『何故、私を産んだのか?』と言う問いに対する二階堂譲治の母親の回答
望月誠一郎は二年前に購入した自宅に帰るのが嫌で、気が付けば住宅街にある公園のベンチに腰を深くかけていた。時刻は既に十九時を回っており、元々人気のない公園は不気味なほどに静まり返っている。時間を開けて何度も繰り返される自身のため息が、誠一郎には必要以上に大きく聴こえた。
こんな所で油を売っている暇はない。早く家に帰らねばと冷静な部分が繰り返すのだが、感情と両足は従ってくれず、また溜息が漏れる。
「お兄さん。今日は早く帰った方が良いぜ?」
突然に誠一郎の耳朶を若い男の心配する声が打つ。慌てて顔を上げれば、ベンチの正面には一人の男が立っていた。いつの間に? と、自身の不注意に驚きながら、薄暗い照明の下で誠一郎は男を観察する。
まず、でかい。そして、でかい。とにかく、でかい男だった。
身長は間違いなく一九〇以上、もしかしたら二〇〇を超えている可能性もある。そこそこ上等な生地のスーツは筋肉の形に盛り上がっており、その体重は想像もつかない。が、無駄のない筋肉の量を考えれば、ボクシングのヘビー級は確実だろう。そこまでの巨体となれば、それだけで才能だ。
そんな彼の年齢は随分と若い。二十代の中盤、大学を卒業しているか否かと言った所だろう。その卓越した肉体と比べると、顔にはまだまだ若さが滲んでいる。
「お兄さん。奥さんが心配しているぜ? 早く帰った方が良い。最近は物騒だからな」
自然と恐れを抱いてしまう巨漢が、低い声で言う。
「二日前の殺人犯、まだ掴まってないんだ。お兄さんも死にたくはないだろう?」
殺人犯。その言葉に誠一郎の心臓が跳ね上がる。憎悪と怒り、そして困惑と無力感。誠一郎は自分の抱えている問題を突き付けられた気分に陥り、思わず青年を睨んでしまう。
だが、青年は少しも怯まない。体格に恵まれた彼にしてみれば、中肉中背インドア派な誠一郎の体躯はまるで問題にならないのだろう。
「お兄さんが死んだら、奥さんも、患者さんも困るだろう? だから、帰りましょうよ」
どちらが年上かわからなくなる台詞に、誠一郎は眼を剥き、初めて青年に言葉を返す。
「患者?」
「ん? お兄さん、医者でしょう?」
青年の指摘は事実だった。だが、どうして自分が医者だとわかったのだろうか? 誠一郎は少年の指摘に警戒心を抱く。
「どうしてぼくが医者だと?」
「親父なら、ニーチェの言葉を借りて『職業は生活の背景である』なんて言うのかな?」
「え?」
「俺の親父は医者なんだけど、雰囲気が似てた。消毒の匂いとか、ネクタイの感じとか、指先とかね。ガキの頃からホームズが大好きでね。今、ワトソンがアフガニスタンに行っていたのを見抜いただろう? 今、あのシーンが頭の中でリフレインしているぜ」
早口に青年はそう言うと、いかつい顔で笑った。愛嬌のある笑みに、誠一郎は警戒心を緩め、見ず知らずの他人と言う事実が更に『恥はかき捨て』を実行させてしまう。
「そうか、そうだね、ぼくは医者だよ。ダメな医者さ」
「ネガティブ入ってるなぁ」
誠一郎の突然な言葉に、青年は表情を苦笑に切り替える。
「お医者様にあんまり偉そうなこと言いたくないけど、そうやって『自分は不幸です』って雰囲気を出すのは止めた方がいいっすよ? 誰かが気にかけて助けてくれるなんて、スーパー戦隊モノを楽しめる年齢の特権でしょう?」
言いながら、青年は誠一郎の座るベンチに腰を下ろす。ベンチが悲鳴を上げた。
「俺の親父だったら、絶対にそんな風に自虐みたいなことは言わない」
「君のお父さんは良い医者で、良い父親なのかもね」
「いいや? 嫌な奴だぜ? ラスボスに絶対に勝てないゲームをプレイしたくないだろう? 俺にとって、父親はそんな感じだ」
困ったように笑う青年は、誠一郎には何処か誇らしげに見えた。彼は自分の父親を尊敬し、越えるべき目標としているのだろう。
その関係性が羨ましく、息子と酒を呑みたいと言う父親の気持ちをなんとなく理解し、同時に娘が自分のことをどう思っているかを想像し、誠一郎は憂鬱になった。
「ぼくは、ダメな医者で、ダメな父親だ」
「もしかして、酔ってます? 送って行きましょうか?」
気遣う青年の言葉を無視して、誠一郎は続ける。
「二日前。あの事件の被害者。ぼくは彼女を治療した」
「…………貴方が」
「娘の同級生だった。色々事情が重なって、ぼくが緊急手術を担当した。ぼくよりも大分年上の御夫婦が必死に頭を下げて『お願いします』『お願いします』って繰り返してね、で助けられなかった」
青年は「それは……」と相槌を打ち、「それで?」と話の続きを促す。誠一郎は「人の死は、慣れないよ」と短く呟いた。
「言い訳みたいだけど、ぼくの腕の問題じゃあない。運ばれて来た時、もう助かる見込みは殆どなかった。でも、手術するしか助かる見込みはなかった。そう言う、ギリギリの境界線で、犯人はあの子を苦しめていた」
