1話 ハーンストラ家の日常
フローチェは、七歳の頃に初めての恋をした。
父に連れられて行った薔薇園の東屋で、運命とも言える出会いをしたのだ。
灰色の髪に、穏やかな琥珀色の瞳。
目元は柔和に下がり、大人の余裕と共に色香が香る。
フローチェの前に跪き、その小さな手を取って、恭しく口づけを落としてくれた。
まだ七歳のフローチェをまるでお姫様のように扱ってくれた彼は、叔父に当たる人物である。
『はじめまして、小さなお姫様。私はブレフト。君のお父上の弟で、君の叔父だよ。よろしくね』
大きな手で髪を撫でられれば、急激に激しくなる鼓動とともに頬が熱くなるのが分かった。
周りには黄色の薔薇が五分咲き程度だったのに、突然目の前に満開のピンクローズたちが広がって、神々しい煌めきが世界を覆った。
シャララランという鬱陶しいほどの効果音が響くその世界に、自分とブレフトしかいないように錯覚する。そのくらい、何も考えられなくなった。
これが「恋」なのだと、幼いながらフローチェは理解し、
『わたくし、ブレフトおじさまとけっこんする!!』
迷うことなくその場で叫んだのだった。
私にも言ってくれたことないのに、と父が衝撃を受ける中、フローチェは甘やかな初恋に無垢な瞳をとろんと蕩けさせていた。
打ちのめされる公爵以外の周りの大人達は、温かい目でそれを見ている。
所詮は七つの子供の戯言で、成長すればただの思い出になるだろうと。
────だが周囲が予想するよりも遥かに、フローチェの初恋はしぶとかった。
◇◆◇◆
物憂げな顔で、一人の少女が窓の外を見つめている。
伏し目がちのそれは、潤んだ紫。大陸でも稀とされる色である。
侍女の指が、彼女の絹糸のような髪を編み込んでいく。ハーンストラ家に現れるこのプラチナブロンドの髪は、朝日を受けずともしっとりと輝いて見えた。
「はあ……」
桃色の唇から漏れる吐息は、ともすれば艶めいて聞こえ、柳の眉が下がる様は、男の庇護欲をを煽るというもの。
しかし侍女の顔色は変わることは無い。ただただ、凄まじい速さで髪を複雑に編んでゆく。
少女がきちんと鏡台へ向かって真っ直ぐに座っていないというのに、その精度は恐ろしい程である。
すると、少女の肩が、ぴくりと動いた。
────不味い!
侍女は少女の反応に窓の外へ視線を滑らせる。ここから見えるのは薔薇園の植え込みのみ。
しかし、侍女の目に見えているものは、なんの参考にもならないのだと、侍女自身がよく知っていた。
ガタン! と少女が椅子を立つ。
「叔父様がいらっしゃいましたわ!!」
そのまま走り出そうとする少女を侍女が必死で押さえた。
「お嬢様、お待ちください! まだ支度が出来ていませんわ!」
「今、お屋敷のドアを開けられましたわ!」
「お嬢様、お止めください! そのようにお鼻をクンクンさせないでください!」
頬を染めて部屋から突撃していこうとする令嬢と、それを必死で止める侍女の図。
繰り広げられているのは、名門ハーンストラ公爵家の屋敷である。
叔父との出会いから十年。フローチェは十七歳になっていた。
天使のように可愛らしい姿の女の子は、未だ僅かな幼さを残すものの、美しさと色気を兼ね揃えた娘に成長した。
……ただし、おかしな方向に発達した初恋を装備して。
侍女は必死に腕を掴みつつ、息を荒くしたフローチェに叫ぶように問う。
「というかお嬢様、何故お分かりになるのですか! ここから玄関までどれほど距離があるとお思いです!?」
「愛があれば遠距離なんて関係ないと言うでしょう!?」
「それはちょっと意味が違います!」
ぎぎぎぎぎ、と暫く揉み合ったものの、侍女ミリアが辛勝し、なんとか再び鏡台の前に座らせることに成功した。
「四十秒で支度してちょうだい!」
「分かりましたからじっとしていてください!」
公爵家の令嬢に仕える侍女に恥じない腕前を、ミリアは持っている。
先程の揉み合いで乱れたフローチェの髪や、他の不充分な箇所をものの数十秒で美しく整えた。
(私……成長してる!)
