32話 気づくべきこと
放課後。少しばかりの躊躇いとともに、屋上へ向かった。終礼後も自分の席で少しの間頭を抱えていたため、沖田さんが既に屋上にいることは分かっている。
屋上に行かないでおこうかとも考えたが、昼休みと放課後にふたりきりになるのは今となっては暗黙の了解のようになっているので、無断で帰るのもまた気が引ける。それに、彼女にどう思われるかも分からない。少しでも彼女に傷を負わせるかもしれない選択はしたくない。
キィと、扉を開けて外に出ると心地良い秋の涼風が肌を撫でる。
緊張感を含ませた足取りで塔屋を登る。
顔を出し、そこで見たのは、横たわり小さく寝息を立てる少女の姿。顔はこちらを向いていて、時折吹く風に綺麗な黒のミディアムヘアーが靡いている。サイドテールは眠るために解いたのか、今は下ろされている。
(そう言えば、初めて会った時もこんな感じだったっけ)
正確には教室で会っていたのだが、俺が沖田さんを初めて認識したのは放課後の屋上だ。
あの時も彼女は静かに眠っていた。
今回は起きることはなく、俺は梯子を登りきり地に足を着ける。そして、眠る沖田さんの隣に腰を下ろし、すぐ側の寝顔を眺める。
鼓動は安定している。冷や汗もない。寝ていてくれて助かった。もし起きていたら顔を直視出来なかったかもしれない。
「……」
すっと、左手が伸びる。向かう先は、少女の薄紅い柔らかそうな頬。
「んぅ……」
「――!」
あと数ミリで触れそうなところで、沖田さんが小さく身じろぎをした。
その声と衣擦れの音で我に返り、同時にピタと手も止まる。気がつくと鼓動が鳴りを上げていた。ドッドッという音が嫌に頭に響く。
沖田さんは変わらず、心地よさそうに眠っている。
「危ない……」
自制自制。心頭滅却心頭滅却。
大きく息を吐き、もう一度沖田さんを見据える。少女の印象をガラリと変えた伸びた髪が目に入る。
「……髪くらいなら、いいかな……?」
その言葉はもはや無意識だ。自制も心頭滅却も衝動の前には風前の灯火、あっという間に消え去った。
恐る恐る、慎重に、その横髪に手を伸ばす。
触れた髪は柔らかで、なんの抵抗もなく指がすっと入った。髪質がいいということは、素人の俺でも分かった。まさにサラツヤヘアーだ。
「んぅ……ん……」
「ッ!?」
いつまでも触れていたいと、そう思ったのも束の間、再びのその唸り声によって現実に引き戻された俺は即座に手を離しそのまま自分の背に隠した。
「起きてない……よな?」
息を殺して様子を観察する。聴こえるのは小さな寝息。どうやら起きてはいないらしい。
さすがにこれ以上は起こしかねないという思いと、髪に触れたことへの後ろめたさから、俺は起こさないよう静かに屋上を後にした。
◆◇◆◇
はふぅと大きく息を吐く。
校庭の正門前の広場の片隅に設置されたベンチに腰かけ、全体重を預ける。背後には1本の桜の木。もちろん桃色は見えるはずもない。
手足の力を抜き、背もたれに背を預け、ただただだらける様に顔ごと視線を上げて真上の緑を眺める。
「やけにお疲れだねぇ。なんかあった?」
だる〜んとしていたところに響く凛とした女性の声。耳だけで声の主を認識すると、体勢を直して挨拶をする。
「どうも、桜木先輩」
「やっ。久し振り、かな?」
右手を小さく上げて校舎の方から歩いてきたのは、この学校で最も沖田さんと付き合いの長い人物、桜木知春先輩。高身長で大人びた雰囲気にも関わらずフレンドリーな話し方は愛嬌さえ感じる、不思議な人だ。
夏休みも一度も会っていないし、2学期もこれが初めてだから、久し振りと言えるだろう。
「隣、いい?」
別段断る理由もないのでふたつ返事で了承する。
詰めれば3人は楽に座れるほどあるのでふたりだと余裕を持って座れる。