「じゃあ、貴方はダメな医者じゃあないじゃあないか。ダメなのは犯人だ」
「うん。そうだね。それでね、手術に失敗した次の日、娘に聞かれたんだ」
その時、誠一郎の娘は泣いていた。友達の死に、そして死と言う恐怖に。
「なんて?」
「『人はどうして死ぬの?』って」
無垢な質問は、難題だった。勿論、医者である誠一郎は人の死の定義を知っている。が、幼い娘にそれを説明することは難しかったし、娘が理解できるとは思わなかった。だから、日和った。娘に対して無難な答えを口にしてしまう。
「ぼくは、『神様が決めた』と答えた。『全ての命は必ず消えてしまう』と」
と。青年が笑う。シニカルに。
「俺の親父が怒りそうな答えだ。それで娘さんは納得したのか?」
「わかってくれなかった。友達に会えないことを悲しみ、助けられなかったぼくを呪い、死にたくない、怖いと泣き叫んで大変だった。あんまりに酷いから、隣りの家の人が虐待だと思って警察に電話するくらい、癇癪を起した。まだ、蹴られた脛が痛いよ」
凄まじい暴れ様を思い出し、苦い笑いが誠一郎の表情から零れる。
「それでね、泣きつかれた娘はぼくにまた訊ねるんだ。『どうせ死ぬなら、どうして私を産んだの?』ってね。ぼくはその台詞があの子を助けられなかったことより苦しかった。医者失格だよ。そして、ぼくはそれに答えられなかった。情けない父親だよ」
そう言いきって、誠一郎と青年の間に沈黙が訪れる。白く沈殿したような耐え難い空気がまとわりつき、誠一郎は見ず知らずの相手に内心を吐きだしたことを後悔した。こんな青年相手に自分は何を言っているんだ。こんな愚痴をこぼすだなんて、八つ当たりにも等しいだろう。
自分の身を慮って声をかけてくくれた青年に対する仕打ちとしては最悪と言える。ここは彼の言う通り、家に帰って休んだ方が良いかもしれない。きっと、疲れているのだろう。
「…………確かに、それは最低だな」
と。立ち上がろうとした正にその時、青年が分厚い唇を開いて言った。台詞とは裏腹にその響きは優しく、誠一郎は首を傾げて隣りに座る青年の言葉を待った。
「俺も昔、同じ質問をしたことがある。全て失うくらいなら、最初から必要なかった。積み上げた物がゼロになるなんて絶対に嫌だった。で、親父に聴いたんだ。親父は何でも知っているから、きっとこの絶望をどうにかしてくれるって信じてな」
この青年、少し父親のことが好き過ぎないだろうか?
「そしたら、親父はこう言った。『ニーチェならこう言うだろうな。【人は人間愛から、理由なしにある人を選んで抱擁する(すべての人を抱擁することはできないからだ)。しかし理由なしに選んだその人に、そのことを告げてはならないのだ……。】』」
「え? それだけ?」
台詞の続きがないかと催促するが、青年は歯を見せて笑い、「ああ」力強く頷く。
「意味がわからないと、俺は抗議した。すると、その意味はお袋に聴けって言うんだ」
「母親に? 君の母親は哲学者なのか?」
「主婦だよ。でも、お袋のその答えに、幼い俺の心は救われた。死ぬことは怖いままだけど、産まれて良かったと言えるようになった」
ししし。と、青年は猫のように目を細めて笑う。
一体、どんな答えなのだろうか? 誠一郎は問おうとして、止めた。きっとそれは青年のとても大切な思い出だろう。軽々しく、見ず知らずの他人に教えて良い物ではないだろう。
そして何より、他人から教えて貰った答えで娘と向き合っても、格好がつかない。
「そうか、君の御両親は格好良いな」
見たこともない青年の両親に対抗心を燃やし、ベンチから立ち上がると誠一郎は困ったように笑いながら決意する。
「ぼくも、格好良いお父さん、目指してみようかな」
青年と別れを告げた誠一郎は大股で自宅への残りの帰路を進む。あれだけ合うのが怖かった娘の顔が見たくて、彼女に触れたくて、運動不足な心肺が限界を訴えるが、それらを全て無視する。
頭の中では、青年に教えて貰った哲学者の言葉。その意味を考え、彼の母親がどうやって彼を救ったのかを想像する。早まる鼓動に思考は纏まらず、何も答えなんて浮かびはしない。
何も思いつかないまま、肩で息をしながら門を開け、玄関をくぐり、靴を脱ぎ棄て、娘の名前を呼ぶ。ショックから学校を休んだ彼女は、リビングのソファの上でブランケットを被って丸まって泣き腫らしており、こんな状態の娘をほっぽり出して家を出た自分自身に誠一郎は激しい怒りを覚えた。
「おかえりなさい。そんなに慌ててどうしたの?」
「ただいま」
愛妻への帰宅の挨拶もそこそこに、誠一郎は娘の身体からブランケットをそっと除けた。小動物のように震える娘は「おとうさん」と泣き枯らした声で呟き、泣き腫らして真っ赤になった眼で誠一郎を見上げた。
彼女は答えを待っていた。
恐怖からの救いを望んでいた。
誠一郎はそんな彼女の小さな身体を強く抱きしめ、ただ胸の奥から溢れる情動のままに呟いた。
「麻利亜。愛しているよ」
考え過ぎたことはすべて問題になる。
フリードリヒ・ニーチェ