第一話
少し遡って、二章でラズと出会う直前の、ピアニーのお話です。
なお冒頭の時系列は四章三話の直前です。
(──絶対絶対、この婚約は破棄してやるんだから。そして私は、領主夫人になるの!)
決意を込めて、眼下の街並みを見渡す。
もうすぐ、冬が終わる。
荒野から吹き上げる南風が、ピアニーのゆるくウェーブかかった琥珀色の長い髪をさらさらとなびかせている。
ピアニーは目を細めた。横髪を手で抑えたときに、その左小指にはめられた翡翠の指輪が視界に入ってしまったからだ。
彼からもらった、大切な、指輪。
耳の奥で、「ピア」と……彼女の愛称を呼ぶ、少し低いかすれた声がした気がした。
胸がぽっと温かくなって、とてもそわそわする。
──……彼に、会いたい。
だけど。
この国で、貴族として生きる以上は。
(──……自由なあなたと、一緒に生きることはできないのだから)
街を囲う塀の、さらに向こう。
彼のいる荒野の郷を想像して、ピアニーはそっと目を瞑った。
何ヶ月も会わないのに、いつまで経っても薄れてくれない、胸のときめき。否定するほどに苦しくなる。だからそれはもう諦めた。
(────そっと想うくらい、私の自由にしていい? …………ねえ、ラズ)
心の中で彼の名を呼んで、ピアニーは小さく微笑んだ。
†
†
半年前。
ごほっごほっ、という苦しげな音が邸の回廊に響く。
壁に手をついて膝を折り、ピアニーはなんとか息を整えようとしていた。ゆるくウェーブした栗色の長い髪がさらさらと肩から落ちる。
そうしているうちに、「お嬢様!」と口々に使用人たちが駆け寄ってくる。
──なんて、情けない。
ピアニーは自分自身を叱咤した。
この地方でもっとも歴史と地位のあるディーズリー侯爵家の一人娘、それがピアニーだ。
生まれた頃から原因不明の虚弱症で立つこともままならず、生きてくれるだけでいいと手を握ってくれた父侯爵。だけど母が毎晩泣いていることも知っていた。背中をさすって慰める父は「きっと強い子になるから」と繰り返していた。その言葉は、幼いピアニーの心にいつまでも残った。
──立つのよ。
(たくさん鍛錬したわ。お勉強も。剣術も。お友達もいるわ。私は領民を幸せにするの。こんなことで、負けたり、しないんだから!)
膝に力を入れて立ち上がる。
その瞳に、燃えるような意思を湛えて。
そして、支えようとしてくれたメイドににこっと笑いかける。どれだけ苦しくても、いついかなるときも、強く、優しく。
「……大丈夫よ! 心配してくれてありがとう」
我ながらいい笑顔だと思ったのだが、彼女は顔を曇らせたまま首をふった。
「──ピアニー様」
「なあに?」
「今日は、どうかお休みください。午後の孤児院の視察はキャンセルのご連絡をしておきますから」
「ティーヤってば! そんなの大袈裟よ! せっかくサンドイッチを作ったのに!!」
「だめです。ピアニー様にご無理をさせてはならないと、奥様の厳命です。サンドイッチは部屋までお持ちしますから」
姉妹のように育ったメイドの有無を言わせない口調に、ピアニーは仕方なく折れた。ぐいぐいと背中を押す彼女に苦笑を返す。
「……分かったわ。午後は寝るから」
私室に戻ったピアニーは、彼女らが食事を持ってくるまでとりあえず机について散らかった本や道具を片付けることにした。
手に取ったのは、一本の飾り帯。刺繍糸を手編みした帯の先に、ガラスの石がついたものだ。孤児院の新事業にと、昨晩少々夜更かしして作っていたのだった。ただの飾り帯ではなす、お守りとして売るアイデアを思いついて、石におまじないの願掛けしていたらいつの間にか夜遅くなってしまっていた。でもたった30分の夜更かしくらいで体調を崩すなんて、悔しい。それで孤児院に行けなくなるなんて本末転倒もいいところだ。
試作品を窓明かりにかざすと、石で乱反射して室内がきらきらと光った。大事に作ったから、父か母にあげたい気もするが、侯爵夫妻がこんなちゃちなもの貰ってくれるだろうか……とりあえず、すぐに渡せるようスカートのポケットにしまう。
