記憶喪失
「いってらっしゃい」
僕を見送る母さんの声はいつもやさしい。声だけじゃなくて、その瞳も、表情も、些細な仕草さえもが僕への愛情に満ち溢れていた。それだけでなく、持たされた弁当の重みからも母さんの愛情を感じ取った。しかし、だからこそ言えなかった。僕は母さんの思っているような楽しい学校生活を送れてはいないし、この弁当を食べるのも僕ではなく、大口を開けた教室のゴミ箱だ。母さんが朝早くに起きて、栄養バランスやら何やらを考慮して、あれこれと悩んで作ってくれた弁当が、全部ゴミ箱にのまれてしまう。ここまでくると、もう笑ってしまう。
鼻唄を歌いながらしばらく歩くと、もう学校だ。ここでは、誰もが僕を哀れむような目で見る。しかし、それはおそらく自己満足であって、結局僕を助けようとアクションを起こした者は一人もいない。とはいえ、それについてどうこう思うこともなかった。しょせん、人間は恐怖に抗えない。対岸の火事は見守るに限るのだ。
教室に入る。ここまでに幾多の試練があった。靴箱には上靴など当然なくて、背中には何やら紙を貼られ、すぐさま連続して蹴りを入れられたことでそこに書かれた内容を悟る。剥がしてみて答え合わせをすると、そこにはやはり“僕を蹴って!”と書かれてあった。正解。
教室に入ると次は誰もが僕に批難の眼差しを向ける。これも致し方のないことで、ここでは僕を嫌うことが一種のマナーなのだ。考えてみれば、クラスとはまさしく閉ざされた、小さく狭いコミュニティであり、そこでの村八分はすなわち死を意味する。クラス替えまでの一年という期限付きとはいえ、やはり村八分は避けねばならない。仮にヘイトを溜め込めば、すぐさま僕のように袋叩きにされてしまう。結局、誰か一人はこの役を務めねばならない。集団は一人の敵がいることでようやく結束できる。言い換えれば僕のようにいじめられる相手がいなければ集団はバラバラになる。前任のいじめられっ子は自殺した。そして彼のバトンを今、僕が握っている。
突如、椅子が引かれる。支えを失った僕は床に尻餅をつく。痛いという間もなく羽交い締めにされ、ズボンを脱がされる。僕の下着姿なんか見て、誰が得をするんだよ。そう思っていると、彼らは下品な笑い声をあげながら僕の下着に手をかけた。慣れた手つきでスルッと脱がされ、僕の下半身は生まれたての姿になった。みんなはギャーギャーと悲鳴をあげて逃げ回る。お前らが脱がしたんだろう。ズボンを持ったヤツとパンツを持ったヤツは別々に走り去る。二兎を追う者は一兎をも得ずと言う、僕はズボンを追うことにした。
廊下をフルチンで駆け回るのは不思議なスリルがある。今なら露出狂の気持ちが少し分かる気がした。しかし、ズボンの速いこと。僕の脚じゃ、とても追いつかない。息が切れ、早々に諦める。ズボンが立ち止まり、僕に叫んだ。
「おい、フルチン野郎、来いよ!」
無理だよ、と言いたかったが、息が切れそれどころではない。そうしていると、後ろからまたしても羽交い締めにされ、引きずられていく。もはや抵抗などできない、僕はなすがまま、彼らに身体を委ねた。
たどり着いたのはやはりトイレだった。彼らの住み処はトイレなのだ。乱暴に投げられて、小汚ないタイルの上に倒れ込む。彼らを見上げると、すぐさま拳が飛んでくる。かなり痛い。口の中に血の味がして、視界がゆがむ。彼らは僕の目が回復するのを待たず、髪の毛を掴んだ。何本か髪の毛が抜けるのを感じながら、そのまま引きずられ、目の前には大便器があった。ああ、ツイてない!今日は中に大便が入っていた。それも健康的な一本糞。
「喉が渇いたろ。飲めよ」
田村の声だ。彼はいわゆるガキ大将だが、何もゴリラみたいなヤツじゃない。もちろん筋力はすさまじいが、容姿も良く勉強だってできる。親も地元では有力の金持ちで、誰もが羨むような才能と生まれを併せ持ったエリートだ。
別に喉は渇いていないが、飲まなければ終わらない。僕は黙って大便器にたまった水に口をつけた。すると、再び髪を鷲掴みにされて顔ごと汚水に沈められる。コイツは加減を知らない、肺活量のない僕がそう何十秒も息を止めていられるもんか。僕はじたばたともがくが、線の細い僕の抵抗など何の効力もない。
ようやく顔をあげると、そこには嬉しそうな田村の顔と、そして後ろには面白そうな顔をして笑う上原の姿があった。上原は田村の幼馴染みで、男の僕から見ても整った顔立ちをした美少年だ。性格も冷静沈着、いたってクールで、その美形も相まって女子からの人気も高い。彼は僕を直接いじめることはしないが、後ろから見守って、いじめっ子たちに助言を施してくれる、いわばアドバイザー的立ち位置だ。彼は取り巻きの横溝や坂倉と違って田村と対等に付き合える関係にあり、まさに黒幕といった感じだろう。
その上原の薄く綺麗な唇が開いた。
「なんか目も虚ろだね。眠いんじゃないかな、起こしてあげなよ」
横溝と坂倉は何かを察したように頷き合い、ふたりして僕の髪を鷲掴む。さっきから髪ばかり掴みやがって、ハゲたらどうするんだよ!次の瞬間だった、僕の頭は思い切り大便器に打ち付けられる。凄まじい衝撃。目の前に星が踊る。星たちが微笑みながら、ぐるぐるぐるぐる回ってる。それを目で追っていると、だんだんと視界がゆがみ、そして暗くなり、最後には何も見えなくなった。