12 不安な時期
お店の経営方針はますます怪しげになっていく一方だった。
もうお昼も涼しく、長袖がちょうど良く、ミニスカートは夜になると寒くて履いていられない季節だというのに、水着を満載した段ボール箱が一箱届いた。
「この店の経営者の先輩だ」
と名乗る髑髏のアクセサリーをジャラジャラつけた男が肩に担いで持って上がってきて、
「どっかそこらへん置いといて」
と更衣室まで運んできてドサッと机の上に置いて行ったのを、早速ミリマイが覗いてみたところ、全部水着だったという訳だった。
その後、私が出勤するまでの間にまた新たな別の
「店長の関係者」
と名乗る強面の男がその段ボール箱を何処へか持ち去り、私は現物を見ることができなかったが、出勤した時にはみんなが、いつもにはない勢いでワァワァ騒ぎ立て、血相を変えて後から出勤してきた私にも肩を組んできたので、何事かあったなと思った。
「いつからあんな下着とおんなじ面積でしかない物を制服として着て働かねばならなくなるのか!?」
「もうこの辺りが限度じゃないか?!」
「もう辞めよう!」
「辞めよ辞めよー!」
「一斉にみんなで辞めてやろう!」
「そうしようそうしよう、」
と決まりかけそうになった。
私は現物をこの目で見ていないので、ぼんやりと、夏休みに飲みに行ったバーのステージで踊るベリーダンサーの衣装をなんとなく思い浮かべた。腰を振るたびにシャラシャラ鳴る鈴の途方もない数、銀の腕輪、物凄いハイヒール…きっと貧弱な私の体にはどれも似合わないだろう、それに安眠に向けての物静かなはずのマッサージには、そのイメージは対照的だった。確かに…ズレてきている。もともとの経営方針からどんどんおかしくなってきている、金儲けのためにリラクゼーションマッサージではないところへ、どこか違うところに向かい始めている、とは思った。
(でも…)と私はそこにいたメンバーを見渡した。
その時更衣室にいたメンバーは丸山姉妹と佐藤さんとアカリちゃんだけだった。
この内の佐藤さんと丸山姉妹には、以前から今にも辞めたそうな気配が漂っていた。口に出すこと全てが潔癖で完璧に健全で当たり前の事を言い過ぎていて、なんだか合わせるのに息苦しくなってきていた。
こう言っては何だが、この3人には以前から、それほどまでにはお金に困っていないような節も窺えた。実家暮らしで、親が学費を全部出してくれて、生活費も必要ではないような…
詳しく聞いたわけではないから、ただの僻みかもしれない。自分とは違う苦労を重ね、将来を見据えているのかもしれない。けれど…
もしもここを辞めて別の仕事を探すのであれば、出来れば私のことまでそんなにも一生懸命に誘わないでもらえる方がありがたい…と内心、密かに少しだけ有難迷惑を感じてしまった。
誘ってもらえると言うことは、自分もしっかり仲間に入れて身内の頭数に数えてもらえていると言うことではあるので、これまでに人生で除け者にされてきた歴史の数々を振り返れば、かなり喜ばしく有難い事ではあるのだけれども…
事情が事情だった。
なんとなく、そこにいた中では私と同じくアカリちゃんも、この場の雰囲気にしっくり溶け込めないような曰くありげな曇った表情を浮かべていた。彼女も背に腹は変えられない、家族の窮状を双肩に預かる身の上だった。まだ高校生だけれど、彼女にもまだ辞められない事情があるのだ。
「こんなところでまだ働く気なの?」
「よくやっていられるね?」
みたいな感じの空気は、出来れば出さないでもらえると助かる。軽蔑されながら一緒にいられると、こちらもやりにくく煙たくて、相手の事を嫌いになってしまいそうだった。
誰だってやりたくてやっている仕事ではないのだった。限られた選択肢の中から選んだのであり、その選択肢が沢山ある人もいれば少ない者もいるのだ。そこを分かってくれれば有難いのになぁと思った。
苦しい派閥みたいなものが生み出されてしまいそうな嫌な予感がした。
ミリマイは後から出勤して来た全員に
「一緒に辞めよう」
「これ以上ここにいるのは危な過ぎるよ」
と良かれと思って、みんなの身の安全を第一に考え、徒党を組もうと持ちかけた。
「一斉に全員で辞めなければ危ないかも知れないよ、一人二人ぽつぽつ辞めていくと、店長が途中で介入してくるかも知れない」
そんな怖い店がある事もネットの情報で私達は知っていた。
佐藤さんはミサさんと長いこと話し込んでいた。
誰も傷つけ合おうとはしていないのだ。それなのにそれぞれの事情がもつれあい、一箇所を強く引っ張ってどっちかに全員を動かそうとすると誰かが傷付きそうだった。