ブレフトが訪れる度に行われる一連の争いも、着実に彼女を強くしていた。
「出来ましたわ、お嬢さ……」
「ありがとうミリア!!」
食い気味に言い、今度こそフローチェは部屋を飛び出した。
取り残されたミリアは、大きく息をつきながら崩れるように椅子へ突っ伏す。
「疲れた……」
どうしてこうなってしまったのか。
フローチェのブレフト好きは、年を重ねる事に薄れるどころか凄みを増すばかりである。
初めは「あらあら」と見守っていた大人たちも、今では無言で地面を見つめる。死んだ魚のような目である。
「お会いしたかったですわ叔父様ぁぁぁぁっ」
心の声がただ漏れになっているフローチェの奇声が遠くで聞こえる。ミリアはがっくりと項垂れた。
ああ、彼女は、自分たちは、一体どこで間違ってしまったのだろう────。
西大陸にある小国、ヘーレネン王国。
雨が多い国なのだが、根腐れしにくい小麦を開発し、それを風車を使って小麦粉をひいた伝統的なパン作りが盛んに行われている。
何百という風車がずらりと並んだ「風の丘陵」が観光名所だ。あまりにも周りに店が無いので、行ったあとすることがない観光名所として有名だ。
そんなド田舎だが、辺鄙故の長閑さで「老後に住みたい国番付 」で第一位に輝いた国でもある。
そしてこの国には、王族に次ぐ権力を持つ「二大公爵家」なるものが存在した。
その一つが、フローチェの生まれたハーンストラ公爵家。
彼女の初恋の君であるブレフトは、元は海外で貿易に携わる仕事をしていた。父の仕事を手伝うために帰国し、そこでフローチェと出会いを果たした訳である。
その出会いと初恋から早十年だ。
一体誰が予想しただろうか。
七歳の幼女の「結婚するぅ」が、その後十年も続くタフネスだったなどと。
(ああ……ブレフト叔父様! このお会いできなかった一ヶ月間は、本当に寂しかったですわ……!)
フローチェは、ドレスを着た令嬢が出せる速度を華麗に限界突破しながら廊下を進んでいた。
舞うような軽い足取りだが、その風圧で壁にかかっていた名画がガタガタと揺れ、花瓶は無残なことになった。
本来は冷たい印象の美貌を持つフローチェ。しかし今は見る影もなく、ふふふふと笑みの零れる口元は残念な感じに緩みきっている。
感極まったようにうるうるとした瞳と上気した頬で、フローチェは目的の部屋のドアに手をかけた。
(ああっ、ああっ、お会いしたかったですわ────)
「ブレフト叔父様!!」
バーン!
と、式場に花嫁を奪いに来た男よろしく勢いよく開け放たれたドアに、しかし誰も驚かない。
「フローチェ……毎回毎回、十秒ずつ到着記録を更新するのは止めないか」
「それはミリアの腕の上達の記録ですわお父様。私は叔父様がお屋敷に到着された時点で気がついておりますもの」
呆れた視線を向けるに父に胸を張るフローチェ。
ますます肩を落とす父・ハーンストラ公爵に対し、その人はフローチェが黄色い声を上げるに十分な微笑みを浮かべた。
「やあ、久しぶりだね……フローチェ。元気だったかい?」
「叔父様ぁぁぁ。寂しかったですわぁぁぁ」
真っ赤に染まった頬に両手を当て、フローチェはブレフトの周りをぐるぐると意味もなく回る。
派手なドレスが靡いて、それは飼い主を慕う犬を通り越して浮かれた極楽鳥のような有様だったが、ブレフトは慣れた様子で「いつものフローチェだね」と笑った。
「どうしてこうなったんだ……」
どこかの侍女が心の中で呟いたようなことをハーンストラ公爵も嘆き、世を儚むように目を細めるのだった。