4話 崩れ落ちる砂壁のように
数時間後。
パーティーもピークを過ぎたところで、フローチェはそっと会場を抜け出した。
(ちょっと踊りすぎで目が回ったわ……外の空気が吸いたい)
今回は特に人が多かった。
夏の夜の松明ってこんな気分なのかしら、と大変失礼なことをフローチェは呟く。胸中で虫に重ねられているとは知らない人々は、フローチェから離れ別の権力者に移動した。
「……ヴィレムは今回もむかつくくらいの人気ぶりだったわね……」
眉目秀麗、文武両道。
そんな言葉を体現するヴィレムは、毎度のごとく令嬢たちから囲まれている。昔からそうだったのでフローチェは少し肩身が狭かった。
まあ、嫌がらせの類を受けたことは一切ないのだが。
それは誰かが守ってくれたとかそういうことではなく、本当にフローチェは「虐められない体質」なのだ。
もちろん公爵令嬢という立場も大きいだろう。
しかし、どうも不興を買ったら虐められるという雰囲気があるらしく、すぐに取り巻きができる。本人は誰かを虐めている暇があるのならブレフトのことを考えていたいという考えなのだが。
(私そんなにきつそう? やはりつり目が原因かしら。紫という色のせい? おかしいですわ。いつでも笑顔を絶やさないというのに……)
常に愛想よく、を死に物狂いでやっている身としては非常に遺憾である。
(それに比べて……)
そろりと会場の中を確認すると、ヴィレムの周りには未だにご令嬢たちが集まっていた。
というかヴィレムへ挨拶に来ていた男性陣が捌けて、むしろご令嬢たちの数が増えている。
(あら。あの方は随分可愛らしいですわね)
その中には、目を見張るように美しい容姿の者もいた。
ふわふわとした巻き毛で、大きな瞳はたれ気味。か弱そうな雰囲気といい、フローチェとはまるで正反対だ。子ウサギと女豹くらいの差がある。
(アッペル伯爵家のご令嬢ですわね。たしか十六歳だったかしら? 五歳の妹と今年生まれた弟のいる……)
令嬢とアッペル伯爵家に関する知識を頭から引き出し、ふむと考える。
(なかなかいいのではないかしら)
何がと言えば、ヴィレムの結婚相手にである。
アッペル伯爵家は、ヘーレネン王国の伯爵家の中では力のある家だし、由緒正しい部類だ。
本人も顔よし教養よし、刺繍好きで有名と趣味も良し。
取り巻きに参加しているのだから、ヴィレムに好意も抱いている。
(並ぶと絵になりますわね。私がヴィレムの隣にいると威圧感が増しますもの)
ヴィレムは普段から仏頂面の上に、髪色と瞳の色が黒に青と暗めなので、少し近寄り難い感じがするらしい。フローチェは慣れているのでよく分からないが。
そこに生まれた時からいじめっ子ビジュアルなフローチェが並ぶと、相乗効果で凄いことになると言われた。
(不服ですわっ。ヴィレムは分かるけれど私はいつでも品を保ちつつ微笑んでいますのよ!?)
