11 井上くん
初めのうちは気のせいかなぁ…と思っていた。彼氏がいるという事は井上くんにもちゃんと言ってあったし、他のクラスメイトにも別に隠してもいなかった。みんな知っている事だった。アルバイト中は別にして、学校では彼氏の存在を隠し立てする何の理由もないし、彼氏を文化祭に呼んだりもしていた。
井上くんは(男の子が好きな男の子なのかもしれない…)とみんなに密かに疑われていた頃とは全く予測もつかなかったほどハッキリと私に男らしく親切にしてくれるようになった。
普通は彼氏持ちじゃない女子の中から自分の彼女候補を探すはずだろう…と私は思い込んでいた。まず好きになっても良い条件から、相手を探す場合なら、そうだ。
けれど、一旦(この人!)と思い込んだ相手に一直線、その人がもう既に誰かの彼女だったとしても、まだ結婚していないなら可能性はぜんぜんある、奪い取っても何の罪にも問われない、むしろ何が悪い?という発想をする人もいるようだ。それが井上くんだった。
私たちの周りには、高校を卒業してそのまま専門学校に入学してきた弾けるようなピチピチの可愛らしい女子達がそこらじゅう手を伸ばせば届くところに犇いていた。男子が多いらしい調理師科とは逆に、栄養士科には女子が男子の4倍くらいいた。
高校を卒業してから回り道を経て、もう一度専門学校に入学してきた私よりも、周りの半数の子達は5歳くらい年下で、まだあどけない純真なお嬢さん達で、その笑顔は羨ましいくらい汚れていない、今朝の朝露で開いたばかりの花のような真っさらな輝きを放っていた。
後ろ暗い隠し事もある自分とは雲泥の差だった。いつも私の心の片隅では、
(自分には絶対にバレてはいけない裏の顔がある…学校には絶対アルバイトの秘密を漏らしてはいけない…卒業するまでは絶対…)
という強烈な暗い思いがあった。自分は真っさらでも真っ白でもない。悪臭を必死に隠し、沼から這い出すため今一度さらに深く暗い淀みに浸かりながら足掻いている。自分の今をドブネズミのようだと思うこともある。昼間は正体を隠し、いずれ日の当たらない世界から完全に抜け出し這い上がるために、光を目指してもがいている、普通の潔白な常識人のふりをしているが、そうではない…自分は汚れに塗れている…そんな気がしていた。
全てがお金で動くこの世界で、ノロマで学もない自分には一生見込みがない。でも学は金で買える。金は若いうちなら、何をしてでも手に入れるつもりにさえなれば、まだ掴むチャンスがある。狡いやり方をも厭わないと言うのであれば。
その今しかないチャンスをできるだけ最小限の浅い身の汚し方にとどめつつ、使えるだけ使ってやろうと言うつもりでいた。そのためには、既に事情を知っていて渋々ながらも一応は納得してくれている彼氏もいる立場で、他の男子にうつつを抜かしている場合ではなかった。
私はギリギリいっぱいいっぱいのところにいる…と思っていた。今は社会的に汚れ仕事と見なされる大っぴらには公言できないアルバイトでご飯を食べていたとしたって、今はこれしかできないんだから仕方がない、このまま、狡いままでも今はいい、誰にも迷惑をかけているわけじゃない…これを仮初の過去にするためにここから頑張ればいいだけのことだ、これをバネに。ただ…まだ今は誰にも知られたくないだけだ…と思っていた。
そんな私の目から見た周りの十代の少女達は、実際のところがどうであれ、透き通るように綺麗な、これからしかない、ピュアな女の子たちに見えた。彼女達にも色々裏の顔や事情はあるのかもしれないが、表向きの表面だけを見ればそう見えた。たとえ腹黒だとしても、複雑な環境に置かれているとしても、内心に私と同じような思いを抱えていたとしても、見た目通りピュアだとしても、この際関係がない。後ろ暗い負い目のある私から見たら、表面上は、自分の他に、何かやましいところのありそうな子なんてクラス中のどこにも一人も見当たらなかった。みんな生まれたての赤ちゃんからそのまま綺麗な服を着せられ17.8年経ったに過ぎない、無垢な子どものように見えた。
彼氏がいない子たちもどっさり山ほどいた。
そんななんの障害もない、井上くんなら手を伸ばせばいくらでも届きそうなところにわんさか彼氏募集中の純真な少女達がいるというのに、何もわざわざ好き好んで取り柄も無いこんな私を選んで好きになってくれたりするはずがないだろう…と、確信を持つのは早過ぎる…と思い、小さな違和感は全部自分の気のせいだと片付け続けることにしていた。
お昼にお弁当を買いにコンビニに行くと、くっついて来た井上くんが、2人きりになった時に
「何か買ってあげようか?」
と私にだけ聞いてくれる。
初めてそんな申し出を受けた時はビックリして、
「なんで?」
とヒソヒソ声で聞き返してしまった。
そこは学校から一番近いコンビニで、最寄駅にもそれほど買い物ができるところは他に多くなく、同じ学校の生徒達がお昼休みになるとウジャウジャお昼ご飯を買いに集まってくるコンビニだった。私は不審な目で井上くんを見つめながら、逸れないようにマイマイ達を探し、心の中で
(何かお金の貸しでもあったっけ?)
