悲しみを半分に分ければ、温かさは倍でしょう
四章三話のもう一つのエピローグです。
すっかり暗くなった街郊外は、静まりかえっていて不気味だ。夜行性の大型トカゲなんかは人喰いのものも居るので、武器を携行していても緊張する。
まだ十一歳の少女に過ぎないピアニーが、レイピア一本腰に提げただけでこんな場所を訪れた理由は、ここである人物と会う約束があるからだ。
武装組織の組長に捕まったピアニーを助けるために、父が重症を負ったのは今朝のこと。黒幕たる組織の組長は逃げ仰せ、そうして領を二分する侯爵家の動乱は幕を閉じたのだった。
父侯爵は治療のため、そのまま『隣国』……荒野の人々のもとに運ばれた。一方ピアニーは街に残していた家人を協力関係にある男爵家に保護してもらうなど、取り急ぎすべきことを終えた後、自身は男爵家ではなく、父が運ばれたのと同じ『隣国』に向かうことに決めた。それは、彼女のささやかなわがままだった。
これからの情勢や、男爵家に身を寄せている母のことを思うと、『隣国』に行くのが果たして正解なのかは分からない。ただ正直なところ──彼の近くにいたかったのだ。
視線の先の暗がりに、小さな明かりが灯り、誘うように揺れる。
ピアニーは重たくなった足を叱咤して駆け出した。そして、明かりに照らされたシルエットが、見知った人物だと判別できる距離まで近づく。
「待たせてしまってごめんなさい」
そこにいたのは、一人の少年と、六本足の巨大な馬。
馬がぶふん!と不機嫌そうに鼻を鳴らすと、少年──ラズが苦笑いして首筋をぽんぽんと叩いた。まるで馬が言いたいことが分かっているみたいだ。
ピアニーが足を止めたまま見つめているのに気がついて、彼は首を傾げた。
「怪馬は、怖い?」
「……少し」
だって体躯は通常の馬の二倍近い。こんなに大きい生きもの自体、間近に見るのすら初めてだ。
ラズは笑って名前を教えてくれた。
「スイっていうんだ。──っつ、なんで蹴るかな」
馬に膝で押された彼は口を尖らせてその翡翠色の目を睨む。そして少しの間視線を交わした後、ふんと軽く笑った。
「さっきから、もしかしてその子……スイが何言ってるか、分かるの?」
「えーっと……。まさか」
ラズは右下に目を泳がせて答えた。──嘘が下手だ。
ピアニーは勇気を出して馬に近づいてみた。手を伸ばして頬に触れる。翡翠色の両の瞳がとても綺麗だ。
「怪馬を慣らした人間なんて、ラズが初めてじゃないの? スイ……あなたは彼のどこが気に入ったのかしら」
例えば、思うままに行動する奔放さ、それでいて責任を果たす誠実さ、それらを両立させる知恵と力。または、それらを持ち合わせながら、どこか頼りないところが放っておけないから……とかだろうか?
「ぶふんっ!!」
馬はまた鼻を鳴らしてかぶりをふり、不機嫌そうに後ろ足を踏み鳴らした。
ラズがぷっと吹き出し、慌てて笑いを噛み殺す。──秘密のやりとりをしているのがなんだか羨ましい。
ラズは手綱に手をかけて巨大な馬に身軽に跨った。スイの背中には三人は座れそうなゆったりした鞍が取り付けられている。
「自分で登れる?」
「大丈夫」
ピアニーは木登りなんかも得意だ。スカートだと怒られるが、今は男装しているので遠慮は不要である。
彼の後ろに横向きに座ると、背中ごしに声がかけられる。
「疲れてるだろうけど、ここから一番近い郷まで三日かかるからさ、とりあえず皆に追いつくまでは我慢して」
「……平気よ」
背丈がほとんど変わらない、同い年の少年。男の子だから骨ばっていて、その背中は少し大きく感じる。ぽす、と額を預けてみると、かすかに汗の香りがした。
走り出した六本足の馬の背は、驚くほど静かだった。揺れも少なく、ラズが風除けになってくれているので息苦しさもない。
少しの沈黙のあと、ピアニーはおもむろに尋ねた。
「お父様の容態なんて……分からないわよね」
「……意識が戻ってないけど、持ち堪えてる。……はず」
