18 入れ替わり
警報のようなけたたましい着信の音でギョッと目が覚めた。カーテンの隙間から薄明かりが差し込み始めていた。明け方だ。まだ。やっと眠りかけたところだった。跳ね起き、携帯電話の画面を見ると、ミサさんから着信を受けていた。
「はい?」
「もしもし?」
「うん?」
「モコ?」
「はい」
「おはよう、ちょっと今いい?ごめんね、早すぎるかなぁとは思ったんだけど…寝てたよね?」
「どうしたの?」
「えっとねー、今日代わってくれる人探してて。子どもがねー、ちょっと…具合が悪くて…昨日から休んでるんだけど、今日まで長引きそうで…
ココちゃんは試験期間中らしいし…それでも昨日は代わってくれたんだけど、2日連続はちょっと頼みきれなくて…」
「うーん…私も…試験前で…
誰か他に、学生じゃない、代わってくれる人いないかなぁ?」
「モコも学生だしねー…」
「うーん…」
「…」
「…」
(ココちゃんが昨日は代わってあげたのかぁ…
自分も代わってあげなくちゃぁ、私だけ冷淡な奴だって事になるなぁ…)
と、ココちゃんと自分とを比較してしまった。
シングルマザーのミサさんは仕事に穴を開けると後で苦しい目に追い込まれたりもするかもしれない。試験開始日迄にはまだあと今日を入れて2日あるし、1日休んでも死にはしない。追試もあるし…と思った。頼られる事が滅多にない私は、何か力になりたかった。
「代われそうかも」
「ありがとう!ありがとう、なんか今度ご馳走する!食べたい物、何でも。ありがとうね」
「儲かっちゃうから、大丈夫」
「29歳、ミナミって名前で出てるから。」
「えっ?」
一瞬、ちょっと何を言われているのか分からなかった。
「えっ?店に報告しないで、内緒ですり替わるって事?」
「そう、今日だけ」
私はちょっと混乱した。店には、
『休みますが自分で代役を立てました』
という連絡と報告をキチンとするのだろうと思っていた。
「私の指名でお客さんももう入っちゃってるから」
ミサさんは何でもない事のようにサラサラと言う。
「ええー、そんなん、ダメだよ、お店にはちゃんと言っておかないと。一応。何かあった時にややこしい事になるよ!」
「ならんて。」
「バレたらめっちゃ怒られるよ」
「バレんバレん。今日一日くらい。
12時~17時迄ってなってるけど、もう12時にいっぺん、店に出てくれたら、その後、早退してもいいから…」
「いや、むしろ、やり遂げた方が…早退とかゴチャゴチャしないで…その方がバレにくいかも…とか…そんな事ないかなぁ…早退したことないから分からんなぁ…」
「モコに任す。それは」
「えー…」
「大丈夫大丈夫。じゃあ、娘を病院に連れて行かなきゃだから」
「…あぁ…うん…」
「ありがとうね、じゃあね」
「…ええぇ…んんん…」
やっぱりもうちょっと抵抗しようとしたが、もう通話は切れていた。
電話をかけ直し断ろうかどうしようかとも悩んだが、それほど騒ぐほどの事でもないのかもしれない。
今日は学校を休む、とマイマイにLINEしておき、こうなったら10時まではたっぷり眠れるのでアラームを設定し直した。不安でしばらくはドキドキしたが、横になって目を瞑っているといつの間にかもう一度、眠っていた。
11時。アルバイト先へ行くためマンションのガラスドアを抜けると、通りの向かいでこちら側に向かって信号待ちをしている井上くんの姿が真正面からドンと見えた。
信じられない思いがした。
路面はシトシト降り出した雨に濡れて光り、空中全体が白く煙る霧雨の中、不動の姿勢の井上くんは、まるで昨日の夜に別れた時のままずっとそこにいた石像みたいに見えた。
並んで信号待ちをしている他の人々は傘をさしているのに、彼一人だけが肩や頭で雨を受けながら平然としている。
その姿は、実は誰の目にも見えていないんじゃないかという不思議な存在のように浮世離れしていて、ひょっこり森から出て来てしまって信号待ちをしている妖精トトロのようだった。