と思い出そうともした。けれど、彼にお金を貸した記憶はなかった。
別の日には、
「お土産」
と言って、綺麗に包まれたお手玉くらいの大きさのプレゼントをくれた。薔薇の花の形をしている。
「花弁を引っ張ったら解けて中身が出てくるらしいよ」
と井上くんが言った。そっと花弁を持ち、引っ張って開けてみると、みんなで食べる感じの分けられそうなものでは無かった。一人で食べるためのものだったような、一個の和菓子だった。
隣の席にいたマイマイにも見えるところで渡してくれたので、その場で開けてしまったけれど、マイマイやいつも一緒にいる仲良しのグループ4人みんなで分けて食べるのが難しかった。四等分に分けようとするとポロポロ崩れて粉々の破片のようになり、笑い声で吹き飛ばさないように一生懸命みんなで互いの口に蓋をし合った。
「どこに行って来たの?」
と私は、週の真ん中の日に突然もらったお土産に戸惑って井上くんに尋ねた。
「昨日も学校に来てたのに?」
彼があやふやな返事しかせず、聞いてもなんだかふにゃふにゃとしたよく分からない事しか言わないので、包紙に印刷された説明文を読んでみた。北海道のお土産だった。
「日帰りで行って来たの?めっちゃ弾丸だねぇ?とんぼ返りだったでしょ…何かあったの?親戚が北海道?」
後で分かった事だったが、〝お土産″というのはただの言い草で、そう言えばこちらが受け取りやすいし渡しやすいからそう言っただけみたいだった。彼はただデパートで可愛い包装の餡子のお菓子を見かけ、私が餡子が好きだと話していたのを思い出して買って来てくれただけだった。北海道まで行って来たお土産では無く、神戸大丸で買ったのだ。
彼は高校時代からの友達が派遣で働いている日雇いの特設会場設置のアルバイトを、1日だけ、風邪をひいた友達に代わって出てあげたらしく、その会場が北海道展だったみたいだ。
初めての時は授業終わりの寝起きで、ボーッとしていて、教科書の一ページを頬っぺたから剥がし、どんよりしたまだ眠たい目で目の前の空間を眺めているところだった。そこへ目の前の開いて置いていた教科書の上に包みを置かれたので、すんなりと、何だかよく分からないままその場で開けてしまったが、次からは井上くんはマイマイが他の誰かと盛り上がって話し込んでいる時や、私のすぐそばに誰も居ない時を見計らって小さい贈り物をちょこちょことこっそりめに渡してくれるようになった。
彼はやたら膨らんだトートバックとサブの紙袋をいつも持ち歩いている人で、普段からその中には人に分けてあげる分まで喉飴やポケットティッシュやハンカチやウェットティッシュやガムやチョコレートなどを入れていた。ドラえもんの何でも出てくるポケットのような感じだ。裁縫セットや絆創膏まで人の分まで常備していた。だからみんな彼を尊敬したりちょっと都合良く使ったりしてしまっていた。何か無いものがあれば、とりあえず井上くんに聞いてみたら持っているかもしれない、そう思ってみんなが、お腹が空いたりセロハンテープが必要だったりしたら、彼に持っているか聞いてみて、かなり何でも持ち歩いている彼から少しずつ貰っていた。
私はその延長線上にこういった謎のプレゼントを位置付けることにした。深い意味は無いと思うことにして、なんだかよく分からないけど、目の前に差し出された物は
「ありがとう…」
と言って受け取っていた。わざわざ断らなければいけないほど高価な物とか、重たい意味のありそうな贈り物というわけでもなかったし、井上くんは
「そのかわりノート見せて…」
とか、
「職員室行くのついて来て…」
とか小さい頼み事をして来た。
また別の日には、どこかに消えてしまったチーちゃんを手分けして学校中散らばって探し回っている時などに、2人きりになったタイミングで、
「巻多さん、可愛い」
とか突然言ってくれるようになった。
これには最初のうちは嬉しいとは思えず、ちょっと
(…怖い…)
と感じた。
井上くんってこんなような人じゃないと思っていた。でも本当はこんな軽い人だったんだろうか?
(…なんか簡単に誰にでも2人きりになればこんな風に言って回ってるんだろうか…?)
とか、
(冗談か何かの一種なのかな…?)