「鈴虫が鳴いてる…」
「それ思ってた。近いよね」
「季節だけど…」
「なんか近過ぎない?」
「この部屋の中にいる?」
「そこまで近いとゴキブリじゃん」
「でもいるよねぇ、絶対どっか…この辺に」
「いやぁ、やめてよ、虫嫌い」
と騒いでいた10月のある夜、重大事項が宮家さんによってもたらされた。
「このお店は一旦閉店する事になった」
と言うのだ。
宮家さんは声を張らない人で、近くにいる人に聞こえていればそれで構わないわ、後で自分達で伝言を回してもらえれば…と言う風に、一大事をいつもの声音で横にいる人だけに話すように話すので、誰かが素っ頓狂な叫び声を上げ、
「みんな!重大発表だ!この店閉店するんだって!聞きに来い」
と受付から更衣室に言ってくる子がいなければ、信じられなかった話かも知れなかった。更衣室にいたみんなが受付の駒付き椅子に座る宮家さんの周りにドタバタ走って集まった。
「新しく姉妹店ができるから、みんなそっちに移る事になるんだって!!」
と初めから話を聞いていたミサさんが後から来たみんなに大きな声で教えてくれた。
「詳しくはまだ決まっていないけれど…」
「ホームページは先に出来てる」
と言う事で、みんな早速宮家さんの携帯電話を覗き込んだ。
艶かしい女性の脚線や、ギリギリの胸元や、際どい色っぽい写真や画像でいっぱいなホームページだった。
「ぎゃああ」
「やべぇ」
「これはあかん」
「エロ過ぎるわぁ」
といつもの大騒ぎが始まりかけた。けれど宮家さんの、
「働く気のある子にはやり辛くなるだけだから、あまり大騒ぎしないで」
と言う、声を張らないでもその普通に放った一言だけで、シュンとその場が静まった。
宮家さんとはあまり2人きりでは話したことがなかったが、ある時、私が1人で受付のくるくる回る椅子に座って客待ちをする順番で、自分の役割に耽り無の境地でくるくる椅子を回しお客さんが来るまでの間時間を潰していると、苦笑いのような呆れたような優しくも見えなくもない、子供を相手にするような微笑を浮かべ、宮家さんが背後から現れ背凭れを掴んで椅子の回転を止め、私の顔に顔を近寄せるようにして強制的に視界を三宅さんで塞ぐようにしてきた。
良い香りのする長い髪がカーテンのように私の顔の周りに垂れてきて、唇を奪われるのかと思った。一瞬の後、宮家さんは片側の髪を薄ピンクに透ける爪の長い指で耳にかけ、私の目から目を逸らさないまま、ヒソヒソ話を持ちかけてきた。
「貴女モコちゃんよね?」
「はい…」
「貴女、意外に人気あるのよね」
「え、本当ですか…」
「ほんとよ、指名率伸びてるわよ」
「え、本当ですか?」
フフッ、と宮家さんは微笑みを深めた。
「伸びてるでしょ」
知っているくせに、自分のことなんだから、と言うみたいにそう言われると、そうなんだろうか…と思えてくる。けれども私はなんとなく生きている生き物の代表のような人間なので統計などとっている訳はないのだ。指名率という言葉がある事さえもそれ迄は知らなかったくらいだ。自分の事でも知らない事だらけなのだ。経営者ともなるとやっぱりちゃんとそういう数値を出してグラフとかにして女の子を商品として価値の高低などを付け、ちゃんと比べて見たりしているんだろうかと、チラッとそんな柄にもない店長の絵面が浮かんだ。
「そうですかね?それなら…嬉しいですね」
「そうよ」
「そう…ですね…」
「貴女くらいよ」
「ええっ、本当ですか?」
フフ…とニッコリする。宮家さんは返事とか正確な言葉の中身とかよりも、独特の掴みどころのない間を持っていて、会話の外側の空気感から何かよく分からないが別のもっと大事なのかも知れない物を得ようとしている人みたいだった。
「新しいお店でも頑張って頂戴ね」
「あ…はい…」
実はみんなと一緒に辞めようという話に私は半分は乗りかけていて、心が一秒毎にも揺らぎまくっている時期だった。その心境を知ってのタイミングでこんな事を言って来ているのかと、宮家さんの霊能力的な何か特殊な力を秘めていそうな目を恐る恐る覗き込んだ。宮家さんはじっと見つめ返してきた。濃密な時間を共有させ目を逸らさずニッコリを深める、色っぽい、何か言わんとするところがありそうな彼女の親密な間の取り方には、話の内容はさておき、クラクラ悩殺されそうだった。何故女を相手にしてもこんなに色気を振り撒くんだろう、と最初は不思議でならなかったが、次第にわかってきた。これはきっと、自覚して振りまいているフェロモンではないのだ。生まれながらにして色気が出っ放しで、自分では多分あんまりその事に気付いていないから止めようがないのだ。なんて罪な人なんだ。相手がロックオンされた獲物だと自分で気が付いてしまっても、