しばらくして、メイドが昼食を持ってきてくれた。
再び一人になったピアニーは、テーブルに並んだサンドイッチを見つめる。
「…………」
午後は休むと言ったけれど、ランチはそうは言っていない。こんな天気のいい日に、私室で引きこもって食事なんて、それこそ不健康というものだ。
ピアニーはにっこりと笑んだ。
†
ピアニーの私室は、三階の公道に面した一角にある。すぐそばに乾燥地域独特の背の高い木がうわっていて、金属の柵を挟んだ向こう側が公道だ。
その高い窓から、するするする、とロープに結えられた大きめのバスケットが降りてくる。
すとん、と柵の内側にバスケットが着地した後、同じ窓から、ロープを持った少女が身を乗り出す。
無論、ピアニーである。
「とうっ」
スカートのまま、身軽に木に飛び移り、幹に沿って滑らかにくだる。金柵の高さで踏み切って、くるんと宙返りをして公道に降り立つと、通行していた馬車の御者がぱちぱちと乾いた拍手をした。
そんな彼らににこやかに手を振ってから、バスケットを手元に寄せようとロープをたぐったとき。
「ピアニー様」
「……っ!」
背後から声をかけられ、ピアニーは一瞬びくりとしたが、おくびにも出さず振り返って笑顔を作った。
「あら奇遇ね、ルータス!」
そこにいたのは、執事姿の初老の剣士……ピアニー専属の護衛兼従者だった。手には先ほど下に下ろしたバスケットを持っている。
「ご無理はなさらないとおっしゃってましたのに」
「一時間だけなら大丈夫でしょう。お母様には内緒にしてね?」
「止めても無駄ですからな。不肖ルータス、お供させていただきます」
老人は慣れた様子で礼をする。
実はピアニーが屋敷を抜け出すのは一度や二度ではない。今のように目立つ公道から出るのはまだいい方だ。
ピアニーは病弱ではあるが、運動神経も頭もいい。しかも美少女……というのはさておいて、周囲の過度な心配によって閉じ込められるのは我慢ならないのだった。ただし決して無理はしない。従者のルータスだけは、そんなピアニーを信頼して好きなようにさせてくれる。
歩き出そうとしたところで、従者があ、と足を止めた。
「丘の方は今、厳戒体制ですが……」
「ええ、例の黒髪の小人の件でしょう? だから今日は敷地内でいいわ」
小人という異種族のことは、今この領でもっとも大変な問題だった。かつては、身体が小さくて弱いが手先が器用であると、見下して奴隷とする貴族が多かった。しかし、そんな同胞を奴隷から開放して回る、『黒髪の小人』が現れたというのだ。なんでも、東方で盛んな錬金術に似た、不思議な術を使うらしい。この街にもやってくるのではと、父の部下である憲兵たちはその警戒にてんわやんわだ。
そんなに強いならば。
ピアニーはぽつりとつぶやいた。
「……お父様はさぞ喜ぶでしょうね」
後ろで従者が苦笑する。
「速く戦いたいとウキウキしておいでのようでした」
「お父様ったら……」
ピアニーは眉間を押さえてぼやいた。
父侯爵は喧嘩バカなのだ。すなわち脳筋。なんであれで部下たちに慕われるのか分からない。地方随一の大剣豪。そしてこの初老の従者はもともと父の直属の部下である。
「『黒髪の小人』は、珍しい黒髪・黒目で、肩と脇腹に怪我をしているそうですなあ」
「小人って、耳が尖っているだけで私と同じ背丈なのよね! もし会えたなら、私、お友達になりたいわ」
「お嬢様!?」
「だって、お友達は多い方がいいじゃない?」
ピアニーは他の貴族みたいに小人への差別意識がない。なぜなら、ピアニーの父は、元々身分が低く、その剣の腕で功績を立ててこの家に婿養子として入った人物だ。誰にでも分け隔てなく強くある父に憧れている。小人だって感情をもって言葉を話すんなら、分かり合えるはずだ。