などと色々捻くれた疑問の方が先に浮かんでしまい、素直に褒め言葉をそのままの形では受け取れなかった。
理解が追いつかないため、聞こえなかったフリをした。そうしているうちに、なんとなく時間も経過していき、記憶も有耶無耶になってきて、本当に気のせいか空耳だったんじゃないかと思えるような気がしてきて、なかった事にしてしまえそうだった。そのまままたなんとなく今までと同じような感覚を取り戻し、何事もなかったかのようにこれまで通りに喋れるようになって来て、そして完全に忘れかけた頃になって、また、井上くんは時々、
「巻多さん、可愛いよ」
と言ってくれた。
私には爆弾のような言葉だった。
そんな事を言ってもらってもどんな返事をしたら良いのかよく分からない。問題を回避する方法として、そればっかりだけれど、聞こえなかったフリをした。
ぎこちなく別の話題を探したり、黙ってスルーして忘れ去ってしまおうとした。可愛いという言葉の意味さえ、分からなくなりそうだった。自分と他人とでは違う意味の覚え方をしているのかもしれない…と疑わしくなったりした。
そのうち、井上くんは堂々と「可愛い」とか「綺麗」とかと、明らかにただの友達に対して言うのではない褒め言葉を、もう2人きりでもないところでも、人に聞かれるのも構わず、ハッキリ言って来るようになった。これには参った。
私はそんな時は背筋がヒヤリとし、聞き間違いか冗談か何かかと思い、自分以外の周りの人には聞こえてしまわなかったか、バレなかったか、と焦って、周りの人の目を私の方が気にして縮こまってしまった。
マイマイも初めのうちは知らんぷりしていたみたいだった。もうどうしたって聞こえてしまったに違いないと思ってチラリと顔を覗き込んでみても、目に膜をかけて
「我関せず」
という意思表示をしていた。
私には悩ましい、本気で自分にしか聞こえていないのか、どうなんだか分からない日々が経過した。
ある日、授業中本気で眠っていて、休み時間になって目が覚めた時、口元に垂れていた自分の髪の一房が涎で濡れているのに気付き、寝惚けながらも、
「うわぁ、汚なぁ…」
と自分でも思い、
「きったねぇ、早く洗って来い」
とマイマイにも汚いと言われて、トイレへ行って洗面台で洗おう…と思い立ち上がりかけた。その時、井上くんが隣の席から手を伸ばしてきて素手で私のその髪を梳いた。あまりビックリしたので眠気など一挙に吹き飛び、濡れた彼の手を見て、恥ずかしくて、とにかく、その手をニコニコした自分の口元の方へ近付けようとする井上くんのおでことその手を両手で捕まえて引き離し、早く彼の手についた汚れを拭こうと、自分では持っていないハンカチかティッシュを必死であちこち探し回った。身体中から変な汗が噴き出た。
「可愛いよ」
と井上くんはそのタイミングでニコニコして言い放ち、明らかにその声量は私以外の周りの人達にも聞こえていた。
マイマイが
「お前、大概にしとけよ、気持ち悪い。赤信号渡ってるからな。一歩手前で踏み止まってねぇから、それ。もう完全アウトだから。」
と痒そうにガリガリ髪の中を爪を立てて掻きむしりながら忠告した。
やっぱり今までの彼の台詞も全部聞こえていたに違いない、そう思い、私の方が恥ずかしくて顔が火照り、背中は冷や汗をかき、平然と満面の笑みを浮かべている井上くんの生態が謎で仕方なかった。
後から聞いたところによると、井上くんは夏休み明けから喫煙所で隣のクラスの女子達に恋愛相談に乗ってもらっていたらしい。
「夏休み中良い事あった?彼氏とか、彼女できた?」
なんて言うどこの学校でもやるような話題が持ち上がり、みんなまともに答える義理もなく、それぞれ
「3人ぐらい可愛い子がいて絞れないなぁ」
とか
「誰でも良いから告ってきてくれたらいつでも付き合えるけどなー」
とか当たり障りのない事を言ったり、好きな相手がいても隠し立てする中、井上くんだけが真面目に
「同じクラスの巻多さんのことが気になってる」
と打ち明けたそうだ。
「ええっ!…でも、あの子…彼氏いるらしいよ…」
と言いにくそうに皆んなが教えてくれよう、そして止めようとしてくれたのを、
「知ってるけどそれでも気になるから、略奪愛、頑張る」
と宣言していたという事だった。
喫煙所にいた人達は
「おお~…」
と井上くんの男気を見直し、
「そんな事なら頑張れ!応援する!」
と約束してくれていたそうだ。
私は当時はそんな事になっているなどとはつゆ知らず、まさか自分と彼以外の周辺の人々の方が先にこんなプライベートな繊細な問題をあらかじめクッキリと把握してしまっていて、注目して見ていたり応援などしているなんて全く思ってもいなかった。
自分が知らないフリを貫いていればそのうち彼も興が冷めてきて、人知れないうちにこの問題は立ち消えになり、自然消滅的に解決するだろう…などと、もっと簡単に考え、なんとなくそうなることを願っていた。ハッキリ告白されたりすれば、
「彼氏がいるから付き合えない。ごめん」
と答えるしかなかったが、そうなる事さえ避けたかった。自分が断る立場になるとかいう状況にはなって欲しくなかった。断るということ自体を、出来れば絶対したくなかった。そもそも最初から何もなかったことにしたかった。
次の教室へ向かって渡り廊下を歩きながら、いつも一歩後ろから私とマイマイの後をついて来る井上くんに向かってそれとなく気付いて欲しくて、何度か繰り返して言ったことがある。
「井上くんって体は大きいけど、迷子の子猫みたいだね…ちょっと撫でてあげたら、それからずーっと懐いちゃって後ろを追いかけてついて来る…みたいな…
でも可愛いけど、うちではもう大きい犬を飼ってるから、これ以上は飼えないよー、ごめんねー、…っていう感じなんだけど…」
隣でマイマイはふむふむと前を向いたまま頷き、聞いていないようなフリをして何度目かに私がそんな例え話をしているときに、井上くんに、
「この子が今、言ってることの意味、お前ちゃんと分かってる?」
とおさらいして、私に加勢してくれた。
「おめぇの事を言ってんだよ!
