16 二つの店
17時30だった。マミちゃんはまだ来ない。駅中央改札口の何本か立ち並ぶ柱の陰でお互いに相手を待ってしまっているのかと、人混みの中ぐるっと一周してみたが、見当たらない。
昨日も宮家さんとしてしまった約束のことを相談しようかどうしようか迷い、とりあえず一緒に受けに行くアルバイト先の情報だけでも教えてもらおうと電話をかけてみたが、出てくれなかった。働き者でバリバリ活動しているマミちゃんは、思いっきりどこかで働いているか、思いっきり寝ちゃっているか、思いっきり遊んでいるかだ。いつ寝て起きているのか分からない。夜中に働く事もあると言っていた。
5分待ち、遅刻するかもしれないと思い電話してみようと携帯を見ると、メッセージが届いていた。
〝ごめん。よく調べたらこのお店は店長とライバルのオーナーさんが経営するお店だから、行かれない″という。
(どういうことだ?)
よく分からず、電話してみたがやっぱり繋がらない。
(どうしよう…)
面接の時間は迫り、自分はついていくだけと人任せにしていたので面接地も知らない。その店の名前もマミちゃんが何て言っていたかウロ覚えでしか覚えていない私は焦った。
やり取りした過去のメッセージを遡り、店名を調べた。〝bijou″という名前の店だ。
「メンズエステ神戸三宮bijou」で検索して、住所が出て来た。
どうしようか…今から行けばまだ間に合うけれど…
「一緒に別の店の面接受けに行こうよ」
と、前の店で更衣室にいたときに、マミちゃんに誘ってもらっていた。その時は、
「掛け持ちしても良いのかなぁ?怒られないかなぁ?」
と不安を投げかけたのは私の方だった。それを彼女は
「女の子が店に気を使うことなんて無いんだよ」
とバシッと言い切ってくれたのに。
それがスパッと迷いを断ち切り、カッコ良くて、
(それもそうだな…その通りかも。)
と一撃で私の優柔不断を吹き飛ばし、強気で前向きな気持ちにさせてくれた。そんな太陽のようなマミちゃんが来ないとなると、気持ちは陰り、不安になってきた。
(どうしようか、一人でなら行くのやめようかな…)
と、暗くなりかけていると、折返してマミちゃんが電話をかけて来てくれた。
「ごめんね、誘った私の方が行かれなくなって…モコちゃんは大丈夫だから。私がダメなだけ…店長に怒られるから。私は。でも貴女は大丈夫」
「え?ちょっと待って、どう言う事?」
私は訳が分からず、気ばかり焦って、足早に行き交う人混みの中、携帯電話を握りしめて必死で耳に押し当て、その場で立ち竦んでいた。
下りと上りの電車の電光掲示板の間にある時計を見上げ、あと15分しかないのを見て、諦める方に大きく心が傾き出した。
するとどこかからふいにマミちゃんが目の前に現れた。まるで念じたら召喚できる子だったみたいに。驚きで出かかっていた涙も引っ込んだ。
彼女はいつも、ハイビスカスが鈴蘭のようには咲けないように、溢れ出す華やかさを抑えきれないかのような人なのに、今日だけはちょっと地味とも言えるかしこまったリクルートスーツだった。
「行こ。もう時間なくなっちゃうよ」
と言って、私の手をとり、一歩先をズンズン歩き出した。
「面接地のビルの前までは連れて行ってあげる」
自分は何かしらの理由で面接には行けないのに、私との約束は破りきれなくて、待ち合わせ場所までは来てくれていたらしい。どこかからオタオタする私を見ていたのだそうだ。立ち竦んで身動きしなくなり、諦め始めた私を見かねて、ついに姿を表してくれたのだった。
「一人でも面接は受けてね、私は送ってあげるだけだから」
と何度も繰り返し釘を刺してきた。
駅からどんどん北野坂を上り、突然ピタッと立ち止まって、
「見て!」
と言うので、私は慌ててマミちゃんの小さく指差す先を見た。
「今あの女の人が出て来た、あのビル。分かった?」
「うん」
「3階だから。ここからは一人で行って。」
そう言って背中を押してくれた。
私は一歩だけ押されて進み、その場で立ち止まってマミちゃんを振り返り、ジッと見た。恨めしげな目だったに違いない、マミちゃんは早口に喋り出した。
「いっぱい調べたんだよ、私。その中ではここが一番キチンとしたホームページで女の子の写真すらも載せてなくて、凄い良さそうな感じだったから。技術が売りでエロさで勝負してなくて。私だって一緒に受けたかったよ…
でもモコに合うと思うよ。頑張って。行ってきて。…じゃあね」
そう言って彼女はクルッと背中を向け、スタスタもと来た方へ坂を下って戻り出した。
「ええ~!」
後を追って引き留めようとしたが、
「私にはこれから別のとこで面接があるから。お互いバラバラの店になるけど、頑張ろ!」
さっきのビルを指差し、
「あそこが一番、本当に、まともそうだから!」
と言われてしまった。
その時は取り残されたような複雑な訳の分からない気持ちだったが、自分の面接が終わり、落ち着きを取り戻して後々よく考えてみるとマミちゃんはただひたすら親切なだけだった。
