憧れの人
比山に弱みを握られたときは何を言われるのかと思ったが、比山が出した条件は思いのほか簡単なものだった。
「一週間、学校に来ないでほしいんだよ」
「え…?」
「つまり、今日は金曜だろ。来週いっぱい休んでくれって話」
「いや、それだけでいいのか?」
はじめは比山に化かされているのだと思った。しかし、何度問いただしてもその条件は変わらなかった。もちろん、一週間も休めば両親から何か言われるに違いないが、俺が想像していたものよりもずっと楽な条件だ。結局、俺はそれをのんだ。了承すると、比山ははじめて微笑んで、俺に礼を言ってから去っていった。
坂倉の元を去ってから、次は横溝に照準を向けた。彼もまた取り巻きの一人だが、邪魔者であることに変わりはない。これといった弱みはなかったが、彼は坂倉と違い田村に本気で酔っている。それこそが弱みになりうると俺は踏んだ。
そのために使うのはこのビデオテープ。これには田村が少女とまぐわう動画が残されている。譲がつくったフェイク動画らしいが、言われなければ気付かない出来だから、おそらく横溝が気付くことはないはずだ。これを横溝に見せ、バラされたくなければ…というように話を進めていく。基本は坂倉のときと変わらない。違うのは、自分のためか、人のためかということくらいだろう。
「おい、なんだよこれ」
横溝はやはり気付かなかった。顔面を青くして俺の方を見ている。
「説明は省くけど、これがみんなの目に触れれば田村くんの信用はがた落ちだ」
坂倉と同じく、横溝はDVDプレーヤーに手を伸ばそうとしている。だから俺は先手を打った。
「ちなみに、バックアップは取ってあるよ。壊しても無駄だし、そんなことをすればすぐに動画をばらまいてやる」
「まあ、そんなことはしないだろうけど」
横溝は腹立たしそうにこちらを睨む。
「とにかく、田村くんを救えるのは君だけってことだ」
「…あ?」
目が大きく見開く。誰かに心酔する者とは、総じてその者のために尽くすことに喜びを見出だすものだ。それがたとえこんな状況であったとしても。いま、彼の頭の中には田村ではなく、田村を救う自分の姿があるはずだ。そしてそんな自分に酔おうとしている。
「君がやることさえやってくれれば、この動画は完全に消してあげるよ。だけど、従わなければ…、後は分かるね?」
彼は相変わらず憎悪を込めた目をこちらに向けていたが、意外にも返事は早かった。
「…約束は守れよ」
案外、簡単なものだ。恐怖や憧れ、とにかくそういった感情がすなわち弱さに繋がるということだろう。何かに執着すれば、その何かを餌にして釣られる。譲はその餌について熟知していた。それを垂らしてやれば、彼らはすぐに食い付く。俺は鼻唄を歌いながら家の扉を開ける。
「おかえり」
譲の母親だった。俺は譲になりきって、やわらかく穏やかな口調でそれに応じた。彼女は俺と話したがった。そして俺もそれを拒まなかった。もう譲についての情報はかなり覚えていたから、譲になりきっての雑談だって難なくこなせたのだ。
完璧に譲になりきった後、俺は譲の部屋へと向かった。ひとまず、種は蒔いた。土日にそれらが芽吹くはずだ。まあ、どのみちその成否を俺が知るのは月曜日になるだろう。善は急いだ、後は果報を寝て待つだけだ。
おもむろに床に落ちてある本を手に取った。パラパラとページをめくりながら、外で雨が降りだしたことに気付いた。