…ふわ~っとしてる割には一応はちゃんと言わなくちゃいけない事はしっかり言ってるんだけどなぁ。伝われよ、お前」
それからマイマイは別の時に、井上くんにこんな風にも言ってくれた。
「この子は捕まえられないよ。捕まえやすそうに見えて、手を伸ばすと、風船みたいに、ふわっ、ふわっ、と逃げていって。
…お前、諦めろ」
けれど、井上くんにも、まだよく分からないところが残されていた。
彼は夏休み明けから1ヶ月もしないうちから〝巻多さんのストーカー″とか〝守護神”〝ボディガード”〝保護者″〝壁″などと通り名が付くほどみんなに公認の私の後ろにいつもいる人として定着してしまっていたが、かなり、女同士でしている下ネタ話にもグイグイ参加して来た。
そこが私には解せなかった。
これまでの彼氏との付き合いの中で、私は、
(男の人って、好きな女の人の前では下品な話をしたがらないものだ、)
と思い込んでいた。
彼氏と付き合っている間や、付き合いだす前に同じ和食料理店の板場で働いていた頃に、彼氏は下ネタをあんまり私の耳に入れないように時には必死になって戦っているみたいになっていた時があった。
私の他には男しかいない板場で、何やら朝早くから来ていた従業員達が盛り上がって話しているところを通り掛かり、何の話かなと聞き耳を立てようとしていると、私の彼氏は、素早く後ろから寄ってきて、私の耳を両手で塞ぐようにして、
「こらこら、この子がいるんだから」
と、下世話な話題から私を守るような態度をとってくれた。
私自身は別にちょっとぐらい聞こえる程度なら構わないのになぁとは思ったが、それでも、大事な人を下品な話題から遠ざけておこうとするような守ってやろうという優しい扱いを受けた気になり、少し嬉しかったのだ。
だから、てっきり、男の子は誰でも好きな女子の見ている前では下ネタなトークはできないし、下品な話を好きな子に聞かせたくもないものなのだと信じ込んでしまっていた。
井上くんは全くそんな事はないみたいだった。彼はエッチな話題に開放的だった。むしろ面白がってノリノリでマイマイと風俗街あるあるなうんちく話をどこまでも掘り下げたりして、マイマイの出身地の沖縄の風俗事情にまであまりにも精通し過ぎているので流石のマイマイにもドン引きされ、
「こわっ。何でそんなことまで知ってんの、キショいわ~…マジやめとけ、コイツだけは!ちょっと怖いわ…」
と終いには怯えられていた。
井上くんは正直すぎて、よく分かるのだかわけが分からない人なんだか、謎だった。
私が彼氏の愚痴を言うのを聞くと、
「じゃあこっちに来たら良いのに」
とほぼ告白とも受け取れるような事も言ってくる。それでいて、最近のいつ行ったのかは知らないが、お婆ちゃんしかいなかった風俗街の模様を私に面白おかしく話して聞かせてくれたりもした。
「あの道を深夜にバイクで走ってるとね…、深夜だよ。2時3時に。バスも最終なんてとっくに終わっちゃって、バスが来るわけないバス停で、ベンチにお婆ちゃん達が何人も何人も座ってるんだよ。
(ええっ…、何あれ?何?何??)ってなって、運転しながらでも身を乗り出してよく見ようとして、そっちを見るでしょ、そら。異様な光景だから。そしたら、お婆ちゃん達が
(おいで、おいで…)って手招きするんだよ。黄泉の国へ連れて行かれちゃうかなぁ~…とか思いながら、
(ええー、何?何?)って、そっちへバイク押して戻って、一人のお婆ちゃんについて行ってみたら、何か古ーい怖ーいお化け屋敷みたいなお家に連れて行かれて、
『中へどうぞ、』って。」
彼はニヤニヤした。
「え?それで?入ったの?」
「うん。そしたら、二階に別のお婆ちゃんがいて…」
「え、ちょっと待って、入ったの?」
「入ったよ。二階に別のお婆ちゃんがいて…」
(ほお…、)と私は聴き入った。
「…って言う、場所なんだよ、あの辺りは。」
(はぁ…?)と思って、それまでの会話を傾げた頭の中で巻き戻し、もっと前の会話の文脈から彼の言わんとする答えを導き出そうとした。
「風俗街って事?」
私達はさっきからずっと福原の話をしていたのだ。日の入りで一旦閉めなければいけないので、店が一斉に閉まり、それからまた開けるのだとか、彼が言っていた。と言う事は、私たちがさっきからしていた話の流れ的に、彼が入った古ーい怖ーいお家の中で二階のお婆ちゃんと彼は一体何をしたのだろうか。
「お婆ちゃんと、した?」
私は目を丸くしてジッと彼を見ながらズバッと聞いてしまった。
「まぁ」
と彼が照れ笑いのような笑顔をニヤッと浮かべた。
私はしばらく黙って真剣に白いモヤのようなその光景を頭の中に思い浮かべようとした。一生懸命になっても何にもちゃんとした映像では浮かび上がってこなかった。
「そのお婆ちゃんて何歳くらい?」
「さぁ~…」彼は真剣に思い出そうとした。
「70…80…くらいかなぁ…?」
思ったより本気のお婆ちゃんだ。60とかではなかった。今どきの綺麗な60代とかではなさそうだ。自分のお婆ちゃんよりも先輩だ。井上くんのお婆ちゃんよりも年上だろう。
「え…、骨とか折れちゃわないの?」
真剣に私もお婆ちゃんの骨の強度を心配した。
「折れないでしょ」
と井上くんはケラケラと笑って簡単にその問題を片付けたが、私は全然ふに落ちなかった。
というのも、自分自身が彼氏とする時にいつもいつも
(骨が折れそうだ、真面目にいつか骨が折れる、骨が折れるのも時間の問題だ、今まで一本も骨が折れていないのはたまたま運が良いだけなんだ…次こそ折れるに違いない…)
と本気で心配し恐れ続けていたからだ。
私はしばらく無言で真剣に考えていて、やっぱりふに落ちず井上くんにもう一度聞いてしまった。
「その、井上くんとしたお婆ちゃんは、後で骨が折れたとか言ってなかった?」
「そんな簡単に骨折れないよ」