でも、母は小人を嫌がる。何かされた訳ではないのに、数代前の領主が出した、『小人は大地を汚す存在』というふれを信じているのだ。小人のせいで、この領は貧しいのだと。その根拠はどれも嘘くさいものばかりで、ピアニーは信じていない。
「小人に肩入れすればお嬢様の立場が悪くなります!」
「あら、あなたが秘密にしてくれれば大丈夫よ」
従者の諌言に、いたずらっぽくウインクを返す。
ディーズリー家のご息女は大器すぎる、と、老いた従者は瞑目した。
従者を連れて、丘に沿った小道をゆっくりと歩く。この丘は、屋敷から近くて、街のほとんどを見渡せるのでお気に入りの場所だ。市民の暮らしを見つめながら、自分にどんなことができるかいつも考える。
西の大渓谷から吹き上げる秋風は、少し肌寒い。寒くなってくると、また喉痛や発熱に悩まされることになるだろう。今のうちに、寝る前の筋トレメニューを増やしておこうか……いや、結婚を控えた乙女がこれ以上ムキムキになったら母を悲しませてしまうかもしれない。
そんなことを考えながら、ふと顔を上げ──そして、気がつく。
「あら──、先客かしら──……?」
なんとはなしに視界に入った、その人影……ひとりの少年に、不思議と目を奪われた。
細身のシルエットに、整った顔立ち。
強い意思を感じさせる、きりりとした眉。
節目がちの瞳は、昼の陽光を受けてもなお深い、黒色だった。
ただ、幼さの残る横顔は──どこか、ひどく憂げで。
思わず見惚れてしまってから、はっとする。
柵こそないがここは私有地だ。この街の人間なら、子どもでも知っている。この丘城の一帯は見回りが厳しいはずなのに、あの子は一体どうしてここにいるのか。
ピアニーの脳裏に一瞬よぎったのは、手配書の『黒髪の小人』のことだった。でも、目の前の少年の髪色は茶色、しかも耳はどう見ても尖っていない。人間の男の子だ。
ピアニーが呟いたせいで、少年もこちらに気がついたようだった。暗い瞳が、弾かれたように見開かれる。手に持っていた筆記具を取り落としそうになり、彼はそれらを慌てて隠すような仕草をした。なんだかアヤシイ。
──直接訊くのが一番手っ取り早そうだ。そう考えて、ピアニーは首を傾げて問いかけてみた。
「……見かけない方だわ? それに、今は丘に上がるのは止められるはずよね?」
すると、たちまち少年の表情が変わる。彼はいたずらを叱られた子どもみたいに顔を青くして、立ち上がった。
「申し訳ございません! この街には来たばかりで、やって良いことと悪いことが分からず。すぐに降ります」
やけにハキハキと言い訳を並べて、そそくさと背を向けようとする。
なんだか不審な振る舞いだ。
ピアニーと同年代で、すらすら敬語が話せるくらい教養があって、街に来たばかり? 別地方の貴族の三男坊が花婿修行で出てきたとか?
いずれにしても、丘への不法侵入をただで見逃す訳にはいかない。
少年の小さな背に向かって、声をかける。
「お待ちになって」
「……何か」
数歩降りた足を止め、少年が強張った顔で振り返った。咎められると思ったのだろう。
茶色の短髪が風に揺れた。こころなしか、ぴり、と空気が張り詰める。
しかし、ピアニーはいつものようににっこりと笑ってみせた。
「これからここでランチをしようと思っていたの。 ご一緒にいかが?」
「ピアニー様!?」
背後で従者が驚いた声をあげた。
ピアニーはぱちっとウインクする。
「ルータス、外の話を聞いてみたいわ。ね、お願い。私、体が弱いのであまり外に出られないの」
とどめとばかり、最後は少年の方を向いて可愛らしく上目遣い。お人形さんみたいと言われるこの容姿の使いどころはばっちり心得ている。
彼は困ったように眉を下げ、しばらく視線を迷わせたが、ややあって、少年は丁寧におじぎをした。
「……こんな汚い旅の者でよいのでしたら、ご一緒させていただきます」
それはまるで父みたいな、武人じみたきちっとした仕草だった。でも、ちょっとだけ姿勢が変だ。どこか悪いんだろうか。左腰あたりに負担がかからないようにしている?