〝むしろ光栄ですー…こんなしがない体ですがどうぞお召し上がりくださいませー…″
と身を捧げさせる催眠効果でも持っているかのような、悪い美女みたいだった。
「貴女には期待してるわよ」
「あぁ…はい…ありがとうございます」
「源氏名の候補考えておいてね、ここで使ってるのはダメだから」
「そうなんですか…」
「そうよ、当たり前でしょ。違うお店なんだから」
「そっかぁ…そうですよね…はい…」
宮家さんの独特の微笑と親密なほとんど強制的な絆の結び方にボーッとやられてしまって、気が付いたら私は約束してしまっていた。
これでもう次のお店でも働く事にいつの間にやら決まってしまった。人のせいにするのが大得意の私だけれど、この人には何か本当に人を自分の思い通りに操る、生まれながらに備わった魔力があるように見えた。
ミサさんがまず真っ先に、1日だけ異動して体験してみる事になっていたらしく、それとも突然、今から行ってみる?となったのか、ある日、更衣室でまったりと涼しい風と膨らんではしぼむカーテンと戯れて遊んでいると、興奮して身一つで今出先から戻ってきたような感じで、ミサさんが飛び込んで来た。
「行って来たよ」
と声を上げるなり、
「どうだったどうだった?」
とみんなが興味津々でワッと集まって来た。
「ごく普通のマンションでね、一人暮らし用みたいな、普通の、ちょっと小綺麗なマンションの一室で。やる事は同じよ、ここと。でもここよりはお金になるかも知れない…」
「げぇえ、個室?」
「結局一緒じゃない。ここと」
「でも…」
「やっぱり危ない…」
「自分がしっかりしてれば良いだけよ。ここと同じ。でも来るお客さんは、お忍びで来るわけだから、お金持ちで顔を知られたくないVIP客が多いかも知れない…」
「…確かに、もう他の同じようなお店では店舗型じゃなくて個室がメインだって言うしね…」
「お客さん同士が顔を合わせるのを嫌がってて、他の店に流れてしまって、このお店には来なくなって来てるって、店長も前から言ってたしね…」
店にはシャワールームが一つしかなく、お客さんには順番待ちをしてもらう必要があった。廊下でお客さん同士がすれ違う事もあった。出来るだけそうならないように調整しろとは言われてはいたが。確かにマンションで一人一人対応するとなると店舗より行き届いた設備が整っている事は比べる余地がなかった。
私は間違って施術中の部屋のドアを開けてしまった事もある。ドアに鍵が付いていなかったり、扉のあるはずの所がカーテンの部屋もあったりしたからだ。むしろ7部屋あるうちの一部屋にしかドアがなく、後の6部屋はカーテンで入口が塞いであった。
壁の二面は天井との間に隙間が空いていて、隣の個室から話し声やお客さんのイビキ等が聞こえてきてもいた。
「煩くないですか…すみません…なんでちゃんとした個室になってないんだろ、隙間だらけですよね」
と接客中に謝った時、
「それは法律でそうしなくちゃいけない決まりになってるんだと」
とお客さんが教えてくれた。
「壁と天井をくっ付けたり、ドアを板にしちゃいけない決まり事が何か、法的に定められてるんだ、こういう店はね」
でも、それこそが、何かあっても大声を上げれば誰かが聞き付けてすぐ駆け付けて来てくれる、と言う安心感を与えてくれていた。
マンションの個室では、何が起きても自分1人で対応しなければならない。大きな店舗でも個人の力で出来る限り対処しなければならないのが仕事だから、内容は同じと言ってしまえばそれまでなのだけれども、環境が大きく違う。
何事かが起きる前に対処し易い場所でやる仕事と、何事かが起きてしまってもその後からしか対処が追いつかないだろう場所でやる仕事とでは、やはり…危険度はかなり違うはずだ。それでも、もう店舗型では集客ができなくなってきているという現実も目の前に直面していた。
ミサさん、その次にはマミちゃんが、マンションのエステに徐々に移行していき、更衣室ではあまり姿を見かけなくなってきた。たまに顔を見せると懐かしさと情報欲しさに、みんなが寄ってたかってくっついて回り、
「そっちのお店はどんななの?」
「お客さん多い?」
「お金になる?」
「怖い事ない?」
などとあれこれ質問して回った。
一度、ミサさんがかなりキレてみんなに触れ回り、
「これはお店にも一言くらい抗議しておかなくちゃ、気が済まない…」