井上くんは笑うが、私は心底真面目だった。
「いや、絶対折れるよ。いつか。近いうち。絶対、」
「折れないようにするでしょ。普通」
と井上くんが優しい声で言い、その彼の持ち味の、生まれつきみたいなすごく優しい話し方を聞いていると、
(そうなのかもな、彼はそうなのかもしれないな…)
と思えてきた。なんだかほんの少しそのお婆ちゃんが羨ましくなってきそうだった。
もうしばらく黙って頭の中でその今聞いた情報を分析して歩いていると、別の疑問が浮かんできて、聞かずにいられなくなってきた。
「何歳のお婆ちゃんにまで、そう…できるの?」
「さぁ~…」
井上くんは笑い顔ながらも真剣に考えてくれ、
「お婆ちゃんによるでしょうね、それは。」
と結論を出した。
「確かにまぁそうかもしれないけど…」
と私も言った。
「じゃあそれっていつの事?10代とか?若いから出来たとか?」
「いや、そんな事ないよ。…大事なのは雰囲気でしょ」
「雰囲気?何それ?雰囲気って何よ?」
と私は詰め寄った。
「いやぁ…、雰囲気…が全てでしょう…」
彼が雰囲気雰囲気と言うので、何となく私にもうっすらと分かったような分からないような気がしてきた。
友達としてそんな話を語り合うのは凄く楽しく、面白いのだけれど、もし本当に私のことを彼女にしたいと思っている人ならしないはずの話だろうと思うので、そういう点では頭が混乱した。
ただ、お婆ちゃんに優しくて、愛があって、雰囲気さえ整えばいけちゃう、と言う井上くんに対して私は不快な印象を抱かなかった。むしろすごく好感を持った。仕事柄、私はお客さんの良かれと思って言っている、
「きみは若くて良いね、若くて可愛いね、」
とか、
「うちのはもうババァだから…」
とか
「年寄りの肌を見たいとか触りたいとは思わない…」
などと言う、褒め言葉もどきみたいなものや悪意が感じられる謙遜のような悪口のような言葉に辟易していた。
若い、だから綺麗とか可愛いとか言うのは、褒め言葉の一つには数えられないと私には思えた。だって、若さとは一つの通過点のことだ。それなら若く無くなったら用がなくなると言う意味ではないか。その人自体を見ていない空っぽな褒め方だ。女の人は早死にしない限りみんなお婆ちゃんになるんだから、お婆ちゃんという存在への悪口はその女性の未来への悪口でもあるのだ。だから、遠回しにどんな若い女性にに言っても失礼にあたると思う。
それに自分と連れ添っている相手や、自分と同年代や年上の異性に興味が持てないと言うことも、あんまり自慢げに言いふらすようなことではない気がする。だって、それって自分の欠陥ではないか。
お客さんは目の前のセラピストを褒めてあげようとして、良かれと思って言ってくれているのだろうけれど、色々言いたいことやなんやかんやを黙って堪えて聞いていると、自分一人の解釈で深く掘り下げて悪意のある受け取り方をしてしまい、何だか後で勝手にしんどくなってきてしまうのだ。
でも井上くんのお婆ちゃんをも愛せるという大きな優しい広い心と器の大きさには感服してしまった。女の人だって、いくつになっても愛されたいのだから、若いうちだけ若いからと言って褒めてくれる人よりも断然、井上くんのように、どんなお婆ちゃんになっても優しく愛せる事を実証している人の方がよっぽど良いなぁと思えてしまう。
私はちょっと変わり者なので、同じ話を聞いても全く違う受け取り方をする人も沢山いるかも知れない、気持ち悪い…と感じる人も多分いるだろうとは思う。けれど、少なくとも、私は、この事でも彼にすごく好意を持ってしまった。
きっと井上くんと一緒に歳をとっていく女の人は、いくつになろうとも安心して幸せに歳を重ねられるという事だ、お爺ちゃんとお婆ちゃんになっても二人だけの世界でイチャイチャできるのだ、それって可愛くて微笑ましくて望ましい未来だなぁ…と思えたのだ。
マイマイの家に勉強会に誘われて、私と井上くんと二人で一緒に行く事になった時には、
「もしマイマイに誘われちゃったらどうする?」
と、なぜそんな話になったんだったか忘れてしまったけれど、ふざけていてそんな話になった。
「うーん、…流れに任す?かなぁ…?」
と、想像し始めて嬉しそうにニコニコ顔になりながら、井上くんはすごくリアルな回答をした。
(そんなことになったら良いなぁ…)
とそれから後はずっとぼんやり考えている顔をし続けていた。
マイマイは井上くんよりも年上で、彼氏はいるらしいけれども、なんとなくそんなような雰囲気になったら…2人ともお喋り上ではかなり性的に気軽に事を捉えているように見受けられたし、2人とも私から見るとオトナだった。マイマイのタップリしたバストは女の私から見ても憧れだったし、もし何かの折に触らせてもらえるなら遠慮なく触ってみたい魅惑の揺れ方を時々していた。私でも誘われたらひとたまりもない。きっと流れに身を任せると思う。井上くんと同じで。
試しに、いっちょやってみるか、みたいなノリに…もし2人ともが同じ間合いで思うようなことが起こったら…どうだろうか…私のような未熟者には予測のつかない事態も起こりそうなような気もした。
結局お泊まりに誘われたのは私一人だけだった。夜が更けてきて、
「男は帰れ」
と言われ、一人だけ帰り支度をさせられて、シュンと寂しそうな可哀想な犬のような顔になって渋々ノロノロ帰り支度をし、街頭の仄かな明かりに照らされ駅へ向かって、何度も振り返り「戻って来い」と言ってもらえないか期待しているみたいにちょっと手を上げて振ってみている井上くんが、角を曲がって見えなくなるまで、マイマイのマンションの玄関口に二人並んで手を振り振り見送りながら、ずっと
(変な子だなぁ…)
と思っていた。
(正直すぎると言うか…普通は狙ってる人の友達と流れでどうかなりたいなんて言わないよなぁ…?)