青になった信号を渡って来て、黒と白の縞々の濡れた横断歩道の真ん中辺りで合流した。
「何やってるの?」
「なんにも」
「プーさん?」
「プーさんそんな口癖だったな」
「本気で。何してるの?昨日からいた?」
井上くんは無言でニヤッとした。
「さすがに警察呼ぶわ」
「暖かいかなぁ、牢屋は…」
「死ぬよ?この季節に…野宿したの?」
「んーん…
昨日、彼氏さんとすれ違ったかもしれない。大丈夫だった?」
井上くんにそう言われ、ドキッとした。
まだ不正出血しているしズキズキ痛みもあり、生理用ナプキンを当てて対処している。出血自体は初めてのことではない…グズグズ思い悩んで気にしているより、忙しくして忘れている方がいつの間にか治ってしまっている気がする。気にしていてもどうせどうすることもできないのだ。体の傷は自然治癒の力に任せるしかない。
まだ彼氏を許すことはできないが…
それよりも、今更ながら、四方をキョロキョロ見回して、今のこの状況を見咎める人がいないか探した。
「今日は私は学校休むよ?」
「えっ?じゃあ今からどこに向かってるの?」
「バイト」
「学校休んで?試験前なのに…」
「友達がどうしても出られなくなったから」
「ふーん…優しいな」
「井上くんは学校行きなよ」
「うーん…俺ももう今更って感じになって来たなぁ。一緒に休もうかなぁ」
「私はバイト行くんだって!一緒に休めないし」
(お店までついて来ないでよ~!頼むから!)
と思った。振り切るために走ることも今日はできなさそうだ。
それに、こちらはズル休みで学校をサボっているわけではないのだ。なんだか、必死に働かなくてもお家が裕福そうで、頑張って勉強しなくても余裕で試験には合格点を取るだろう井上くんのその余裕の感じがちょっとムカついた。
「井上くん、学校行って今からでも午後の授業受けて。私の分もノートとって来てよ」
ちょっとなり振り構わなくなり、色仕掛けめいた事を言ってみたが、
「いやぁ~、もういいかな。今日は学校は…」
ちょっと強めに小突いてみても、まだ付いてくる。
(どうしよう…どうしよう…お店まで来たら…)
と思いながらも、早めに着いておかなくては不安だし、真っ直ぐ寄り道せずに商店街をずんずん西元町へ歩いた。
途中でミサさんからメッセージの着信があった。
「今日のミナミさんの部屋は1012号室です、って。
普段私は車停めてその中で待機してるから、宮家さんには会うことなかったけど、時々急に部屋に来るんだってね?ココちゃんから今聞いて知って。
近所の喫茶店で試験勉強しながら待機してくれたら、後で払うよ、その分のお茶代。ごめんね。本当に助かってます」
丁寧なミサさんからの文面と、その後に、フワフワの暖かそうなマフラーを顎が隠れるくらいまで巻いてもらい、ピンク色のプリキュアのマスクをして毛糸の帽子も被っているので目しか出ていない、娘さんの短い動画を送って来てくれた。
「ありがとうは?」
と言うミサさんの声に続き、
「ありがとう~」
とはにかんで娘さんが繰り返していた。
「めっちゃ可愛いな。それ誰?」
「今日代わってあげた子の娘さん」
「めっちゃ可愛い。俺にも送って」
「えっ?なんで?」
井上くんはニタニタした。
「何に使うつもりだよ…お前、捕まれ。それはアカン。冗談でもそう言うこと言ったらダメだよ。洒落にならん。犯罪だよ?」
「何も言ってないけど…」
もう着いてしまう。マンションが見えて来た所で立ち止まった。鍵の隠し場所だけは絶対に見られてはならないと思い、すぐそばにあるケーキ屋さんを指差し、
「井上くん、あそこで待ってて。お客さんいない間は一緒に勉強できるかも」
と、とにかく厄介払いしようとした。
「働いてるお店ってどこ?ここ?」
井上くんはすぐそばにあった鍼灸院の看板を指さした。
「違う。あれ」
私はヤケクソになってマンションを指差した。
「あれって普通のマンション…じゃないの?」