と憤激していたことがあった。
それは彼女が大事にしていた白羽さんというお客さんの事だった。
なんとなく自慢げな調子で、みんなにも何度か話していた、きっとあのお客さんのことだったんじゃないかなぁ、と思う。私も彼女がいつもVIPルームに案内して接客をするその白羽さんらしき人物と彼女とが2人で廊下を歩いてくる時に、サッと身を隠せられる空き部屋がちょうど無くて、狭い廊下ですれ違ってしまった事があった。
小柄だがどこかの会社の偉いさんみたいな渋い表情を浮かべ、どっしりとした歩き方で、彼よりもスラリと背の高いミサさんを後に従えて慣れ親しんだVIPルームへの道を真っ直ぐに突き進んで来るその様はなんだか、いかにも大物っぽかった。
ミサさんにいつも指名で来てくれていた長時間の予約をくれる太っ腹なその、多分あの人だろう、ミサさんのお客さんが、何度か電話をかけて来てミサさんを指名しようとしてくれていたというのに、もう一方のお店にちょうど行かされている時で、こちらにはミサさんは出ていなかったので、店で勝手にお客さんを断ってしまっていたのが後から分かったのだ。ミサさんは本気で怒っていた。本当に良いお客さんだったんだろう。お客さんがミサさんを大切に思っていたのがハッキリとよく分かる、ミサさんからも大切にされていたお客さんだった。
「あの人は私のお客さんだったのに」
「良いお客さんだったのに」
と何度も繰り返し、ミサさんは見た事もないほどカンカンだった。
「勝手に何度も断られたせいでもう会えなくなったとしたら、そんなお店、許せないわ」
と言っていた。
彼女の怒りを理解しようとして、まだよく理解してあげられず、黙っている私達に、もどかしげに、彼女は身悶えする様にして震えながら忠告を与えてくれた。
「良いと思うお客さんとは、積極的に、個人的に、連絡先を交換しておくことよ
近々お店を移る事になるのは動かせない確定事項なんだから。ボヤボヤしていて、店の経営に自分達が振り回されないように今から自分でできる事は自分で手を打っておかなくちゃ。
これからはみんなで力を合わせてやっていけてた今までと違うんだからね。本当に個人個人でやっていかなくちゃいけないんだから…」
そのミサさんの一件は、お店を経営する側の誰かが、2chに書き込みのあった
〝この店の系列店は女の子を使い回しにしている″
〝系列のどの店でも同じ女の子が出てくる″
などという言葉に過剰反応して、そんな事はしていないという所を妙に大真面目に見せ付けようとして起きた悲劇だった。
お店のつまらない意地や経営上のミスやイザコザに、出来るだけ自分の力で巻き込まれないように打てるだけの先手は打っておきなさい、というのがミサさんからの警告だった。
次に働く事になる、完全に他の女の子達とも隔離されたマンション型のエステでは、どんなお客さんに当たるのか想像するだに恐ろしい、まるで未知の世界だった。今このお店で培ってきた、少しでも優しい常連客さん達で、是非、出来るだけの時間を埋めてもらい、応援し続けて貰わなければ、空き時間だらけで未知のお客さんしか来ないというのでは不安過ぎる。
私はお得意さん達に自分から連絡先の交換を求め始めた。
「どうしたの?」
と以前には連絡先を聞かれても教えられないと断ったことのあるお客さんには改めて顔を二度見されるほどビックリされた。
「どういう心境の変化?」
「お店を移る事になったんです」
「あー、なるほど、そういうわけかぁ」
彼は納得してLINEを交換してくれ、
「次のお店にも通ってあげるからね、せっかく人見知りの垣根を越えてお喋りできるようになってきたんだから…また1からお気に入りちゃんを探すのは疲れるし。応援するから、辞めないでね」
と励ましてくれた。
これまで職場で〝辞めないで″なんて言われたことが一回もなかった私は心底からホッと温かい気持ちにさせてもらった。
『まだいたの』とか『給料泥棒』とか、凄く良くても、『もし努力しても本当にどうしても合わないなら転職先を探した方が…会社のためにも巻多さん自身の為にも良いことかもしれないよ…』などと、やんわりと転職を勧められたりしてきた。厳しい言い方にせよ本心からの気遣いを込めた穏やかな悟らせ方にせよ、辞める方向へ向けた助言ならいくらでも何度でも貰ってきた。けれど、
「辞めないでね」
は一度も言われたことがなかった。純粋にすごく生きていける気がして、本当に嬉しかった。
別のお客さんには、
「嫁が怖いんだ…」