とりあえず、少年が誘いに乗ってくれたことに、ピアニーはほっとした。
「まあ! ありがとう! あなた、お名前は?」
「──ラズ、といいます」
満面の笑みで問いかけると、少年は勢いに押されるように答えてくれた。おとなしい性格なんだろうか。
「ラズ、ね、おいくつなの?」
「この冬で、十一です」
「まあ、同い年だわ! ね、子ども同士なのだから、気安く話しましょうよ」
「ええと──それはさすがにご無礼でしょう」
少年……ラズは、本当に困ったような表情をする。
大きな黒い瞳の上でまっすぐな眉がへの字になっていて、ちょっとかわいい。
話している間に、手頃な岩の上に布を引き、腰掛けて持ってきたバスケットの中身を広げる。
「大丈夫よ。ちやほやされるだけで、何も為してないんだから。ルータスも、早く!」
あなたが怖い顔をしてたら話が弾まないじゃない、と従者に目配せしたが、初老の従者は合点がいかないのか、少年との間に立って動くつもりがないらしい。
「僕……あ、いや私は土の上で十分ですよ」
「敬語はなしにして! お願いだから」
そう言うと、ラズがまた困惑したように瞬きをした。
「……この街の貴族の人は、皆そんな平民に優しいの?」
従者がふう、とため息をつく。
「そんな訳がない。お前も、その態度が許されるのは今だけだぞ」
「……分かりました」
「もう、ルータスってば! はい、サンドイッチ」
頬を膨らませながら、彼女は従者とラズに食事を手渡した。確かに、貴族が通るだけで平伏させる地域もある。でもディーズリー家は、父も母も、そんなことは気にしない。
ラズは手渡されたものをしげしげと見つめている。次の言葉に、ピアニーは驚いた。
「柔らかい……パン? すごく高級なんじゃ」
「!」
確かに、小麦は平原の国でも東側でしか生産されないから貴重だ。でもそれを……食べ物の名前まで言い当てるなんて。
「──そう、博識ね。雑穀で嵩を増やしているの」
説明すると、ラズはぱちぱちと瞬きした。その仕草はとても年相応で、本当に興味しんしんなのだということが窺える。
そして、ぱく、と口に含む。
もくもくと咀嚼しながら、彼はさらに驚いたように黒い目を輝かせた。
「おいしい! 変わった食感。卵で油を乳化させてるんだね」
「ニュウカ??」
ピアニーはきょとんとする。
知らない言葉だ。
卵を油で。……ニュウカ?
ラズのあまりに当たり前のような口ぶりに、何で返したらいいか反応に困ってしまう。
「──でも、そう、混ぜると面白いのよね」
どうにかそう答えると、彼は少し前のめりで聞き返してきた。
「まさか、君……あなたがこれを作ったの?」
「普通の言葉で良いって。──ええ、これは手作りよ」
遠慮の敬語が混ざった変な口調に、思わず、笑みが溢れる。
「……ごめんなさい。すごいね。本当においしいよ」
サンドイッチをはむとほおばったまま、彼はぎこちなく微笑んだ。
どうしてか、何かを懐かしむような、幸せそうな目をして。
同時に、泣き出しそうなくらい辛いのを我慢してるみたいな、切ない目だった。
いいや、彼ははじめから、ずっと苦しそうだった。丘でひとり、街を見下ろしながら、一体どんなことを考えていたんだろう。でも、「どんな悲しいことがあったの?」だなんて、いきなり尋ねるのは憚られる。
だから、ピアニーは別のことを訊いてみた。
「さっき、何か書き物をしていたのは?」
「ああ……、これ。街の地図だよ」
ラズは脇にのけていた紙面を取り上げる。
それを見て、ピアニーは目を丸くした。領主家が商人に卸す地図はもっと、象形的な歪みがあるが、目の前に現れたその図面は、路地の幅や向きまで正確に著されている。
「……とても正確ね。測量でもしたの?」
「いや、歩いただけ。地図は昔からよく描くから」
「すごい……」
自作の地図について語るラズはどこか楽しげだ。本当にただ好きなのかもしれない。
高低差を示しているらしい線の形もとてもリアルだ。歩いているだけでこれが分かる? 特技を通り越して超能力だ。
この地図は、なんのために使うんだろう? ただの、子どもの遊びだろうか?
