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黒縁の覗き穴の向こうの診療室には、二つの人影があった。
一人は、白衣を着た若い青年で、薄暗い診療室の中では不自然なくらい輪郭のはっきりした顔立ちをしていた。なかなかハンサムだ。
診療室は暖房が効いていないらしく、凍えてでもいるように身を縮めながら、肩をいからせて椅子に座っている。
白衣だし、机を脇にした部屋の中の位置関係から見ても、彼が医者だろう。なかなか好感が持てる。メガネのせいか、真面目そうだ。
彼の名前はなんていうのだろう、と思いながら、わたしはこの病院の入り口にあった看板を思い返した。大きく書かれていたらしい漢字の部分は黒く変色していて読み取れなかったが、その傍に書かれたローマ字の部分は、シキ、と読めた。シキ医院。だから、もしかしたら違うかもしれないが、わたしはこの先生をとりあえずシキ先生と呼ぶことにしよう。
シキ。
どのような漢字だろう。
式。
識。
色。
敷。
四季。
士気。
あとは、他にシキという読みに該当する漢字は……。
……。
シキ先生の向かいには、もう一人の男が座っていた。こちらは、覗き穴からの位置の関係で後ろ姿しか見えなかった。猫背で、そのくせ首だけは、シキ先生の顔を様子見るような角度で上向いていた。濁って紫がかっているような髪はウェーブがかかっていて、まとわりつくようで、着ている服も濁った色。後姿から受ける印象は良くなかったが、前から見ても、おそらく好意的な感じは持てない気がした。
この二人の他に、もう一人誰かがいるような様子があった。だが、覗き穴の位置からは見えなかった。看護師か誰かが控えているのだろう。
濁った髪の男が、シキ先生に言った。
「医者、ねえ。うん、医者か。
うん。ははは。
今はもう付き合いは無いんだけどさ、昔、医学生だった友達の友達がいてさ!」
「友達の友達、ですか」
シキ先生が、まるで寒さに顔をしかめるような様子を見せながら言った。
「今夜ここに来る方々に、私は毎年のように言っているのですがね。自分の話をしてください、と。
どうしてそれに従ってくれないのか分からない。どうして他人の立場を借りようとするのか。
自分の話をすればいいのに。
こちらは凍えそうなんだ。手短に話して欲しい」
「いやいやいや、オレ自身のことなんか後回しでいいからさ」
「そうそう、面白い話があってさ。その友達の友達の話なんだがな!
友達の友達が医学生だった頃、その医大の先生が死んだんだ。
でな、その先生が変わり者でな。自分が死んだら医学生たちに自分の死体を解剖させるようにって、自分の死体を検体に登録してたんだ。
まあ、なんか『死とは身近なものだと知るべきだ』とかなんとか、そういう建前だった。
『昨日生きていた姿を知っていても、翌日には死んでいるかもしれない。若者はそれを理解したがらないが、医の道を志すならば、若いうちからそのことは理解していなければ。
自分の知人がいつ死体になるのかも分からないのだということを、理解しておかなければ。
だから、顔を見知っている私の死体を解剖することは、学生たちにとって大きな経験になるはずだ』
とかなんとか、そんな話だったかな。
で、死んで、通夜とか葬式とかを形ばかりやった後、医学部に持ってこられて、翌日に解剖ってことになったんだ。
友達の友達は、ムードメーカーで楽しい奴だったが、いっつも金欠な奴でな。バイトもよくしてた。だから、解剖前の死体洗いのバイトが張り出された時には、即応募したわけだ。
死体洗いのバイト、聞いたことあるだろ?
