7話 手作り弁当
今日、またしても母が寝坊した。最近多い気がする。特に今の家に引っ越してから。
それに、昨日沖田さんの話を聞いて「夜に作り置きしてた方が楽かもね~」的なことを言っていたくせに結局作らなかったらしい。作ってもらってる立場の俺が言うのもなんだけど。
斯く言う俺も軽く寝坊したので今日はコンビニはスルーした。故に今日は学食だ。
そして、その昼休みなのだが──
「財布、忘れた」
鞄のどこにもなかった。あれ? ちょっとやばくないか? 食べる物も買う手段もないじゃん。
記憶を巡っていく。今日の朝……急いでたから見てない。なら昨日の夜か……
「あっ、あの時か……」
確か昨日、母にお釣りを渡して買い物の代金を貰った時、部屋のデスクに放置したままだ。
さて、どうするか……取り敢えず何も食べずに教室にいると不自然だし屋上に行くか。
教室に残っているのはほとんど女子グループだ。その中に「ごめーん、昼飯忘れてお金もないから弁当分けてー」なんて言って乗り込む男子がいたら俺なら金輪際付き合いをやめる。ちょっと生理的に受け付けない。それにそんなことをしたら冷たいどころか凍てついた目で睨まれそうだ。そして、バリエーション豊かな罵詈雑言を浴びせられるだろう。
俺はそんな背筋が凍りつきそうな想像を払って席を立った。
屋上に沖田さんはまだ来てなかった。
この塔屋の上は結構落ち着く場所になっていた。最初は無口少女とふたりきりで妙に緊張したけど、最近ではこっちから話しかけても十字以上で答えてくれることもしばしばある。それが少し嬉しく感じられるのも確かだ。
どうしたものかと黄昏ていると、鉄梯子の鳴る音が聴こえた。沖田さんだ。
「こんにちは、沖田さん」
「……ん」
沖田さんはいつもの調子で俺から少し離れたところに座り──と思っていると、今日は距離が近かった。何事かと思っていると、いつもの手提げから弁当箱をふたつ取り出した。……ん? ふたつ?
沖田さんはそのうちのひとつ、少し大きい方を何も言わず俺の前に差し出した。
「えっ? どうしたの、これ」
「作った」
「……な、なんでまた?」
「昨日、頼まれたから」
昨日。即ちあの夕食の時のことだ。うちの母親は冗談半分で沖田さんに俺の弁当を作ってくれるよう頼んだ。……まさかそれを真に受けて本当に作ってきちゃうとは……迷惑だからいいって言ったんだけどな。
でも、弁当なし金なしの現状。空腹で腹が鳴っているのは事実。しかも初・女の子の手作り弁当! だがしかし、本当にこれを受け取っていいのだろうか……
俺が苦悩に苦悩を重ね葛藤していると、沖田さんはやがて弁当を持った手を引っ込めて、
「いらなかった?」
表情を崩さずに言った。その代わりというか、声の温度が僅かに下がった……気がした。
「いや、貰えるなら嬉しいけど……ほんとにいいの?」
「構わない」
「じゃ、じゃあ……お言葉に甘えて」
両手で薄い赤色の包みを受け取る。結び目を解くと青色の一段弁当が姿を現した。
色鮮やかなおかずが半分と白いご飯が半分。
食欲を唆る弁当にゴクリと唾を飲み、だし巻き玉子を頬張る。続いて野菜炒め、コロッケ、ご飯と箸を進める。
「……おいしい。凄くおいしいよ、沖田さん!」
「そう……よかった」
おおよそ喜びの色が感じられない沖田さんの言葉。
嘘でも過剰評価でもなく、素直においしい。
毎日作ってもらいたいくらいだ。
「分かった。そうする」
「へっ?」
振り向くと沖田さんも自分の弁当を開いていた。……いや、そうじゃなくて今なんて言った? 聞き間違いじゃなかったら、もしかして──
「もしかしてさっきの、声に出てた?」
「……ん」
瞬間、顔が下の方から真っ赤に茹で上がっていくのが分かった。羞恥でどうにかなりそうだった……いや、どうにかなってしまいたいと思った。……本当に、恥ずかしい。
「本当に……いいの?」
「構わない」
俺は咄嗟に俯く。まだ顔が熱い。
こんな状況でも、沖田さんは一切表情を崩さなかった。本当に何も感じていないのだろうか。
俺は次の瞬間にはこう言っていた。
「よろしく……お願いします」
────と。
「……ん」
その一文字は、今までに聞いたどんな言葉よりも深く、俺の脳内に刻み込まれた。
◆◇◆◇
「──というわけで、明日から沖田さんが弁当を作ってくれることになりました」
帰宅後、僅かに様子の違った俺に(自覚はないが)母がやたらと迫ってきたので俺は昼休みでの出来事をすべて話した。
母は顎に手を添えたまま目を閉じて黙考している。そして、バッと目を開き言い放った。
「よかったじゃーん! 美味しかったんでしょ? 沖田ちゃんのお弁当」
「はい。それはとても」
「いんやー、よかったよかった。遂にうちの息子にも春が来たんだねぇー! もう夏だけど」
盛大に冷やかされた。……もう、話さなきゃよかった。他人の違和感にはヤケに敏感なんだよなぁ、この人。それでもって相手が観念するまで徹底的に言及してくるし。
「そんなんじゃないって言ってるだろ! 確かに、特殊だとは思うけど」
クラスメイトの女の子に弁当を作ってもらうのはかなり特殊だろう。
「でも、よかったって思うのは本当だよ。アンタ、転校続きでそろそろ完全に心を閉ざしちゃうんじゃないかって、心配してたんだよ。勿論父さんも」
母のその言葉は、鋭い槍のように俺の胸に深く突き刺さった。……心配、かけてたんだな。
「大丈夫。まだ、大丈夫だから。あと何回転勤しても、ちゃんと学校には行くから」
「そう……よかった」
母は困ったように微笑みながら言う。
そう。学校には行くだろう。それは学生の本分だから。だが……いつかそれだけの日々になるのかもしれないことを、可能性として否定することは出来なかった。
母は恐らく、俺のその考えを察しているのだろう。
次回、プール回です。