革命1
月は、水飴のようなしっとりとした夜を照らしている。広大な緑の平原にはゆったりと川が流れ、いつものように静かに土地を潤していた。だがその一画、川の中に気まぐれに浮かぶ数ある中洲のうち、たった一つの中洲、シルデ島だけは、煌々とした炎によって明るく輝いていた。
——邪悪な貴族の館を焼き尽くせ!
——俺たちから奪った財を取り戻せ!
街のあちこちで飛び交う怒号。あらゆる建物からは激しく炎が上がる。一帯は昼のように明るく、自分が溶けてしまうかと思うほど暑い。レヴォンリールと名付けられたこの街は、炎の衣装を全身に纏おうとしていた。
街の北端には白壁の大きな城が聳えていた。その壁は赤い光に照らしだされている。その城の二階の、街に面した窓辺には一人の少年の姿。彼は厚手の、丈の長い深緑色をして、胸元に王家の紋章が入った毛織の上着を着て、その下に薄い水色の綿製のベストを身につけていた。そして顔に憂いや悲しみの混ざった表情を浮かべながら、窓の外を見つめて立っていた。
その少年の顔は、誰が見ても愛おしさを感ずにはいられないほど美しい。琥珀色に輝く瞳と艶やかな黒髪は、彼に素直で真面目そうな雰囲気を与え、女性的なやわらかな目鼻立ちは、見る者に絵に描いて留めておきたいという欲望をもよおさせるほど儚げだった。
彼の名前は、ユセル・イスト。イスト王国の第一王子であり、次期王位の継承者である。
非の打ち所のない彼は、なぜか今、顔を苦く潰し苦悶のさなかにあった。
だがそれも無理はない。この国の民衆は今、彼ら王族に反旗を翻し、反乱によって、彼らを滅ぼそうとしている。
反乱は二日ほど前に始まった。
初めは首都郊外の村で発生したごく小さなものに過ぎなかった。数十人の農民が鍬を持って立ち上がり、税を搾取をする貴族に対し、館を襲撃したくらいだった。そのようなことはよくあることだが、今回は違っていた。その事件を引き金に農民達はあちこちで蜂起を始め、首都付近のすべての村々に広がった。もしかしたら農民達は、近年の王国の財政難に乗じた貴族の搾取と穀物の凶作により、我慢の限界に達していたのかもしれない。
そして、一日後、すなわち今日のことだが、農民達は首都を包囲し、待遇の改善を求め始めた。国王や貴族達は、首都の城門を閉め、遠方に軍事遠征中の国軍の到着を待った。しかしその間に農民の中の一部が、首都内への侵入に成功し城門を開いた。幾人もの怒り狂った農民が荒波の如く首都に侵入し、貴族や大商人の館を襲い略奪する。虐殺を始めるのも時間の問題だった。
この事態に、一部の貴族達は、自らの身を守るためには農民達に同調するのが得策と考えた。彼らは農民達に自分の傭兵を供給すると言いだした。そして、搾取の責任を国王に押し付け、宮殿への侵入を支持した。
そして一時間ほど前。反乱軍は、宮殿への侵入に成功し、王族や彼らに同調しない貴族の殺害を始めた。三十分前には国王や王妃の殺害にまで至った。
反乱は革命となったのだ。
ユセルは、その二人の死の報せを、護衛として、彼の部屋の中で反乱が起きたときから控えていた衛士を通じて聞いた。彼らは部屋の中に一人と、外に二人居たが、彼らもまた、国王の殺害の報せに肩を落としているようだった。
(もうそろそろ俺も覚悟しないとな)
ユセルは心の中で呟いた。
あと少しもすれば、この部屋にも反乱軍が入ってくるだろう。これくらいの護衛ではひとたまりもないのは確かだ。そのときがユセルの十四年間の生涯が終わりを告げるときだ。
だが、ユセルには反乱軍の手によって生涯を終える気は全くなかった。彼は右手の内に一本の短刀を持っていた。反乱軍の目の前で自分の首筋に走らせるためだ。
(あいつらは自分の前でどんな顔を見せてくれるだろうか。自らの手で殺そうとした人間が勝手に死んでいく姿に)
ユセルは胸が踊るのを感じた。時間がゆっくりと進んでいるように思えた。窓の外には、火が放たれて、絵画のような美しさを見せる家々や、この建物へなだれ込んでいる勇猛な反乱軍の姿。もうすぐここも陥落するだろう。短刀の出番ももう近い。
——そのとき、部屋の扉が開いた。
(待ちかねていたときが来た)
少し早い気もしたが、ユセルはそう思うと扉の方を向き、手の中の短刀を首筋に当て、左手でそれを包むように押さえつける。華麗な噴水を観衆に見せつけてやろうではないか。
しかし、短刀はユセルの首に少し当たったところで止まった。首筋から少しだけ血が垂れる。ユセルは扉を見つめて固まっていた。
扉のところに居たのはユセルと同い年くらいの、燕尾服を着た少年。反乱軍ではなかった。彼は艶のある黒髪に澄んだ空色の瞳をしていて、顔は、ユセルには劣るが、十分、美しいと言うに値するものだった。だがその風貌を崩そうとするように少年の服や体は血に汚れている。その上、彼は、深手ではないが、体に数個の傷を負っていた。