井上くんのそういうところを考え出すと、まだ自分の勘違いの可能性も私は捨て切れなかった。告白めいたことはちょいちょい言われていたが、まともに返事をしないでも何とかなって来た。こちらとしては、ハッキリ白黒つけて友達関係が取り返しのつかない終わり方をするのも怖かった。
でも喫煙所で井上くんを応援すると約束した人達はどんどん噂を広げ、井上くんを応援している人数は増えていたみたいだった。隠し立てしない妙に堂々とした彼の態度も、誤魔化しが効かない所まで来ていた。
私だけは、火も煙もまだ立たないうちに揉み消しに必死になっているつもりだった。きっとすぐに彼も私に飽き、他にいっぱいいるもっと素敵な女の子達の方へ目が向くだろう、そうなったらあっという間に、私について回って歩いた気まぐれな一時期の頃のことなど忘れ去ってしまうだろう、もうすぐにも…この変な状況が夢だったみたいに彼の目も醒めるだろう、と思っていた。
私は自分以外にハッキリ事態を知っている人たちが他に何人もいるなんて聞いていなかった。
それなのに、まだ私自身がよく状況を飲み込めてすらいなかったうちから、既に
「これから火をおこします、見物と野次馬よろしく」
と放火犯が宣伝していたようなものだった。
大きく火の手が上がるずっと前から場所と観客が用意されていたようなものだ。見て見ぬ振りで立ち消えになると踏んでいた私に消し止められるような小さな炎ではなかった。井上くんはガソリンを撒いていたのだ。彼は本気になったら結構凄い人だった。自分の気持ちに頑固で一直線で、堂々と大勢を巻き込んでしまい、もし自分がフられることになったとしても学校中のみんなにそれが知れ渡るのを恐れていない大胆さだった。なりふり構わない勝負師みたいにも見えた。彼は大した策士だった、もし私が、押しの強い相手には負け続けの人間で、断る事が大の苦手だと知っていてこんなやり方を詰めてきたのだとしたら。
私は1年生の夏休み明けから2年生の夏休み前まで、この身に余るありがた迷惑に喜んで良いのやら困り果てたのやら訳の分からない状況に悩まされた。
井上くん自身も、他人に応援してもらうことにしたせいで、自分自身を追い詰め、後に引けなくなってしまっていたのかもしれない。
優しくて心が綺麗な井上くんの事を本当に心配する学生は、面白がって応援してはいなかったと思う。本気で
「あの子はやめた方がいいよ」
とか
「あれのどこが良いんだろ」
と言っていた人もいたと思う。
私は授業中寝てばかりいて落ちこぼれで、成績もギリギリのところをスレスレでなんとかかんとか落第にならずに通過していた。走り幅跳びの選手みたいに。いつも下から数えて何番目かのところを走っていたし、普段から打ち解けて仲良くしている4人以外の他の生徒に対しては、人付き合いもすごく下手だった。クラスメイトの名前もよく覚えていなかった。
ノロいので、実験の班を組むときとか実習の班を組むときはマイマイがいてくれなかったら多分、一番最後まで余っている人材だったろうし、あまり遠慮しない子は年下でもちょっと私に厳しかった。
「ちょっと!」
とか
「ちゃんとやってくださいよ!」
とか
「ああ、もう!」
とか
「先生の話聞いてました?」
とか
「あ、もうやらなくて良いんで、置いといてください…座っといて…」
と言われ、凹んだ。
やっぱりどこでも、速さが求められる世界では私は生きていけないんだ…と思った。
正面から恋人としての彼を拒絶して友達としての井上くんを失うのも怖すぎて、出来なくて、あまり困ったので、私は訳の分からない変な陽動作戦に出たりもした。
同じクラスにいた、ヒョロリとして無欲で無害で無味無臭そうな男子生徒にちょっと気があるような素振りで振る舞い、ちょっかいを出す相手を井上くんからその人に切り替えたりした。
わざと井上くんやその彼(須坂くん)に聞こえるように
「須坂くんは横顔が彼氏に似てる」
などと急に妙な告白をしたり、須坂くんがこちらを向くまで根気よく見つめ続け、目が合いかけたらサッと目を逸らすとか、無料恋愛指南記事とかによく書いてあるような事で、自分にもやれそうな事は何でも手当たり次第やってみた。
学校でやることが多くなって忙しくなった。やたらくっついて来てくれる井上くんからは今だけはしばらくなんとなく距離をとって逃げるようにしながら、須坂くんにちょっかいを出し、授業中に睡眠をとり、授業が終わってから焦った。教科書の内容の解説を聞いていないだけではなく、課題が何かも、テスト範囲がどこからどこまでかも、学生生活に必要な書類手続きのやり方とかも、一切聞いていなくて困った。
先生が大事な話をしていて他の子達はちゃんとその場その場でこなしたりメモを取ったりしているのに、そこでスヤスヤ寝ているくせして、後でハッと目覚めてから周りの人達に聞いて回って迷惑をかけるので、マイマイにも愛想を尽かされそうになり、
「お前は学校に勉強をしに来いよ」
