちょっと答えるのを躊躇った。外から自分のマンションを見上げると自分でもどこが自分の部屋か分かりにくいんだなと思った。窓を数えるのが何故か難しい。自分が揺れているからか。

「あの辺かなぁ」

とその辺りと思う辺を適当に指差して誤魔化し、じゃあ、バイバイ、ありがとう、と言って、エントランスへ向かった。

 彼は自動扉の手前までついてきて、手を振ってくれた。

ドアが閉まってもガラスの透明な扉なのでまだ手を振る彼が外に立っているのがハッキリ見えている。目も合っている。なんだか暗い夜の道を背景に1人で立つ姿が可哀想なように思われた。

 と言って、家の中にまさか上げてあげるわけにもいかないし、と思い、エレベーターに乗って自分の閉め切られた狭い、空気の篭る部屋に帰ってきた。


 顔を洗い、冷蔵庫を開けたりトイレに行ったりして、ふと窓を開けて、下の道を覗いてみると、自動販売機に向かって何か飲み物を買っている彼の小さい姿が見えた。

 夜の闇の中、自販機の結構明るい光の中で彼の派手な姿は虫眼鏡で捉えた珍しい虫のように輪郭が光ってくっきりとよく見えた。

(手を振ってみようかな…)

とチラリと思ったけれど、相手はこちらを見上げていないので気付くはずがないなと思い、やめた。

 もう寝よう、と思ってガラガラと窓を閉め、ベッドに横になってみたがなかなか寝付かれなかった。もう一度窓を開け、下の道を覗いてみるともう彼の姿は光の中になく、帰ったのだなと思って窓を閉めようとした時、とても小さな蛍の光のような粒が目に止まり、それはよく見てみると、自販機の光より少し外れたところで彼が低いブロック塀に腰掛けて見ている携帯電話の画面の明かりだった。

 そばに飲み物を置き、タバコを吸いながら携帯を弄っているんだなとすぐに分かった。ぼんやりとした薄明かりではそこまで全てが見えていなくても、よく学校で、ヘビースモーカーのマイマイにくっついて喫煙所へ行ったときに見かける光景だったから、頭の中になんとなく想像がついた。



 彼と私はそれまでも、それからも、卒業してからもずっと名字で呼び合ってきた。彼の名前を思い浮かべると、様々な他の思い出や悲しい気持ちや何やかやが、全部引っ張り出され、一緒くたになって、意識の表面に浮かび上がって出てきてしまう。

 彼の記憶を私の体から外に排除してしまおうとしたら、他に何も残らないくらい全部がずらずら繋がって外へ出て行ってしまい、自分というものが空になってしまいそうだ。私の内側には彼に関連すること以外なんにも大事にするべきことなんてないかのようだ。彼を失ってしまった私という人間は、空っぽなのだと思う。生きる価値も無いような気さえしてくる。

 大事にしてきたのは彼の事だけだった。そのせいで今でも彼を忘れられないのだ。

 自分以上に大きな存在だった人を忘れてしまうということは、なかなか大変すぎる事だ。今まで何度もやってみようとして出来なかった。


 別れてしまい、いなくなった彼の名前を私は心の中で何度も何度も繰り返し呼んだ。夢では何度も再会したし、眠ってもいなくても、いつも彼の姿を探しながら歩いてきた。心の中では彼の名前がずっとこだましている。

 その名前をまずここで捨てる。彼の名前はここでは呼べないから。

 私の元彼は本当は井上くんじゃないけれど、ここではこれからそう呼ぶことにする。



「井上くん、」

 その時は、囁き声で叫ぶようにして、聞こえるはずがないと思いながら窓から身を乗り出して、私は呼んでみた。

「井上くん、」

すると彼はちょっと携帯から視線を上げて辺りを見回したようだ。もう一度、もうちょっとだけ大きい声で呼んでみた。

「井上くん!」

すると今度はこちらを見上げ、光の中へ出てきて、片手に多分飲み物を持ち、もう片方の手を上げて、のんびりと、こちらに振ってくれた。

 私達はニコニコ手を振り続けた。普段大きくしか見えない彼がこうして見ると小さく蛍みたいに光って見えるのが可愛らしかった。


 ふと、でもこんなことをしている場合ではないかも知れない、彼はうちのマンションの下で夜を明かすつもりなんだろうか、それだけはやめてもらいたいな、とジワジワ現実感が甦ってきた。

 どうやって優しく追い払おう。ここまで送ってきてもらったのでもあるし。

 考えてみたけれど、何も思い付けず、もう眠くもなくなってきていたし、もう1度下に降りて行ってみることにした。

 出がけに冷蔵庫のミニトマトを洗って、良かったら井上くんにも分けてあげて二人で食べようと、ビニール袋に入れて持って降りた。


 海の方へ歩いて行ってみたり彼の単車を停めているところまで行って原付を見せてもらったり、空が白みはじめ夜が明けてからも、私達はくだらない馬鹿話をしてダラダラと一緒に過ごした。どうせ思い出す意味もないようなつまらない話ばかりしていた。

 クラスのめっちゃ可愛い子がアイライナーのコマーシャルに出ているあのアイドルにそっくりだ、本当に可愛い、どっちが先に喋りかけれるか勝負しようか…とか、

 あの後期高齢者なんだけどもダンディないつも桃色のシャツばかり着て来る老教授の授業は高速すぎて何を言ってるのか全然分からないのに、時々ふと黙っているなと思ったらマイマイの胸の谷間を見つめて時が止まっている…とか。

「気付いてたんだ?私も知ってたけどマイマイもとっくに知ってたよ、

『見せてやってんだからテストは受からせてくれなきゃおかしい』

って、試験結果を見てめっちゃ憤慨してた」

と私は言い、マイマイの胸のサイズについて語り合い、大きい胸と小さい胸とブラジャーの表記について語り合った。

「男がみんな大きい胸を好きだと思い込むのは偏見だよ」

と彼は言い、私は

「男のために大きい胸が欲しいんじゃないんだよ、ただ自分が欲しいから欲しいだけなんだよ。たとえ肩が凝っても荷物にしかならないって巨乳の子たちに言われても、無い物ねだりだとしても、自分でも実際あったらちょっと荷物かもなぁとは分かってても、とにかく一回くらいは欲しいものなんだよ」

と力説した。

「男の子だってそんなもんじゃない?大きい逸物が欲しいって叫ぶばっかりがネタのお笑い芸人がいるじゃない、あれには共感できるでしょ?」

と聞くと、

「ああぁ…まぁ…そうかなぁ…うーん…でもまぁ、あんまり大きいのもそんなに良くないけどね…」

と考え深げに顎を摩り、まるで自分は大きいからねぇとでも言っているかのようだった。

その無駄な時間がずっと楽しかった。


 結局昼近くまで一緒にいて、サラリーマンが急いで食べて出ていくような定食屋さんで2人でのんびり煮魚定食と唐揚げ定食を食べ、やっとバイバイして、私はそのままバイトに出勤した。





続く

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