そして少し可哀想なような気もする。
マミちゃんは本当に店長が好きだったのだ。
だから、その好きな人としのぎを削る同業他社であるバチバチのライバル社長が経営している他店では働けない…店長に背くことになるから…と言う意味だったのだ。
惚れた弱み、ってやっぱりあるのだ…と思った。あんなに無敵に思えたマミちゃんにも…
ライオンでも服従させられそうな大柄で力強い、普段堂々と自分を世界の中心に据え欲しいものへの道を真っ直ぐに切り開いて生きている勝利の女神のような光り輝く彼女に、ヘラヘラした痩せっぽっちのあんなセクハラ店長なんて…絶対もったいない、もっと他に良い人がいるはずなのに…!もっと彼女だけに尽くすような彼女だけを大事にするような人が…!と、はたからは思えた。
けれど店長に恋をしているのはマミちゃん自身にもどうしようもできないことなのかも知れない。
私からとやかく言うことなんてできなかった。恋なんて、沼の蟻地獄に陥って目も耳も潰れ塞がり、他人が自分のために言ってくれている真っ当なことなんて全然耳に届かない、無我夢中で息も絶え絶えに方向感覚を失って泳いでいるようなものだ。
(死ぬ、死ぬ、このままでは死ぬ…)と分かっていながらも、それでもやめられない。それどころか更に自分から深みを目指して引き返せない方へと潜り込んで行く…
弱みを作りたくなかったら自分以外の誰にも惚れたりなんかしない事だ。自分より大切なものなど持たない方がいい。ちょっとくらい寂しくても。手に入れてはいけないものがある。
失った後の耐えられない闇の深さを思えば…
私は一人で面接地のビルへ入った。
正面のエレベーターには乗らず、一段一段知らないビルの初めて嗅ぐ匂いを吸い込みながら、踊り場の窓から斜めに落ちてくる夕陽に照らされた階段を、音を立てないように上った。
誰ともすれ違わなかった。けれど、どこかから常にヒソヒソ話し合う声やクスクス笑う声が聞こえてくるような気がした。
三階にはドアが三つあり、その二つにbijouと書かれた木の表札がかけられていた。手作りだ。初めはそれが表札だと言うことすら分からなかった。
(なんだこれ、木の欠片が吊るされてる…)
と思ってよくよく見たらbijouと分かりにくく書いてあった。
ドングリや松ぼっくりやデコレーションペンのラメなどで文字を囲むように飾り付けされた、何だかアットホームな表札だ。小学校の工作の時間に作ったような。
(従業員の誰かが作ったんだ…)
そう思うとちょっとだけ親近感が湧き、緊張が軽くなりそうだった。
二つあるドアが悩ましかった。正面と右側とだ。
右側のドアの前にはウェルカムと書かれた玄関マットが敷かれていた。そちらのドアをノックして、しばらく待ってみたが誰も出てこない。ちょっと開けてみて中を覗き込むと、広い玄関の先は衝立で目隠しされていた。
「すみませーん…」
と奥に向かって恐る恐る声をかけてみた。耳を済ませる。誰かが奥で息を潜めている気がする。こちらも息を潜め、しばらく待ってみてから、音を立てないように扉を閉めた。
(接客中だったのかも知れない…)と思った。それとも、誰も居なかったか。
(ではこちらか…)と正面のドアを見た。
実はもともとそっちかなと言う気がしていた。さっきのは準備運動だ。
一呼吸、息を整え、高校受験の面接対策の授業で教わった訪問先へのドアのノックは何回だったか思い出そうとした。多分3回だった…気合を入れ、3度ノックすると、
「はーい?」と女の人の声がした。
「今…誰かノックしたよね?来たかも…」
などと中で話し合う声。
ガチャっとドアが開いた。すごい美貌な女の子が顔を覗かせた。背丈は私とそんなに変わらないくらい、歳も近いかもしれない、でもまるで自分とはかけ離れた生命体のようだ。整い方が完璧だった。見惚れた。
美人にも幾通りもある。ココちゃん、学校の同じクラスの神藤さんという子、それからこの目の前の美人。みんな違う顔をしているのにそれぞれ美の頂点を極めており、比べて甲乙をつけるということができない。
ココちゃんは日に焼けた元気な南国風の、神藤さんは青ざめて見えるほど色白の病弱そうな美少女だ。
この今目の前にしている若い女性は、白いふっくらとした肌の下から血色が浮き上がってきているのか上手なお化粧の産物なのか、頰は淡くピンクに染まり、虹彩が珍しい茶色を帯びた大きな瞳で、柔らかそうな長い髪はミルクティ色に染め、あどけなさと大人になり始めた女性との絶妙な境界線をユラユラ揺れ動きながら清楚なシャネルのスーツに身を包んでいた。
「面接の人?」
「はい」
「社長ー、来ましたよー」
彼女は中へ呼びかけた。
今度のところではオーナーさんは自分を社長と呼ばせることにしているらしい。何だか店長より格上な感じがする。
「どうぞ」
彼女はドアを最大限に開いて押え、私を奥へと導いた。