笑っていても怖いならどうしろと。
フローチェは軽く頬をふくらませた。
(でも、叔父様は、可愛いって言ってくださいましたわ)
うふふふふふ。
またしてもフローチェの顔面が残念な感じに緩む。ぼんやりと目の下が赤くなり、まるで酩酊しているようだ。
「叔父様はお優しいですわ。フローチェは瞳が大きくてとても可愛いね、子猫みたいだよ……って、うふっ、ふふふふふ!」
思わず大声を上げてしまい、近くにいた貴族の男が振り返った。
「な、なんだ? 今の不気味な声は……」
(あらいけない)
自身も訝しげ辺りを見回すふりなどしながら、フローチェはしれっと退却する。
外の空気を吸いに出たことを思い出し、このまま中庭へ向かうことにした。
途中、後ろを見たが、ヴィレムたちの様子は相変わらずだ。
フローチェは口をへの字に曲げる。
(ヴィレムも、少しくらい笑いかけてあげればいいのに)
そこそこの位を持った家のご令嬢もいるだろう。
二大公爵家より貴いのは王族だけだが、それでも上流貴族の反感を買えば面倒なことになる。
まあ、そんなことしなくともご令嬢たちは幸せそうだったが。
「気持ちは分かりますわ。私も叔父様のお傍にいられるだけでしあわ……っ!」
思わず呟き、慌ててあたりを見回す。
誰にも聞かれていなかっただろうか。
フローチェは王子の妃候補筆頭。
まだ婚約が決まった訳では無いとはいえ、ほかの男性への恋心など知られない方がいいに決まっている。
注意深く見渡していると、中庭の植え込みの向こうに、なにやら人影が二つあった。
動きがなんだか不自然だ。こそこそと隠れているようにも見える。
(あ、あら?もしかして逢瀬……とか。邪魔になる前に退散しようかしら……)
パーティー会場をこうして抜け出す人は少ないし、中庭に少し出ることはあってもそんなに奥までは行かない。
これはこれはお熱い……などと、思ったのだが。
「あら?」
会場から漏れた明かりが照らす薄闇に目を凝らす。
どうやらどちらも、男性のようだ。
(あんなところで何を?落し物かしら……)
いや、あんなところに落とすことはまずないだろう。下を向いている様子もない。
(怪しいですわね)
関わらない方がいいのでは……とも思うが、やはり気になる。
フローチェはしばらく迷った挙句、少しだけと言い訳してそっと近づいて様子を見てみることにした。
気配の消し方など心得ているはずもないし、ドレスは重くて衣擦れの音がする。
しかしパーティー会場の賑わいが上手く隠してくれたようだ。
相手の男二人も特に気配に敏いことはないようで、フローチェの接近に気が付かない。
(もう少しで顔が見えそ…………え?)
灰色の髪。
微かな光を反射して、琥珀の瞳がきらりと光った。
(ブレフト叔父様!?)
大声を出しそうになるのを慌てて堪える。
その人を見紛うはずもない。そこにいたのは、用事あると言っていたはずのブレフトだった。
(用事が早く済んで、途中から間に合ったのかしら……?)
だが、それなら人声かけてくれてもいいのだが。
フローチェはパーティーでもかなり目立っていたほうだろう。見つけるのは容易なはずだ。
どういうことだと、フローチェはさらに近づく。
「……ら、…………を、……んだ」
「…………のか? ………ぞ」
微かに声が聞こえてくる。いけないと思いつつも、フローチェはつい、聞き耳をたててしまった。
ぼそぼそと喋っているのは、やはりブレフトだ。
もう一人の男には見覚えがない。だが、ブレフトと顔見知りのようで、なにやら難しそうな顔で話を聞いている。
穏やかな様子でないことは二人の表情で分かった。フローチェはこのまま聞いてしまっていいものかどうか逡巡する。
(もう戻ろうかしら……)
フローチェが踵を返しかけたとき、気になる単語が飛び込んできた。
「……ば、ハーンストラ家へ被害は及ばないのか?」
思わず前のめりになって耳を澄ませる。
今のはブレフトの知人らしき男の言葉だ。苦虫を噛み潰したような顔をしている。
「そこは上手くやるさ。それに、ヘーレネン王国も二大公爵家の片翼を失うのは痛い。兄上は幼い頃から『いい子』だったお陰で優秀だしな」
続いて、蔑んだような声。
知人らしき男の口は動いていない。
誰が話しているかは明白で、それでもフローチェには信じられなかった。
(あ、れは……本当に叔父様なの……?)
濁った瞳に、刺のある口調、嫌味っぽい言い方。
『フローチェ』
自分の中のブレフトはいつだって微笑んで、優しく目尻を下げていて。
重ならないのだ、どうしても。
目の前にいるこの男と。
「両親はいつも兄上にかかりきりで、それは懸命にしつけられていたからな。王国もお気に召したんだろうさ。型通りのことしか出来ない人間だから御しやすいだろうしな」
違う。違う。
(私の知っている叔父様は、こんな……)
フローチェは片手で口を覆い、一歩後ずさった。
自分は寝ているのだろうか。
これは夢なのだろうか。
疑問というより、そうであって欲しいという懇願。
しかし、何度瞬いても、顔を醜く歪ませたブレフトの姿が消えることは無い。
これまで彼の姿を美しく覆っていた砂壁が、崩れ落ちた。