桜木先輩が隣に座った時、思わず高校生にしては豊かなその胸に視線が行ってしまったのは内緒だ。多分気づかれてない……はず。
恥ずかしいのを隠すためというわけではないが、先に口を開く。
「先輩は知ってるんですか? 沖田さんの髪のこと」
ふたりはお隣さん同士だし、夏休み一度も接触がなかったとは考えにくい。なら沖田さんの変化も知っているのではないだろうか。
「そうだね。知ってるよ。夏休み中に会うこともあったからね」
「理由とかは、知ってますか?」
もし知っているなら、非常に恥ずかしいところだ。なんせ俺が長い髪も似合うと言ったかららしいのだから。
「ううん、それは知らない。訊きはしたんだけどね、口を噤んじゃって教えてくれなかったよ。織宮くんは知ってるの?」
「いえ、知らないです」
言えるわけがない。知らないなら知らないままでいてもらおう。
「ふぅーん。そっか」
妙に含みのある笑みを浮かべる桜木先輩。……気にしないのが吉だ。言及はしてこないし問いただすと墓穴を掘りそうで怖い。
「それで? わざわざこんな所でなぁにを悩んでたのかな?」
「……なんで、そう思うんですか?」
「わかるよー、結構簡単に。さっきからキミの様子を見てるとね」
……俺はそんなにわかりやすいのだろうか。
「それで、耀弥ちゃんの唯一の友達である織宮くんは一体なにに悩んでいるのかな?」
わざわざそんな言い方をするということは、どうやら俺の悩みが沖田さん絡みであることもお見通しらしい。
「ホント鋭いですね」
「まぁね。ただ単純に共感って言うのかな。耀弥ちゃんのことで考えたり悩んだりするのは、私も同じだからね」
そうだ。この人は俺よりも沖田さんと付き合いが長く、俺よりも沖田さんに寄り添おうとした時間も長い。それ故に、その過程で生じる悩みもその数も俺よりずっと多いはずだ。
「キミよりも耀弥ちゃんとの距離は遠いけど、キミの悩みを聞いて、一緒に考えることくらいはできると思うよ」
その言葉は、どこまでも柔らかで、無条件に安心感を与えるものだった。
……まぁそれゆえに話す空気を作らてしまった感が否めないが、俺は自分に蔓延る謎の感覚を打ち明けることにした。
「昨日、沖田さんと水族館に行きました」
「ん……!?」
取り敢えず事の始めから話そうと切り出すと、隣から思わぬ声が上がった。
「どうかしました?」
「いやっ。ちょっと予想外だっただけ……続けて」
「はぁ……まぁ予想外なのは俺も同じですけどね。きっかけだって、親が割引き券をもらってきたってだけですし」
一度、ひと呼吸置いて、俺は再び言葉を続けた。
「それでですね……帰り際、笑ったんですよ。沖田さん」
直後、隣で耳を傾ける先輩の雰囲気が変わるのが感じられた。
「今、なんて?」
「沖田さんが、笑ったんです。小さく微笑む程度でしたけど」
横目で見ると、驚きを隠せない先輩が見て取れた。……まぁ、無理もないだろう。
「ちょっと待ってね……」
そう断ると先輩は、自身の胸に右手を当て小さく深呼吸する。最後にふぅーと大きく吐き出すと姿勢を整えた。
「ごめんね。それで、キミは、どう感じたのかな。耀弥ちゃんの笑った顔を見て……どう思ったのかな」
その言葉は先程までと違い、重みのある言葉だった。自然と俺の言葉にも緊張感が混じる。
「わかりません」
ただ、意外にあっさりとその言葉は出てきた。
「わからないって……どういうこと?」
「確かに、嬉しかったです。沖田さんの笑顔を見るのを目標にしてたくらいですからね」
そう。確かに嬉しかった。もう5年以上見せていないという、心を閉ざした少女の微笑む姿。それを拝めたのだ。追い求めてきたものに辿り着いて嬉しくないわけがない。
