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病院の待合室で、順番が来るのを待っていた。
時刻は夜十時を回った。あと二時間以内に、わたしはシキ先生に診てもらわなければいけない。
でなければ、わたしは翌日を迎えられない。
でなければ、わたしは日の光を見ることは無い。
でなければ、二度と。
待合室の壁に開いた覗き穴の向こう側で続けられる、シキ先生と患者の会話を聞きながら、わたしは時間を過ごす。
わたしも、もうすぐ、あの場所に。
そうでなければ……。
「うん、ちゃんと来てたんだ。感心、感心。
そう、ここに来てもらわないと。まずはここからだからね」
快活な、面白がるような声が聞こえて、わたしは覗き穴から目を離した。目の前には、わたしと同年代の見覚えのある女性がいた。
確か、友達の友達。
だった気がする。
見覚えはあるのだけれど。
会ったことがある気はするのだけれど。
名前を覚えているほどの仲ではなかったようで、思い出せなかった。だが、相手はわたしのことをはっきり覚えてくれていたようで、親しげに話しかけてきた。
橙色のカーディガンと真っ赤なスカートが、色彩のほとんど無いこの待合室の中に、華やかに咲いていた。
彼女は、わたしの傍らの壁に寄りかかり、わたしを見た。位置的に、わたしがシキ先生の診療室を覗いていた覗き穴を塞ぐ形になった。
「どう?
むらさき鏡。
忘れられた?」
「ううん」
彼女の言葉に、わたしは自分の状況を再確認する。
むらさき鏡。
その言葉を、わたしは忘れなければいけない。
その言葉は、二十歳になるまで覚えていたら死んでしまうという呪いの言葉。今日は十九歳の最後の日。日付が変わるまでのあと二時間足らずで、わたしはその言葉を記憶の外に置かなければならない。
「むらさき鏡。
不思議な言葉だよね。それが実際なんなのか、分からない。それが本当に鏡なのか、それとも別の何かの暗喩なのかも分からない。
むらさき鏡。むらさき鏡。ふふふ……」
彼女は親しげに、まっすぐに、わたしの目を覗き込んできた。それは、自分の言葉がちゃんとわたしの中に置かれたかどうかを確認しているかのようでもあった。
むらさき鏡。
そう、わたしはその言葉を気にしなくてはいけない。
忘れるように、意識しなければいけない。
意識して、思い出さないようにしなければいけない。
友達の友達は、満足したのか、一際面白がるように笑った。
……ザザ……ザザザザザーッ……
しばらくすると、意味の無いノイズ音が聞こえてきた。
気になってそちらを向くと、受付に置いてあるテレビの音だった。待合室の人々の気を紛らわせるために置いてあるテレビ。まだ十一時にもなっていない時刻なのだが、地元のやる気の無いテレビ局に合わされていたのだろう、本日の放送終了を迎え、無意味なノイズと砂嵐の画面になっていた。
どうして誰も、チャンネルを変えようともしないのだろう。
わたしは誰もいない受付を眺め、無人でごった返す待合室を見回した。よく分からないが、誰もこのテレビのことは気にもしないようだ。
「あのテレビが気になるの?
アタシが来た時にはもうあの状態だったけどね。ふふふ。気づかなかった?」
あの状態、だった。
わたしは気づかなかった。
……。
いつから、あの状態だっただろう。いつから、何も映し出さない状態になっていたのか。
「気になるの?
気になるんだね?
ふふ……面白い話をしてあげようか。
夜中に、こんな風に、何も放送されていないテレビを見ていた人の話。
では、ふふふ、あのテレビにご注目」
テレビには、何も映っていない。
わたしの目には、何も映っていない。
いつから?