前回の教訓が裏目に出て、私は普段着で臨んでしまっていた。学校帰りそのままの格好で、履歴書も書いてこなかった。丸腰の身一つだ。
ちょっとそれを後悔した。
今度の面接は前の時のような雰囲気ではない。受付のカウンターからは見えない奥の部屋へと通され、ソファにどっかりと腰掛けて待ち構えていた社長さんには、前の店の店長みたいなヘラヘラした薄笑いや軽さやテキトーさなどは微塵もなく、ごく真面目な表情のその顔は強面だし、リクルートスーツという鎧も小道具も友達も無しで乗り込んだ自分が縮み上がる思いがした。
さっき受付にいた美女が、向き合った社長と私との間に座り、温かい、励ますような微笑を向けてくれていた。
「お茶。2つ」
と社長が言い、女の子はサッと立ち上がった。
「自分も飲むなら3つね!」
その一言はすでに消えた彼女の後ろ姿を追って放たれた。地割れが起こりそうな低く響く声だ。
そして岩石みたいな強そうな顔がまたこちらへ向いた。
「お二人来るって聞いていましたけど?」
「あ…そうなんですが…」
私はいきなり最高潮に(すみません!)という申し訳ない顔で弁明した。
「もう一人の子は急遽来られなくなってしまって…」
「ふうん?…なんでかな?」
「うーんと…なんででしょう…?私にも分かりません…」
「ふぅん。まぁ、良いですよ。
じゃあ、履歴書は?持ってこられましたか?」
「…すみません…」
「大丈夫ですよ」
自分が強面だと知っている大人の男性が努めて優しく話そうとしてくれているふうではあったが、それでも威圧感が半端なものじゃない。同じくらい大きくても、森の妖精トトロにそっくりな井上くんとは正反対だ。岩と雲の大きさが同じでも重量が違うくらい違う。
「じゃあ身分を証明する物は何か持ってますか?免許証、保険証、学生証、…」
(良かった!持ってそうな物の事を聞いてくれて…!)
と思いながら私は急いで鞄を漁った。面接の役に立つものなど新たには何にも入れて来ていなかったが、とりあえずいつも通学鞄だけは持っている。
鞄の内ポケットには学生割引の定期券が入っていた。これには片仮名のフルネームと年齢が刷られている。これでダメだったら財布の中には保険証と免許証も学生証も入っている。写真入りの証明証が2枚もあったが、出来るだけ自分のプライバシーは公開しないようにという佐藤さんからの教えを活かし、最小限で済むものから選んで出した。
「これでも良いですか…」
社長さんは丁寧にも大きな両手を差し出してきて私の片手から定期券を受け取ろうとしたので、慌てて自分も遅ればせながら鞄を持つ手を離し、もう一方の手も添えた。ペコリと頭も下げた。
「ふん。」ジッと目を注いだ後、
「まぁ、良しとしましょうか」
そして机の上に用意されていた用紙を私の方へ押し出した。書けという事だ。
結局、住所も氏名も年齢もそこに全部書いた。ここへ来て迷っていても仕方ない。書く欄があり、目の前にはそれを書くことを望んでいる岩山のような怖い社長がいるんだから。
アルバイト先は、無し、に丸を、学生、のところにも丸をつけた。学校名を書く欄は初めから無かった。
「ありがとうございます。学生さんですか。巻多モカさん…」
お盆に3つ湯気の立つお茶を持って受付の天使さんが舞い戻ってきた。同時にふんわり良い匂いがする。彼女の付けている香水の柔らかい甘い香りだ。
「経験は?」
「あります。メンズエステで働いてました。」
「辞めたのかな?」
「はい…」
これからまた始めるのかもしれないが…宮家さんの下でも…
でも、どちらかと言うとさっき三宮駅でマミちゃんを待っていたあの時までは、私の頭の中では、きっと宮家さんの方を、適当な期間居てから頃合いを見計らって辞めることになるんだろうな…という筋書きで思い描いていた。
一度辞めたのとまた同じ店長の元に戻ることになるのだし、さっきまでは、新しい店でマミちゃんと一緒に働くんだ…と信じ切っていたからだ。
でも今は頭の中が砂嵐のようにボーッとなっていた。
何となくで歯切れ悪く
「はい」
とだけ簡単に答えてしまった。
「差し支えなければ、辞めた理由を聞かせてもらっても良いですか?」
「えっと…」
長い時間必死に黙り込んで考えた。何とかして、自分も元いた店もあんまり悪く言わずに済む方法を…
汗をかき湯飲みを握りしめ机の淵の傷を動き出して見えるくらいジッと睨み付けて考え込んでいると、受付の天使さんがクスッと笑うのが聞こえ、顔を上げてチラリと見ると社長に見逃すよう笑いかけてくれたのが見えた。
「言いたくなければ良いですよ。ちなみに、どこで働いてたの?」
「あ…Dearと言う…」
まだ言い終わらないうちにワッハッハー!と大笑いされ、その怒声みたいな唐突な笑い声に、叱られるのかと勘違いして、私は自分の椅子の背に張り付いて縮み上がった。
「ああ、ごめん、あの店ね。みんな一斉に辞めちゃったって言う。じゃあ貴女もその口ね?
