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メンズエステ  作者: みぃ
17/38

17 されたら嫌な事

 先生に呼び出しを受けたマイマイから、

「図書室で待ってて」

と言われ、今まで存在を知らなかった廊下の一番奥にある図書室に初めて行ってみた。

「図書室って何処にあるんだろ」

と背後霊の井上くんに聞いたら、何でも知っている彼が前に立って歩き出し、

「こっちだよ」

と連れて行ってくれた。


 学校は試験前の詰め込み期間に突入し、普段はあまり勉強に身を入れずアルバイトや遊びに明け暮れている生徒達も、真面目に机に張り付き、遅れを一気に取り戻そうと焦ってピリついている姿がそこかしこで見られるようになってきていた。

授業中に先生も煽る。

「ここ試験出ますよー、寝てる場合ですか?森本さん?中間試験まであと1ヶ月切りましたよー」

「おめぇも、試験はアルバイトよりも優先だからね、」

とマイマイがユサユサ揺すって私を起こしてくれながら言った。

「来年また1年からやり直しになったら本末転倒だよ。お金も時間もまた一からもう一年分余分にかかることになるんだから…そうなったら仕事だって否が応でも出来なくなるよ。

 今のうちにアルバイト控えなさい。…せめて試験が終わるまで…それじゃあ無理なの?お金が今すぐ底をつくわけじゃないんでしょ?」

と心配して言ってくれた。

 けれど私はアルバイトを二つ掛け持ちして忙しくなり、放課後からの方が充実して、なんのかの言ってもお客さんから褒められたり、また来るねーと約束して貰えたりして、必要とされ、お金儲けも楽しくなり出したところだった。

薄々とは、今だけは学業が一番大事だ、と分かっていながらも、ついつい

「シフト希望これだけですか?もっと来てくれませんか?期待の新人さんなので」

とか

「貴女もうちょっと入ってくれないと困るのよ」

などとアルバイト先でお立てられると嬉しくなり、すぐに

「あ、じゃあもうちょっと出ましょうか」

とのせられてしまう。

「助かるー、ありがとう!試験期間中は学生さんの出勤率がガクッと落ちちゃって。例年なんだけど。…貴女は偉いわ、頑張り屋さんね。学業の方も頑張ってね」

そんなことを言われると、他の学生アルバイトの子達よりも私は店に貢献しているところを見せないと…他と差をつけておかないと…私にはこれしか出来ないから…と思った。


 相手が日頃から頭の上がらないマイマイでも、自分でも分かっていることを再三人に言われるとムーっと心が閉じそうになってしまう。

「分かってる、分かってるって」

と目を合わせず生返事していると、マイマイも呆れた口調にだんだん変わり、

「お前、何も言わないでただ優しく見守っている方が楽なんだぞ。何もしないでいいんだから。ちゃんと叱ってくれる人は愛があって、本気でお前のためを思って言ってるんだから、聞けよ。叱る方も嫌だし、しんどいんだから」

と言われた。

「もう、何度も同じ事言わないからね。こっちだって。そろそろ試験勉強に本腰入れなよ…?自分で…」

言葉の中身もだけれど、彼女の距離を置き始めたそうな冷たい響きの入り混じりだした声音にちょっとヒヤッと我に帰らされ、

(マイマイが離れていってしまう…!)と思い、

「うん、分かった。来週からはシフト減らす」

と慌てて本気の約束をしたのだった。


 図書室には製菓や調理師科の生徒達も集まって試験勉強のため机を使っていて、同じクラスの女子達に囲まれてチーちゃんも奥の方にいた。空いている席を探して入り口から奥まで見渡していると、誰が来たのかとふと顔を上げたチーちゃんと目が合ったので、思わずそっちの方に寄って行ったが、空いている席は一つしかなく、その空いた椅子に片膝をついて中途半端な座り方をしたまま、小声で話し出した。

「チーちゃんだー。よくここに来てるの?私は初めて来たー」

「専門書が揃ってるから凄い便利だよ」

「科学か…」

5人のクラスメイトに囲まれて机の上に広げられている教科書の科目は私の一番苦手な教科だった。この、実験もペーパーテストも課題もある、ややこしくて面倒臭い憎たらしい科目を苦手とする生徒は多かった。私も一緒になってチーちゃんの解説を聞きたいなぁと思ったが、井上くんをどうしよう?

 振り返ると、井上くんの横に見たことのない顔をしかめた女の人が立っていた。ちょうど私に話しかけようとしていたところみたいだ。

「そこ、座るの座らないの?」

唇をキリッと結び、厳しくあろうとしている顔をして、その誰だか分からない女性は突っ立って言った。外部からの委託の人なのかもしれない。ヒョロヒョロな体を風に吹かれているように落ち着きなくソワソワ揺らし、頑張って虚勢を張っている感じが伝わってきた。叱る声も震え、控えめな小声だった。

「図書室の席は少ないんです。試験勉強には地下も、三階の教室も開放されてますよ」

「はい。すみません…」

と井上くんが真っ先に、優しく返事をした。夏の雪男みたいに幅の広い肩をできるだけ窄め、小さく見せようとしていたが、多分この女の人は一番井上くんの存在に怯えていた。

 それでも図書室の秩序を守るよう責任を任されているので、勇気を振り絞って注意を与えに来たのだ。

「違うとこ行こっか?」

「うん」

「じゃあ、行くね。マイマイが来たら、私達3階か地下にいるからって言っておいて…LINEしておくけど」

「うん」

私達は手を振り合った。5人の女の子達は全員で両手を出してヒラヒラ振ってくれ、なんだか電線に集まってとまっている小鳥達のようで可愛らしかった。

 椅子を一つどこかから引っ張って来て、みんなで詰めれば座れないこともなさそうだったが、他学科の学生達もチラチラこっちを盗み見ていたし、なんだか悪者みたいに扱われた私と井上くん二人が退散するのが一番手っ取り早かった。

 出口に向かうまでに同じクラスの男子達の集合体の机の側も通り過ぎ、その時には今度は井上くんが呼び止められかけたが、彼も立ったままで簡潔に

「この辺に書いてあったよ」

と教科書の該当する辺りを教えてあげ、

「ああ、分かった」

と一人が頷いたので、すぐ歩き出し、長居はしなかった。


 図書室を出る時、受付のカウンターの奥に戻って座っていたさっきの女の人の前をスルリと通り過ぎようとしたら、一つしかない出入り口を見張っているような位置に座っていた彼女が急いで立ち上がり、