「そう。とにかく離れて。ここにいられたら仕事場に入れないから、早く!あっち行って」
ケーキ屋さんを全力で指差し、地団駄を踏みそうになってキレかかった。時刻を確認して、半泣きになり、
「早く!」
と必死で押し続けたら、井上くんが仕方なさそうにやっと動き出した。
「じゃあケーキ屋で…」
急いで部屋に入り、暖房を入れ、オイルを温め、湯を沸かし、BGMをかけ、間接照明と電気マットのスイッチを入れて、セッティングを済ませた。制服を着て、鏡の前で髪をまとめた。なんとかなりそうかもしれない…今日一日くらいなら。
予約は今のところ12時~14時の一件だけだ。そのお客さんにはあらかじめミサさんの方から入れ替わりの話は通してあるそうだ。
間違えて
「お部屋入りました」
と宮家さんに送ってしまいそうになり、慌てて携帯を閉じ、笑い声を上げ、ピシャピシャ自分を叩いた。これを送ってしまっていたら、うっかりミスにも程がある。
お店ではミナミさんが働いていると思ってミサさんに業務メールを送っているのだから、私もミサさんを経由して業務通知を送らなければならない。直接お店に連絡したらいきなり入れ替わっていることがバレてしまう。ややこしいけれど、今日一日は仕方がない。きっと、自分で代役を立てたとしても、休むこと自体をミサさんはお店に知られたくないのだ。
ミサさんの12時~のお客さんは、
「認められた浮気みたいでこれはこれでなかなかドキドキするなぁ」
と言いながら、お風呂に入りに行き、腰にタオルを巻いて上がってきた。
マッサージ中は、他に話題がないので、ミサさんの話ばかりした。彼女に遠慮があるためか、私には指一本触って来ず、ただニコニコして、
「あの子の応援してるんだぁ。これからシングルマザーになって頑張っていくって、張り切ってるから。きみもずっと味方でいてあげてねー」
と言っていた。
ブルドックみたいな顔や体をしていて少し臭いもする人だったけれど、
(何かいい人だなぁ)と好感しか持てなかった。
(人間って人柄だなぁ…私もミサさんを見習って、この人みたいなお客さんを捕まえて大事にしなくては…)と思った。
三村さんという名前で通っているお客さんだった。本名かどうかは分からない。お客さんの中にも、本名を伏せ偽名を使っている人がいるからだ。
彼も、私と同じ動画をミサさんから送って貰っていて、終わりのお風呂上がりのお茶の時間に、二人してもう一度ミサさんの娘さんのピースする姿に和んだ。
(ミサさんも自分の娘さんの動画を送っているとは、なかなか信頼し合った仲なんだなぁ)
と感じた。
(それとも、まず信頼している形から入って、だんだん人の心を掴んでいくのがミサさんなりのやり方なんだろうか…)
昔、母から、付き合っているおじさんたちを紹介されまくったある一時期を思い出した。おじさん達は母に気に入られたい為に、私にまで色んな可愛いプレゼントをいっぱい競い合うようにして送ってくれた。キラキラな包み紙に包まれた飴やチョコレートやキャラメルや、お菓子はいつでもいくらでも貰った。小学校に上がる前の年は、大変なくらいの贈り物が攻撃のように贈られた。腕時計やランドセルや筆記用具や勉強机や地球儀や、体操着や水着、上履き、絵の具セット…高価な物も、そうでない物も、学校で使えそうな物も学校には持って行けなさそうな物も、とにかく何でもかんでもプレゼントして貰った。
母には無限にお付き合いのあるおじさん達がいて、その人達は母を愛するついでに私のことも可愛がってくれた。母の笑窪を可愛いと思うように私の事も可愛いと思ってもらえていた。まだ生意気な事を喋り出す前までは。
「私を好きなら娘のことも好きなはず」
と言うのが母のその頃の合言葉だった。
私には名前も顔も覚え切れなかったおじさん達の、その中の1人は、母ではなく直接私に会うために通って来てくれていた父親だったのだけれど、誰が誰なんだか、小さい私にはよく分かっていず、全員