セクハラで有名な店長でしょ、大丈夫でしたか?」
まだ飛び上がった心臓をバクバク言わせながら、なんとか怒られたわけではないと分かり、
(知っているなら仕方ない、)
と頷いて認めた。
「はい、私もみんなが辞める時、一緒に辞めちゃいました。みんなが辞めるので…」
なんだかそのままでは自立してない子だなぁと思われそうだから、
「だんだん制服がおかしくなって来て…店の方向性がどんどん怪しげになって来て…」
とゴニョゴニョ言い訳をし始めていると、社長は身を乗り出して、真面目な顔をして、教えてくれた。
「あのね。このお店は今までいたような所とは違うから。安心して下さいね。
ここでは真面目なマッサージのできる技術の高いセラピストさんを求めています。未経験ならしっかりここで育てます。
この店のコンセプトを説明しておきます。それは、男性の衰えてきた活力を呼び戻す、そのお手伝いをリンパ流しの力でやってあげる、というものです。
朝勃ちって、分かります?」
「えっ?…はい」
「一応分かりますよね?」
「はい」
「この店で施術を受けてハマって通ってもらっているお客さんから、時々感謝の言葉を頂くんだけど、その中でも個人的に一番嬉しくて覚えているのがね、
『朝の復活が蘇った!生きていく活力を取り戻せました』
とか言う声があってね。
貴女は若いし、女性だし、分かりにくいことかも知れませんが、男にとって、こう、若い頃には当たり前だった、そう言う男としての自然現象もねぇ、歳をとってくるとだんだん自然消滅的に衰えてきてしまうものなんです。
『…あれ?しょんぼり…昨日もしょんぼり、その前もだったなぁ…俺はもうダメなのか…これから先、一生もう元気な日は訪れないのかなぁ…』
とね。
ハッキリ目に見えるものでもあるし、これは男性にとっては、非常に落ち込むし、物悲しいものなんですよ。人によっては、命に関わるほど非常に辛いことなんです。
男として、それを象徴する部分に、こう、宿っていた命が失われていくような…ね…」
私は出来るだけ理解しようとして、しんみりと頷いた。
「ところが、それを、うちのセラピストがリンパ流しを真面目に2時間とかのコースでやってあげた、その翌朝にね、蘇ったそうなんです。
まるで自分自身が蘇ったようなものですよ。墓に片足を突っ込みつつあると思っていたところ、いやいやいや、まだまだイケる、これからだ!と希望と自信と、全部のエネルギーがワーッと漲ってきたと言うわけです。」
私はつられて笑顔になり、うんうん、と頷いた。
「ハッキリ言いますとね、この店はそう言った、勃たない人を励ますための店。少し自信が無くなってきたなぁと言う人を応援する店。
…そうで無い人も来ますけども…電話の予約時点で選別できるわけは無いのでね…
それでも、コンセプトとしては、この店はそうありたいと願っています。
マッサージ業界全体が本来なら、そうであるべきだと私は考えているくらいですが…そこを勘違いしている店も多くなって来ているけれども…」
最後の方は険しい顔で深い皺を眉間に刻みながら、社長は空中のどこか一点を見据えた。が、すぐに気を取り直し、
「だから、このお店に来るお客さんは比較的年齢層が高めの方が多いです。
この業界は、風俗と、街の肩凝りマッサージとの間の隙間産業です。最近新しく切り開かれつつあるまだ未知数な分野です。
風俗へ行くのには飽きた、行っても一発やる元気が無い、だけど可愛らしい綺麗な女性には癒してほしい、上手なリラクゼーションマッサージで日頃の疲れを柔らかく取り除きたい、という人のためにある。だから、ウットリするし、女性の手で癒されるけれども、決して性的な最後までのサービスはしない。
手コキ、しません。ヌキ、無しです。アソコに触りません。
…ね?」
社長さんは圧の強い目でジッと見て、念押しして来た。
「分かりますね?」
顔が近い。迫力が凄い。私は精一杯、頷いた。
「特にこの店は絶対に性サービスを提供しない。他店は知らないけど。経営者がテキトーだったり従業員を風俗店から引っ張って来ておんなじ事やらせてる店も出て来てる様ですからね。
でも、この店で今働いてもらってる女の子達、全員が、絶対に性的サービスをやってません。なぜそんな事が言い切れるか。何故だと思いますか?」
私は首を傾げた。
「なぜなら、私の友人や男性従業員を使って実際に一人一人内偵しているからです。だから分かるんです」
社長は効果的な間を置いた。
私は間を持たせるために頷いた。
「だから貴女も、しないでね?ヌキは。絶対に。」
望むところだった。それこそ最初に求人情報に最重要項目として書いてある事だった。逆にこの状況はなんだか威圧して止めなければやると疑われているようだ。不服な気持ちで
「はい」