「ごめんなさいね」

と小走りして来て、井上くんを呼び止めた。

「最近うるさく騒ぐ生徒がいて、厳しくするようきつく言われたところだったので…」

「いえ、こちらこそ、すみません」

井上くんが優しい声で謝った。彼は世界中の女性に不戦敗で、とにかく穏やかな優しい声を出すのだ。大きくてすみません、という感じがどこか余裕があり何だか憎たらしい。


「あの人、初めて見たけど居たかなぁ?この学校に」

図書室を出て歩き出すとすぐ聞いてみた。

「外部委託のパートのおばちゃんかな」

「おばちゃん?って言うにはまだ若くない?」

「まぁ。誰かの親…にも若過ぎるかな…18で産んでも36…いや…18で産んでこの学校の卒業生とかは有り得ないかな、…有り得るか…」

「そっか、この学校の元学生か」

各学科に2、3名ずついる助手の若い先生達も、去年度の卒業生とか、呼び戻された元卒業生とかだった。

「36かぁ…」

井上くんは何か言いたげにニヤニヤし出した。

 この頃分かって来たが、彼はエッチな妄想をし始める時、なんとなく顔つきでその場にいる周りの人達にやんわり伝えるのだ。それからエロ話を繰り広げ出す。

「キモいって」

と望み通りのコメントを入れた。

「36才って10歳年上じゃない?井上くんより」

と自分も10個上の彼氏がいて、普段は何才歳の差があっても愛があれば別に気にならないと思っているのに、聞いてみた。

「なんぼ上でもいけるよ。ワンナイトなら」

「ほぉ…そう?」

クルリと半回転して図書室に戻るフリをした。

「言い付けに行こう」

「やめてやめて」

笑いながら井上くんが引っ張ってきた。階段の前まで来て私達は立ち止まった。

「どっち行く?三階か地下。寒くない方が良いな」

「地下かな、暖房効いてるのは」

私達は階段を降り始めた。

「席空いてるかな」

「暖かいと眠くならない?」

「脱げば」

「これで完成されてる服だから…」

「こだわり面倒臭…服飾の専門学校行けば良かったのに…」

ふと、思い出した。そう言えば井上くんは本当に自分のお婆ちゃんくらい年上の人ともした事があるんだったと。確か前にそんな事を言っていた。

「井上くんって歳上の人と付き合ったことはあるの?」

「付き合ったと言うか…まぁ…」

「何才歳上?」

「えっと…付き合ってはないけど…」

「けど…?」

「えー?…俺がその時高校で…相手が…38だったかなぁ」

「うわぁ~」

 私は思わぬ面白そうな話が聞けそうだぞーとドキドキしてき、期待と妄想がムクムク膨らんで、叔母さんと昔見に行ったちょっとだけ大人の、流行った映画や本の内容を連想した。

「高校生って何才だっけ?」

「15、6才。…今はもうあの人も48かぁ…うわぁ…」

遠い目になりかけた井上くんの、一段低いところにいるから届くフワフワ頭をペシペシ叩いて現実に引き戻した。

「今も会ってるの?」

「ううん」

「じゃあその時の話してよ。何才差?」

「23、4才差だな」

「わーおー」

「昔の話だよ」

「それって、お金貰って?」

「ううん、貰わないよ…」

「すごく好きだったの?」

「ううん…あんまり…」

「は?え?…旦那さんがいる人だったの?」

「…」

「…好きじゃないのにお金貰わず…?どう言う事?」

「…」

「デートとかは?どんなとこ行ったりした?」

「…え…ご馳走くらいはして貰ったけど…」

「へぇ!すっごいご馳走?」

「いや、別に…そこら辺の喫茶店とか。ラーメンとか…

でも、なんか人に見られて恥ずかしいし、あんまり外で会いたくなかったな…」

失礼だな、とちょっと思ったが、彼の口調も尻すぼみだったし、他にも聞きたいことも山ほどあった。

「どこで知り合ったの?」

「携帯を拾ったんだよ」

「ふーん!それで、電話がかかって来たの?」

「うん」

「届けてあげたら、向こうがまた会いたいって?」

「うん…まぁ…そんな感じだったかな…」

もっともっと根掘り葉掘り聞いてみたかったが、珍しく井上くんがあんまり立ち入って欲しくなさそうに苦しげな顔をし始めた。

私はメラメラ燃えていた好奇心の炎をシュンと急速に萎ませた。聞いて欲しくない事なら自分にもあるからだ。

「終わり方良くなかったんだね」

「うん、まぁ、終わり方と言うより…日本語って難しいよね」

「うん?」

「こっちは付き合ってはないつもりで…何回もそう言ってたんだけど、向こうは…」

なるほど、井上くんには本命の恋愛ではなかったんだな、それでも相手からは本気で好かれてたんだ…

話題を変えよう、と思った。

「私またアルバイト戻ったよ」

「えっ?あの、お客さん男の人が多いところ?」

「その方が時給良いんだからしょうがないじゃん」

「心配だけど…」

(心配してもらっても何の解決にもならない…)

と思った。


 私達は地下のすり鉢状の大講堂で、適当にチラホラと同じ科の見かける顔が集まって座っている辺りに居場所を確保し、私はマイマイに連絡を入れようと携帯を鞄から出して見た。が、電波が無い。

「忘れてた、ここ、このご時世に電波が来てないんだった…ちょっと連絡入れてくる」

井上くんは一緒に立ち上がりかけたが、隣のクラスの人懐こい女子に

「ねぇねぇ、ここ教えてー」

と話しかけられ、広げた教科書で道を塞がれた。

 喫煙所でよく喋る彼の仲間の一人が熱烈に片想い中の女の子で、江渡さんという名前の子だった。

 マイマイがみんなのお姉さんみたいな存在で誰にでも話しかけることができるように、この子も誰にでも駆け寄って来て分け隔てなく話しかけるのだけれど、彼女の場合はみんなの妹みたいな感じだった。


 ある授業で、それは2クラス合同の授業だったのだけれど、身体活動の単位を表すメッツの表を覚えましょう、という一通りの講義を終えて、お婆ちゃん先生が、

「では今日のまとめ。安静時が1メッツ、普通の散歩程度が3メッツ、ランニング9メッツ、このくらいは最低限、覚えておきましょう…では、分からない事がある人は1人ずつ質問しに来て下さい…」

と言って授業をお開きにしようとした時に、

「先生!先生!セックスは何メッツですか!?」

と控えめではないよく通る声で質問し、ワ~っとすっかりお昼休み気分になりかけていた生徒達をまたもう一度席に戻させ、座り直させた事で、一躍有名人になった面白い女の子だった。

 お婆ちゃん先生は一瞬動きを止めたものの、怒るでも嗜めるでもなく、

「まぁ、…それは…確かに教科書には書いてありませんねぇ…」

と一度切ったマイクの電源を入れ直し、

「そうですねぇ、散歩とランニングの中間程度でしょうか…としたら、6メッツくらいですかねぇ…」

などと言い出し、

「でも先生、クライマックスは?」

「体位によっても違い激しそうですよね?」

「騎乗位は女性の方が動くし、男女差もかなりありそうですよね?」

などと質問がいつになく熱烈に出て、先生もなぜか意地のようになって

「そうですね、息が切れるようなら6.7メッツ…汗をかくほどなら8.9メッツとか…」

などと真面目に答えてくれるので、生徒も眠気が覚め、一番盛り上がった授業になってしまった。


「すぐ戻るから私にも後で教えて」

と言い残し、井上くんを江渡さんとその友達の女の子達の輪の中に置いて、走って地上に向かった。


 途中でロッカーから出て来た背の高い男子達の集団に道が阻まれ、走れなくなり、隙間が空いたらすり抜けてやろうと後ろをチョロチョロしていたら、一人が振り返ってジッとこちらの顔を覗き込んで来た。

(同じ学科の二年生かもしれない…)

と思った。持っている教科書が色違いの同じ出版会社の物みたいだった。一年で学ぶのは基礎、2年で習うのは応用だ。

 相手と目が合う瞬間、

(アルバイトで会った事がある人だったらどうしよう…)

と咄嗟に不安が過ぎり、目が合えば合ったで、

(どこかで見覚えのある顔かも知れない…)