「おじさん」と呼んでいた。
お年玉という日本文化も、親戚からよりもお母さんとお付き合いのあるおじさん達から教わった。
母も、子どものために仕事を頑張っていると言う受け入れてもらいやすい私生活を曝け出して見せることによって、応援してもらえる環境を整えていたのかもしれない。
子供を閉じ込めて隠し、いない事にするよりかは、みんなに可愛がってもらえるように公表しておく方が、子どものためにも自分の為にも味方を増やせて良い事なんじゃないかなぁと思う。
帰り際、ドアを開ける寸前で振り返り、
「きみの源氏名はなんだっけ?またきみにも会いに来ても良いかな?」
とちょっとだけ好色な顔を覗かせて、ミサさんのお客さんが内緒話の口調で聞いてきた。
「ミナミさんに聞いてみてください…ミナミさんが良いって言ったら…」
と私は用心深く答えた。
「真面目だねー、良い子だなぁ」
と頭に掌を乗せ、褒めてもらえた。
「じゃあミサちゃんのお許しが出たらまた会おうね、きみも頑張ってね」
そして三村さんは帰って行った。
ドアを閉め、部屋の中に一人きりになると、ホッとして、またウッカリ
「帰られました」
の報告を宮家さんにしそうになり、自分をピシャッと叩き、送信先をミサさんに変えて送った。すぐ電話が折り返して掛かって来た。
「今、私も車で向かってるけど、次の予約が10分後に入ってる…新規、栗原さんって言う人。14時10分〜90分コース。間に合うかなぁ…この混み具合だと…」
クラクションをビーッビーッと鳴らす音がした。道路が混んでいるようだ。
「10分じゃ無理でしょ…安全運転で来て」
「無理かな、次のお客さん遅れて来てくれないかな…
でもその人が終わったらとりあえず、今日はお疲れ様できるからね。私とすり替わり、ご迷惑おかけしました」
「何とかなりそうです」
「じゃあ、後一本よろしくお願いします」
「はい」
電話を切り、全身が映る姿見の前で手早くお化粧直しをした。
次のお客さんはなかなか私が29歳と言うことになっている事に納得しなかった。
「29歳ってホームページに書いてある子は、大抵30歳超えてるもんなんだよ。だけどミナミちゃんは何で?下手したら二十歳にも見えないよ?どう言う事?高校生なの?」
「童顔なんです」
私は言い張った。ホームページには、口から下のポーズを決めた体だけの写真と、年齢と源氏名が載っている。みんな同じに見える写真と源氏名は誤魔化せても、年齢は確かにちょっと無理があるんじゃないかなぁとは実は私も思っていた。
「なーんかおかしいなぁ…」
ブツブツ言いながら栗原さんはベルトを外し始めた。
「あ、ここじゃなくて、更衣室でお願いします」
「更衣室って廊下?寒いじゃん」
「ドア開け放っときますから」
「えー、脱ぐの手伝ってよー」
出たな、嫌な予感…何かと絡んでくるやつ…と思った。
目が合うとすぐにハグして来ようとするのを一生懸命宥めてお風呂に入ってもらい、出てきたら今度は紙パンツを履いてもらうだけの事に長時間の説得を要した。
「時間がどんどん過ぎていきますよ。パンツ履いてもらわない事にはマッサージ出来ませんから」
と突っぱねていると、
「30歳なんでしょ?じゃあ良いじゃん、それぐらい。二十歳じゃないんでしょ?ならもっとサービスしろよ!もっと頑張れよ!」
ととうとう怒られた。
(うわぁ、ミサさん普段からこんな思いしてるのかなぁ…
年齢が上がるほどきつい事言われなくちゃいけないのかなぁ…)
となんだか暗い気持ちになった。
変な気まずい空気のままで、終始無言で背中からお腹までマッサージした。口喧嘩のタイムロスで短い時間しかなかったが、
(お店にクレームを入れられたらどうしよう…クレームは私ではなくミサさんの汚点になるのに…)
と不安になり、精一杯一生懸命丁寧マッサージした。今更それしかしようがなかった。
お風呂上がりにはお菓子を勧めたり謎のサービスの肩揉みをしたりしてご機嫌とりをしようとしたが、栗原さんの機嫌は最後まで良くならなかった。
