3話 歪み
翌日。
朝から体中を磨き上げ、あっという間に夕方。
昔はこの一連だけでへとへとになったものだが、この歳になってくるともう慣れたものだ。
「じゃあ、行ってくるわね」
「行ってらっしゃいませ、お嬢様」
最後まで支度をしてくれたミリアににこりと微笑み、フローチェはお屋敷をあとにする。
(ああ、でも叔父様はいないのだわ)
現実に引き戻され、思わず顔が暗くなる。
これから笑顔を貼り付けて、公爵家に取り入ろうとする者達と踊って、見ているとイライラしてくる王子と話をして……と考えるだけで憂鬱だ。
「……フローチェ」
声をかけられ顔を上げると、切れ長の青い瞳と目が合った。
瞳を縁取る睫毛と風になびく髪は黒。高い鼻筋は筋が通り、形の良い唇は真っ直ぐに引き結ばれている。
すらりとした細身の体は、金糸で縫い取りのされた黒い衣装に包まれていた。
この青年が、幼馴染みのヴィレムである。
「ごきげんようヴィレム。今日も素敵ね」
「ああ、お前もよく似合っている、フローチェ」
形式的とも言える挨拶をして、フローチェは慣れた手つきで差し出された手をとる。
馬車に乗り込み、走り出しても二人はしばらく無言。
そんな中、唐突にヴィレムは「悪かったな」とフローチェに言った。
「え?」
「あからさまに機嫌が悪い。ブレフト殿の代わりが俺で悪かったな」
「あ、あら。そんなに顔に出ていたかしら……」
化粧が崩れない程度にぺしぺしと叩き、フローチェは思い出したかのように否定する。
「別に貴方が叔父様の代わりだということに不満はなくてよ」
「……そうなのか?」
「ええ、誰であろうと不満だもの!」
きりっとした顔で言い切ったフローチェに、ヴィレムは脱力する。
悪気はないのだろうが、結構ひどいことを言っている自覚はあるのだろうか。
「お前な……」
「だって、楽しみにしていたのだもの……」
フローチェは、むくれた顔で流れていく窓の外の景色を見る。
ヴィレムはため息をつく。
「……フローチェ。会場に着く前にその顔はどうにかしろよ」
「分かっていますわ。ハーンストラ公爵家の名を落とす気は無くってよ」
「……今日もブレフト殿が来られたとき奇行に出たと聞いたが。それは公爵令嬢としてどうなんだ?」
「なっ! 奇行だなんて……!」
ただ、部屋で侍女と取っ組み合いをして、全力疾走のような速さで廊下を歩いて、大声を上げながらブレフトの周りをくるくると回っただけではないか。
フローチェが文句を言うと、ヴィレムはもう一度、盛大にため息をつく。
「それのどこが『奇行』ではないのか、俺には理解出来ないんだが」
「あら、見解の相違ですわね」
つん、とフローチェは顔を逸らす。
ヴィレムが言っていることはいつも正しいが、今は小言など聞きたくはなかった。
「全く……お前はいつまで夢を見ているんだ」
「夢、ってなんですの?」
「ブレフト殿との結婚だ。王子殿下の妃候補なんだろう、お前は」
「……それがなんですの」
聞きたくない、とフローチェは思った。
聞きたくない。だって。
「貴族の結婚に愛は要らない。ただ、そこに利益があるかだ。お前も分かっているだろう」
ヴィレムの言葉はいつだって正しい。
目を逸らしたいものも、分かっていても分かりたくないものも、真っ向から突きつけるから。
(……そんなこと、分かってるわよ)
本当に「ブレフトと結婚する」だなどと思っていたのは、せいぜい初恋から一年程度だ。
すぐに分かった。
それがとても難しいことだというのは。
そして、想いの強さや努力ではどうにもならないことだということも。
好きでもない相手と結婚した友人は沢山いた。
ブレフトの周りで笑いながら、いずれは自分の恋も諦めなくてはならないのだろうと呟く自分がいる。
『いい加減おやめなさいな。滑稽だわ、どうしようもないと分かっているのに』
『貴女だけが我が儘を貫いて、今までに涙を流したご令嬢たちの気持ちを踏み躙りますの?』
(分かってますわよ、分かってるのよそんなこと!)
それでも、フローチェはブレフトが好きだった。
おかしいだろうか。愚かだろうか。
けれど、それでも。
(……どうしようも、ないでしょう)
あの人が好きなのだ。
じわりとみっともなく目の前が滲みかけた。
「……貴方には、分からないでしょうね……!」
苛立ちのまま、涙目でヴィレムを睨みつける。
理性の光に凪いでいたヴィレムの瞳が驚きに揺らぐ。
「貴方みたいに、どんなに綺麗なご令嬢に言い寄られてもなんとも思わないような、恋を知らない男には!」
深い青の瞳が見開かれた。
初めて見る表情で、その感情は推し量れない。言ってしまった後でフローチェは我に返った。
(何をやっているの私……自分で整理がついていない気持ちを、ヴィレムに吐き出すなんて)
それでは子供の癇癪と同じだ。
羞恥心と、それを上回る自己嫌悪がコルセットの中で渦巻いて、吐き気がした。
「……ごめんなさい。ひどい、八つ当たりだわ」
すぐに謝ったものの顔があげられず、ヴィレムがどんな表情をしているか分からない。
────いや、見なくとも分かる。きっと、いつもの冷めた目でこちらを見下ろしているのだ。
「ごめんなさい、ヴィレム。今言ったことは忘れて」
タイミングがいいのか悪いのか、馬車が止まる。どうやら会場に着いたようだ。
ヴィレムが先に降りて手を差し出す。フローチェは彼を視界からできる限り外したまま、手をとった。
二人は無言で馬車を降り、無言のまま、別れた。
(最低だわ、私。何をやっているの……)
ずるずると長ったらしい反省会を開きそうになり、フローチェは慌てて両の頬を叩いた。馬車の従者はこちらを軽く二度見していたが、気にしない。
「これじゃいけませんわ、反省するのはあと! もうパーティーは始まっているのですわ!」
じんじんと頬が痛み、強く叩きすぎたと少し後悔。
しかし気合は入った。
落ち込むのは屋敷に戻ってからだ。これ以上自分の感情に左右されてはならない。
慣れた形で固まった笑みを取り付けて、背筋を伸ばす。
会場に足を踏み入れれば、視線が集まるのを感じた。
「ごきげんよう、皆様」
フローチェはハーンストラ公爵令嬢。
完璧以外など、求められたことは無い。
優雅に一礼すればすぐに周りに人が集まる。フローチェは王子の婚約者候補筆頭であることが広まっているため、言い寄ってくる異性自体はいない。
代わりに、次期王妃に取り入ろうとする輩が薄っぺらい笑いで近づいてくるのだ。作り笑いはお互い様だが。
グラスを手に会場の中央へ進む。
自然と人がフローチェを避けた。権力が煙のように体に纏わりついていて、それが人々を弾くかのようだ。
適当な場所に留まり挨拶を交わす。
ちらりと横を見れば、少し離れたところにヴィレムの姿が見えた。
見目の良さに惹き付けられた沢山のご令嬢たちに囲まれているが、勿論取り入ろうとする男性の姿もある。
一緒になって子供らしい遊びをして、普通の子供のように笑いあった幼馴染みと自分の今の姿に、虚しさを覚えなくなったのはいつの頃だっただろうか。
幼稚な初恋と、悟りきった貴族の考え。
酷くアンバランスなものの上に、今のフローチェは立っている。