と告白された。LINEを交換しておきましょう、と提案しなければ知らなかった現実だったが、世の中には旦那さんの携帯を定期的に洗いざらい公開させる奥さんもいれば、(これはきっと過去に何かがあったに違いない、)それでもどうにかこうにかその網の目を掻い潜ってでも他所で女の子と戯れたい男の人は、監視の目に怯えながらも何とかは必ずできるものらしい。
「新しいお店の名前を教えてよ」
と言われた。
「えっと、ココアみたいな名前でした。確か…」
私はオイルでベタベタの手を洗いに洗面所に行くついでに更衣室に寄って、そこにいた丸山姉妹のマイの方に声をかけ、
「何だったっけ、新しい店の名前…」
と聞いてみた。
「ココアじゃなかったっけ?」
「あー、やっぱそうか。ありがとう」
「なんで?」
「お客さんに言おうと思って」
「ふーん…良いお客さん?」
私はそう言われてみると、ちょっと考え、声を低くして
「まぁまぁ…?中くらいかな…?」
と返事しておいた。
実際、良いお客さんとちょっとマシかなというお客さんと苦手なお客さんと可もなく不可もない普通のお客さんなどがリピートしてくれる人達の中にはいるのだろうけれど、私は普段からランク付けなどしていないし、その場の雰囲気にも流されやすいし、自分の機嫌が良い時には大抵自分を指名してくれればそれだけで全員が良いお客さんのようにも思えてしまう。暇な日に来てくれたお客さん、ちょうどお腹が物凄く空いている時に差し入れを持って来てくれたお客さんが、神様に見えてしまうこともある。
だからとりあえず、一度自分からLINEを交換しましょうと1人のお客さんに言い出してしまったからには、不公平になってはいけないという気がして、片っ端から自分に指名をくれたお客さんには出来るだけ全員に、隙を見ては連絡先を聞いて回った。そんな不安な時期だった。
井上くんから初めてアドレスを聞かれた時は、私は少しモタモタして躊躇した。自分には彼氏がいるということを意識したからだ。けれど、これからの学生生活をやっていくのにもその後就職したりして仕事をするのにあたっても、男の人と一切連絡を取らないという姿勢を貫き通してやっていけるものではないだろうとすぐに考えを改めた。頭の中でモニャモニャ考え、喫茶店の椅子の下のカゴに入れていた自分の鞄を引き寄せて膝の上に乗せ、携帯電話を取り出そうとしたり、またしまったり、見つめてくる井上くんの目を見てまた携帯電話を鞄の中で握りしめ、(よし、覚悟を決めた、連絡先交換しよう)と決断するまでに挙動不審な間があった。
それは実は、入学式からすぐの、まだ桜が散り残っている頃のことだった。自己紹介を教壇に立ってした日の帰り道、
(同じ電車に乗っていたんだ!)
と彼の後ろ姿を電車を降りてすぐに見かけ、その面白い背中を私は一人で楽しくなって追いかけ始めた。
あの時彼が何を着ていたのかは思い出せない。けれど、何か目を引く格好をしていたのには間違いがない。それで全然見失わなかったのだ。私はワクワクしながら改札を出て、しばらく、ずーっと彼の後をつけて歩いてみた。
「趣味は街歩きです」
と言っていた、これがそれなのかな、と思って後ろをついて行ってみた。普段の自分なら考え付かないようなおかしな遊びを思いついたものだ、と思った。桜咲く陽気な季節。就業時刻の予想がつきかねたので、アルバイトも入れていず、珍しく何をしてもいい自由時間だった。それだけでも頭のネジが飛んで行くほど面白い珍しい事態だった。最初はウキウキワクワクし、純粋にただ楽しいなぁと勝手に彼を尾行対象に見立てて一人で笑いそうになって歩いていただけだったけれど、ブラブラとどんどん先を歩く彼があまりにこちらに気付かないので、ちょっとずつ後ろめたいなような気持ちがし始めた。
時々信号を渡る前とか曲がり角に立った時とかに、彼は、横を向いたり、こっちに行ってみようかなと考えたりしているのか、チラッと振り返ってこちらを見たような気がした。
(今こっち向いたかな)
(今確かに目が合ったんじゃなかったかな)
と思うような事が度々あったが、それでもハッキリ立ち止まって真っ直ぐ見つめて来たり、
「なんでついて来るんですか」
とか言って来たりする様子はなかった。
(大丈夫大丈夫…彼はクラスメイトの一員でしかない40人くらいいる中の地味な私をまだ覚えているはずがない…)
と思い直しては、今度はネタバラシをしてみたくて仕方なくなって来た。
もうすぐ元町まで来てしまう所だった。
私達はJR三宮の駅から高架下沿いをゆったりと付かず離れずの距離を保ちながら歩いて来た。