と頷いた。
「ついこの間も、一人辞めてもらったところなんですよ。
ちょっと…あまりにもサービスが過激で…風俗的過ぎて。
調べてみると、やっぱり風俗店でも掛け持ちしている女の子でした。
別に、掛け持ちしている事自体が問題なわけじゃないんですよ。本人が内容をしっかり分けて、働く店によってしてはいけない事、すべきで無い事を区別してもらえているんであればね、良いんですが…でもなかなか難しいんでしょうね。
辞めてもらいました。貴女は、そうならないでね」
もう一度、目をジッと見て念を押された。
「はい」
やるつもりがなくたって見返し続けるのがなかなか厳しい目力だった。まるで目から入った視線が脳の隅々まで照らし出し、一点の曇りもないか調べられているかのようだ。私は目を逸らし、憩いを求めて女の人の方を向いた。
「彼女はこの店の総括をしてくれている、私の秘書みたいな存在です。高嶺さん。受付からセラピストの子達までアルバイトのシフト管理など、全部任せています」
「よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
社長は私たちが頷き合うのを微笑ましく眺めていて、自分も一つ頷いた。
「私には研修期間が過ぎたらあまり会わなくなると思います。あえてここにはあまり顔を出さないようにしているし。他に仕事もあるので。
彼女にはちょくちょく会うはずですから、分からないことや相談したいことやらが後から細々出てきたら、彼女に聞いて。女性同士の方が話し易いし、良いでしょう?
一応、連絡先だけは私の方にも登録させておいて下さいね」
ここの社長さんは女性を間に入れて従業員の女の子と慎重に距離を保っているみたいだった。
大きな左手の薬指には落ち着きのある銀色の指輪も嵌っていた。太くて、わざと光沢を抑える加工を施した、きつそうな指輪だ。明らかにそれ以外の指に嵌っているお洒落を追求したものとは重みも意味合いも異なる。
「研修は明日から始めます。最低でも三日間はお客さんに入れませんが、諦めないで技の習得に励んで下さい。
三回の研修を終えても、私の判断で、OKが出せないな、ちょっとお客さんにはこのままじゃあ入らせられないなと、判断した場合は、研修は長引くか、最悪、ご縁がなかったと言う事で。やめてもらう事になります。」
「はい」
「一度はOKが出て働き出した後からでも、お客さんからクレームが続いたりすればまた研修するし、あまり手抜きが酷いとか、クレームが減らないようなら辞めてもらいます。
逆に、不安でもっと研修して欲しいとか、腕を上げたいとか言う子は大歓迎ですよ。自発的に言ってきてもらえればいくらでも後からでも研修はしてあげます。何度でも。」
(このお店はなんだかしっかりしているなぁ、敷居が少し高そうだけれど、受け入れられた後の安心感はあるなぁ)
という気がした。
三日間の研修期間中はお給料が出ないみたいだが、分からないながら手探りでやるよりはしっかりと研修を受けた方が自信を持ってこれから本気でやっていけるのかなぁ…と思った。
「あと、給料の受け取り方は二通りあります。
時給制か、出来高制か。どちらが良いですか?」
手のひらを差し出して聞かれ、言葉に詰まった。
「どちらが良いでしょう…?」
「時給制なら、1時間千円貰えます。出来高制は、お客さんから受け取る金額の40%を貰えます。大体1時間に3000円くらい。
お客さんが沢山入れば、出来高制の方が得をするけれど、お客さんが少ない時や一人も来なかった場合は、時給にしておいた方が良かった、と言う事になります。」
「…うーん…」
「初めのうちは時給制にしておきましょうか?その方が無難だから」
考えてもよく分からない事だった。
「はい」
と返事した。
後々、この給料制には自分で自分を呪う苦しみを味わうことになった。
「もしもし」
「もしもし、モコちゃん?お電話ありがとう、今は学校?」
「今、家です」
「そう。これから今日は予定あるの?」
「な…うーん…宿題をしようかなと…」
「そんなもん客待ちの間にやる事よ。今から出ておいで」
「…」
「ちょうど今ならココちゃんとミサちゃんが来てるわよ」
「ええっ!?マジですか?じゃ行きます」
「車で迎えに行くわ。お家どこ?」
「あー…三宮駅でも良いですか?」
「もちろん。何分後くらいに着くの?」
「15分で行きます」
宮家さんからは昨日のうちに何通か連絡が来ていて、出来る限り早く来い、とにかく見学でも何でも良いから早く来い、そして、電話して!とLINEで言われていた。
bijouの面接を受けて帰ってきて、コートを脱ぎ、電話をかけてみると、すぐにまたコートを着て出かけることになった。
(ココちゃんとミサさんに会える!)
