56話 芽吹き
沖田さんが屋上を去ってから、俺は動けないでいた。正確には、走っていく沖田さんを追えなかった。
食べかけの沖田さんの弁当箱を閉じ、自分の分を食べた。気を紛らわせたかったのもあるが、せっかく作ってくれた弁当を、手を付けずに残すことは出来なかった。思ったより喉を通ってくれたのは助かったと言えるか。
人は、意中の相手に振られた時どう感じるものなのだろうか。悲しさか、寂しさか、悔しさか、恥ずかしさか……はたまた憎しみか。少なくとも憎しみこそないものの、前者3つ――特に寂しさは存在していた。
沖田さんを好きだという気持ちが実らなかったことが、ある種の喪失感となって俺に寂しさをもたらしたのだろう。
小説など物語ではよく耳にする、失恋後のふたりの関係。
友達に戻っても、それまでの関係には戻れない。
態度がよそよそしくなる。
どうしてもギクシャクしてしまう。
見えない壁や溝が生まれる。
俺はどうか。俺たちはどうか。この亀裂を抱えたまま、なんの後腐れもなくこれまでと同じように接していけるのだろうか。
悔いはない……と思う。
ただ――
「沖田さん、わからない……って言ってた」
沖田さんは恋愛感情を知らない。だから、俺の告白に……迷った……?
――だとしたら、俺は本当に振られたのだろうか。
その疑問は、俺の中の振られたと認めたくない気持ちから生まれたものなのかもしれない。だが俺の感情と関係なく、その考えを捨てることは出来なかった。
俺は、選択を誤ったのだろうか。
◆◇◆◇
体育館の外の壁際にある仮設ベンチに座って、耀弥は完全な不動を体現していた。それこそ道行く人々が思わず二度見するほどに、瞬きひとつせず座像と化していた。
悩むなんて経験、ここ数年の耀弥にとっては縁遠いものだった。唯一知春との接し方を除いて悩む必要がなかったからだ。誰も彼もがどうでもいい存在で、そこに思考する時間を割く余地など有りはしなかった。
だが耀弥は、悠灯の告白にその悩む余地を認めた。それは耀弥にとって悠灯の告白がどうでもいいことではなかったから。
知春たちを待つこの時間も、耀弥は耀弥なりに考えてみるものの、まるで出口も規模もわからない暗い迷路に放り出されたように、答えどころか何の光明も見えてこない。
「耀弥ちゃん!」
「……!」
数分ぶりに動いた耀弥の目に入ったのは、駆け足で向かってくる知春と純乃の姿だった。
「ごめんね、待たせちゃって」
到着した知春は待たせたことを耀弥に謝罪してから、場所を移すことを提案した。これから話す内容を考えれば、確かにこんな人通りの多い場所は避けた方がいいだろう。
3人は比較的静かな、滅多に人の来ない第1棟の裏に移動した。都合よく誰もおらず非常扉の前の段差に、耀弥を中心にして3人並んで腰を下ろす。日常時の屋上ほど静かとは言えないものの、間違いなく文化祭とは切り離された空間だろう。
「これ以上引き延ばしても仕方ないから単刀直入に訊くね。耀弥ちゃん、織宮くんと何があったの?」
「……っ」
話を濁すことも、別の話題を振ることもせず早々に本題に入る知春。それはもはや必然、耀弥の迷いの本質をピンポイントで突いていた。
「沖田さん、焦らなくてもいいからね」
純乃は固まっている様子の耀弥の手を取って言葉をかける。
「焦らなくてもいい……けど、私も話してほしい。私で力になれるかは分からない……でも沖田さんが悩んでるなら、私も相談に乗るくらいなら出来るから。学級委員としてじゃなく、クラスメイトとして……ううん、沖田さんの友達としてっ」
「とも……だち……」
「そう、友達っ。私は沖田さんの友達になりたい、友達でありたい! 沖田さんが悩んでるなら相談に乗るし、迷ってるなら背中を押す。悲しい時は傍にいるし、嬉しい時はそれを共有したい」
純乃の精一杯の気持ち。自分は力不足と自覚しているから、あまり大きなことを言えないし、きっと気休めにしかならないような言葉にしかならないことも、純乃にはわかっていた。ならばその気休めになるならと、耀弥への願いと思いを全力で伝えた。言葉の通り、耀弥の背中を押すために。