お客さんをお見送りしたら、すぐにミサさんに連絡を入れた。廊下の角で待ち構えていたらしく、数秒でミサさんが玄関から飛び込んで来た。
「あと10分でまた次のお客さんが来るよ…こんな日に限って…」
まず大事なお金をお店の分だけ手渡しで間違いがないよう受け渡し、私が脱いだ制服をすかさず下着姿になったミサさんが被り、私はシャワーに飛び込んだ。
さっきのお客さんが首に耳にチューチュー唇をくっつけてきたので、ちゃんと洗い流したかった。
その間にグチャグチャなままのベットメイキングや皿洗いやオイルの跡の磨き上げやら全部をミサさんに任せた。
急いでシャワーから上がると、素っ裸のまま自分の体を拭いたタオルで浴室の水滴の拭き上げをして、部屋を駆け抜け、そのタオルをベランダの外の汚れタオル入れに突っ込み、振り返ったら、部屋の中でミサさんが笑い転げていた。
「全裸だなぁ」
「そうですよ、だって次もうあと5分後位に来ちゃうんでしょ?お客さん?ミサさんのために急いでるのに…ミサさんは余裕なんですか」
「服着てる文明人だから。今度温泉行こう、私の全裸も見せてあげる」
「約束ですよ」
等と言い合いながら大慌てで着て来た私服をどんどん身に付け、火災が起きたみたいに焦って私は荷物を引っ掴み、互いの顔も見もせずに、玄関と部屋の中とから、
「じゃあねー!頑張ってねー!」
「うん!ありがとうー!」
と叫び合って、部屋を出た。忘れ物がないかを廊下を早足で歩きながら確認した。お店の分のお金を渡すときに、ミサさんは五千円札を差し出して来たので、
「多すぎる、受け取れないよ」
と私は押し返そうとしたが、
「えい、時間がない!口答えせずに貰って!」
と怒られて、貰って来てしまった。
ガラス張りのケーキ屋さんを外から覗くと、井上くんがまだいた。集中して教科書にのめり込んでいて、外から手を振ってもなかなか気付かない。
(帰っても良いかなぁ…)とチラッと悪い事を考えてしまったが、それではやっぱり可哀想すぎるかなぁと思い直し、店内に入って話しかけた。
「まだいたの?」
「いたよ。ケーキ全種類食ったよ」
別に怒った様子もなくのんびりと井上くんが返事した。
「私もどれか食べようかなぁ…儲かっちゃったしなぁ…」
「あれが一番旨かったよ」
ショーケースの右端の方をペンで指し示し、
「あの一番黒いやつ」
と教えてくれた。
「チョコの?」
「そう…そこ、どうしたの?」
首の後ろを触られて、ドキッとした。
「後ろの方、髪が濡れてるよ」
「シャワー浴びて来たから…」
「シャワー?」
あまり色々聞かれないうちにと、サッと動いてその場を離れ、ショーケースの方へケーキを買いに行った。
甘い物よりも今は焼肉とかが食べたい気分だったが、焼肉などこの店には置いていない。散々迷ったのち、井上くんが一番旨いと教えてくれたチョコレートケーキに結局は決めた。店員さんがお皿に移したりジュースを用意してくれている間に、携帯をチラッと見てみたら、マイマイからのメッセージが画面に浮いた。
「お前、井上くんと泊まったの?」
(そんなわけないわ!)と思ったが、
「そう思われてるぞ、みんなから。試験前に2人して休んだらそうとしか見えん」
とまたメッセージが届いた。
(えー、そうなのかなぁ…?そらそうかなぁ、私でも立場が逆ならそう思い込みそうだよなぁ、確かに…何て返そう…)
立ち尽くしていると、後ろの人に突かれた。
「730円ですってよ」
帽子に羽飾りを付けたマダムが囁き声で教えてくれた。
トレーを持って席へ向かう時、外の通りをゆっくり通り過ぎて行くさっきのお客さんが見えた。紙パンツが嫌いな新規の栗原さんだ。パッと俯いたが、気付かれなかっただろうか?こうしてはいられない。なんて馬鹿だったんだ、ホームページを見たらミナミさんが2人いることがバレてしまうのに、こんな近場のガラス張りのケーキ屋でお茶なんかして…!
