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春になると、ひなぎくの花が咲く。
僕は一人暮らしだけど、秋に種をまいてひなぎくを育て、春には花をつけるのを見る。だけど、このひなぎくの花は、眺めて楽しむために植えたのではない。
食べるためだ。
おっと、僕じゃないよ。僕は花を食べたりしない。僕が飼っているウサギが食べるんだ。
ぴょんちゃんは、ひなぎくの花が大好物なんだ。だから、彼女のために僕はひなぎくを育てているってわけ。
「ただいま~」
大学から家に戻ってくると、ぴょんちゃんが出迎えてくれる。ぴょんぴょんと軽やかに飛び跳ねて僕が帰ってくるととても喜んで出迎えてくれるんだ。だから、疲れもふっとぶよ。人間じゃないから喋ることはできないけれど、同居人がいるって素敵だよね。まあ、喋ってくれたらもっと嬉しいだろうけれど。「おかえり」とか「おやすみ」とか、そういうちょっとしたことだけで良いんだ。ぴょんちゃんが喋れたら良いのに。
「いい子にしてたか?」
ぴょんちゃんを膝に乗せてやると、僕の腿を数回踏み踏みして、それから僕の膝の上でくつろぐ。ちょっとの重みと温かさが、何とも言えない癒しを与えてくれる。
えさは十分にあげているけれど、春になると一日一輪、ぴょんちゃんにひなぎくの花をあげる。
「ほら」
膝の上のぴょんちゃんの鼻づらに花を見せてあげると、目をキュルンとさせてひなぎくの花を見つめる。超可愛い。
だけど彼女はすごいツンデレで、そんなものには興味がない、みたいにすぐに向こうを向いちゃうんだ。こういう仕草が萌える。マジ、人間みたい。
「いらないの?」
と言うと、耳をピクっと動かしてこっちを向きたそうにしているのに、顔をちょっと動かしただけで、我慢しているみたいに小刻みに震えている。
「ふふふ」
あんまり可笑しくて、僕はちょっと笑うと、彼女のゲージにひなぎくの花を挿した。
それでもぴょんちゃんはまだ知らんぷりをしているポーズをとっている。明らかに、気持ちはひなぎくの花の方に向いているのに、どういうわけか、ひなぎくの花を食べているところを、僕に見せてくれないんだ。どうしてだろう?以前は鼻をひくひくさせながらカプっと豪快に噛みついて見事にひなぎくの花を食べていたのに。最近その姿を僕にみせてくれなくなったんだ。ちょっと寂しい。
僕はぴょんちゃんを撫でてやりながら、少しテレビを見ていた。ひなぎくの花が少し下を向いている。ちょっと萎れてきちゃったかな。
「ははは」
お笑いを見ながら笑っていると、ぴょんちゃんはゲージに戻って行った。眠たそうにしている。
僕は夕飯にしようと、レトルトカレーを温めに行った。レンジでチンするだけだけど、一人暮らしの学生なんてこんなものさ。
一人でカレーを食べ終えて、戻ってきてぴょんちゃんのゲージを見ると、ひなぎくの花がなくなっていた。茎だけがゲージに挿さって残っている。
ウサギによっては、茎まで全部食べるらしいんだけど、ぴょんちゃんはグルメなのか、花しか食べない。茎の方が栄養があるかと思うんだけど、まあ、餌として与えているというよりは、好物のひなぎくをデザート感覚で与えているわけだから、茎は食べなくてもいいや。
僕は、ゲージに残った萎れた茎を抜き取って捨てた。これもいつものことだ。残しておいても仕方がない。
ぴょんちゃんはもう、向こうを向いて眠っている。
「おやすみなさい」
そう言うと、ぴょんちゃんは耳をピクピクと動かした。
ぴょんちゃんはもう、歳をとっていたらしい。
うちに来たときはすでに大人だった。ある家で飼われていたのだけど、いらなくなったというので、僕が引き取ったから、実際の年齢がわからなかった。
だからある日の朝、いきなりぴょんちゃんが死んでいてすごく驚いたけれど、悲しかったけれど、もう寿命だったのだろうということはなんとなくわかった。
春を迎える前に、ぴょんちゃんはいなくなった。
秋口から育てていたひなぎくの芽が、もうずいぶん育っていた。もう少しすれば、ひなぎくの花が食べられる季節だったのに。ぴょんちゃんはいなくなってしまった。
あのツンデレの姿が見られないと思うと、何とも言えない虚無感があった。僕が帰宅しても迎えてくれる小さな彼女はもういないんだ。
寂しい思いをしながら、少しずつつぼみを付けるひなぎくのプランターを眺める日々だった。
◇◇◇
ぴょんちゃんがいなくなってしばらく経った頃、恐ろしい事件が起こった。
大学から帰る電車で、人が殺された、というのだ。