「でも、その喜び以上に感じたものの正体が……俺にはわからないんです。家に帰っても、日付が変わっても、あの笑顔は鮮明に焼き付いてます。この先絶対忘れません」
今でさえ、彼女を思い浮かべたら真っ先にあの表情が現れる。
「でも、それが沖田さんの顔を見る度に重なるんですよ。それで自分の内側がごちゃごちゃになって、俺が俺でないように思えてくるんです」
これまでは普通に目を合わせられたのに、今は寝顔でないと満足に見られない。
「……俺には、今俺が持ってるこの感情の名前が……わかりません」
気がつくと全てを吐き出していた。先輩がどんな面持ちで聞いているのか、自分がどんな顔をしているのか、バカなことを言ってるんじゃないだろうか。そんなことを気に留める間もなく、ただただ心の内を吐露していた。
桜木先輩の反応がない。声どころか動作や衣擦れの音さえ聴こえない。
「あの……桜木先輩?」
恐る恐ると顔を横に向けると、予想外も予想外。大きく俯き、右手で両の目元を覆い小さく口を開けた見たことのない先輩がそこにはいた。
「えっと……どうかしましたか?」
「あぁいや、ごめん。ちょっと思ってたのと違ったから」
困ったように笑い、丸まった姿勢を戻す桜木先輩。
「まさかそーいうことになってたとはね……正直ビックリだよ……」
俺にも聞こえる声で顎に手を当てて呟いている。いや、ほんとにどうしたんだ?
先輩が独り言を呟く中、俺がなにがどうなっているのやら把握出来ないでいると、大きな溜め息が耳に入った。発生源は当然先輩だ。
「いやぁゴメンねー。思ったよりトンデモ展開になってたもんだから動揺しちゃったよ」
一拍置いて謝罪する先輩。気恥しいのか小さく頭を掻いている。俺はさっきからコロコロ変わる先輩の表情やら動作に戸惑い言葉を発せないでいる。
「正直に言うとね。私は織宮くんの抱える問題の答えを、感覚の正体がわかる。私に同じ経験はないけれど……さすがにわかっちゃったよ」
先ほどまでの誤魔化すような色はなく、真剣味を帯びた声音だ。
それよりも……俺自身にわからない「コレ」を桜木先輩はわかると言う。……どういうことだ?
「でも……それはキミが、キミ自身の力で気づかなければいけないことだから。だから、私から何かを言うことは出来ない」
その答えを求める俺に、桜木先輩の言葉は叶えてくれなかった。
「俺が……気づかなければいけない……?」
「うん。それはきっと、大事な感覚──感情だから。時間の限られたキミにとっては特にね。だから、私や他の人じゃなくって、キミが自分で気づいて、向き合って、受け止める必要がある」
時間の限られた、って……俺が次に転校するまでに気づかなければならないってことか? それも俺の力で。
今はまだ、なんのヒントもない。
目的地すらわからないまま、広大な海に放り出されたようだ。
この感情の正体に辿り着くための灯台の光は見えない。更にはいつ訪れるかもわからない「時間」という名の捕食者もいる。
唯一わかるのは、放り出された原因は沖田耀弥という少女の「笑顔」であるということ。
桜木先輩は静かに立ち上がり、体ごと俺を見据える。
「織宮悠灯くん。耀弥ちゃんの唯一の友達であるキミが、キミを悩ますその感情と決着をつけることを、私は祈っているわ。それが、彼女を変えるかもしれないと……そう思うから」
そんな願いのような言葉の後、先輩は思わず立ち上がったことに照れるように再び腰を下ろした。
先輩は知っていると言った。俺のこの感情を。
それは俺が自分の力で決着をつけることだと。
その答えが、沖田さんにも関わってくるかもしれないと。
たったひとりの少女のたった一度の笑顔が俺に与えた難問。
俺が今までの人生で感じたことのない感情とは、一体なんなのだろうか。