「……あ、でも駄目よ、それは街に出さないでね」
「え? どういう意味?」
「有事のために、わざと歪めた地図を発行しているのよ。正確な地図を出回らせる人がいたら、捕まえないといけないわ」
「へえー……」
そう伝えると、彼は何か合点がいったように目をパチパチさせた。あんなに物知りなのに、変なところで世間知らず。演技とも思えない。他領の密偵とかではなく、ただの遠方の貴族の息子が、本人がはじめに言った通り、旅の途中でたまたま立ち寄った、という理解が自然だ。だったら家名を聞き出せたらいいのだが。
ラズは思案するように黒い目を伏せている。そうすると、ぐっと大人びて見えた。意外にまつ毛が長くて、整った目鼻立ちを強調している。成長したら、さぞ精悍な青年になることだろう。
前髪に隠れて気づきにくいが、まつ毛と眉の色は髪色と違って混じり気のない黒色だった。ピアニーの目は琥珀色、髪は栗色。目の色は他の人より明るい方だが、この地方の人はだいたいみんな茶色系。彼のように、ここまで黒というのはこの地方では珍しい。脳裏を『黒髪の小人』の話がまたよぎった。いやいや、だからこの子は小人じゃないってば。
彼がおもむろに口を開く。
「ところで、さっき、ここは今は入ったらいけないっていうのは、どういう?」
「……」
その何気ない口調に、ピアニーはわずかな違和感を覚えた。なんだか、試されているような気がしたのだ。──理由を知っていて訊いている? どこまで答えるべき?
コンマ数秒迷ったが、ピアニーは正直に話すことにした。
「お城に小人が捕まってるからよ。……ここだけの話、卑怯なことをして捕まえたのだって、お父様が家でキレてたわ」
「!」
ラズは意外な顔をした。小人ために怒るような貴族なんて普通ありえない。しかしこの驚き方は、小人を嫌悪しているような感じじゃないように見えたので、少し嬉しくなる。
「その小人は……」
「小人の王様? ……よく分からないわ。もしかすると仲間が助けに来るかもしれないからと、今は夜警も増やしているの」
最後の言葉に、ラズの眉がわずかに動いた。
警備の情報が欲しいのか、とピアニーは直感する。
やりとりの間に、ほんの一瞬だけちら、と襟の肩口から包帯が覗いた。……肩に、怪我? 手配書の錬金術を使う黒髪の小人と同じ位置だが、偶然だろうか。
初老の従者は気づいていない。少年を無害と判断したのか、のんびりとサンドイッチを食べている。
「そしたら、僕みたいな背丈が小人と紛らわしい人間が丘にいたら即捕まりそうだね……ありがとう、その前に教えてくれて」
そう言って彼は笑顔をみせた。でも、ピアニーにはなんだか作り物みたいに感じられた。さっきのサンドイッチや地図の話のときの方が、よっぽど自然だった。
それでもピアニーは朗らかに笑い返した。
「ふふふ。どういたしまして」
この子の目的がなんであれ、もう、興味を持ってしまったから。
「今度は私の番。ね、どこから来たの?」
「ずっと東。叔母さんたちと一緒に」
「それなら、首都も行ったの? 膝丈の草がたくさん生えているって本当?」
「首都は寄ってない。膝丈の草原は本当にあるよ。怪馬や怪獅子が居て、目の前で狩りするところを見た」
「なあに、それ!!」
平原地域は砂漠の向こうにある。それを越えてきたなんて。嘘とは思えない口ぶりだった。そして、旅の話をするときの彼の目は、地図の話のときの同じように楽しげに日輪を反射して淡く光っていた。表情の暗さが和らぐのだ。
(旅をするのが、本当に好きなんだわ)
ピアニーはこの侯爵家に生まれたことを誇りに思っている。侯爵家を支えてくれる領民に報いることが自分の責任。だからなんだって頑張れる。この領から出たいとは思わない。
でも彼はたぶんそうじゃないのだ。新しいものを識って、体験して、地図にすることが──きっと、冒険そのものが好きなのだ。彼が見ているものは、この領ではなく、もっと大きな、広い、広い世界。
置いていかれる。ふと寂しい気持ちを覚え、そんな自分の感情に戸惑う。今日会っただけの旅の少年に、そんな風に思うなんて。