その日、僕はいつものように夕暮れ時に電車に乗った。田舎の電車ということもあって、車両には数人しか乗っていなくて、静かでもの寂しい雰囲気だった。4両編成の一番前の車両に乗っていて、僕が座ると目の前に夕日が見えた。
夕暮れ時の日差しのせいで、僕の前に座っている人の顔は逆光で見えなかった。若い女の人のようではあった。
トトン、トトン、と電車は走る。
心地いい揺れの中で、僕はいつものように目をつぶっていた。
トトン、トトン、と電車は走る。
いつの間にか眠っていた。停車駅でブレーキがかかると僕の身体が右に傾いだ。
駅に停車したのはわかった。だけど、目を開けなかった。気持ちよく眠っていたから、目を開けたくなかった。すぐに発車すれば、また心地いい揺れに揺られてすぐに眠れる。
そう思っていた。
しかし、電車はなかなか出発しなかった。車内の空気が静かに凪いでいてまるで時が止まっているようだと思った。
それなのに、ホームがなんだか騒がしかった。
普段は人のいないこんな田舎の駅で、何人もの人が走ったり、何かを呼んだりする声がする。
思わず目を開けてしまった。車内にいる数人の人たちがみんな、窓にへばりついて外を見ている。どうしたっていうんだ。
僕も立ちあがって、向かいの窓の方へ行き、ホームを覗いてみた。オレンジ色の消防の人と青い服の救急の人がいるのが見える。しかも10人くらいいる。これは大事件だ。
人口も少なく静かな田舎で、こんなの初めて見た。何があったんだ。
ふと、今まで僕が座っていた席のそばに座っている女の子と目が合った。あの子はホームを覗いてみたりしないのだろうか。そう思ってその子の顔をついじっと見てしまった。
するとその子は、僕に向かってにっこりと笑いかけた。
ドキンとした。可愛い顔だった。好みの顔だ。女子高生というには大人っぽい服装だから、大学生だろうか。同じ大学かな。でも、見たことのない顔だった。
しかし、どうして僕の方を向いて笑いかけてくれたのだろう。だいたい、こちらからはその子の顔は夕日に照らされてよく見えるが、あの子から僕の顔は逆光になってよく見えないはずだ。それなのに、ちゃんと目を合わせて笑いかけたように見える。
そんなことを考えていると、電車の扉が手動で開かれて、駅員が乗客を誘導し始めた。
「車内点検のためしばらく停車いたします。お急ぎのところ大変ご不便をおかけしますが、バスの方にお乗り換えください」
車内が少しざわついた。
これでは何があったかがわからない。とはいえ、誰も騒いだりしなかった。とにかく電車はしばらく動かないらしい。しかたがない、ここからなら、ウチまで歩けない距離じゃないから、僕は歩いて帰ろう。
僕は、電車がどうして止まったのかを詳しく知ろうとしないで、家に帰った。
その2日後、あの日と同じ時間に乗った電車がまた止まった。
あの日と同じように、夕暮れ時の少し薄暗い日差しの差し込む車内で、電車の揺れに身を任せて眠っていると、またあの駅で電車がしばらく止まったのだ。
さすがに驚き、僕はすぐに目を覚ました。
「一昨日と同じだ」
誰かが声を出した。するとそれに応えるように、知らない者同士が話しを始めた。
「殺人事件だったんでしょう?」
「えっ、本当ですか!?」
「地元の新聞に載っていたんですよ」
殺人事件とは、穏やかでない。そんな大事件があったら、もっと大事になっていそうなものだが。田舎者の習性で、噂は静かに広まるせいか、僕のように誰かと情報を共有することに疎い人間には、そういった情報がまわってこない。僕は興味津々になりじっとその会話に聞き入っていた。
「首が切られていたのに、血がほとんど出ていなかったって」
「それそれ、血があまり出てないから、気づかれなかったっていうんですよね?」
「不気味な事件ですよね」
聞いているだけではどこか実感がないのに、なぜだか背筋がぞっとするのを感じた。
そんな大事件がこんなに身近で起こるなど、信じられない。
「今日も・・・同じ事件でしょうか」
小さな声が僕の座っている座席の、右の端から聞こえた。
あの女の子だ。前に僕に笑いかけてくれたあの子。僕はその子の方に少し寄って話しかけてみた。
「あとで駅員さんに聞いてみようか」
僕がそういうと、彼女は僕を見て、そして少しホッとしたように微笑んだ。
すぐに駅員さんがやってきて、前回と同じように振り替え輸送を促したため、僕たちは電車から降りた。
その時に、事件のことを駅員さんに聞こうとしたけれど「よくわかりません」と言うだけで、詳細はわからなかった。
だけど、消防や救急の人たちのあの物々しい雰囲気から、きっと前回と同じような事件があったのだろう、ということはわかった。