こう、でっかい保存用ホルマリンのプールに死体がいくつも沈んでてさ、時々ガスがたまって浮いてくるそいつを、棒でつついて沈めるんだ。で、解剖前になったら引き上げて、洗っておくんだ。
その時のバイトは解剖前の一晩だけだったが、どんな気分だったんだろうな。つい数ヶ月前まで教室で授業を受けてた相手が、死んだ目をして、素っ裸で、嫌なにおいのする液体の中に浮いてるのを覗き込んで見てたってのは。
友達の友達は、一晩中、プールサイドから、覗き込んで見守ってたわけだ。
覗き込んで。
で、徹夜明けで、翌日の解剖の時間ってわけよ。そりゃあもうひどい気分だったってのは、想像に難くねえな。
一晩覗き込み続けて、で、てめえで洗った死体が、さもこれが現実のシロモノだって言いたげに、解剖台の上に乗っかってた。それに、周りの連中の雰囲気が輪をかけてひどかった。みんな、これが初めての解剖だったんで、黙りこくりやがって、一挙一動足に遠慮しているようなんだ。
解剖が始まって、教科書どおりに、進めていった。一人がメスを取って、皮をはぎ、筋肉を切り開き、進めていく。
目を逸らそうとしてる奴が多かったかな。もちろん必要な限り、授業として学ぶのに必要な場面場面は見逃さないようにと、メスが入った瞬間はちゃんと見るようにしてる奴がほとんどなんだが。その合間合間、切り開いて肉や器官を取り出して金属皿に置いてそれから次の場所にメスを入れるまでの合間、その少しの時間だけでもと、目の前の見知った顔の死体を直視しないようにしている奴が多かったように思う。
友達の友達は、ずっと、覗き込んでた。
死人の目は、空ろで、覗き込めば覗き込むほど、それがかつて生きていたことがあったのかどうかが分からなくなる。
血抜きを済まされた肉は淡い色しか着いてない白色で、切り取っちまうと、スーパーで売ってる鶏肉とかとなんら変わらんようだった。
食道の部分を大きく切開していたんで、そこから胸部の中を覗きこむことが出来たんだが、覗き込めば覗き込むほど、落ちていきそうだった。心臓は、以前に動いていたことがあったことすら信じられねえほどの空虚の塊。
覗き込めば覗き込むほど。
空ろ。空虚。
ああ、これは否定しなきゃならん。
そう思ったんだ。
オレが覗き込んでいるのは、肉屋で売ってるような肉の解体じゃねえ。人間の死は、こんなどうしようもねえもんじゃねえ。否定しなきゃなんねえ。この重い空気、それを認めちまったら、オレは一生この空気を吸って生きることになる。んなの、我慢なんねえ。オレたちの生きるこの場所は、もっと楽しい場所だ。
だから、否定しなきゃなんねえ。そう思ったんだ。
その友達の友達は、そう思ったんだ。
まあ、後から考えりゃ、いろいろ間違ってたんだろう。でもあの時は、構わなかった。あの重い空気、あれを否定できれば、それでよかった。おもしろおかしく生きていきたい生者として、死の尊厳とやらを、否定できりゃそれでよかったんだ。
とにかく、なんでもよかった。親父ギャグを言う中年親父そのままの気分さ。ポケットの中にはライターが入ってたんで、友達の友達はそれを使うことにした。
下顎はすでに取り外されていたから、下半分が半欠けの口腔がぽっかりと開いていた。友達の友達は、そこから手を突っ込んで、顔面の裏側をまさぐった。既に頭蓋は切り開いて脳味噌は取り出してあったから、特に問題なくそうできるだけの空ろなスペースがすでに空いていた。
まさぐり、眼球の裏を探し当てると、そのイヤに生々しい球体を、ぽん、と頭蓋の外へと押し出した。
そして、言った。
『目が飛び出る、とくらあ』
解剖室の温度が数度下がったような気がした。
だが、やめられなかった。眼球を外した眼窩は空ろで、覗き込めば覗き込むほど、飲み込まれる。
そんな眼窩に、裏側からライターを挿し込み、かちっ、かちっ、と音を立ててから、火をつけた。
空ろな眼窩に、ライターの火。
『はは。目から火、とくらあ。ははは』
なんだか無性に笑いが止まらなくなって、
笑って、
笑って、
その笑いを一同に分け与えたい気分で、友達の友達は、顔を上げた。
まあ、もちろん分かってたんだ。
一層重い空気。
崖の向こうのおぞましい愚者を見るような目。
笑いの止まらない友達の友達の周囲に、冷たい温度の壁を作るみたいな級友たち。
で。
もちろんその翌日、友達の友達は、バカなことをした人間として、退学処分を受けたもんさ。
バカな奴もいたもんだろ? ははは」