と思えた。

 私はすぐ俯いたが、相手はまだしばらくジロジロこちらの顔を覗き込もうとしている気がした。


 窓のある地上に出てすぐにLINEを入れると、マイマイは折り返してすぐ電話をかけてきてくれた。

「もう用事が済んでチーちゃんと今、図書室にいるよー。

お前達、電波が届かないところに二人してこもりやがって、何してんだよ、コソコソと…早く来い、置いて帰るぞ、コノヤロウ…」

「ちょっとちょっと、すみません、」

誰かの声が鋭くマイマイを遮った。

「ここがどこか分かりますか?図書室ですよ!」

細い声で震えながら叱っている。あの自分の務めを果たそうと必死なお姉さんだ。すぐに分かった。

「あ、すみません…もうしません、はぁ。はい、以後気をつけます…」

と謝っているマイマイの声、クスクス笑っている周りのざわめきが聞こえ、ゴソゴソ書類を束ねる音、鞄に携帯ごと放り込んだのか、水中に潜ったようにくぐもった声が何か言っている、聞き取れない雑音だけが聞こえてくるようになった。

それでもまだ通話は切れていないので、耳を傾け続けていると、足音、それからガサガサ掻き分ける雑音がし、携帯を鞄の底から拾い上げたらしく、急にノイズが消え、ハッキリしたマイマイのクリアな音声が聞こえた。

「聞いてたか?図書室出禁になっちゃった!…しょうもない、世知辛い世の中だよ!

今からうちに来い、実技試験の練習をしよう。」


 ペーパーテストだけではなく実習科目もあるのがまた厄介だった。

寿司、パエリア、餃子、このうちのどれかを作らなければならない。試験日当日まではどれが出るか分からないので、ひたすら魚を捌き、小麦粉をこね、一番楽なパエリアが出たら良いのになぁと言い合いながらこの3つの料理を頻繁に集まり作っては食べていた。

「もうスシローのコマーシャル見るのも王将の前通るのも怖いよ」

と人一倍努力家のチーちゃんが怯えていた。

「夢で寿司と餃子に追いかけられてるってさ。チョウさんも旦那さんに、これ以外の物が食べたい…ってとうとう言われちゃったらしいよ」

とマイマイが笑って言った。

「早く試験受けちゃって終わらせたいよ」

「そんなに毎日詰めてやるからさ」

マイマイがチーちゃんの背中を叩いて慰めた。

「試験終わったら何が食べたい?」

チーちゃんは、うーん…と悩んで、

「カレー」

と可愛い事を言うので、田圃の中の田舎道でみんなで大笑いした。

「もう食べたら良いじゃない、カレーくらい。」

「でもカレー食べて試験に落ちたら悔やんでも悔やみ切れないよ…」

「チーちゃんが落ちるような試験には誰も受かりませんて」

「近道を通ろう、溝に落ちるなよ」

私達は縦一列になってマイマイの家に向かっていた。

綺麗な澄んだ冷たそうな水の中で、グレーでたまに銀色にキラッと光る小魚が群れで泳いでいる、藻が鮮やかな緑色から紅葉して赤茶色に染まった、深い溝に落ちないように、覗き込みながら畦道を歩いた。

ブーツの踵が土にめり込み、腰の高さまで来る雑草にギザギザの種や枯れ葉をくっ付けられて、田んぼの中の道を抜けるとみんなで互いの服をケラケラ笑いながら払い合った。

「帰り道分かるかなぁ」

「もう何回来てんだよ、そろそろ覚えろ…

ちゃんと帰りはコンクリ舗装の街灯もいっぱい点いてる大きな道から送ってやるし安心しなって」

とマイマイに言われ、

「泊まれないの?今日は」

と聞くと、

「忘れてたけど私にも彼氏がいたんだった。そいつが今夜は泊まりに来るってさ。3Pできる子じゃなきゃ今夜は泊まれないよ」

と断られた。

一番最後尾で井上くんがハッと息を呑み、立ち止まったので、私も、マイマイも、チーちゃんも、順番に立ち止まった。

「猫だ…」

塀の上を歩いている。体格の立派な毛並みのいい黒猫だ。私達と並走するようにして、こちらが立ち止まったのを見て向こうも

(何?)と言う顔をして立ち止まった。尻尾をヒュンと振る。

「雄だ…」

「だからなんだよ」

井上くんにだけは氷点下の冷たさのマイマイが呟き、チーちゃんを押して再び歩き出した。

 所々が京都の路地裏みたいな、入り組んだ古い屋敷の間にポツポツと小さな畑や田んぼがある道筋だった。道路脇の一段低くなったガードレールの向こうにある、今は枯れた白菜と大根が一列ずつ植っている小さな畑を指差し、

「この前はこの畑の人から花束みたいに束ねたこーんな両手いっぱいの新鮮なバジルを

『貰ってください』

って受け取ったんだよ」

とヒソヒソ声でマイマイが言った。

「そのかわりデートしてって?」

「違うわアホ。若奥さんだったよ。

『持って帰ったらここからまた下処理させられると思うだけで東京の気楽な一人暮らし時代のアパートに逃げ帰りたくなる』

って言ってたよ。」

「うわぁ…」

「またいくらでも貰ってあげますよ!って、約束したのよ」

ホクホク顔で笑った。

「それからこの道をなるべく通るようにしてるんだけど、あれから見ないなぁ。今日も居ない。お姑さんにバレちゃったのかなぁ…」

「もう東京かもね」

「せっかく硬い友情が結べると思ったのになぁ」

「儚かったね」

マイマイの家についた時にはもう真っ暗だった。

「あれって近道じゃなくて遠回りだったんじゃ…」

と言い出した井上くんが睨み付けられ、黙らせられた。


 荷物を置き、嬉しそうにピョンピョン飛び跳ねて出迎えてくれるシベリアンハスキーとジャーマンシェパードの血を引くモズクちゃんをみんなでナデナデ撫で回した後、首輪を付け、4本の足に犬用の靴を履かせて、近所のスーパーまで買い出しに行った。

 ジャンケンして、私と井上くんが外でモズクちゃんと待ち、その間にマイマイとチーちゃんが店に入って、寿司と餃子の素になる食材やオヤツを買って来ることになった。


「モズクちゃんは可愛いね、モズクちゃんは賢いね」

と抱き締めたり一生懸命ちょっかいをかけに行く私の方には迷惑そうな横顔しか向けてくれないモズクちゃんは、黙ってただ綱を手首に巻き付けボンヤリ見下ろしているだけの井上くんの脚にはベッタリくっついて、構って欲しそうに顔を見上げたりしている。

目が合うと、井上くんも手をポケットから出してちょろっと頭を撫でてあげている。

「犬好き?」

と聞くと、首を捻った。

「犬よりも猫の方が好きかな」

「猫飼ってるの?」

「住み着いたんかな」

「勝手に?」

「うん…いや…お姉が拾ってきたのと俺が拾ってきたのが2匹…」

「それは住ませてるんじゃん」

「いや、俺のは雨の日にフラフラ濡れてヨロヨロ歩いて死にかけてたから…上着の内側に入れて、拾って帰って、温めて、雨が降り止むまでのつもりだったけど。…居着いた」

「ふーん」

私はモズクちゃんの背中を一生懸命ナデナデしてあげたが、横目でジロっと

(ウザいんですけど)と睨まれた気がして、

(あ…なんかすみません…)