こちらに一切尾行の経験も知識もないため、赤信号が長過ぎてどんなにゆっくり歩いてもどうにも追いついてしまってしょうがなく、横並びになって信号待ちをしたりもした。
こちらは胸が破裂しそうなほどドキドキワクワク緊張したり楽しくなったりしてしまっているが、相手はなんにも知らないで、ボーっとただ信号が変わるのを待っている。突然笑い出してヤバイ奴と思われないよう必死で無表情を保った。
井上くんの足運びはのんびりで、ゆったりとして、それでいて歩幅は大きく、歩調に合わせてのんびり構えているとハッと気づけば思いの外遠くに離れてしまっていることに気付かされたり、かと言って慌てて近づき過ぎると、今度はどうしたどうしたどうしたというほど急失速して、立ち止まり出したりした。
何もないようなところで突然立ち止まられてしまったらどうにもしようがなくなって私は彼を追い越し、角を回り込み、すれ違う人達が二度見していくほどの堪えきれない笑みで顔は爆発しそうになっているみたいで、もう限界を超え、もう一度さっきの角を急いで曲がり込んだ時に、ぶつかるようにして、煙草をぼんやり吸っている井上くんに鉢合わせてしまった時に、ついに声をかけてしまった。
「あの」
そうしたら笑いが止まらなくなってしまった。
「ずっとつけて来てたの、気が付いてた?」
井上くんはビックリしてタバコの火をとりあえず消し、周りをちょっとキョロキョロ見回し、さっきから真っ直ぐに目が合っているのに他に周りに誰もいない状況で私が誰と喋っているのか分からないフリをするのかなと一瞬思われた。こんなにヘンテコな逆ナンパみたいな事を人生でも一度も私はやった事は無く、やると思ったこともなかった。まさかまさかの何やっているんだ、どうするんだこれ、という事態だった。笑いが止められないながらも冷や汗をかいてパニックみたいな心境だった。全部自分一人が招いた訳の分からない状況なのだけれど。
「私達、同じクラスの…」
と私は顔から火が出そうな恥ずかしさで笑い止むこともまだ出来ずにしどろもどろに彼に説明し出した。
「私、同じクラスなんです…巻多と言う者です…」
彼は私につられて次第にニヤニヤしてくれた。
「あぁ、…井上です…」
もしかしたらこんなやつそう言えば同じクラスにいたかも知れないなぁと、微かにでも脳内の隅っこから思い出してくれたのかもしれなかった。それで大分助かった。
「え…?つけて来たって、何処から?学校から?」
彼は来た道を私の頭上越しに眺めた。
「ううん、駅から」
「えー…全然…気が付かなかった…」
彼はニコニコしてくれていたが私は変な奴だと認定されたくなくて一刻も早く追跡劇からは話題を逸らしたかった。
「街歩きしてるん?」
「んー…」
「これから街歩き?」
「街歩き…?」
「街歩きしないの?」
「…え、しよか?街歩き?」
なんだか釈然としない会話の流れながら、隣に他の人が来て、煙草に火をつけ始めたので、私達はなんとなくどちらからともなく歩きだした。さっき立ち止まっていた場所は小さな喫煙スポットになっているらしき道端の角だった。ゴミ箱のように見えるゴミを捨てられない銀の偽ゴミ箱が喫煙者達にとっての目印みたいだった。目的地があっていつも時間に追われ、足早に移動する人々や非喫煙者には見えていない忘れられかけた街角だ。
私は彼と付き合い出してから、神戸のあっちこっちにあった、今まで気付かなかったそんな場所をいくつもいくつも覚えることになった。自分では煙草を吸わないのに、彼が吸うので、そういう場所で立ち止まったりそういう場所に彼を残し、目の届く煙の来ない場所まで離れてから、彼がタバコを吸い終わるまでひたすら眺めながら待ちぼうけたりしてきた。
煙を吸い込むのも無駄に立ち止まるのも大嫌いだと言って、顔にも苦手をしっかり表明し体に悪いよと何度も抗議もしてきたけれど、少し離れた場所から彼を写真や動画に収めるのは好きだった。
彼はチラチラこちらを見ているので撮られていることにすぐに気がつく。すると、のんびりに見えてあまり根元までは吸わずに、慌てず火を消し、照れ笑いをよそ見して誤魔化しながらこちらに歩み寄って来る。彼が変な格好を選んでしているせいか、なんでもない風景の中にゆったりとしたどこか非日常的な空間を作り出し、私は彼の動画で携帯がいつもはちきれそうなのに、どれも一つも消す事がまだできないでいる。
後をつけてきた事を自白してしまってから、私達は当てどなく歩き回り、話す事もなくて無言で、私はすぐに後悔し始めた。今度は
(どうやってこの場を切り上げて早々に別々の方向へ向けて歩き出せるか?)
