つまり、始まりようがない状況?
その日、同い年の少年──ラズと別れてから、ピアニーはずっと自分の左手を右手で握り込んでいた。
ピアニーはこの領で二番目の有力貴族の一人娘だ。
性格はおてんばで隙あらば屋敷を抜け出して市井で遊び、剣の腕は大人顔負け、とはいえ少し前まで病気がちで、生まれた街から一歩も出たことがなかった。
そんなピアニーは、あと二ヶ月足らずで十二になり、望まない政略結婚で十歳余りも上の悪名高いエンデイズ家の次男を婿養子に迎えることになっている。
頼りにならない父に反発して彼女が起こした危険を顧みない行動は割愛するとして、結果的には、先ほど別れた少年、ラズに助けられた。
その少年は、もともとは東方の小国の盟主の次男で、その国が滅びた事をきっかけに旅をしていると言っていた。
彼は錬金術という不思議な技に天賦の才を持ちながら、剣術にも秀で、頭もいい。
ちなみに容姿は可愛らしいほうで、ピアニーよりも少し背が低い。この二ヶ月で背が伸び、表情に落ち着きが出て、少し凛々しくなってきていた。
ピアニー自身も成長しているので、背は彼女の方がまだ少し高いのだが。
彼と会うのは、今日で四回目だった。
(もっと、お話したかったわ……)
従者に気づかれないようにため息をつく。
今日は、彼女の悩みを真剣に聞いてくれた。侯爵令嬢として求められる振る舞いと、ピアニー自身が貫きたい盟主としての在り方の矛盾。彼は、まるで己のことと重ねるかのように、ピアニーが一番欲しかった答えをくれた。
──そうでなくても、彼と話していると、ピアニーの心は自然と華やぐ。
──少しでも長く一緒にいたい。
その気持ちを何というか、ピアニーはすでになんとなく気付いていた。
しかし、密かに名残を惜しみながら、彼からもらった左小指の翡翠の指輪を握りしめるくらいしか、ピアニーにできることはない。
「ピア、……まさかあいつに気があったりしないよな?」
隣を歩く四つ上の少年がためらいがちに声をかけてきて、ピアニーはゆっくりと顔を上げた。
「クレシェン、いきなり、何? ……ラズのことを言っているのなら、私は余計な火遊びはしないわよ」
──そう……政略結婚を阻止できたとしても、そして彼が元々立場のある人間だったとしても、平原の国の貴族であるピアニーの結婚相手に彼の名が挙がることはない。
「……表向きは隠すしかないけど実は好き、とかよくある話だろ」
「あら、ロマンチストね」
クレシェンは市井で仲良くなった平民の友人だ。彼が誰を想っているのか──ピアニーはいつも気づかないふりをしている。
「……愛とは行動なのよ、クレシェン。もし、そんな気持ちが芽生えたとしても、私はきっとこの先も、なんの行動もしないわ。だから、そこに愛は存在しようがないの」
「──それでいうと、捕まった平民の部下を直々に助けにくるなんて行動をするとは、全く、部下想いの姫様だよな」
クレシェンは敬意を込めた目でピアニーを見下ろして苦笑した。
「さっきのは……悪い、忘れてくれ」
クレシェンは照れながら頭を掻く。
「別に、気にしないわ。帰り道、気を付けてね」
にこりと笑い返して別れ、ピアニーは従者と共に屋敷への帰路についた。
自室に戻って、ピアニーはベッドに突っ伏した。
遠出の疲れもあるが、今日あったことの気持ちの整理がついていなかったからだ。
(ラズって、私のことどう思っているのかしら……)
──ラズ……つまり、左手小指の指輪をくれた彼。クレシェンにはああ言っておいて、思いっきり気にしてしまっている。
冗談まじりに、『ずっと側にいて欲しい』などと言ってしまった。
その時の彼の反応は照れるとかそういう以前に混乱の二文字で、意味まで考えたりしなかっただろう。
年齢の割にとても落ち着いた性格の彼だが、色恋方面は初心なのかもしれない。
(あんまり考えちゃ、駄目──。お友達よ、お友達)
きっと一過性の想いだ。
初めて会ってから数ヶ月間ずっとぐるぐると頭の中を行ったり来たりしているけれども。きっと、すぐに忘れて上書きできる程度の想いのはず。
ピアニーは、ぎゅっと目を瞑った。
† † †
一方、少年……ラズの方は、というと、あれから彼女とのことを周囲に何度か冷やかされ、……本人にとっても意外なことに、なかなか頭から離れなくて困っていた。
「……本当に興味ある?」
「今更何を。話してしまいたい癖に」
ラズの無二の親友、ファナは楽しそうに笑いながら頬杖をつく。
ラズはむぐぐ、としばらく唸ってから、ようやく観念して口を開いた。
「……恋愛感情とか分かんないけど。気には。……なってる」
十一歳になったばかり、相手によって無邪気、またはクールに接するラズは、最近になってちょうど声変わりと成長期を迎えて、不安定な心情も抱えている。
あまり気にしないようにしているが、彼女は異性としてみたときには人形の如き美少女だ。生まれだけでなく才にも恵まれ、彼女の下には自然と人が集まる。
「とはいえ、リアルな女の子だと思うとちょっと無理……」
仕草や表情を、かわいい、とか思うこともあるが、その先にある何かについては全力でブレーキを踏んでしまう。
頭を抱えるラズを見て、親友が相槌を打つ。
「結局、友達としか思えないって話だろう」
「そうだけど、そうじゃないといいなとも思うって話」
そこまで聞いて、親友はふっと吹き出した。
「分かった……はは、うん。いや、笑って悪い」
「いいよ別に。ドライな話、向こうはお貴族様だから、普通に無いと思うんだよね。出来心でどうこうなる相手でもないし」
自分で言っていて虚しくなってくるが、生まれのことはどうこうできる問題でもない。
「ピアニー殿はそうだろうな。感情に打算を乗せるタイプだ」
「……はは」
ラズも少し笑って、浅くため息をついた。