と手を引っ込めた。お行儀が良いので歯を剥いたり唸ったりはしないが、その一歩手前の表情をしている気がする。とにかく一心に井上くんの顔ばっかり見上げている。

「犬とか動物って心の綺麗な人と汚れてる人の見分けがつくのかなぁ」

「何それ」

井上くんは大きな笑い声を上げ、

「俺の方が体温が高いからくっついて来てるだけでしょ…

それか、ポケット大きいからじゃない?なんか貰えそうな方に来てるのか」

と懐かれない私を慰めてくれた。

「食べられそうな物持ってるの?」

井上くんはポケットを探り、

「こんなんあった」

と言ってひしゃげたビスコを出して来た。

「うわぁ懐かしい…食べていい?」

「良いよ」

「モズクちゃんにはあげたらダメだよ…胃腸が弱いらしいから」

「よだれ垂らしてるけど」

「私らが早く口の中に全部入れちゃおう」

「めっちゃ欲しそうだけど」

「死んだらどうするの」

「ビスコ一枚で?」

結局は半分に割ったクリームのついてないクッキーの部分だけを井上くんがこっそりあげた。

 がっつかないで匂いを嗅いでみてから受け取るようにそろっと食べたモズクちゃんを見て、二人で目を見交わし、感心した。

「犬じゃないみたい」

「賢いね」

「でもどんなしつけ方したらこんなに賢くなるのかなぁ…

うちのお婆ちゃんちの犬はアホだよ。食って寝て撫でてもらってハァハァ言って生きてるだけ。お手も気紛れにしかやらないし。その癖して、炬燵の中にどんどん人のスリッパを持って行って守り始めて、下手に足を入れたら噛み付いてくるんだよ。アホでしょ?」

「犬種にもよるんじゃない?」

「ポメラニアンだけど…」

「ふーん」

「頭悪い犬種?」

「さぁ」

「知らんのかい」

ビスコの袋を捨てに行き、ちょっとプラプラしてまた元の位置に戻って来た。モズクちゃんはまた井上くんにピタッとくっついてこっちには目もくれない。

「井上くん体温下げて」

「いや無理無理」

どれだけ体温が高温なのか測ってやろうと、立ち上がり、背後に回り、手を伸ばして首筋に触ってみようとした。井上くんは何をされるのかと避けながらモズクちゃんの足も踏まないようにとよろけ、段になっている所を踏み外しかけた。

「え何?何?」

自分で首の後ろを払ってゴミを払い落とすような仕草をしてみている。

「何か付いてた?」

「どんだけ体温高いのかなぁと思って」

井上くんはちょっと考えてから、それじゃあ…と手を差し出して来た。掴んでみると私よりも冷たい指だ。

「げっ」

すぐに手を離し、ポケットに戻した。信じられない思いで、反対側の手同士でももう一度繋いでみた。

「げっ、冷たっ!なんで?男の方が体温高いもんじゃないの…」

「そうでもないでしょ」

「だって本でも映画でも歌の歌詞とかでも、大概そうじゃない?」

井上くんは無言になり傷付いた顔をしてモズクちゃんを両手で撫でだした。

「そんな薄いジャージ一枚しか着てないからだよ、風邪ひくよ?コート持ってないの?」

「あるけど、まだ早いかなと思って…」

「痩せ我慢?」

井上くんはニヤけて誤魔化した。冷たい風が吹くたび、立ったまま猫背になって首を引っ込め、風当たりを小さくしようとしていたが、そうしていても大きい。

「お手」

こちらを見てくれないモズクちゃんに言ってみた。モズクちゃんは時間を置いてチラッと私と、差し出された手のひらを眺め、ちょっと考え、まぁやってあげましょうか、という感じで右の前脚を載せてくれた。

「おぉ~」

井上くんが拍手し、

「偉い偉い、凄いね~」

と私も最大限に抱き締め撫で撫でした。

「やっぱり育て方の違いだろうなぁ…うちの犬は荒っぽい子ども3人と一緒に育ったから、時々唸るし、牙剥くし、

『お座り』とか言っても

(は?なんでお前らの言うこと聞かなあかんのじゃい)って目するし。育て方だわ、生まれてからの。犬種とかよりも」

「確かに…虐待受けて捨てられた保護猫とか、警戒心強すぎてしばらくは人にフーッて言って近寄らせもしないしなぁ…」

「ふーん…じゃあ、人もそうかもね?マイマイのお母さんはかなりしっかりしてそうだし、井上くんちは親が滅茶苦茶優しいでしょ?」

「普通の共働きだよ」

「叩かれた事ある?」

「…うーん…一回くらいは…あると思うけど…」

「でしょ?そんなん無いってことじゃん」

「お待たせー!」

チーちゃんとマイマイが買い物袋をいっぱいにして自動ドアを抜けて来た。

「今夜は寿司カレーパエリア餃子丼作るぞ」

「不味そー」

「早く暖房の効いた部屋に戻ろー」


 マイマイの家は古民家みたいな古くて広くて隙間風だらけの家で、朝は溢れるような光に満たされるが、夜は家の周り中が深い闇の中に沈み、目が見えなくなったみたいな真っ暗さで、恐ろしい。

 用意の良いマイマイが小型で強力な懐中電灯を人数分配ってくれて、パチっと灯し、モズクちゃんの首輪に内蔵されているライトも点灯して、光の行列になって家まで帰った。


 みんなお腹がペコペコに減っているので作りながら生のままの食材を摘み食いしてしまい、出来上がったカレーも食べ、おやつも広げて食べ始めると、もうどうにも抗い難い眠気が襲って来て勉強どころではなくなってしまう。

 実技の練習をしたら次は座学の試験勉強をしようと口では計画していたけれど、一番に私の目蓋がドロリと落ち始めた。

「換気だ」

「寒くして目を覚そう」

「ダメだぁ、寒過ぎる…!」

「閉めろ閉めろ窓」

「うぅ、開けるんじゃなかった…」

みんな炬燵に潜り込み、暖房を入れて部屋を温めるともっともっと眠くなって来た。もうどうしようもない、一回寝るしかない。

「寝るな、こら。」

「寝てない寝てない」

必死でそう言い張っていたが、ぐぅ、と自分にも聞こえるイビキをかいてしまい、叩き起こされた。

「やめだやめだ、今日は帰れ、サヨナラ。」

 なんとなくみんながマイマイの彼氏を一目見てみたくて、寝て待てたら最高なのだが、そう甘くはなく、一人一人懐中電灯を持たされ、また行列になって帰り道をトボトボ歩いた。途中、同じ最寄駅のチーちゃんをアパートまで送り届け、

「怖い餃子」

と言ってマイマイがタッパーを渡そうとした。チーちゃんが震え、マイマイは笑い出した。

「違うよ、中身はカボチャ煮だから」

と言うと、チーちゃんは安心して懐中電灯と交換に

「ありがとう」

と受け取った。


 井上くんと私は駅まで送ってもらった。

「お前達にも」

と言って大きなタッパーに入ったカボチャの煮たのをくれた。

「ごめん、入れ物これ1つしかなくて…」

「ううん、ありがとうありがとう」

「旨そう」

「じゃあ、また明日ー」

「ありがとう、帰り道気をつけてね」

「犬がいるから大丈夫」

「ありがとう~」

マイマイは手を振りながら駅の明るい光の輪の外へ出て行き、すぐ輪郭が闇に溶け込んで、2つの頼りない光だけになってユラユラ遠去かって行った。


 電車を待つ間、井上くんが早速タッパーを開けて人差し指と親指でカボチャを摘み、

「味見」

と言って一つ食べた。

「あんなに食べたのにまだ食べ足りないの?」

「美味しいよ」

そう言われると私もつい味見してみたくなって、一つ摘んでみた。

「うん、美味しい。さすがマイマイ」

「もう一個食べていい?」

「うん…お腹減ってるん?」

井上くんがもう一個頬張るのを見ていて、この人の方が犬っぽいなぁ、食欲の塊だなぁ、ちょっと可愛いかもしれない…と微笑ましく思った。

「電車の中では食べちゃダメだよ」

「うん」

「二人がけの席でなら良いよ」

「あー、うん。2人がけの席で2人でなら、何しても良いってとこあるよね」

「うん」

「…なんかちょっとエロいな」

「なんで?」

「いや、なんか、何しても良いとか言うから…」

ニヤニヤし始めた顔つきを見て、

(こいつ、さては何かやった事があるんだな…)

