61話 停滞と一歩
「38度5分。完全に熱ね」
転勤の話を聞いて、翌朝。自室。
俺の脇から体温計を引っこ抜いた母はそう言った。
「頭痛はある?」
「……いくらか」
「そう。学校もないし、ゆっくりしてな。薬持ってくるから」
立ち上がり、俺の額を小突いて背を向ける。閉じる扉の音が嫌に響く。
母は、昨日の話をしなかった。いつもと変わらない母だった。正直、今何か言われても上手く言葉を返せる気がしないのでありがたい。
熱い体とだるい頭を働かせるのが億劫になってきた。自分が相当弱っていることが嫌でもわかる。
頭がぼーっとする。
思考もままならないまま、起きていることにさえ疲れを感じてきた俺は、瞼の重みに任せるまま再び目を閉じた。
結局、昼食もとらぬまま、俺は夕方までずっと眠ったままだった。
父も母も、何も言うことなく、何も訊くことなく、俺も何も話すことなく、無為な一日が終わった。
◆◇◆◇
「37度3分。微熱ね」
翌日、月曜日。自室。
俺の脇から体温計を引っこ抜いた母はそう言った。
昨日一日寝て過ごしたが、熱は下がりきらなかった。
「今日は休みな。学校には連絡しとくから」
立ち上がり、俺の額を小突いて背を向ける。閉じる扉の音が嫌に響く。
やっぱり、今日も母は何も言わなかった。まだ本調子じゃない俺に気を遣ってくれたのだろうか。結局昨日は何も考えられなかった、というか考える余裕もなかったので助かった。
横に向けていた顔を戻し、ただ白いだけの天上をぼーっと眺める。
熱が下がってきているから昨日よりは楽だが、まだ倦怠感は残っている。というか、心持ち的にはむしろ昨日よりだるい気がする。
長引く熱は学校で沖田さんに会わないようにと、まるで現実逃避のようにさえ思えてくる。
(弱ぇな……俺)
何も為せぬまま、何も得られぬまま、無為な時間を2日も過ごそうとしている。
薬も食事も忘れて、俺は眠った。
俺が次に目覚めた時には、既に昼を大きく過ぎていた。
◆◇◆◇
文化祭の熱もすっかり冷めた月曜日。今日からいつも通りの学校生活に戻る。だが、つい先ほど登校を終えた耀弥は、いつもの教室に違和感を覚えた。
悠灯が来ていない。
ただ遅いというだけかもしれない。だが、これまで一度として悠灯が耀弥より遅れてきたことはない。それだけで得体の知れない不安を掻き立てられる。
本を読む気にもなれない。
何もせずただ座って不安が晴れる瞬間を待ったが……ホームルームで担任から悠灯の体調不良による欠席を告げられ、悠灯が来ないことが確定した。耀弥の内側は、時間とともに虚ろに蝕まれていった。
2限、3限、4限と止まることなく、耀弥の心を置き去りに時間は過ぎ……悠灯が学校に来ぬまま昼休みを迎えた。
半ば放心状態のまま、手提げを持ってひとり屋上へと向かう。ある意味迷いのない行動は、かつての耀弥に戻ってしまったようだ。
キィと開く鉄扉の音が、初冬の風と相まって寒々しく凍てついたように、無機質に響く。
塔屋の壁際に腰を下ろし、機械的、作業的に手提げから弁当箱をふたつ取り出して――――止まった。
「そ……っか…………いないん、だ……」
たった一日。たった一度。いつもの場所に悠灯がいないだけで自分はここまで不安定になるのか。
自分以外誰もいない屋上が、果てしなく広く感じられる。
突如、身体が震えだした。怯えるように、得体の知れない何かが、妖しく背を撫ぜるように。
かつてないほどの震え…………その正体は――
(……寂しい)
当たり前のようにいた人がいない……その虚無感。その寂寥感。
そんな感情、久しく抱いていなかった。感じる理由すらなかった。だけど悠灯には、耀弥の失っていた寂しさも再び目を覚ました。悠灯の存在が、それを為した。
そうすると、改めて実感が湧いてくる悠灯の転勤族の話。
悠灯は、こんな感覚を何度も何度も抱えながら、友達になりたいと、好きだと、そう伝えたのだ。いつ来るやもしれない別れの時を、頭の中で繰り返し再生しながら耀弥と過ごしてきたのだ。
(ずっと……こんな気持ちを……)
耀弥は理解した。耀弥が抱いたこの気持ちを、悠灯がずっと考えてきたことを。タイムリミットを。その後の耀弥のこと、悠灯自身のことを。幾度となく、耀弥と別れることへの不安と恐怖と寂しさを幻視してきたことを。
悠灯にとって自分といることが、一体どれほどの意味を持っていたのか…………耀弥はようやく、本当の意味で理解した。
悠灯の手を取ってよかったと、心の底から思えた。
また少し。耀弥の中で織宮悠灯という存在が大きくなっていく。
そして、一歩を踏み出すための勇気が芽生える。
耀弥は自分の分だけ、弁当を食べた。
悠灯の分は、もう一度手提げに仕舞った。
するべきことが決まった。
その表情はいつものように戻り、もう不安の色は影もなかった。