とゲンコツを振り上げて脅された。
須坂くんはスポーツメーカーのブランドのさりげない着こなしが可もなく不可もない爽やかさで、時々授業中に急に確認試験が実施されると、始まる前と後では髪型がメチャメチャに変わっているほど頭を抱えたり髪をもみくちゃにして考え込む無意識の癖があるらしく、そんなところも
(可愛い…)
と密かに人気で、とにかく目立った悪いポイントが無い人だから、実はモテていた。目印みたいに背が高く、鼻も高く、あまり話さず、控えめな所は悪い印象を与え難かった。
数が少ない男子生徒は一人一人の個性が引き立ち、目立つことが多い中、須坂くんだけはいつまで経っても主張が薄くて、目立たなかった。それでも(そういうところがいい!)という感じで確実にモテていた。女子からのちょっと丁重な扱われ方でそんな事は同性になら分かる。本人はよく気が付いていないようだったけれど、実際はみんなにもてはやされている人だから、私一人が多少それと同じような態度をとったとしても、ものの数に入らないかなと思っていた。
その通り、須坂くん本人は一向になんにも気が付いていなかった。
私や他の女子に接する態度もそれまでと何も変わらなかった。一番仲のいい友達と一緒に、井上くんの机に課題の解き方を教えて貰いに来たり、5人の班を作らなければいけない時などに、
「一緒のグループになろう」
と、男同士では3人でよく連んでいる井上くんに誘いをかけに来たりしていた。
授業中、井上くんが私に話しかけようとしてこちらに身を乗り出しかける気配を察知して、咄嗟に用もないのに須坂くんを振り返り、
「実験の授業の課題分かった?」
と別の授業中に突如全く違う授業の話を持ちかけてビックリさせたりした。須坂くんと私は実験の授業では同じ班だったのだ。共同で提出しなければいけない課題とかもあった。ただ、そんな話は休み時間にするのが常識だ。
「後でね」
と当たり前の理屈で追い払われ、(今は教壇の方を向いてた方がいいよ)というような目配せをされた。
井上くんはちょっと変な顔をして私が前に向き直るのを待っていて、
「何の話?」
と不思議そうに聞いてきた。
もともと彼氏がいても平気でかかってくる相手に向かって、この付け焼き刃の自分でも何がしたかったのかよく分からない作戦は全然効き目がなかった。井上くんは学校で私がやっている事には関心がないみたいに見えた。こっちが一生懸命須坂くんに話しかけたところで、別に気にもならないというのんびりとした無表情な顔をしていた。
もともと井上くんの顔はあまり派手に表情が変わらないみたいだった。顎ががっしりしていて、頬っぺたがふっくらしていて、眼鏡の奥の瞳は風神か雷神かみたいなちょっと凄みのある、上から無言でジィッと見下ろされると何を考えているのか分からなくてちょっとずつ怖くも見えてくる目なのだけれど、大柄な全身から醸し出す雰囲気はいつも穏やかで、一定な安定した表情を常に浮かべていた。温和な心をそのまま反映しているみたいだった。それで彼のそばにいる人はイライラしていてもだんだん気持ちが静まってくるのだ。大きな木の木陰に入ったみたいに、イオンとか何か自然に気持ちが静まる霧とかが出ているみたいだった。
井上くんはのんびり構えていて、ただ、学校帰りだけは自分の時間が許す限り最後まで私を見送ってくれようとした。
放課後はアルバイトに直行する私は、駅までで何とかして彼の追跡を振り切らなければならなかった。
「トイレに行ってくる」
と言っておいて、一旦トイレに入ると長いこと出てこない井上くんの習性を逆手にとり、サッと済ませ、彼を待たずに、上手くまいたりした。
井上くんが自分はトイレに行かなくなり、女子トイレの出入り口のところでじぃっと待っていてくれるようになると、今度は単純に弾丸のように飛び出して猛ダッシュしてまいたり、一旦逆方向のホームに降りて、ドアが閉まる間際の電車に飛び乗ったり乗らなかったりしてまいたりした。
上手く発車前の電車に飛び込めて、振り返り、後ろでは彼が閉まったドアの外で変な顔をしてこちらを見ている目と、目が合っている間は、吹き出しそうで可笑しくて堪らなくて笑いをこらえるのに必死なのに、ゆっくりと電車が発車し、速度を上げて走り出すと、なんだか笑いも楽しさも何が嬉しかったのか分からなくなっていき、彼が見えなくなると車内を向いて閉まったドアにもたれ、自然に笑みも面白味も消えていった。
彼がいる事が当たり前になりすぎていて、きっと彼が私を追って来なくなったら今ほど毎日面白かったり楽しかったりは絶対しないんだろうなという事は、自分でもよく分かっていた。
口に出して
「ついて来ないで」
と頼んでも、
「なんで?」
とすごく優しい声で聞きながら彼はついて来ようとした。こちらがハッキリ理由を言って納得させられない以上はどこまででもついて歩いて良いと考えているみたいだった。