急いで席につき、大きな二口でチョコレートケーキを食べ終わり、ジュースと水を一気飲みした。井上くんがビックリして見ていた。
「今すぐここから離れるよ」
「なんで?どうしたの?」
「お客さんが外を通った」
井上くんは不思議そうな顔をしながらも急いで教科書を鞄にしまい、ついて来た。
店を出る前にキョロキョロ左右の通りを窺っていると、
「何か諜報員みたいだね」
とからかわれた。でもこちらは本気なのだ。ミナミさんだって私だって必要なお金を稼ぐために本気で店からの信頼を失わないよう秘密を死守して働いているのだ。
ちょっとでも井上くんの口調に意地悪さが潜んでいたなら、すぐにこっちでもそれを嗅ぎつけて嫌いになれただろうが、彼はいつも穏やかなただ面白がっているだけの邪気の無い言い方しかしないので、嫌いになる事もできなかった。
「学校で私達噂になってるらしい」
教えてあげるつもりで言ったら、
「ずっと前からだよ」
とヘラヘラ笑われた。なんだか嬉しそうなので、まぁいいや、とこちらも気が抜けてくる。
「マイマイに何て返事しよう…」
「これから行く?学校」
「えぇ?これから?何しに?」
最後の授業にももう間に合わない時刻だった。
「巻多さんの無事を見せろって、LINEが来たから…久本さんから」
久本さんと言うのはマイマイの上の名前だ。
「今日もみんなでやるのかなぁ?試験勉強…」
試験前のこの一週間は、学校や、誰かの家や、三宮のどこか席が空いている喫茶店等で集まり、終電が出るまではいつもなんやかんやで4.5人は集まってワイワイ試験勉強をしていた。
マイマイが
「変な奴がいた方が面白い」
と言って、いつも誰か変わり者の新顔を一味に引き入れ、連れて来たがるので、メンバーがどんどん増えていた。
孤高の一匹狼を貫いていた萩原くんまでが、マイマイの手にかかれば一本釣りだった。
彼は授業中姿勢良くピンと背筋を伸ばして実は眠っているのがだんだん先生達にもバレて来ていて、近頃ではよく質問を名指しで当てられる。起きなさい、と言う意味なのだが、質問を受けると萩原くんはカッと目を見開き、的確な受け答えをするので、先生達からは
「ゼンイツ」
とあだ名を授けられていた。それとは別にマイマイは
「野口さん」
とも呼んでいた。
ちびまる子ちゃんのクラスメイトの野口さんみたいに、近頃では萩原くんはポソっと毒を吐いたのちにフッと口角の片端を上げてほくそ笑むようになってきたからだ。どんな皮肉な形であれ彼から笑顔を引き出せたのはマイマイのお手柄だった。
マイマイは基本的に、一癖あってはぐれ狼みたいな寂しそうにしている大人しい人を放っておけない性格なのだけれど、ちょっと萩原くんだけはなんとなく、本当に放っておいた方が良い人なんじゃないのかなぁと周りのみんなからは初めのうちは本気で思われていた。
萩原くんは何度話しかけられても鉄壁の守りを崩さず、ニコリともせず、それどころかうるさそうに目を閉じ始めたり、頑固社長みたいに露骨に嫌な目つきでジロリと横目で睨んで来たりで、これではさすがのマイマイだってそのうち心が砕けてしまうんじゃないのかと周りの友達達は心配していた。
ところが、萩原くんもやっぱり人見知りの高い分厚い城壁の内側では、誰かが助けに来てくれるのを密かに待ち望んでいた不器用な寂しがり屋さんだったらしく、仏頂面をして嫌々そうにポソポソ毒を吐きながらも、いつの間にかマイマイに懐柔させられてしまって、
「良かったらだけどね、私ら、終電までタリーズで勉強会してるから。ね?