と直感し、

「なんかやった事あるの?」

と聞いてみたら、

「まぁ、無い事はないかなぁ…」

とニヤニヤを深めた。

「早く何をやったか白状しろ。それってまさか痴漢とかじゃないよね?」

「違う違う、まさか。同意の下でしかやらないよ」

「それが本当なら良いけど…」

「本当だわ!」

「相手は?付き合ってた子?」

「まぁ」

「早く!何したか教えて」

「まぁ、致したんだけど」

「えっ、え?全部?」

「まぁ、出来ちゃったからなぁ…」

「マジか、こいつヤベェわマジで…やっぱり…タダモンじゃないとは思ってたけど…」

「一回だけだよ」

「それが凄いわ。下手したら新聞に載るし、JR出禁だよ?一回だけて…え、それいつの話?最近?」

「最近はずっと巻多さんと一緒にいるでしょ」

「最後に付き合った子?」

「いや、最初の子」

「何人と付き合ったの?」

「付き合ったのは3人だけだよ」

「ふーん、その子凄いわ…よくOKしてくれたよね…」

「いや、向こうから乗っかって来たんだよ」

「噓こけ」

「本当だから。女の子だって凄いよ」

「へーえ?他の乗客は?バレなかったの?」

「他に誰も乗ってなかったし、同じ車両には」

「ふーん?誰も?何十分も?」

「さぁ、うん、まぁ…」

「急いで終わったの?数分とかで?」

「そら、まぁ、ちょっと急いで終わらせたよ」

私は目まぐるしく頭の中で聞いて良い事かどうか考えたけれど、気になるしこの際だから、聞いてみることにした。

「急いだら何分で出来るもんなの?えっと、最初に始まってから終わるまで…それって全部男のタイミングじゃない?」

「いやぁ…そんな事ないんじゃない…2人の行為は2人のタイミングじゃない?」

「そんな事ないでしょ、男が初めて男が終わらすんだよ。女関係なしで」

「それは違うよ…」

「違わないでしょ」

「いや…ちょっと…それは間違ってるよ…」

「どこが?」

「どこがって…」

電車が来て相手の声が聞こえなくなり、話は一旦途切れたが、2人がけの席に座る時にはまだ井上くんは答えの続きに悩んでいる顔をしていた。同じ車両にはポツポツと人が乗っていたが、誰もこちらを見ていない。

「俺は女の子がそういう気持ちになってないとそもそも始められないし、入れる前に何回かイかせてから入れるよ」

真面目な顔をして井上くんが言い出した。

「イくとかって、そもそも現実にあるの?」

私も恥ずかしさよりも好奇心の方が上回ってしまい、思わずヒソヒソ声で聞いてしまった。

「そら、あるよ。経験ないの?」

「無い。普通ないって。そうそうあるもんじゃないんでしょ?そんなの。現実には」

「そんな事ないから。普通にみんなイってるよ」

「ウソ~?それ自慢?」

「いやいや、普通、常識ですよ。礼儀のレベルですよ。自分だけ一人でイくわけにいかないから。みんな普通にイかせてるしイってくれてるよ」

「みんなって?」

「そら数々のやった相手の女の子達の事だけど…」

「付き合ったのは3人でしょ?」

「うん」

「やった相手の数は?」

「え…そんなの…プロも入れて?」

「全部入れて」

「んーと、百人斬りしようとしてたけど、途中で止まって…巻多さんと会ってからは1人もだよ」

「えっ、ちょっと待って。100人?今までに?」

「その途中だから、八十何人とか…。九十まではいってなかったと思うけど…」

「えええ…もう数え切れてもないじゃん…やった相手の数だよ?せめて100人目指してたなら人数…数えとけよ…」

頭を抱えた私の隣で、なんだか得意げにニコニコしている井上くんを見ていると、ジワジワこちらも笑えそうになって来た。

「百人斬り制覇止めたとか、私のせいにしないで欲しいんだど。と言うか病気とか大丈夫?」

「病気は無いと思うよ、そういうとこではちゃんと気を付けてるし。プロの人達の方が一般人よりもしっかり検査してるはずだし。毎月とか。陽性が出たら完治するまでお店に出られないらしいよ」

「それでも凄い数じゃない?100人て。」

「八十何人だけど。これまで違和感も無かったし…

でも気になるなら検査受けて来ようか?」

「うん、一回受けてきた方がいいんじゃない?これを機に」

「分かった、受けてくる」

「自分のためにね」

「うん」

 話は脱線したけれど、一旦黙ってそれぞれ窓の外や空中や鞄の中を見たり、ぼんやりしたりしているうちに、また疑問がジワジワ膨らんで来た。

私は思い切ってまた井上くんの顔を見つめた。

「相手がイってるって、なんで分かるの?初めての子が相手でも分かる?…それに、プロなら上手な演技かもしれないでしょ?」

「うん、まぁ…でも大抵本当にイってると思うけどなぁ…」

井上くんは顎を指の背でさすりさすり、考え深げな顔をした。

「だって…プロの人ほど本気でイこうとしてイくんじゃないのかなぁ?その方が本人達にとっても後後の仕事が楽だろうし。イキ癖って言うのもあるし…」

「何それ…色々未知の世界だけど…イキ癖って何?まずそこから聞くわ…」

「んーと…イった経験がまだ一度もないと、何が何だか分かってないでしょ?それで、何か変な感じが起こりそうだなぁってなってきても、怖くて、その波に乗らないように自分でセーブかけちゃったりするんじゃない?身を任せきれなくて。どうなっちゃうのか怖いから。

 だけど、一回でもイけて、

(あ…これがイくってことなのかな?)

って感覚が掴めたら、2回目3回目はそれがどんなものなんだかなんとなく分かってるし、

『あの感覚よ来い!』

って感じで、こっちから迎えにいくからイきやすくなるんだよ。」

「へー」

「多分。で、イったらイったで気持ち良いし、またイきたいなぁってなる…みたいな?」

「ふーん?」

「プロ意識高い人ならどうしても本気ではイけない時はそら演技するんだろうけど、本気でイけるならイってしまった方が自分の体にも良い事なんじゃない?…怪我したり痛い思いしないで済むように受け入れ態勢整える意味でも良い事だし、ちょっとはその感覚が好きでやってるっていうプロの人もいるだろうし…」

「そんなに気持ち良いものなのかなぁ」

「そら、気持ち良いんでしょうね、男の何倍も女性の方が気持ち良いらしいって聞いたこともあるよ」

「うん、私も、気持ち良すぎて気絶するとかって、本か何かで読んだことあるけど。すごく素敵な事みたいな描き方されてたり…

 でも現実には滅多に起こらないほとんど神話みたいな現象なのかなぁと思いかけてたけどなぁ…」

「気絶までは俺も見た事あんまりないかなぁ。でも何人かはちょっとの間ヒクヒク痙攣して動けなくなってたよ」

「なんか怖いな」

「なんで?」

「それは怖いわ…動けないのは。その間井上くんは何してるの?」

「何もしないよ。あぁイってくれてるなぁって嬉しいぐらいだよ」

「本当かなぁ」

「そんな疑ってちゃ道のりは険しいよ。初めてなら特にお互いの信頼関係がないと。…それに本人が思いきって飛び込んでみる気持ちにならないとなかなか初めてイくって難しい事だと思うよ」