背中ごしに聞く掠れた声は、祈るような響きを帯びていた。彼にとっても、父侯爵は恩人であり、助けたい人なのだと分かる。
(…………)
考えても仕方ないのに、黙っているとぐるぐると思考が巡る。
不意に、ラズが口を開いた。
「──ピアに、文句言ってやろうと思ってたんだけどな」
「怒ってないって言っていたのに」
「怒っては……いないんだけどさ」
彼は小さくため息を吐いた。
「モヤモヤするっていうか……前に僕がわざと捕まったって聞いた時、こんな気持ちにさせてたのかな、とか」
「言わずもがなだわ」
「また同じようなことが起きたら嫌だな、とか」
「……そうね」
ピアニーが捕まったのは、母親の身代わりになる為だった。どちらが捕まる方が、最終的に助かる確率が高いか──武術を修めていない母を思えば明らかだと思った。結果どちらが良かったのかは永遠に分からない。
彼はためらいがちに言葉を溢す。
「僕はさ……助けられなかったんだ。國の家族を、誰一人。最後に動けなくなって、母様に助けられた。……君の父上がしたみたいに」
掠れた低い声には、隠しきれない寂寥感が滲んでいた。
「────っ」
ピアニーはそっと彼の身体に腕を回す。──そうしないと、いけない気がしたからだ。しかし、かけるべき言葉が見つからない。
彼の過去の話を聞くのは初めてだった。彼の故郷は去年の初夏、突如現れた巨人族に滅ぼされたと聞く。彼が生き残りと知ったときは驚いたものだ。
彼の母親も、おそらく助からなかったのだろう。きっとこの世の誰よりも好きな人で、何としても生き続けて欲しかった人。失くしてしまった罪悪感は計り知れない。半年前初めて会った時の彼は、とても悲壮な目をしていた。
掠れた声が、不安定に揺れる。
「……君の父上がもし助からなかったら────ごめん」
「──そんなの!!」
ぎゅう、と抱きしめて、ピアニーは叫んだ。
「自分一人のせいにするなんて許さない! ……っ、半分は、私のものよ」
ぽろぽろと涙が溢れた。仮にも侯爵令嬢が、何度も泣き顔を見せるなんて不甲斐ない。──だけど、ピアニーがあの時もっと早く離れようとしていれば、父は身を呈して斬りかかったりしなかったかもしれないのだ。だから父のことは、ピアニーのせいでもある。
それにそもそも。
「ラズがいなかったら、お父様は処刑されてたかもしれないんだからぁっ……!」
「……っ」
彼の立ち回りが軍の衝突を未然に防ぎ、市民の犠牲が出ずに済んだのだ。彼が自分を責めることなんて無いだろうに。
半身で振り返ったラズと目が合った。その思い詰めた表情に、また胸が締め付けられる。
「だけどっ! 君んちの屋敷は燃えて、ディーズリー侯爵家はほとんど追放──」
「そりゃ辛いわよ! でもね! 追放くらいなんだっていうのよ!! 私は──……今この時間があるだけで十分」
「……っ」
腕の力を少し緩めて、ピアニーは笑って見せた。──そうだ、こうして彼といられること……ずっと欲しかった時間。せめてどうか、彼の心を楽にしてあげたい。
泣き笑いなんて不細工な顔を見せたくなかったけれど、言いたいことがようやく見つかったと思う。
「……あなたが辛いと思うこと、不安に思うこと、目指してること、難しいと思っていること、半分私に分けて。一緒に耐えて、考えて、それでダメなら苦しみも半分よ。だから、一人で抱え込まないで」
闇に溶けていた黒い瞳が、少しだけ光ったように見えた。彼は呟くように小さく口元を動かしたが、掠れ気味の声は風にかき消される。
「……? 今、なんて」
彼は自嘲気味に微笑んでから、声を張った。
「ピアも! なんでも頼ってよ!!」
「……ええ! とーっても、頼りに思っているわ」
「──うん」
ラズは答えながら、馬の立髪を撫ぜた。少しだけペースが緩み、足音が心地よいリズムを刻む。
涙を拭いて、彼の背中にもう一度額を預ける。不安がなくなった訳ではないとしても、彼の声に力が戻ったことが、心に温かな灯をくれた。