でも人混みの中で急に走り出したり、閉まりかけた電車に飛び乗ったり降りたりするのはかなり他の人にも迷惑なので、そこまで必死に嫌なのかと、彼も困惑し最終的には、折れて、
「バイバイ」
と言えば諦めて
「バイバイ」
と渋々ながらも手を振り返してくれるようになった。
早足で歩き出しながら、姑息に尾行してついて来るんではないかとしばらく行ったところで振り返ってみたが、彼はつまらなそうな顔をして、さてどこへ行こうかなぁ…と、のんびり別の方向へ歩き出すところだった。彼は卑怯な真似はしない人なのだ。
もしこれ以上しつこくついて来ようとしたら、ちょっと頭に来はじめてもいたし、彼の眼鏡を奪って反対方向へ放り投げてでも、その隙に走って逃げるしかない、と思いかけていた私はホッとした。
井上くんは私の後ろをいつもついて来てくれる人だったので、私の前を歩くことが少なかったせいで、ある時ふと彼が何かの拍子に私の前を歩いている姿を見かけるまで、彼が片足を引き摺るようなちょっと妙な歩き方になってしまっている事に気付かなかった。
「井上くん、脚に怪我したの?」
と教室に着き、席に座るなり聞いてみると、
「うん、」
と言って、彼は引きずっていた方の脚のズボンの裾を引っ張って上げ、足首に巻いた、私が数日前にポイとあげたアンクレットに付けられた傷を見せてくれた。
私は呻き声みたいな悲鳴を上げて思わず顔を背けてしまった。人の血を見るのがこんなに苦手なのだと知らなかった自分自身にも驚いた。心臓が嫌な鼓動を打ち、急なショックからの回復を待って、恐る恐る覚悟を固めて二度見すると、やはりさっき見た通り、彼の足首はグルリと血が滲み、結構な深い傷になっていた。
「なんでこんなになるまで付けてたの?それ絶対つけてる限り治らないやつじゃん…早く外しなよ、もう捨てなよ、それ!」
とドン引きが隠せず、自分があげた物でここまで怪我になっているのでなんとも嫌な気持ちになり、アンクレットに憎悪のような激しい怨みが湧き、つい強い口調になって注意した。
「だって巻多さんがくれた物だから…捨てられないでしょ」
と冗談めかして言うのだが、怪我は笑い事ではなかった。
(こいつマジか…)
と圧倒的に想像を上回って来た真剣な気持ちを目の当たりに見せられたような思いがした。ちょっと痛々しく胸に込み上げてくる切なさを感じた。このままでは彼がかわいそうなような、彼と付き合えない自分も悲しいような気もした。
「いや、捨ててよ…」
と私はとにかく現実的な注意点だけはちゃんと言っておこうとした。
「ちょっとでも怪我になりそうだなって感じた時点で、すぐ外さなくちゃダメでしょ。こんなの…
ちょっと痛い、かすり傷が付きそうだな、ぐらいの時点で…血とか出る前に、外さなきゃ」
「んー、そうなんだけどねー…」
と彼がのんびり傷口からアンクレットをずり上げてずらしたが、手を離すとまた鎖は垂れてきて元の傷口の位置に戻った。
「外して。早く」
と本気になって暗い怖い声で言うと、やっと彼は足からアンクレットを外し、血の付いたその黒い鎖をティッシュに包むのを私は顔を顰めて見ていた。
それを買ったときは、自分で自分の足首につけるために買ったのだった。
指輪やブレスレットはバイト中に付けられず、外すと失くしそうなので初めから指や手首には何も付けない事にしていた。ネックレスやイヤリングは学校の調理実習中に減点の対象にされてしまうので、これも着脱の手間が面倒な私には向いていない。でも足首に付けるアンクレットなら、付けっぱなしでお風呂にも入れるし、寝ても起きても付けっぱなしでいられて楽なお洒落だと思い、少しずつ種類を増やして集めていた。飾りがいっぱいついたのや、星のやハートのやピンクの石の付いたのや、色々あった。その中から、男の子にでも付けられそうな黒のゴツいのを学校まで自分で付けて行った日に、いつもくれるお菓子と交換みたいにして何気なく、自分の脚から外し井上くんの脚に巻いてあげたのだった。
多分、
「今日の足首のやつ、良いなぁ…」
とか
「そういうの黒なら僕も付けられそうかな…」
とちょっと欲しそうな感じで彼が言ったからだ。
「足枷みたい…」
と思わず口から漏れた呟きがちゃんと聞こえていて、
「足枷だよ」
とウットリ嬉しそうな顔をするので、私は
(いやいや…)
と首を横に振った。
「捨てるから」
と素早く井上くんの手から、鎖を包んだティッシュを奪い、取り上げると、子犬がご飯を取り上げられた時に出す抗議の声のような悲しげな音が彼の喉元から聞こえた。教室の一番前のゴミ箱まで一緒になってついて来て、捨てた物を拾いたそうな目つきで見詰めるので、
「他の物、何かちゃんとしたの、買ってあげるから!」
と約束した。
彼の足首にグルっと巻き付くように付いた血の滲む鎖の痕は、私の脳裏に焼き付き、家でも、明かりを消して眠る前に見上げる天井に映し出されるように不意に思い出したりした。
続く




