万引き少年
坂倉隆平は悩んでいた。田村たちとつるんでいれば学校でもまずいじめられることはないし、むしろみんなから羨望の眼差しで見てもらえる。スクールカーストの上では何の不自由もなく毎日を過ごすことができる。しかし、田村は気まぐれな男だ。少しでも彼の機嫌を損なえばたちまち次のターゲットにされてしまうだろう。だから、田村と近付くことは俺に安心をもたらすと同時に不安をももたらした。今は比山がターゲットになっているから良いものの、前にいじめられていた吉尾のようにアイツが自殺でもしたら、今度は誰がいじめられるか分からない。
はあ。俺は横溝が羨ましかった。あいつは本気で田村のことを好いている。田村に褒められたいがために何でもこなす。言ってみれば横溝にはポジティブな動機がある。そこにくると俺は田村に嫌われたくないからというネガティブで受け身な動機。それに比山のことだって別に好きではないが、特に嫌いでもない、アイツは俺にとって、本当にどうでもいい人間だった。暴力だって好きではないから、比山を殴ったり蹴ったりしても俺の心は晴れず、むしろ嫌気がさすだけだった。いっそ、あの比山の馬鹿が田村を殺してくれればいいのに。そうすれば、俺だけでなく誰もが恐怖から解放されるはずだ。
「隆平、ご飯だよ」
母さんの声。しかし、いまの俺には腹を満たすよりもしたいことがあった。
「ごめん、ちょっとジュース買ってくるよ」
母さんに見送られた後、俺の足は自然とコンビニへ向かった。いつからだろう、俺がこんなことをするようになったのは。自動扉が開き、店員が俺に声をかける。その瞬間、身体は戦闘モードに切り替わる。心臓がバクバクと鼓動し、生きている実感が徐々にわいてくる。名前も知らない洋菓子に手を伸ばす。そのときだった。
「万引きは犯罪です」
振り向くと、そこにいたのは比山だった。
「まさか、君がこんなことしてるなんてな」
俺は比山を突き飛ばし、一目散に走り出す。あの野郎、馬鹿のくせに図に乗りやがって。走って、走って、走って、ようやく気持ちが落ち着いてくる。待てよ、度胸のないアイツが告げ口できるわけがない。それに、そもそも俺はまだアイツの前で万引きなんてしてないじゃないか。
なら、なぜ?
なら、なぜ比山は万引きというワードを出したのだろう。実際、さっきの俺を端から見れば、ただ商品を手に取ろうとしていただけ。そこに不審な部分はなかったし、仮にあったとしても万引きと決めつけるのは早計というものだ。背筋に冷たいものが走る。
「なんで逃げるのさ」
比山が目の前に立っていた。小さくてひ弱そうなくせに、今日はなぜかそこに妙な力強さを感じた。
「なあ、万引きって何のことだよ」
俺はカマをかけるつもりで聞いた。コイツはどこまで知っているのかを確かめるためだ。心のどこかで、安心できる答えが返ってくることを期待していた。しかし。
比山は表情を変えず、懐からスマートフォンを取り出した。何やら嫌な予感がする。
「これを見れば、分かってくれるかな」
彼が手にしたスマホには、見覚えのある場所が映されている。俺の行きつけのコンビニのひとつ。そして、一番見慣れた人間の姿がそこにある。これは俺だ。隠し撮りされていたんだ、いつの間に。そして画面の中の俺は商品に手を伸ばす。それをポケットにしまい込むと、そのまま出口へと向かう。レジを通せ、レジを通せ、俺は呪文のように心の中で繰り返した。しかし、俺に魔力はないらしい、まるでそれが当然というような自然な動作で外へと出ていった。万引きの成立。
俺はスマホに手を伸ばすが、それよりも先に比山が手を引いた。
「よしてよ。スマホって高いんだぜ」
「それにバックアップがあるから、壊しても無駄だよ」
一瞬、不吉な未来がよぎる。家族にこれがバレれば、俺の平穏な生活は終わる。家族はどうなるのだろう、そして俺はどうなるのだろう。町中からバッシングを受けて、学校でも居場所がなくなってしまうのか。
「そんなにいじめられるのが嫌か。俺を万引き犯だとバラして、自分はいじめの標的から逃れようって寸法だろう」
「いいか、俺はお前と違い努力してきた!いじめられないための努力を!」
「そこにくるとお前はどうだ。何の取り柄もないくせにボーッと過ごし、その結果いじめられるなんてのは当たり前のことじゃないか」
「どうせ、お前みたいなのはいじめられるぞ。今は凌げても、どうせまた転落するんだ。だから…」
「待ってよ。そういう話じゃないんだ」
比山は相変わらず表情を変えずに言った。
「バラすつもりなんてなくてさ。協力してほしいだけなんだよ」
「協力…?」
「そう。だけど、僕の言うことなんて聞かないだろう?だから交渉材料としてこれを持ってきたってわけさ」
俺を脅しているのか?いま、俺はコイツに脅されているのか?俺はコイツのことを見くびり過ぎていたのかもしれないと思った。俺の思う比山譲とは、人間らしさを欠いたナメクジのような、とにかく鈍くて出来損ないの馬鹿だった。少なくとも、俺が抱く比山像を更新しないことには、いま起きていることは説明しようがなかった。
いずれにせよ、比山に脅されるなど不愉快極まりないことだったが、もはや従うしかない。俺が発するべき言葉はもう決められていた。
「…何を、すればいいんだよ」
比山は口を開いた。