坂倉の覚悟 -後編-
俺がすべてを打ち明けたとき、マグカップを持つ父さんの手が微かに震えているのに気付いた。そっとカップを椅子に置き、それから、鋭い痛みが頬を走った。
「痛っ…」
父さんは俺の目をしっかりと見て言った。
「万引きは悪いことだ。人をいじめるのも悪いことだ。そこまで追いつめられていたのに一人で抱え込んでいたのだって悪いことだ」
「だけど、それに気付けなかったお父さんや母さんだって悪い。なあ、隆平。よく言ってくれた。一緒にどうすればいいかを考えよう。な?」
その瞬間、俺は比喩でもなんでもなく、肩の荷が降りるのをはっきりと感じた。そして、今まで自分がどれだけの荷を背負っていたかに気付いた。今は身体と心はともに雲のように軽い。後ろめたい生き方はもうやめよう、比山のことも許し、むしろこちらから今までの非礼を謝ろう。父さんの胸に抱かれて泣きながら、俺は強く強くそう誓った。
結局、キャンプでは一泊もせず、その日は夜遅くに帰路についた。いずれ人生を振り返ったとき、この夜の出来事は必ずターニングポイントとして思い返されるだろうと思った。父さんと母さんは事情を知りながら、いつも通り明るく振る舞って、扉を開けると大きな声で「ただいま」と言った。それは演技でもなんでもなく、本心からの明るさだと思った。なぜなら、これからしかるべき罰を受けると分かっているのに、俺の心が妙に晴れやかだったからだ。罪を隠そうとすれば不安に苛まれるが、罪を償おうとすれば心はとたんに晴れやかになる。
「誰かいるのか?」
父さんがふと言った。二人の間から顔を出して覗くと、俺たちの家がひどく荒らされているのが見えた。そればかりか、父さんの声に反応してか、奥から物音が聞こえた。
「二人はそこで待ってろ」
父さんは恐る恐る奥へと近付いていく。それが間違いだった。間もなく鈍い音が響き、父さんは床に倒れた。そして、暗闇から姿を現したのは目出し帽を被った男。その手にはバットが握られている。本当に恐ろしいとき、声など出ない。母さんはありったけの勇気を振り絞り男に立ち向かったが、かなうはずもない。再び人の頭を打つくぐもった音、そして母さんも倒れた。残された俺は目を瞑った。それからすぐ、意識が暗転するのが分かった。
「起きろ」
頬を叩かれて目を覚ます。そういえば、さっきも頬を叩かれたっけ。まだ意識がぼんやりとしていたが、目の前にいる男が横溝であることに気付いたとき、俺は真に覚醒した。俺は縛られていて、横溝の手にはバット。まさか、横溝が俺の家族を。腐っても仲間ではなかったのか。俺の中に強い怒りが芽生えるのを感じた。
「お前、なんでこんなこと。どうして!」
横溝はそれこそ怒りに満ちた表情で言った。
「動画のバックアップはどこにある?」
「…は?何のことだよ!」
「とぼけても無駄だ。お前は肝心なところで人選をミスったんだよ。全部を比山にやらせようたって無駄だぜ」
話が見えない。人選?比山?俺は必死に拘束を解こうともがく。
「比山が俺を脅してきた。田村さんに不都合な動画を持ってな。だが俺はすぐに気付いた、あの愚図にそんな大それた真似ができるわけがない」
比山が脅した…?俺のときと同じだ、身体中に悪寒が走る。
「問い詰めてやった、するとアイツは吐いたよ。お前から頼まれたとな」
「違う!お前も比山に騙されてるんだ!俺は―」
思い切り鼻の頭を殴られる。口の中に血が混ざるのを感じた。
「あの比山にそんなことできるわけがないだろ。ふざけたこと抜かしてないで、早く在処を言えよ!」
駄目だ、コイツと話していても埒があかない。なんとかして抜け出さないと。しかしどんなにもがいても、拘束は解けない。
そうしているうちに、横溝は立ち上がった。
「そろそろヤバイか…」
そう呟くと、彼は淡々と油のようなものを部屋中にまいていく。すぐにその意図を察し、俺は叫んだ。
「やめろ、待ってくれ!」
彼がこちらを向いたが、もはやその目には俺など映っていないかのようだった。
「じゃあな」
一瞬。彼の手から放たれた火は一瞬にして広がった。横溝は割れた窓の外から影のように消えていく。父さんの身体、母さんの身体が火の中へと消えていく。俺は精いっぱい叫んだ。
「父さん、母さん、起きろ!逃げろ!」
その声は炎の轟音にかき消されてしまう。そしてその凄まじい炎に焼かれながら、俺は自分の過ちをはじめて心から悔いた。