だけどどうしても、これっきりにしたくない。
何か、つながりを残しておきたい。
そう、たとえば、あげられるもの……そうだ、願掛けした飾り帯を持ってきていた。ポケットの中にそっと手を差し込む。
本当は家名とか出身とか、もっと突っ込んだことを訊くべきだということは分かっているものの、あまり踏み込みすぎると、彼が離れて行ってしまう気がして、ピアニーはついにそれらを口にできなかった。
少し日輪が傾くのを見て立ち上がったラズを、ピアニーはもう少しだけ、と引き留める。
そして、ポケットから飾り帯を取り出して差し出した。ちょっとだけ、緊張する。
「──隠しているけど、怪我をしているでしょう。それに、時々、暗い顔をしていたわ。これ、あげる。元気になるおまじない。……あなた、良い人だから特別ね」
両手のひらにのせて笑いかけ、ラズの反応を窺う。
「あ、いや、もらえないよ、さすがに」
彼はびくりとして肩の包帯に触れ、ぎこちなく襟を正した。
──間違えた。怪我のことを指摘してはだめだったんだ。……喜んで、もらえなかった。
しゅんと萎む気持ちを堪えて、腕を引きながら、それでもどうにか明るく言葉を繋ぐ。
「何か難しいことを抱えてるみたいだけど、上手くいきますように。また、この街に寄るならお話、しようね」
ラズは困った表情をしていたが、やがてふわりと笑い返してくれた。やっぱりどこか暗いけど、初めより元気になってくれている、ような。
「……うん。ありがとう。それまで元気でね」
ラズが、ピアニーの手から飾り帯をつまみ上げようと手をもち上げる。受け取ってくれるらしい。よかった。 緊張から解かれたように笑みが溢れた。
指先が触れ合った、その瞬間。
突然、不思議な温かい気配に包み込まれた気がした。
(えっ!?)
安心感、とでも表現しようか。いつも感じている気怠さがなくなり、身体が軽くなったように感じる。
ぱっと顔を上げるが、ラズは何も感じていないみたいだった。
これは、一体??
混乱している間に、手が離れる。
すうう、と重力が戻ってくる気がした。
秋の肌寒い風が背筋をなぜる。
いつもの当たり前の感覚が、ものさびしい。反動でがっくりと膝をつきたくなるくらいの気怠さが戻ってくる。でも、ここで倒れる訳にはいかない。ピアニーはじっと堪えた。
──今のは、なんだったの。
失礼します、と頭を下げて丘を降りていく少年の後ろ姿を見送りながら、ピアニーはぺたんとその場にへたり込んだ。
† † †
日が落ちる頃。
街郊外の、毒虫が蔓延り誰も近づかない荒れた岩窟に、少年は足を踏み入れた。
とたん、少年の耳の後ろの岩をガンッと殴りつけたのは、少年と似た背格好の、小柄な男だった。尖った耳が、その種族を小人だと教えてくれる。
ドスの効いた低いしゃがれ声で、男がつめよる。
「──街の様子を教えろ」
対する少年は、男の圧に怯えたそぶりはない。小さく息を吐いて、茶色の前髪をかきあげた。
「まさか貴様、やっぱり人間どもにつくと言い出すんじゃないだろうな」
「まさか」
短く答える声は、子供らしさの残るアルトだが、ピアニーと話した時より幾分か硬質に岩窟内に響いた。
少年が手で髪を梳くと、ぞろ……と、その色が変貌する。──錬金術によって、染料が落ち、元の髪色に戻ったのだ。
深い闇で塗りつぶしたような、黒色へと。
同じ色の瞳に気怠さを宿し、彼は反対の手で腰の後ろに隠していた短剣を引き抜いた。
「いい話を、いろいろ仕入れてきたよ」
柄に結えられた飾り帯の石が、斜陽を乱反射して怪しく闇を彩る。小人の男が気圧されたように後ずさった。
少年は感情を削ぎ落としたような昏い目で、曖昧に笑ってみせる。
「決行は予定通り今夜。──そうだね、できるだけ派手に暴れてやろう」
ただいま、ピアニーを主人公とした少女漫画を書いてます。
こちらはその台本として書き起こしました。
第二話は、ミクレルやアイビス、クレスとディミニたちが出てきます。