果たしてそれが届いたのか、はたまたそうでないのか、耀弥は打ち明けた。
「織宮くんに…………好き、って……言われた」
言い淀むのは、耀弥自身まだその事実を受け止め切れていないからか。
知春と純乃のふたりは、どうやら予想は当たっていたようだと、何とも言えない表情になる。
「でも……どうしたら、いいのか……わからなくて……逃げた」
自らに向けられる感情に敏感になってしまった少女が、初めて向けられた感情。その理解と処理に頭がキャパオーバーを起こした。そして「わからない」と叫んで逃げてしまった。
「私は、どうしたら……いい……?」
好きとは何か。恋愛とは何か。悠灯によって再び引き出された、今の自分の中のほんの僅かな感情の中にソレは存在するのか。
答えが出ない。答えを出せない。
普段は誰に頼ることもしないのに、思わず知春に縋ってしまうほど耀弥の頭の中は混沌としていた。
純乃は相談に乗るとは言ったものの、耀弥に返す言葉を見つけられず、結果として口を開くだけで声を出せずに終わってしまう。まぁ、恋愛経験のない者に「告白された。どうすればいい」と訊かれても答えるのは難しいだろう。しかも耀弥の場合「告白を受けるべきか否か」という問題では済まないから尚更だ。
自分の不甲斐なさと無力さに唇の裏を噛んだ。
だが、知春は対照的だった。
ある意味耀弥のことを一番考えている知春だ。悠灯からの諸々の前情報もあってこの事態も可能性として視野に入れていた。
だから、こう切り出した。
「耀弥ちゃん、9月に織宮くんと水族館に行ったんでしょ?」
「ぇ……ん……」
唐突に何の脈絡もない話題を振られたことと、どうしてそのことを知っているのかという疑問に、耀弥は言葉を詰まらせる。
「その時、笑ったんだよね。織宮くんに」
「えっ? 沖田さんが、笑ったの?」
知春の言葉に反応したのは、耀弥ではなく純乃だった。無理もないだろう。なんせ耀弥は笑顔どころか無以外の表情を見せたことがない。事実、純乃は体育館の外で初めて耀弥の崩れた表情を見た。
「……どう、して」
「聞いたのよ、織宮くんに。今だから言うけど、私結構織宮くんの相談に乗ったり乗ってもらったりしてたんだ。だからその時に、ね」
続けて、知春は核心を突く問いかけをする。
「……ねぇ、耀弥ちゃん。どうして、笑ったの? どうして……その日だけ、笑えたの?」
それは耀弥もずっとわからなかったこと。耀弥も知りたいこと。
……いや、本当はもうわかっていた。
――嬉しいから笑った――ただそれだけだ。耀弥も親友と離別するまでは自然にやっていた、人間にとってごく当たり前のこと。
この6年間、裁縫をした時や料理を作った時にそれなりの充足感を覚えたことはあるが、明確な喜びを感じたことはなかった。
だが悠灯からキーホルダーをもらった時に感じたのはその明確な喜び。それに今ならわかる、悠灯と水族館に行ったときに確かに「楽しい」と感じたと。ただ、あまりに強く閉ざされていた感情が急に表に現れたから、その戸惑いが耀弥の思考を鈍らせていたのだ。
久しぶりの楽しさ、久しぶりの喜び…………久しぶりの友達。
「友達って……なに……」
その呟きは、ほとんど無意識で漏れた。遠くの喧騒にさえ掻き消えそうなほど小さな声だったが、ふたりとも聞き逃さなかった。
「それは、人によっていろいろかな。話しているうちに自然となっているものだったり、何かのきっかけでなるような相手だったり……」
知春はそこでわざと言葉を切る。
「……ただのクラスメイトとは違う、心からそうなりたいと思える特別な存在だったり」
それだけで誰のことかがわかる。なぜなら耀弥は知っているから。「友達」という存在に特別な意味を見出している人のことを。
「そして人によっては、その『特別』が『友達』で留まらないこともある。『友達』じゃ終われないこともある」
それが悠灯だ。知春は言外にそう伝える。
「残念ながら私も誰かを好きになったことがないから、あんまり知った風なことは言えないけど……少なくとも織宮くんは、耀弥ちゃんと過ごした時間に友達に対する感情以上のものを得た」