…バイト終わったら来る?三宮駅前の広場に面したタリーズだよ?来る?バイト終わったら?近いでしょ?バイト先からすぐ。帰り道。ほんのちょっとの寄り道だよ。タリーズで珈琲一杯。美味しいよぉ?来てね?」
と何やら神頼みのような事を目を閉じた仏像のように聞き流している萩原くんの耳に放課後必死で吹き込んでいるなぁと思って見ていたら、奇跡のように、解散の1時間前位にフラッと現れたのだった。
その日、私達は入り口に近い席に着いていたので、すぐに互いに気が付き、こちらは全員で興奮し有名人の出待ちをしていたファンの子達みたいに
「ワァ~!」
「萩原くん!あの萩原くんが来た~!」
「凄い!珍しい!」
と立ち上がってキャーキャー手を振った。ところが、萩原くんは、ジロッとこっちを見ただけで、手を振り返さず、背を向け、カウンターの方に行ってしまった。まるで別件でたまたま用事がありタリーズに来たけれど、お前達とは関係ないぞ…という態度だった。
首を伸ばしてレジの列の最後尾に並んだ萩原くんをみんなして見守っていると、自分の順番が来るまでに横目でチラリとこちらを睨み、カウンターでちゃんと一杯珈琲を注文し、それを受け取り口で受け取ってから、またジロリ…とこちらを振り向いて、ジッと立ち尽くしていた。今にもその場で熱いコーヒーを一気飲みして黙って帰ってしまいそうにも見えた。
「どんだけツンデレなんだよ~」
「警戒心強かった野良猫が懐きかけて葛藤してる時の顔してる…」
「可愛いな」
マイマイが笑いながら出迎えに行き、ふて腐れた頑固社長を誘導する出来る美人秘書みたいにテーブルまで引っ張って連れて来た。
「あの萩原くんが来たぞ…」
という、あまりの意外さに、その場に居合わせた同級生達全員で立ち上がってチヤホヤ萩原くんを出迎え、会長クラスの重鎮が来たかのように手厚く上座の席を作った。
彼はどこかの立派な会社の偉いさんか、宗教家の教祖様とかみたいに一角の人物みたいな風格を常に漂わせているのだ。人見知りの緊張感からか、厳格な気難しそうな表情を常に顔に浮かべていて、50代とか位に見えるのだが、実年齢は私と同い年なのだった。
年齢を初めて聞いたときはたまげた。なかなか本気では信じ切れず、
「嘘ぉ?ええー?!嘘でしょ?本当は何才?」
と何回も聞いてしまっていたら、
「俺より失礼なやつ」
と言って唇の片端で笑われた。
「みんなアイスクリーム食べてたんだぁ」
「ティラミスが一番美味しかったよ」
「萩原くんも買って来る?」
と、アイスが入っていた今は空の容器を無言でジロッと見下ろす萩原くんに、
(食べたかったのかな…?)
と思って、みんなが励まそうとしていると、
「寒いのに凍った物食べてよく喜べる」
と早速毒を吐き出した。それすら何故だか嬉しく、
「おお~…」
「早速出ました~」
とパチパチ拍手した。
萩原くんはちょっと赤くなり、俯いて鞄から教科書を取り出し、黙々と勉強する支度をし始めた。
「バイクで来たの?停めるとこあった?」
とマイマイが萩原くんを構って隣に座り、社長と長年のお馴染みのママさんみたいにくっついて、改めて一番嬉しそうな笑顔を満面に浮かべていた。
「あの子は頭が良いのにもったいないよ、あんなに対人関係が苦手だと…先行きを心配しちゃう…就活でも損しそう…せっかくあんなに天才で面白いのに…」
と常々気にかけていたので、私も萩原くんが勉強会に参加してくれて本当に嬉しかった。
「今日は何人で集まるんだろ?」
「毎回増えてるよね」
学校へ向かうためともかく駅に向けて歩いていると、
『三宮に居て。放課後はそっちにみんなで向かうから』
とマイマイから連絡が来た。
「席探しとこう…何人来るのかなぁ?」
「これ以上増えたらもう学校とおんなじだな」
さすがにそんな事はないけれど、名前がパッと出てこない人とか学年が違う人とか学科が違う子とか全然違う学校の子まで加わって来ているのが気掛かりだった。