と思って駆け足で行ったのだが、会えるわけではなかった。
宮家さんの車に乗り、元町駅を通り過ぎて、ほんの少し海の方へ下りて停めた。車の助手席の窓から、
「あのマンションの、1012号室」
そして運転席の窓から、
「道を挟んでこっちのマンションは807と601号室。覚えてね」
と指差して、
「今ココちゃんが1012、ミサちゃんが807を使ってる。鍵の隠し場所と暗証番号を今から教えるわ。貴女の今日のお部屋はこのマンションの601よ」
とトントン拍子に進められた。
「えっ、今…私…今日から働くんですか?」
「まず写真を撮るけど。…でもその後は、…帰りたいの?
せっかく今日なら夜までお部屋空いてるのに。…まぁ、でも、貴女のお好きなように。ただ…
お給料、今日から持って帰りたくない?」
確かにお金は必要だった…
洗濯物を取り込んでいる、ココちゃんがいる方のマンションの三階の住人のお爺ちゃんの姿を眺め、ぼーっと黙っていると、宮家さんがまた問いを重ねた。
「え、今日は予定ないんでしょ…何か問題なの?」
問題なのはただの私の内部での心の準備が整うか整わないか、だった。
洗濯物を取り込んだお爺ちゃんは家の中にホイッと靴下やらパンツやら全部を放り込んだようで、手ぶらで戻ってきてベランダの柵の上に両手をかけ、下の歩道を覗き込んだ。後ろから奥さんらしい白髪のお婆さんが顔を覗かせ、何か話しかけたみたいで、そっちに顔を向ける。
(心の準備は…ちょっとまだ…)
しかし宮家さんが、
「今日から働くも明日から働くも、一緒のことよ。違う?
結局お金は要るんでしょ?お金がいるから働くんでしょ。
今日、手ぶらで帰るか、お金持って帰るか?」
と静かな声で言った。
確かにそうだ。今日働かずに帰ったからといって、何か別な道が開かれるわけはない。明日また迷っていたのではいつまで経っても働けず、お金は増えず。それどころか収入の無い日にだって食料品も買わなければ食べられないのだから、生きている限り、お金は使う。このままではお金は減っていく一方だ。学費は貯まるどころか擦り減って無くなっていく。
いつの間にか三階のベランダからはお爺さんもお婆さんの姿もなくなり、どこの部屋にいたのだったかも分からなくなってしまった。
「明日はお部屋空いてないわ、あいにく。明後日も明々後日も。どんどん新しい女の子達も入店して来てるし…部屋の数には限りがあるから、いつでも貴女の都合に合わせられるわけじゃないのよ、こっちだって」
と、宮家さんがスケジュール帳を開いて見ながら言った。
車内に目を戻した拍子に、チラッと見えた1週間分の手帳には、ビッシリと、何号室、何時〜何時、女の子の名前、等がズラズラと、隙間を空けないように、部屋を有効に稼働させておこうと、努力して埋めてあるのが見えた。
「今日を逃したら、貴女が次に働けるのは来週からよ。シフトは今からでも聞いてあげるけど…」
(心を決めるのは自分だ… 今、決断しよう。
明日からではなく今日からお金を持って帰る。それしかない。当然だ。やるなら、早くやり出した方がいい、その方が早く店にも慣れる…
他に何の仕事もできなかった私なんだ…他の女の子達に仕事を取られてしまう前にこの職場に食い込まなくては!)
