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 水曜日と日曜日以外は大抵ここにいる、と聞いて、アレクは週に五日、まったく同じ時間にこの場所へ来た。言葉通り、大抵ヴァイオレットはそこにいた。ロミオとジュリエットだった本はリア王に変わって、それからオセローになった。


「やあ、ヴァイオレット。こんにちは」

「……こんにちは」

「あれ、またロミオとジュリエットに戻ったんだ」

「……ええ」

「実は意外と気に入ったり?」

「……そんなことないわ。やっぱり、このお話は大嫌い」


 いつものように隣に腰を下ろしたアレクを、ヴァイオレットはちらりと見た。


「……怒ってないの?」

「怒る? どうして?」

「昨日、私、金曜日だったのに来なかったでしょう?」

「ああ、そうだったね」


 アレクはあぐらをかいて、彼女に向き直った。


「でも今日は来てくれた。だからいいのさ」


 なんて、昨夜一晩中“嫌われたかもしれない”“飽きられたかもしれない”“二度と来てくれなかったらどうしよう”などと不安に襲われてのたうち回って親父に「うるさい!」と殴られたことなど微塵も見せず、彼は快活に笑ってみせた。


「君にだって予定外のことはあるだろう? 俺にだってそういう時もある。だから怒ったりなんてしないよ」

「……」

「そんなことより、今日は面白いものを持ってきたんだ。見てくれる?」

「……ええ、もちろん」


 ヴァイオレットは最初に会った頃よりかなり頻繁に微笑むようになっていた。今や笑っていないことの方が少ないくらいなのに、アレクは彼女の笑顔を見るたびに頬を紅潮させ、一緒になって笑うのだった。

 だから、この時のヴァイオレットの微笑が、わずかに曇っていたことに気が付かなかった。

 一生懸命練習して習得したささやかなコインマジックを、ヴァイオレットは目を輝かせて見てくれた。


「すごい! すごいわ、どうなってるの?」

「やってみたい?」

「ええ!」

「じゃあいいかい、これを右手に持って――左手で――」


 と、アレクはヴァイオレットの左手をそっと握った――その瞬間、あ、しまった、とアレクは思った。何があっても接触しないように気を付けていたのに。だがもう遅かった。アレクの手の中でヴァイオレットの手がぴくりと震えた。その手の小さいこと――温かいこと――滑らかなこと――柔らかいこと――すべての情報が一気に脳内になだれ込んできて、小さな脳はあっと言う間にパンクした。


「あ……の、ヴァイオレット……」

「……」


 彼女は頬を大輪の薔薇のごとく染め上げて、恥じらいと昂揚の中の自分を持て余しているように肩を縮めてうつむいていた。その目がちらとアレクの方を見た。麗しい菫色の瞳は、熱を出した子どもがそうなるようにほのかに潤んで、優しい愛を求めていた。

 アレクはすかさず彼女を腕の中に収めた。毎日家を出る前に行なっていた『紳士であれ!』という自己暗示などはるか彼方に吹き飛んで粉々に砕け散っていた。それでも力任せに抱き締めなかったのは、紳士であろうとした結果ではなく、そんなことをしたら折れてしまうだろうと本気で思っていたからだった。

 ヴァイオレットの髪からは花の匂いがした。それに包まれるような、あるいは溺れるような感覚があって、アレクの意識はいよいよ遠くなった。鼓動がどんどん速くなる。いやすでに限界に達していたのだが、それを上回ってなお強く速く駆けていく心臓が肋骨を叩く。

 ――言わなければいけない。

 アレクはそう確信した。

 ――伝えなくてはならない。そしてもっと彼女に触れたい。


「ヴァイオレット。俺、君のことが――」


 だが、


「待って、駄目だわ」


 ヴァイオレットの小さな声が、アレクの喉の辺りで囁いた。


「駄目。放して」

「ヴァイオレット」

「お願い……お願いだから、放して」


 真に迫る悲痛な声。膨れ上がっていた気持ちが急速にしぼんでいった。

 アレクが腕を解いても、ヴァイオレットは動かなかった。抱き締められた時のまま、じっとうつむいて、手元の本を見ている。


「……ごめんなさい。私……私……っ」


 真珠の粒のようなものが彼女の頬を伝っていった。

 それが涙であると気付くのに数秒かかった。


「ヴァイオレット……?」


 アレクの呼びかけに、しかし彼女は応えることなく。

 首を振りながら立ち上がると、パッと駆け出して――生け垣の向こうに消えた。

 呆然と見送ったアレクの手元には、ロミオとジュリエットが落ちている。




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