私の恐れはとにかく不意にお客さんと鉢合わせしてしまうことだった。時には自分より若い学生さんのお客さんだってお店に来る事があるのだから。
「1人呼んだだけでも2人連れて来たり、誰かの友達とか彼氏とかがついて来たりするからなぁ…」
井上くんはそう言うが、その1号がお前だけどな、とマイマイがここにいたら言いそうだった。
同じ喫茶店の中で、同窓生同士が互いを見つけ合い、「ワ〜!」
と抱き締め合って再会を喜び合い、新しい学校の仲間達に紹介し合うという、一気に何人もの人と知り合いにならざるを得ない事態も起きていた。参加者が多くなればなるだけその可能性もこれからもますます増える。
とにかく目立ちたくない私は隅に隠れてジメジメ俯いてやり過ごしていた。
「大勢は苦手?」
井上くんが気遣って優しい声で聞いてきた。
「1人は寂しいけど、付かず離れずで良い感じにそばにいて、放っといて欲しいタイプ」
「うわぁ、わがままな子だなぁ」
「でも2人が一番だよね」
「誰と?俺と?」
「いや、誰とでも。そうじゃない?2人が一番必要最小限で、気が楽で、ちょうど良い感じじゃないかなぁ。私には。井上くんは?」
「俺は…相手によるよ。男友達となら人数いた方が楽しいけど…好きな子とはそら2人きりになりたいでしょ」
「そうとも限らないけどなぁ…」
私は自分と彼氏とのことを考えた。もう誰かに間に入って貰って相談したい問題が山積みだった。2人きりで会うのはちょっともう怖いくらいだ。しばらくは顔も見たくない。けれどそれでいて、同時に、寂しいような感情もあった。
昨夜は眠れずに色々な彼氏がキレた原因になるような自分の犯した過ちを考えていた。
彼はもしかして、私が黙ってまた前職に復帰した事を何かで間接的に知ったのかもしれない…例えば、最悪の可能性だけれど、彼の同僚が店に来て、知らずに私が担当していたとか…
店が入っているマンションには、一階のロビーのオートロックを開ける手前にモニターがあり、お客さんには、そこに顔を写して貰って、万が一同級生や親戚や知り合いということであれば、こちらから店に連絡すれば、働いている事がバレるのを防ぐ為に遭わずにキャンセルできるというシステムがある。私は一度も使った事がないが。
でもモニターに映る顔は鮮明ではないし、人の顔をよく覚えていない私には意味がない。彼氏の同僚は姉妹店を含めると何人いるのかさえ知らないのだ。
それか…根本さんと会っているのをたまたまどこかで見かけ、援助交際していると疑ったのかもしれない…
私の彼氏はあんまり思った事を何でも話してくれる人ではない。黙って怒りや不満をお腹に溜め込んでいるのかもしれない。よく分からない。時々、突然怒り出すのだ。
井上くんみたいにもっと穏やかに何でも気軽に話し合えれば良いのだけれど…
昨日みたいな無理矢理な力づくの暴力行為を考えれば、もうこっちも彼氏を信用できなくなりそうだ…けれど…向こうも私に不信感を募らせていた結果、昨日のあの爆発が起こったのだとしたら…元凶を作ったのは自分でもあるのだ。
彼氏とはいっぱい話し合いがしたいような、しばらくは顔も見たくないような、複雑な心境だった。
ただ、嘘や打ち明けたい秘密や悩みや後ろめたさがあり、落ち着いて聞いてもらえるならやっぱり真っ先に彼氏に全て話したかった。
「何か眉間にすごい縦皺が刻まれてるけど…」
と代わりに井上くんが指で皺を伸ばそうと手を伸ばしながら聞いてくれた。
「悩み事でもあるの?聞くよ?」
私は井上くんの目を見つめながら、首を横に振った。一瞬、話してみようかと迷ったが、彼氏の悪口を言うみたいになりそうだし、やっぱり井上くんに相談できることではないなと思った。
「今はお金も稼げてるし、冬休みに入ったらもっとガンガン働けるし、ウハウハですわ」
と明るく答えを返した。
続く