と思った。
「働きます、今日から」
「そう?」
宮家さんは嬉しそうにニンマリした。湯を注ぐような温かい眼差しでジッと見詰めてきながら悪い笑みを深めていくこの表情は中毒になりそうだった。決してこちらの為というのではなく、自分のためになる人間かどうかをじっくり値踏みして見つめてきている猫のような目なのに、それでももっと見つめて欲しくなる。もっと宮家さんに喜んで欲しくなる…
彼女の魔力にかかってしまえば私などイチコロだった。
「この店、夜は12時まで営業よ。今夜は何時までにする?」
「えっと…ココちゃんとミサさんは?何時までですか?」
私はすぐ怖気付いて他の子と揃えようとした。
「ミサちゃんは6時間前から働いてるわよ。24時まで。その代わり途中で一回抜けて子どもを塾に送って行ったわ。
ココちゃんはさっき来て、終電の11時まで。
貴女は神戸に住んでるんでしょ?確か。歩いて帰れるわよね?」
「はい」
「…早く。自分で決めなさい、自分の働く時間くらい」
ちょっとイライラと叱られた。目はまだ、面白そうに笑っていたが。
「じゃあ今日は22時までで…」
「分かった。じゃあネットに上げておくわね。お客さんから貰う金額は60分1万円から始まって、90分1万4千円、120分1万8千円と、30分につき4千円ずつ上がっていく。どこかにメモして。延長料金は5千円よ。
この店は完全出来高制だから。初めのうちはお店が6割貰う。指名も1回目は店が貰う。でも、長く続けるだけ指名料も全部自分で貰えるようになるし、店と五分五分や6割取ることも夢じゃない。」
宮家さんはちょっと黙ってジッと私の目を見つめた。口頭で喋っただけの内容がちゃんとこちらの脳味噌に染み込んでいくのを待っているみたいに。
「分かった?」
「はい…」
私達は歩きながら話し、宮家さんがところどころで立ち止まって、マンション名が記された入口の大理石のプレートや、オートロックの暗証番号、部屋の扉の番号等を指差し、その都度、そこで私は携帯電話を出し、写真を撮った。いっぺんにいっぱい言われても全部は覚え切れないからだ。
「着いた。この部屋よ」
二つある鍵穴に鍵を刺し回して、金のノブの扉を開けると、そこは一人暮らしの女性が住んでいるみたいな可愛いらしい玄関先だった。
小さな硝子の花瓶にいけられた爽やかな香りを吸い上げて放つパステルカラーの造花や、フワフワのポンポンがついたスリッパ、ハートの柄の玄関マット、奥にはラベンダー色のカーテンがかかったワンルームの寝室があった。
低いダブルベッドの脇にポンプ式のオイルの瓶が何種類も置かれ、窪みに隠れたような小さな台所には簡単な紅茶やコーヒーや緑茶等のお茶セットも、素敵なのが置いてある。
レースの模様に縁取られた乙女チックなケーキ皿を見付けて、
「うわぁ、女子ですねぇ」
と言うと、
「マンションエステは女の子の一人暮らしのお部屋に遊びに来た彼氏の気分になれる、と言うのがコンセプトよ」
と宮家さんは言った。
さっきbijouで言われた事と違う。店によってコンセプトって様々あるらしい。
(なるほどぉ…)
と感心していると、まだ宮家さんの重要な話は続いていた。
「今日の仕事の稼ぎは、自分の分をとったら、あとの残りの店の分はここに置いてある封筒に入れて、名前と中身の金額と日付を書いて、この中にポトンと落として入れて置いてね」
と、ポストみたいな入口のついた黒い金庫をトントンと叩いて、隠し場所を知らせてくれた。
「それさえちゃんとやってくれたら、後は、部屋を元通り綺麗にして出て、帰ってくれたら良いだけ。
鍵を忘れずに隠し場所に返してね、絶対。持って帰っちゃったら次の女の子が困るから。
あとは…そのくらいかな。」
宮家さんはジッと私の顔を見ながら頭の中で探し物をした。
「あと、タオルはここ。使って汚れたのはベランダの袋に入れて。業者が取りに来るから。紙パンツとボディスポンジのストックはこの棚の中。
…簡単でしょ?質問は?