を考え始めた。まだ同じクラスになっただけの知らない者同士だった。別に何も話す事もなかった。ちょっとおかしな探偵の真似ごっこをやってみたかっただけのことで、一人で楽しんでいるところまでなら害はなかったのだ。そこでやめておけば良かったのに、話しかけて相手を巻き込んでしまったから変な気まずさが生まれ出てきてしまったのだ。
私がどうにかしてバイバイする道はないかと、足取り重くキョロキョロ逃げ道を探して目を泳がせ、曲がり角に来るたびに(急に走り出して逃げたりしたらもっと変態だよなぁ…明日から学校で合わせる顔がないよなぁ)と迷ったりしていると、井上くんも無言がしんどくなって来ていたのか、色々と聞いてき始めた。
「どこか行きたいところがあったの?」
「ううん」
「こっちへ来ても良かった?」
「うん」
「今日はこの後予定ないの?」
「うん…」
しまった、と思ったがもう答えてしまった後だった。そう言えば予定がありました、じゃあ、と言えば済んだのに。しかし自分はそういう咄嗟の機転が効かない人間なのだ。無理のある変な空想みたいな長々として得る物もない嘘は吐ける癖に、サラッとした必要悪な嘘がここぞという時、出てこないのだ。
「どこか座ってお茶でも飲む?」
井上くんはスターバックスの春の桜のラテの看板を見下ろしていたが、腰を落ち着けてお茶なんて、そんな事をしていたらますますサヨナラでき難くなってしまう。
「ううん」
「じゃあ…何かしたいことある?」
「街歩きは?井上くんはいつもどんな所を歩いてるの?」
「んー…」
井上くんは無意味にポケットから携帯を出してちょっと眺め、またしまった。
「何時だった?」
と聞くと、
「んー?」と言いながらもう一回携帯を取り出して見てからしか答えられなかった。
「3時。
どうしよか…じゃあ…中華街でも歩いてみるかぁ」
私達は行ったり来たりして、当てどなく神戸駅まで所々でお店のショーウィンドウから中を覗いて見たりしながら、彷徨い歩き、
「海の方へ行くのがいいか山の方へ行くのが良いか」
と聞かれ、
「どっちの方が楽しい?」
と(だって街歩きの達人でしょ)と思い込んでいる私は井上くんに聞き返した。
「じゃあ…ハーバーランドでも行きますかぁ」
その当時最初に行ったハーバーランドとは今はちょっと風景が違う。もう記憶も霞んでしまい、新しく変わった景色の中も飽きるほど歩き回ったので、以前はどこがどんな風に今と違っていたか、正確に思い出す事も難しい。
最初に私が彼の後をつけて歩いた阪急電車の高架下も、見違えるような変化を遂げ、今ではまるで前と全く違うお洒落なお店が軒並みオープンして別の街へ来たかのようだ。所々に過去からの変わらない置き土産みたいな謎の猪の銅像や人間の腰だけを集めて積み上げたちょっと恐怖のトーテムポール等が、間違い探しみたいな紛れ込み方でポツンポツンと残されている。
私達は薄暗いあんまりなんにもやってないように見える煉瓦倉庫を覗き込み、海のヘリをぐるっと回ってだだっ広い広場を通り抜け、嘘みたいな本物の震災跡地を見学し、高速道路の下の日陰を歩いて、また大丸の裏側の辺り、元町界隈へと引き返してきた。もうヒールを履いた足が痛くてしんどかった。どこでどうバイバイしようかという発想は疲れて諦めて消えて無になっていた。
井上くんが
「お腹減ってきたなぁ」
と言ったとき、今度は素直に
「私も座りたい」
と白状してしまった。
さっき見つけた静かそうなカフェまで少しだけ後戻りして、向かい合って座り、それぞれ飲み物とお菓子を注文した。本当はもうご飯が食べたいくらいお腹が減っていたのだけれど、そこではまた
(自分には彼氏がいるから…ご飯まで別の男の子と食べてはいけないかもしれない…)
という妙な段階的なストッパーがかかっていた。
注文したものを待つ間、また気まずさが戻ってきそうな間のもたない空気が流れ出した。歩いていればなんだかんだで話が少しずつは弾んでいたが、待つ事しかやる事がなく動きも景色の変化も止まってしまうと、時間は重たく淀んで進みにくそうに進みだした。
突然、さっきまではなかなか楽しくもあったのに、外も暗いし、足も痛いし、本当はお腹も空いているしで、早く家に帰って体に良くて安くお腹にたまるものが食べたくなってきた。一人で。もう人に気を使うのがイヤだと思えてきた。自分の招いた事なんだけれども。
そんなことを考えている時に、井上くんが真正面から
