看病されるのはときめくっていうより後ろめたいから、笑い合った思い出にしておきたいよね
リーサス領の東には、道のりにして一週間ほどの砂漠が存在する。
西の荒野は見渡す限り赤茶けた不毛の地だが、この砂漠は焼けるような砂地に転々とオアシスが存在し、背の高い木がまばらに生えている。
「げほっ……ごほ」
髪に吐瀉物が付かないように左手で掻き上げて、ピアニーはまた咳き込んだ。──キモチワルイ。
旅に出て、一週間と少し。携帯食糧も底を尽き、砂漠の生き物を捕らえてその日の食事とすることが多くなった。ピアニーは彼のように、捌くのを──血や臓物を見るのが苦手な訳では無い。屋敷にいた時も、厨房にはよく出入りしていたし。それよりも堪えたのは、今まで口にしたことが無かったもの──主に虫なんかを、ほとんど姿焼きの状態で食べないといけないことだ。味は悪くないのだ──しかしどうしても、喉の奥がひっくり返りそうな不快感がある。
(でも……慣れるしかないんだから)
ピアニーは水で口をすすいで荒い息を吐いた。吐瀉物に砂をかけると夜の闇で見えなくなったけれど、気分は一向に晴れない。
旅の仲間に──特に彼に心配をかけたくなくて、水浴びをしたいというのを口実に、女性の従者を一人だけ連れて野営地から離れ、泉の反対側でこうして膝をついている。
不意にとん、と背中に誰かの手が置かれた。
少し低い声が鼓膜を震わせる。
「やっぱり──もしかしてって思ったんだ」
「!! ────ラズ!」
ピアニーは慌てて振り向きながら体を離した。今はその──会いたくなかった。
「どうして……」
「昨日、水浴びしてたって言う割に髪に水分が残ってなかったし……。普通に食べてるように見えたけど、そんな訳……ないもんな」
後ずさるピアニーに構わず、彼……ラズは近づいてピアニーの背中に手を置いた。
「逃げないでって……じっとして」
「…………」
見張りを頼んだ彼女は何をしているんだろう。といっても、彼は気配を消すのが野生の獣並みに得意だから、本気になれば気づかれずに近づくのは訳ないのか。
「本当に水浴びしていたら……覗きでもするつもりだったのかしら」
「えっ…………考えなかったなあ?」
ラズは白々しい調子で目を逸らした。そうしている間にも、背中に置かれた手から温かな気配が伝わってくる。胸焼けが幾分か楽になっていくのを感じた。
「どういう……仕組み?」
「吐き気は脳がそういう信号を勝手に出しているだけだから、一時的に遮断して──あとは、消化の補助」
いとも簡単に言ってのけるが、錬金術を人体に作用させるのは非常にリスクがあるのでやめるようにと教わったばかりだ。彼の非凡さをあらためて実感する。
「弱いところ見せたくない気持ちは分かるけどさ、無理したら心配するから」
「だって……」
見えるところで吐いたらせっかく食事を準備してくれたリンドウに失礼だし、不潔でニオイも酷くなるし。
ちらりとラズの顔を見る。短い黒髪の下に煌めく黒い瞳は月の光を反射して綺麗だ。平気な顔をしていても、気持ち悪い女の子だと思われているんじゃないだろうか。
ぱちっと目が合うと、彼はニカッと笑った。
「水浴びしよっか! すっきりするし」
「え、えええええ!!??」
驚いている間に、彼は靴を脱ぎ捨て服のまま泉の中にバシャバシャと駆け込んだ。ドボン、と水の中に消え、そしてすぐに勢いよく上半身を水面から出す。
バシャン!
飛沫が上がり、水滴が舞う。
淡い月光に照らされた色のない景色の中で、濡れた黒髪が艶やかに光った。
心底楽しそうに、ラズは破顔する。
「ははっ、すっげー気持ちいい!!」
そしてもう一度潜ったかと思うと、泉の縁近くまで泳いできて膝を立てた。薄手のシャツが身体に張り付いて締まった胸板が透けて見える。
「ピアも早くおいでよ! ほら靴脱いで」
「えっ、ええと!」
逡巡している間に、ラズはピアニーの手を取って引っ張った。勢いに負けて踏み出した足が、くるぶしまで水に浸かる。
「!!」
乾燥地帯育ちのピアニーは水に入るのだって初めてだ。身体を清めるのは香砂。ひとたび雨が降れば土砂降りだから、病気がちなピアニーは濡れたことだって記憶にない。
「わっ、きゃっ……」
膝に達しない水深なのに、すごく足が重たい。
ラズはスピードを緩めて両手で支えてくれた。
みるみる深くなり、あっという間に腰の位置まで浸かる。ひんやりとまとわりつく感触に、思わず身体が強張った。──そして。
足が、滑った。
「あっ」
視界が反転する。
冷たい。
思わず目をつむったが、耳が、鼻が、水に浸かった感触に動転した。
もがくように動かした手足が無重力に水を掻く。
「……っ! ……!!」
──ざばぁっ!!