語ったあと、知春は耀弥にこう問いかける。
「耀弥ちゃんにとって、織宮くんと過ごした時間はどんなものだった? 織宮くんと過ごしている時、耀弥ちゃんの目に彼はどう映った?」
耀弥が悠灯を好きか、耀弥が悠灯をどう思っているか――知春は決してその言葉を口にしなかった。悠灯の時と同じ、それをはっきりさせる言葉を自分の口から本人に告げてしまうと、そこには少なからず知春の意思が介入してしまうと感じたから。だから、かける言葉は背中を押す程度のもの。
もしこの相談が悠灯の告白のもとにあるものではなかったなら、知春は悠灯の時同様に耀弥に何も言わなかった。
それは、恋をしたことがない年上のお姉さんからの、恋に悩む年下の少年少女へのせめてもの気遣いだった。
「織宮くんとの……時間……」
そしてその言葉は、耀弥の中にすっと入ってきた。
悠灯と過ごした時間が耀弥にとってどんなものだったか。
(ちゃんと考えたこと……なかった)
ただ悠灯に対する認識が変わり、ただ悠灯に対する感情が移ろい、ただ他の誰といるより過ごしやすいと思うようになり、ただ……悠灯との時間が心地良く感じるようになった。だがその時間は、その日々は耀弥自身の中でどんな意味を持っていたのか、耀弥にとってどんな存在だったのか、耀弥はそれを考えたことはなかった。
そんな思考に呼応するように、頭の中に思い起こされる。誰よりも自分にまっすぐに接してくれた友達と過ごした情景。
初めてその目を見た時に感じた興味と、そんな自分への驚き。その日から悠灯は毎日、耀弥のいる屋上に赴いては耀弥の傍に居続けた。
初めて気持ちが動いたのは、多分悠灯の家に行った時。好恵の「悠灯の弁当を作ってほしい」という冗談9割の依頼を請けたのは……
(もっと、関わりを持ちたいって、思ったから……)
好恵には「多分」と言ったが、悠灯に弁当をおいしいと言われたこと、今の耀弥は「間違いなく嬉しかった」と言える。
悠灯と友達の関係になったのは、ちょうど耀弥の誕生日だった。ここ数年は本当にただの普通の日でしかなかったが、今年のその日だけは、耀弥にとって確実に特別な日となった。
決してあの瞬間からそう認識したわけではないが、日が経ち気づけばあの6月27日そのものを、悠灯からの「誕生日プレゼント」だと、耀弥は思うようになっていた。
それからというもの、耀弥の日々はそれまでと比べて……いや比べるまでもなく濃密なものだった。
耀弥の家で宿題をして、一緒に夕食を作った。悠灯とふたりでした食事は、なぜだかいつもよりおいしく感じられた。
悠灯の言葉で、髪を伸ばした。伸びかけの頃にサクラモールで悠灯と会った時に感じたもの……あれはきっと恥ずかしさだ。結局、夏休みの間悠灯に会わないようにした理由はわからずじまいだが、あるいは……
そして、最も記憶に新しく、何よりも耀弥の心を揺らしたのが――水族館に行ったこと。
あの日耀弥は、実に6年ぶりにその顔に笑みを浮かべた。
(そうだ……あれからだ)
悠灯に対する、耀弥の中の「わからない」を意識するようになったのは。
あの日まで耀弥は自分の中で疑問が生じてもそこまで深く考えはしなかった。それは悠灯も危惧し、確信してしまった、耀弥が自身への興味関心を失ってしまったから。いや、正確には失いかけていた。
しかしあの時感じた「わからない」だけは、考えず切り捨てることが出来なかった。
果たして、これまでに何度悠灯に対して「わからない」という言葉を使っただろう。何度悠灯のことで「わからない」と思っただろう。
なぜ悠灯との時間は心地よいのか。
なぜ悠灯との友達という関係をプレゼントと思うようになったのか。
なぜ悠灯からキーホルダーをもらって嬉しいと感じたのか。
なぜあの時、ずっと失っていた笑顔を自然に作ることが出来たのか。
――なぜ、悠灯にだけこんなにもわからないことが多いのか。
(……織宮くんが……特別、だから……)
それは――
(……私にとって……特別な人…………だから……)
ひとりの少女が、大海の如き悩みの中から、ひとつの答えを見つけた瞬間だった。