「そうだよね」

「経験ないんだね」

「でもそれってかなり男の人の手腕によるよね?」

「さぁ…まぁ…」

「井上くんは入れる前に何回かイかせるって言ってたよね…それってどうやってやるの?」

「えっと。とにかく…そりゃあ、優しく時間をかけて前戯するんじゃない?」

「何分くらい?」

「そら…女の子の準備が整うまでじゃない?」

「何分でも?」

「まぁ…」

「何時間でも?」

「そら、初めての人とかだったら1時間以上とかでもかかるかもしれないね」

「優しいな」

「そら、彼女には優しくするよ」

「でもプロにもでしょ?」

「まぁ…」

「優しいなぁ」

「と言うか、自分のためでもあるしなぁ…俺、相手がその気じゃないのに出来ないんだよなぁ」

「それは困った事だけど…でも困った事は無いのか、八十何人と出来てるわけだもんな」

「まぁ」

井上くんはちょっと得意げにニヤッとした。

 この人とはエッチな話がタブーみたいではないから面白くて新鮮で気が楽で良い。時々ちょっと気持ち悪いなと思う事があっても、聞きたがり屋の自分だって変態さは負けていないのだからお互い様だ。これからもずっと何でも話せる友達でいたいなぁと思った。


 電車が三宮駅に着くとそのまま乗っていれば良いのに、井上くんはわざわざ降りて来て、いつもの事ながら

「送る」

と言ってついて来た。

「じゃあどうせなら勉強でもする?試験前だし」

と言うことになり、空いている席を求めてドトールやスターバックスやマクドナルドやタリーズを渡り歩いたが、どこもかしこも試験勉強をする学生達で席は埋め尽くされていた。

「こんなに学生いたんだ」

「彷徨い歩く時間が無駄な気がする…」

「一駅離れたら多分、座れるとこいっぱいあるよ。みんな大きな駅で集結してるんだと思うから…」

「今日は帰ろうよ、眠たいし」

「そうだね、明日も仕事無し?」

「試験最終日までは休み」

「ふーん…送るよ」

この「送る」「送る」攻撃にはもう反撃の手を出し尽くし万策尽きていた。素直に送ってもらうのが一番の省エネだ。

 きっと井上くんの本能を司る骨髄の奥の奥まで、何が何でも女性は家まで送り届けなければいけないもの、と刻み付けられているのだ。

「何か、女の人を家まで送り届けなかったせいで、その子が事件に巻き込まれたとか、過去にあったの?」

と聞いてみると、

「お姉が痴漢に遭った」

と眉をひそめた。

「ええ…大丈夫だった?」

「大事には至らなかったけど」

「そっかぁ、それで…」

「家の周りが暗いから」

「うちの家の周りはそんなに暗くないよ」

「でも危ない」

「そうかなぁ…大丈夫だけど…」

「いや、危ないよ」

「でもそんな事言ってたら世の一人歩き女子全員危ないって事になるよ」

「うん」

「中央区は安全だって。夜でも女一人でもよく歩いてるし。そこら中で見かけるもん」

「海の方へ行くほど治安悪いんだよ」

「えー、本当?」

「本当。それに小さい危険の可能性からでも、少しでも守るのが役目でしょ、男の」

「うーん…時と場合とか…状況にもよるけどなぁ…」

まぁいいや、どうせ何を言ったってついて来るんだし、彼氏は仕事で忙しいはずだし、別に悪い事をしているわけでもないんだから…と思った。

 軽い口喧嘩を交わしながら家まで送り届けてもらい、ガラスドアのロビー玄関の前でバイバイして、7階の部屋に帰ってきた。

 コートを脱ぐよりも先にガチャーン!と玄関ドアが音を立て、心臓が止まりそうになった。

(彼氏が帰って来た!)

慌てて内側からしか開けられないロックを外しに玄関へ飛んで行き、入って来た彼をちょっと怖々、窺うような気持ちを外に出さないようにしながら下から顔を見上げ、窺ってしまった。

 この時間差から考えて、井上くんと絶対すれ違っているに違いない。下手すると二人で歩いているところを見ながら後ろから来たのでは…とも思われた。

 悪い事をしたわけではないのだから、それならこっちからもう先に打ち明けてしまおうか、とも思った。さっき見た?あれ同級生、送ってくれたんだ~…と。

「どうしたの?」

とりあえずその一言が口をついて出た。

「手を切った」

彼は包帯をグルグル巻きにした物凄い左手を見せてくれた。

「うわぁ…これ…ええー…大丈夫なの?」

「ちょっと大丈夫じゃない。七針縫ってもらった。血は止まらないし、腫れは引かないし、

『この時期に…』って女将さんには嫌味言われるし」

「えー、酷い…こんな怪我人に…」

「正直な人だろ」

彼氏はさっさと私の横をすり抜け、部屋の奥でガサガサ片手だけで乱雑に引き出しを開け閉め開け閉めし、鞄を漁り、ひっくり返し、空き巣みたいな勢いで何かを探している。

「何探してるの?」

「保険証」

「もう病院閉まってるんじゃない?」

「そうだけど」

「明日じゃダメなの?」

「明日でいいんだけどな」

そう言うと、突然、フッと力が抜けたみたいにグッタリ床に座り込んだ。

「今日1日だけは休んで良いって言われたしな」

「明日からもう働かなくちゃいけないの?」

「ああ」

「えぇ…」

「左手だし」

「利き手じゃないからって…世知辛すぎ…」

「いや、こんなもんだろ、世の中。飲食業はこれから年明けまでが年間で一番の稼ぎ時期だから。忘年会、新年会シーズンで」

「じゃあ今日はあの人だけ?あの、この前の…」

「藤堂君。あと1人、姉妹店から駆けつけてくれて今夜は助かった。明日には何とかして腫れが引いてもらわないと…

ま、いざとなったら注射でも何でも打ってもらってやるしかない」

「うわぁ…もう少し何とかならないの…」

「ならない」

「しんど…」

可哀想で、思わず私は彼氏の後ろに回り込み、肩を揉みだした。

「おー、ありがとう、さすが。元セラピスト」

彼氏には、仕事を辞めたと伝えた時にあまりに喜んで思いがけないほど盛大にお祝いしてもらっていた。そのせいで、また元の職場に戻った現状をまだ報告できていなかった。

 お互い繁忙期や試験期間に突入していたこともあり、時間に追われ、この頃は互いの存在すら忘れ去っている日々だった。

「やろうよ」

彼が私の手を掴み、振り返って言った。目が、何か異様にギラついているように見えた。握り締める力もいつになく強い。

 出血したり帰らされたり、異常事態に陥って、平常心ではないのかもしれない。

「痛いのは嫌だなぁ」

初めて本音がスルリと口から滑り出た。

「痛くなんかするわけない。一回も痛かった事なんかないだろ」

そう言われて心底からビックリし、驚いた次にはだんだんジワジワムカついて来た。こちらがどれだけ今まで痛い思いを我慢し続けて来ているか、全く気が付いていないと言うわけだ。まぁ言わなかった私のせいなのだが。