それ以外の中身は、前のお店と同じ事やるだけよ」
質問と言われてもまだ何を聞いていいかも分からなかった。不安で目が回りそうだ。
考えても出てこない形にならない疑問がいっぱいグッと喉に詰まったようになって何も言えないでいると、ボンヤリ待っていられない忙しい宮家さんはサッサと次の事に移っていて、クローゼットを開け、
「これとこれとこれ、着てみて。全部Sサイズだから。写真撮るわよ。一番似合って気に入ったのをあげるから、持って帰って自分で洗濯して。次の時にもまたそれで施術してね、基本はね。でももし、忘れちゃっても、ここにあるのを適当に借りて着ていいから」
と言って私の手に次々ワンピースやミニドレスを渡してきた。この前電車でばったり会った時にも持っていた、黒のシンプルなミニワンピースもその中に入っている。
これが一番しっくりきた。
部屋にはとても大きな姿鏡が立て掛けて置いてあった。それまで私は自分の全身を鏡に映して見たことがなかった。
母、祖父母、どの実家でも、鏡は顔を写すだけの大きさだった。
全身鏡の前で私が着替えるのを、ソファに座って見ている宮家さんが後ろの方に写っていた。
「廊下に出て待っていようか?着替え終わるまで」
と言ってくれたのは最初の1着目の着替えまでで、それから次々、色や形や素材や柄の違う衣装に着替え、あらゆる角度から座ったり立ったり寝そべったり後ろを向いたりして動きを止めた私の姿を、宮家さんがパシャパシャパシャパシャ何枚も写真を撮りまくり、
「ちょっとそのまま座っててね」
と言ってスカートの裾を際どい所まで引っ張り上げたり、襟元が大きく開くワンピースに着替えた時には、
「ちょっと後ろ向いて」
と言われ、テキパキ、ブラのホックをキツく留め直して谷間を作り上げたり…
「うわぁ、こうやってすると私にもちゃんと出来るんですねぇ、谷間!」
「ふふん。技術よ」
それから、
「動かないで、そのまま…」
と言いながら宮家さんが真剣な顔をして近づいて来て、私の髪を右に纏めたり一房垂らしたり、長い爪の指先の意外に強い力で顎を2ミリ傾けられたり、ガッと強引に足首を掴んで脚の組み方の位置を変えさせられたり、
「早く!次のポーズ!」
とお尻をペンと叩かれたりなど、しているうちに、アッという間にお互いに遠慮も何も無くなってきてしまった。
「…こんなにいるんですね?写真って…」
写真撮影だけでヘトヘトになりそうだった。それでいて、色んな服が着られモデル気分を味わえて満更でもなく、高揚した声が出た。
「大事よ。写真が貴女の看板。名刺、入口なんだから。
使うのは1着につき1、2枚だけだけどね」
宮家さんは目にもとまらない素早い操作で一番の写りの一枚を選出していき、
「これとこれとこれ、使うわね?
モコちゃんは唇までくらいならネットにアップしても良いかしら?他の子達もみんな口元くらいまでは出してるけど」
「そうですねぇ…」
(危ねぇ、…聞かれなければ顔を丸ごと出されてても文句言えなかったな…)
と内心ちょっとドキッとした。
(佐藤さんなら何て言うだろうか…)
と考えかけたが、みんな唇までは出しているという。
「他の子達の写真って見せて貰えますか?」
「良いけど…」
面倒臭そうながらも店のブログを開いて見せてくれた。
女の子達はみんなさっき私がやったのとおんなじポーズを決めて、口元まで写っているか、顔の上にハートや星やらのスタンプを載せて隠しているか、後ろを向いているかだった。全員同じ人の様に見えてしまいそうなくらいソックリな写真ばかりだ。みんな同じ制服を着ているし。
多分、綺麗にスタイル良く納まるポーズや角度も大体みんな同じなのだ。
「じゃあ私もこんなので。お願いします」
と他のみんなとおんなじ様な写真の一枚に私のも加わった。
ラブソファの隣に座り、宮家さんの写真編集の操作を横から覗いて感心し、他人事のように寛ぎ始めていると、その携帯の画面がパッと切り替わって着信音が鳴り響き、また圧迫されるような緊張感が戻ってきた。
「来たわよ、貴女の初仕事。90分。頑張ってね」
ニッコリ笑って一瞬私をジッと見つめ、鞄を掴んで、すぐに宮家さんが部屋を出て行ってしまった。
誰もいなくなった部屋の玄関で閉まったドアを見て立ち尽くし、急にジッとしていられなくなって奥の部屋に引き返し、ウロウロ辺りを見回し、鏡で自分を確認し、鞄から携帯を出して見ると、LINEが来ていた。宮家さんから二通。
「20:30〜、90分コース、田中様、14000円」
「貴女の源氏名はリノン」
バクバク心臓が鳴った。息苦しくて窓を開け、寒くなってはいけないと閉め、またちょっと開けて、
(こうしておけばいざと言う時、悲鳴が外にも漏れて聞こえて誰かに通報してもらえるかも…)
などと最悪の事態を想定してしまい、頭の中に浮かび上がった、刺されたり、絞められたり、ボコボコに殴られたりして血みどろでこの床を這いずって死んでいく自分の姿を想像してどんどん恐ろしくなり、震え上がって、インターホンが鳴った時には飛び上がって心臓の上を握りしめた両手で押さえ付けた。
モニターに映し出された田中さんが、凶悪な性癖を隠し持つ危険人物のように目に映った。
でもまさかここで居留守を使うわけにはいかない。
(大丈夫、大丈夫、そんないきなり怖いことは起こらない…ココちゃんもミサさんもここで働いてるんだし…)
と念じながらオートロックを解除するボタンを押した。
続く