「連絡先を教えて」
と言ってきた。私はちょっと慌てて、携帯をとりに一度身を屈めながらも鞄の留め金に無意味にカチャカチャ触っただけで身を起こし、やはりダメだ、と、もう一度携帯を取ろうと屈んだり挙動不審な動きをした。その間、頭の中で、
(携帯を忘れてきたと言おうかな、彼氏がいて男の子とアドレス交換してはいけないんじゃないのかな…)
などと考えて葛藤していたのだ。しかし歩きながら携帯電話を手に持っているところは井上くんにも既に見せてしまっていたし、今更そんな空々しい嘘も、これから2年間同じ学校で過ごす人に吐けない。そしてどうせこれからの人生、彼氏以外の男の人とだって連絡先を交換しないでは仕事もやりづらく、生きて行き難くなるだろう。それで私は自分の中に作っていたルールを取り下げて、携帯を取り出し、私達はアドレスを交換したのだった。
私は何が言いたかったんだったっけ…
一度越えてしまった心の壁なんて二度目からは立ち塞がってもいないものなんだなぁと気が付いたというか。
いちいち気にしていては仕事にならないからと、以前には高い障壁だった今や記憶でしかない壁の跡地を踏み越えて、お客さんと連絡先を交換するたびに思ったのだ。これって汚れて染まり始めているとかそういう事になるのかなぁ、とか。昔はピュアだったとか、そういうことなんだろうかとか。
私は変わっていったのは確かだ。生きていくために、仕事しやすく働きやすい、お金をより稼げる体勢に自分を作り替えた。でもそれが、昔持っていた何か大切なものを失ったりしたという事になるんだろうか?
頑なに自分の頭の中で築き上げたルールを貫いて、現実の世界で暮らし向きを傾けるよりかは、…と、私は大事な物の重みを計測し、こちらをとる、と選んで自分で決めたのだ。
確かに、捨てるまでは大切にしてきた自分なりのルールだった。しかし、捨てた後に見ればそれは死骸だ。もしまたそれを大切にしなければならない時が来たら、その時拾い上げて命を吹き込み、そこから大事にすれば良い。今は必要ない。役に立たない暗黙のルールなんて重い荷物だった。捨てなくては自分が沈むかも知れなかったのだから、後悔はしているだけ時間が無駄なのだ。先へ進むことだけを必死に考え自分を変え続けなければいけない時だった。
井上くんは別れ際、最後に、
「何でそんなに街歩きが好きになったの?」
と私に聞いてきた。
「えっ?」と私は耳を疑い信じられない気持ちで聞き返した。
「だって!井上くん!街歩きが趣味って言ってたじゃん」
「えぇ…俺が?…いつ?そんなこと言った?そんな事一回も言ってないよ!」
「えええー、自己紹介の時、言ってたじゃない」
「自己紹介の時…?」
彼は目の光を奥に引っ込めた。
「そんなこと言ったかなぁ…」
彼は思い出そうとする顔をしたが、すぐに諦めてしまった。
「自己紹介の時は、正直、何喋ったか覚えてない。ごめん。緊張してて…あんな教壇に立たせられて、クラス全員がこっちを向いてる前で何か言わせられたら、頭が真っ白で、何か言わなくちゃいけない状況だし、とにかく自分の番を終わらせようと思って何か捻り出しただけ…」
「そうだったんだぁ」
私はなんだかとてつもなくガッカリしてしまった。
もともと目を引くお洒落なのか変なのかよく分からない格好でとにかく目立っていた井上くんが、自己紹介で
「街歩き」
と言った瞬間から、それが凄くお洒落な良い方向に印象付けられて重要なキーワードとして心に残った私には、まるで裏切られたような気分だった。今日一日、彼の好きな事に合わせて頑張って喜ばせようとしていたつもりだったのに、それすら見当違いだったという事なら悲しい気持ちになりそうだった。
「でも今日は楽しかった?」
と聞いてみると、
「うん、楽しかったよ、凄く!また行こう?」
と誘ってくれた。まだ私達は友達ではなかった。今日の事は特別の例外だった。もう二度とこんな事はないだろうとその時の私は思っていた。彼氏もいるし、学校もあるし、アルバイトで掛け持ちもして休みの日など作らないつもりでいた。それでも、また行きたいほど楽しかったよというその気持ちだけは受け取り、気分が晴れた。
「良かった」
私達はまだそこまで仲良くもなかったので、行きがかり上しばらく一緒にいただけだった彼は何度も振り返って手を振ってくれながらも、ちゃんと電車に乗って帰って行った。
続く