そこは、

「絶対に男性にヘタクソと言ってはいけません」

と書いてあった何かの記事を読んで、

「何故なら、男性は傷つきやすく意外に心が脆く、トラウマになるとその後一生涯、再起不能となる人も多いからです」

とか書いてあったのが凄く印象に強く残ってしまって、死に物狂いで彼氏にそれだけは言わないでいてあげようとこれまで遠慮していたつもりだったのだ。

 でも気合の込もった血走った目をして、私の服のボタンを片手で引きちぎる勢いでグイグイやり出した彼に対して、

「ちょっと待って、ちょっとゆっくり、ゆっくり!」

と叫んでいるうち、包帯の方の手に手がぶつかってしまった。

「痛っ」

「ごめん!ごめん、わざとじゃないから」

「じゃあ自分で脱いで」

「…ええぇ…それなんだけど…」

(今言うべきじゃないかなぁ…)

と、彼氏の怪我している方の手を見て思いながらも、

(でも片手だからこそ余計に力加減ができなくて痛い思いをさせられるかもしれない…言っておいた方が身のためだ…)

と思い、

「今日はゆっくりハグとかだけにしようよ、怪我もしてる事だし…」

と言った。

「すぐ終わるから」

彼は全然勢いが止まらない。

(それが嫌なんだけど…)と思った。

私にとってはそれでは愛を感じる暇もなく、ただ歯を食いしばっているだけの行為に始まり、終わってしまうのだ。

「イったりとかも一回くらいしてみたい…人生で一回くらい。私も」

とうとう今ここで言うべきではないような事まで言ってしまった。彼氏はピタリと止まり、変な顔をして黙り込んでしまった。しばらくして、

「それは俺にどうしろと?」

と聞かれた。

「とにかく一回、ゆっくり、ゆっくりやって欲しい。優しいことだけ…」

前戯と言う言葉も彼氏にはまだ口に出して言えなかった。あんまりエッチな用語に詳しい女性を彼は多分あまり好きではないんだろうなぁと思うところがあったからだ。

「ゆっくり?どのくらい?」

「さぁ…1時間とか?」

自分にも自分の準備が整うのがどのくらいか分からないので、とりあえず長めに言ってみた。

「無理だわそんなん」

彼が笑い飛ばし、私はやっぱりじゃあ一生無理なのかなぁ、痛いまま一生我慢かぁ…と暗い悲しい気持ちになった。

「やり出したらそっちだっていつもそれなりに楽しんでるだろ、猫みたいな声とか出して。」

そう言うが、それはその方が早く済ませられると女の先輩達に教わってきているからだ。一生懸命にアンアン叫んでいるのは。

『痛いから早くイってくれとか、絶対に言っちゃいけないよ、男の人には興醒めで逆効果だから。余計長引いちゃうからね。声で強弱を付けて、さぁもうソロソロですよ、この辺で終わらせて下さいな、って、上手くピークに持って行くんだよ』

とかは、経験値の高いらしい女子達が合宿などで達人めかしてよく語っていた事だった。

 しかしそんな事は言えない。これからもその秘密兵器は隠し持っていて使い続けたいからだ。

「自分で気が付いてないだけで、イってるよ、そっちだって。多分。これまでに何回も。

この前のあの時だって、忘れたとは言わさんぞ、お前…モカちゃん、風呂場で、自分から来たじゃないか?覚えてるだろ?」

彼がいつの何の話をしているのかはハッキリ見当が付いた。彼がシャワーを浴びている所へ、一緒に狭い浴室の中に割り込んで行ってそこで2人してシャワーの下で一発やった事があるのだ。その時は確かに自ら服を脱ぎ捨てて乱入し、裸の体を押し付けに行った。

 でもそれには事情があるのだ。あれは仲直りのためにやった事なのだった、自分としては。その行為がやりたかったのではなく、感謝の気持ちや謝罪の気持ちや労いの意味を込めて、自分を捧げるつもりで擦り寄って行ったようなものなのだ、サービスのつもりでいたのだった。こちらとしては。

 何だったかその時の喧嘩になった原因まではもう忘れてしまったが、例えばこんな事もあった。

 彼がお寿司屋さんとして毎日働いていて嫌でもお寿司はもう食べ飽き、見たくもないと言うのに、

「今度の誕生日、デートで何が食べたい?」

と聞かれ、私が何も考えずに

「お寿司!」

と目を輝かせて即答したせいで、彼はグッと堪え、

「分かった、良い店紹介してもらっとく」

と言い、お寿司屋さんに連れて行ってもらったのだったが、その苦労を後から彼氏の同僚達の間で笑い話になっているよと教えてもらい、それで知って、その時にも嬉しくて自分の方から彼氏の布団に潜り込んで行った事があった。

 全て、やりたい事のためにしたのではなく、感謝の気持ちを示す為だったり、喧嘩を早く終わらせて仲良くなりたかったからとか、彼に

(貴方これが好きなんでしょ?私今日は頑張れるよ、貴方のために。貴方の事好きだから)と伝える為にとか、そういう理由のためにやる事なのだった。いつも。

 それを何年間も付き合っていてずっと気付いてもらえていなかったとは、何という行き違い…勝手にどれほど無駄な犠牲を払っていたことか…と、私はへたり込みそうなほどのとてつもない徒労感に襲われた。

「勿体ぶるな。早く。やろう」

彼氏はイラッとし始めていた。

 悔しくなり、でもここはやっぱり2人で何とか改善の余地があるのであれば改善したかった。諦めてしまってはダメだ、何の進展もないままだ、と思い、まだ食い下がった。

「でも1時間くらいゆっくりハグとかだけでも…

そのくらい、できるって子もいるよ?相手の女の子が痛い思いをしない為ならナンボでもできるって…」

「は?誰が?何の話を誰としてるわけ?」

彼の底冷えのするようなきつい口調で、言い過ぎたとハッと口を噤んだ。

「井上くんか?」

「えっ?」

なんで井上くんの名前を知ってるんだろう…

「ちょろちょろ話題に出て来る男だろ?学校の。変な服着てくるとか、面白いやつとか。電話もかかって来てたろ」

そう言えばそうだ。彼氏の前で一度だけ井上くんからかかって来た電話に出たことがあった。

 小テストの試験範囲を聞かれたのだったか、何か事務連絡を伝えてくれたのだったか。用件は一言で済むことだったけれど、その後もしょうもない話をしていて長電話になり、切った後物凄く彼氏が苛々していたので、それからは二度と彼のいるところでは男の人と電話はしないでおこうと心に決めたのだった。

 けれど、それを言うなら、自分だってたまに職場かどこかからかかってくる女性からの電話を受けているではないか…と私はモヤモヤした。

 こちらは大して気にならないから、電話ぐらい誰とでもしたら良いと思って何も言わないでいるけれど、でも、自分は良くて人はダメというのはおかしいんじゃないか…と思った。

「そんなにイきたかったら、井上くんにイかせて貰えば?」

と嫌な意地の悪い言い方をして、彼は拗ねてそっぽを向き、ゴロンと寝てしまった。


 実は彼はすぐ拗ねる面倒臭い一面のある人なのだ。こちらが何か大事な話しがしたいと思っても、なかなか根気がなくて話し合いにならない。

 大人なのだからもうちょっと打たれ強くあって欲しいものだと前々から思っていたが、打たれ強さは仕事に偏り、私生活ではその反動が出て、好き放題やりたいようにやりたい、勝手にさせてくれ、と思ってしまっているのかもしれない。

 仲直りしようととりなしたかったが、下手に出てすり寄って行ったら、せっかく納まった彼氏の性欲をまたブリ返させてしまうかもしれない。結局痛い思いを我慢するのはいつも私だ、と思った。