次の瞬間、その水の重みから解放される。
激しい水音が鼓膜を叩いた。
──息ができる。
背中にしっかりと回された腕から体温が伝わってきた。
腰まで伸ばした髪がじっとりと濡れてとても重たい。
素足が砂を踏む感触。しかしまだふわふわしているような錯覚がある。
あまりの初体験の連続にしばし呆けていたピアニーを、彼はきらきらした表情で覗き込んだ。
「──どう? 怖い?」
「────……ぁ、」
ようやく、小さな声が喉から漏れ出る。
夜風が冷たい。髪と服がすごく重い。滴り落ちる水滴が首筋を伝う。汗と砂のざらつきはどこかに行ってしまったようだ。胸につかえていた不快感も。
──気持ちいい。ような気がする。
「平気……」
頬に張り付いた髪を拭い、上目遣いに返事する。彼はへへ、と嬉しそうに笑ってから、背中を向けてぐっと伸びをした。肩甲骨のラインや、筋肉の凹凸が透けて、なんだかかっこいい。
「水に落ちた時は息を止めなよ。もし飲んだら溺れるから──助けるけど」
それはリンドウからも聞いた。足がつく所でも溺れることはあるから、絶対に無理してはいけないと。
ラズは視線を向こう岸に向けたまま、続ける言葉を探しているようだった。
「あ……あのさ! 言っとくけど! 水の多い地域だとそれ用の服もあるっていうか──それからしたら、別にピアの格好はなんでもないから!!」
ラズはわたわたと弁明してから、左手で前髪を押さえた。なんでそんなに挙動不審なんだろう。──格好?
恐る恐る自分の身体を見下ろす。濡れた布地がぴったりと身体に張り付いてはいるものの、別に何かが透けている訳ではないようだ。
「……気にしているのはラズの方じゃないの?」
「違……気にしてなんか……」
その声色が思いの外情けない響きだったので、ピアニーはついクスッと笑ってしまった。こういうのを、初心というんだろうか。
「ねえ、水の多い地域だとどんな遊びをするの?」
「────えっと」
ラズはバツの悪い顔で息を吐いて、水の中に腰を下ろした。ちょうど胸の辺りに水面がきて、ぱしゃりと波打つ。
「……泳いだり、飛び込んだり。ボール遊びとか水鉄砲とか。あとは、石切りしたとか」
「イシキリ?」
「こういうの」
言いながら彼は手近な石を拾い水面に向かって横投げする。石は二回水面で跳ねて水の中に沈んだ。
「たくさん跳ねさせた人の勝ち。ちなみに僕の最高記録は十六回」
「ふうん」
見よう見まねで石を投げてみる。
ぱちゃん──ぽちゃん……
「あ! 跳ねたわ! 一回だけど」
「いいじゃん、さすが」
ラズはにしし、と笑って立ち上がった。
フォームを変えてもう一度投げる。石は十回以上跳ねて暗闇に消えた。
「やりぃっ! 十二回!」
彼は楽しそうにガッツポーズを作る。人種問題や外交で大人顔負けの交渉をしてみせた少年と同一人物とは思えない、年相応の無邪気な表情だった。
「ねえ、何かコツがあるの?」
「へっへー」
尋ねると、彼はわざとらしく何かのポーズをとってその場で低くジャンプした。身体を回転させて低いストロークで投石、そして着水。
「でえええーいっ!」
バッシャーン!!
派手な水飛沫が上がる。石どころではない。
「ちょっとおー!」
「あははっ」
まともに水をかけられてしまったが、ラズの楽しそうな笑い声につられてピアニーも吹き出した。こんなに楽しいのは、ちょっと記憶にない。遠くでぽちゃんと音がした。
「どう、分かった??」
「ラズが不真面目に本気を出したのは分かったわ」
「もっかいやろうか?」
「ええっ、次は何する気っ!?」
朗らかに笑い合う二人の明るい声は、しばらく夜のオアシスに響いていた。
† † †
約半刻後。
ラズは背泳ぎで泉に浮かんでいた。
石切りでひとしきり遊んだ後、泳いで対岸に戻ると伝えて別れた。彼女ははどうせ着替えないといけないから、ずっと見ている訳にもいかない。
……着替えているところを見たいかどうかと訊かれるとまあ普通に見たい。しかしそんなことしたら彼女にどう思われるか、という方が気がかりだ。
(……よく分かんないんだよなぁ)
周りから散々囃されるが、性への興味であって彼女への興味とは違う、と思う。なのに、目の奥にこびりつく、濡れた服で際立った身体のライン。たいして凹凸がない──これを言ったのはラズではないが──とにかく、特筆して性を感じさせるような体つきではないはずなのだが、妙に気になってしまうのはなぜなんだろうか。好みの体型はもっと豊満なタイプな気がするのだが。
『安心する』、『楽しい』、だから一緒にいたい。友達への感情と特別変わらない。だけど時々心臓が騒ぎ立てて、何かの衝動に駆られるときがある。その衝動について、ラズはまだ名前をつけたくなかった。
耳元で絶えずころころと水が渦を巻く。約一年振りの水泳は、着衣のままでも心地いい。
(やめよ……考えるのは)
旅の連れ合い、志を共にする仲間、せっかくできた気の合う友達……変なことを考えて関係が崩れる方が怖い。──ましてや、相手は、元であっても、貴族なのだから。