「王子……?」
少年は、何かに打ちぬかれたような表情でユセルを見つめている。瞳が陽に当たる渚のように煌めいた気がした。
「アルテア、なんでお前がここに……」
ユセルは、短刀を首筋に当てたまま、アルテアと呼んだ少年を呆然と見る。心の中は嬉しさと哀しさが波を打って混ざっていた。だがユセルは嬉しさを檻に押し込ると、突き放すような口調で言った。
「お、お前は逃げろって言っただろ! なんでここにいるんだ!」
胸がひどく痛む。嬉しさが叫び声を上げながら外へ出ようと暴れている。
「僕は……僕は王子を置いてなんか行けません! 従者が主人を捨てるなんてできるものですか。僕は絶対にここから王子を連れ出して助け出してみせます。ですからまずは……まずはそんな考えを捨ててください!」
檻がばらばらと音を立てて崩れ去った。ユセルの目にはいつの間にか涙が溢れていた。首筋にあてた短刀は音を立てながら滑り落ち、ユセルは力なく床へ座り込んだ。涙が頬を伝い、いたずらに床を濡らす。
「逃げろって言ったのにどうして……死ぬのは俺一人で十分なのに……それなのに……そんな傷まで負って……」
目の前の床が紙に滲むインクのようにぼんやりと崩れていく。
「馬鹿! アルテアの馬鹿!」
ユセルは子供のように泣きじゃくって叫んだ。心からは押さえ切れないほどの感情が湧いてくる。本当ははまだ死にたくはない、そしてこの状況もなんとか収めたい。もっといろいろなことをしてみたい。でもそれはもう幾ら望んでも、穴の空いた杯に水を注ぐことなのだ。全てはどこへも留まらず消えてしまう。
ユセルは泣いた。それだけだった。
するとアルテアが、ユセルに近づいてきて手を伸ばす。そしてユセルの肩をがっしりと掴むと顔を合わせ、決壊した川の水のように言った。
「しっかりしてください! 馬鹿なのは王子の方です。こんな簡単に諦めて、そんなんで良いと思ってるんですか! 少しは、生き延びて復讐してやるっていうくらいの根性を見せてください! それに僕は……僕は主人を失ってまで生きていたいと思うようなそんな薄情者だと思われる筋合いはありません!」
アルテアの顔は少し赤くなっていた。だがその瞳は強く、鋭くユセルを見つめている。
ユセルは胸の奥からまた激しく涙が込み上げて来るのを感じた。
だが今度はさっきのとは違う。
ユセルはアルテアにここを生き延びて欲しかった。こんな主人から解放されて自由に生きて欲しかった。それが主人が従者にできる最後の感謝であり、そしてアルテアの父親を間接的にも殺してしまった自分の償いだと思ていたのだ。
だがそれは間違っていた。自分のこの思いがアルテアを傷つけることになっていたのだ。そんなことにも気づいていなかった。
「アルテア、ごめん」
ユセルはアルテアの胸に飛び込んだ。アルテアの上着の滑らかな羅紗生地がユセルの頬をさする。幸せな時間だった。まだ全ては失っていなかった。
「アルテア、逃げよう」
ユセルはアルテアから顔を離すと、アルテアの顔を見上げて言った。
戦況はかなり悪化している。すでにもう逃げ道はないのかもしれない。だがここで諦めては大切なものを捨ててしまう。
ユセルは立ち上がり、服の袖で荒く涙を拭き取った。そしてあたりを見回しと衛士に高らかに告げた。
「俺は、今から逃げる! だから皆の者はそれぞれ好きにしろ! 投降しても、逃亡しても良い。だが命だけは無駄にするな」
もう全ては運命に任せよう。一度は自分で捨てようとした命だ。なるようになるがいい。
——ガタン!
そのとき突然、部屋の扉が閉まった。
見ると、部屋の中で警備をしていた衛士が扉を背にして、敵を見るような目でユセル達を睨みながら、彼らに槍を向けて立っていた。
「何をしている。槍を下ろせ」
アルテアは、いつになく強い口調で低く言った。彼は鋭い瞳でその衛士を睨みつける。すでに脇に差してあった短剣に手を掛けていた。
すると衛士は口をもごもごと動かす。
「さっきか……れば……なこ……を」
「何を言っているんだ! はっきりと言え!」
アルテアの激昂が飛んだ。怒りを全身に漲らせている。
衛士は二人に向かって言葉を叩きつけるように言った。
「さっきから聞いていれば勝手なことを! 何が逃げるだ、俺たちはその王子がここで死のうって言うから殉職しようとしていたんじゃないか。なのに今更勝手に逃げるって、そんなこと許されるわけないだろ!
俺だって家族はいるんだ、もし俺がお前らのために死んだらそれをどうにかしてくれるっていうのか? そんなことお前にできるのか? できるわけない! お前らは逃げられたとしてもこの国に入ったらその時点ですぐ処刑だ。なら俺はここで王子の首を取って、反乱軍に認めてもらう。王子が好きにして良いっておっしゃったんだ、なら俺の好きにさせてもらう!」
そう言うと衛兵は彼らに向かって一歩踏み出した。