 抱き締め合ったり優しい触れ合いくらいは私だってしたかったが…

 彼の寒そうな長い首の後ろをしばらく眺めていたけれど、電気毛布の電源を入れ、ソロっと布団をかけてあげる程度に留めて、自分も寝る事にした。

 部屋を暗くすると、まだ全然眠れない様子でブンと布団を放り、彼が猛然と立ち上がった。ジッとこちらを見下ろすので、何か怒鳴ったりでもするのかなとちょっと布団の中で身構えていたが、やがて彼は黙って憤然と上着を掴み、音を立ててドアを閉め、部屋から出て行った。ガチャンと玄関の鍵が閉まる音がした。


 しばらくドキドキはしていたけれど、温かい布団に包まり、目を閉じて横たわっていればすぐに眠りにつけそうだった。

 彼氏がどこに行ったのか知らないが、適当に歩き回って適当に…もしかしたら夜の街で女性をお金でどうこうしたりするのかもしれないが、それならそれで良い、むしろその方がありがたい、自分の荷が降りて…と思い、こちらは大してそういう事を重く受け止めない体質なので、落ち着いて眠ろうとした。


 彼氏には、付き合ってすぐに言われていた。

「この付き合いにルールは無いけど、自分がされて嫌な事はしない、それだけがルールだよ」

でもその後ルールはいっぱい作り上げられ、覚え切れないほどになり、ともかく怒られる前に自ら怒られそうな事柄を考え出しては、1人で相手が怒り出しそうな事はやらないようにしよう…と心の中で決めた自分のルールも守るようになりだした。

 だけど、そもそも私は自分が彼氏に浮気されても全く嫌じゃないのだ。むしろ気が軽くなりそうだから、浮気されたくてしかたなかった。ずっと前からそう本人にも伝え続けてきていた。

「他の人としてきて欲しい」と。

「お願いだから、他の人としてきてよ」

と懇願した事すらあった。

けれど、彼はどうもそれを別の意味や違う含みがあると捉え、

「自分が他の人とやってみたいからそんなこと言ってるのか?」

と怒ったが、別にそう言うわけでは無い。

 私は親が水商売をしていたこともあり、子どもの頃から、浮気ごときが珍しいものには見えず、物心ついた頃には目に入る周りの大人達はみーんなやっている事だったし、何ならやってない人の方が人としてちょっと不自然じゃないのか…という常識の中にいた。

 たまに血相を変えて乗り込んでくる奥さんを笑いながら出迎えていた自分の綺麗な母親の余裕綽綽な態度から、相手の方が大騒ぎして…変なの…大して騒ぐほどのことでもないのに…変わった人だなぁという風に冷めた目で見ていた。

 世が違えば、夜な夜なお試し感覚で次々色んな人と相性を試しにやってみていた時代もあったのではなかったっけ?

それなのに、なぜ避妊の技術も優れているこの現代に、浮気や相手の取り替えっこがこれほどまでに忌み嫌われたり、法で裁かれたり、軽蔑されたり、してはいけない事のように定義付けされてしまっているのだろう?

 愛があっちこっちに沢山、気軽にあるということにどんな負の要素があるというのか?

 性病は、コンドームを正しく使えばほぼ防げる。まさか誰も知らないの?…子どもながらにそう思っていた。


「自分がされたら嫌な事を、相手にもしない」

という彼氏が課したルールには、決定的な誤算があった。

彼と私の生まれ育った環境の違いから来る、決定的な違い。

〝されたら嫌な事″にはまるで真逆くらいの大きな差があった。

 長い人生、連れ添っていれば彼氏だっていずれどうせ浮気の2、3はするに決まっているし…と決めてかかり、でもそのぐらいの事で自分の彼氏への気持ちが微塵も変わるわけもないのに…と思っている私。

 何なら性欲は外で処理してきて欲しい、自分に負担をかけないで欲しい、くらいに思っている彼女と、死んでも絶対に浮気はして欲しくないらしい彼氏。

愛する人と愛し合いたいと思っている人と、愛があるなら痛い行為は他所で済ませてきてくれ、と思っている人。

 して欲しい事として欲しくない事がピタリと一致してしまい、〝して欲しくない事”だけをとると、まるで対照的だった。


 とにかく…テニスや野球や他のスポーツと同じ事で、より沢山の人との試合や交流で、より上達するものだとしたら、むしろ彼氏の浮気は私は大歓迎だった。

 プロに伝授してもらって帰って来てくれたら良いではないか、女性のイかせ方とやらを。こちらは浮気は禁止されているのだからここで寝ている他ないが…と思って寝ていた。

 キチンとバイ菌を持ち込まないようにしてくれるならば、私は彼がどこで誰と何をして帰って来ても自分の彼氏としてこれまでと変わらずに温かい気持ちで迎え入れられる。自分って懐の深い出来た彼女じゃないのかなぁ…などと思っていた。

 何年も彼と付き合ううちに、徐々に考え方も相手に染まり、変わってきていたが、それでも元々の自分はそういう発想の持ち主だった。


 突然、煌々と眩しい光が目を射し貫き、布団が強引に剥がされ、押さえ付けられ乗しかかられて驚きもがきながら目を覚ますと、怒りの形相の彼氏の顔が頭突きの間際みたいに目の前にあった。灰皿そのものみたいな強烈な息を吐き、見た事がない知らない人の顔みたいに人相が変わるほど目が吊り上がり、爛々と狂気の色一色で染めて、殴りかからんとする剣幕だった。辛うじて殴るのだけはギリギリなんとか踏みとどまっているのだ。

 出来る限り抵抗しないようにするつもりが、滅茶苦茶な力加減のない暴力行為で、首を押さえ付けられ息ができず、空気を求め死に物狂いでもがいていた。自分の彼氏だから爪だけは立てないように、急所だけは蹴らないようにしよう…

(いつもの事だ、これはいつもの事だ…終わりは来る、もう終わるはず…)と念じた。

ガンガン突っ込まれていたものがいきなり引っこ抜かれ、力づくで腹這いにさせられ、有無を言わさずまた捻じ込まれ、頭を押さえ付ける手は退けてもらえたのでとにかく息はできるようになった。布団に飛び散っている血の泡がますます増え続けていくのを見て、泣きながら必死で

「痛い!痛い!」

と訴えたら、それからは少し手を緩めてくれて、

「もうすぐ終わる」

と言われた。突然終わった。

 ドロっと太腿にかかった嫌な匂いのする熱い物で、避妊してくれていなかったのが分かった。


 とにかく終わった。ホッとすると同時に涙が噴き出すようにボロボロ溢れてきた。

 恨めしさで、どんな呪詛の文言を吐いてやろうかと彼氏の脚のあたりを睨んだが、この屈辱を言い表しきれる言葉が見当たらない。

 悔しく、惨めで、仕返しをする碗力がないのがやり切れず、憎しみも湧き上がり、悲しく、寂しかった。

 恐ろしくもあった。

まだ殴り足りなくて、これからボコボコに変形して死ぬまで殴り付けられないとも限らない。

 もうこの人はそこら辺の道を歩いている知らない人よりも怖い、全く知らない人みたいだった。

 私に何か言われるよりも早く彼は黙って衣類を身に付け、また外に出て行った。今度は、鍵を回す音の後、すぐに玄関へ行き、内側からロックをかけた。私のか彼のか分からない血がドアノブにベッタリ付いていた。


 その日から彼氏は帰って来なくなった。





続く

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