黒ギャル絶滅防止プロジェクト~俺は瀬戸内の海の家を保護区にする。黒ギャルの時代よ、カムバーーーック!!~
「絶滅危惧種」
世間はその言葉を、トキや西表山猫、あるいはアマミノクロウサギに使う。
だが、俺に言わせれば決定的な視点が欠けている。周りを見渡してみればいい。右も左も、色白、美白、透明感。令和の夏は、まるで降り積もる雪のように白一色に染まっていた。
かつて渋谷の街を、ガングロという名の生命力でハックしていた彼女たちはどこへ行った?
答えは一つ。
絶滅の危機に瀕しているのだ。
「なら、俺がやるしかないだろ」
コンクリートがじりじりと焼ける、うだるような八月。俺はキンキンに冷えた缶コーヒーを頬へ当てながら、心に誓った。
この夏、俺は絶滅危惧種である黒ギャルの個体数を増やす。
生態系の保護? 多様性の維持?
違う。
俺が、死ぬほど好きだからだ。
最初に黒ギャルを見たのも、この島の夏だった。
* * *
広島県尾道市、生口島。
俺、芳賀啓介がここで生まれて二十年が過ぎた。
島を訪れた観光客の多くは北西へ向かう。白い大理石の庭園で写真を撮り、レモン味の何かを食べ、海を背景に自転車と並んで笑う。そこまで済ませれば、生口島を十分に満喫した気分になれるらしい。
もちろん、島にはほかにも見るものがある。
海岸や山道、集落の近くには、何を表しているのか一目では分からない作品がいくつも置かれている。島全体を美術館に見立てたアートプロジェクトの作品だそうだが、多くの観光客は有名な庭園へ向かう途中で素通りする。
俺も、そちら側の人間だった。
海の家から少し離れた浜辺にも、黄色い物体がある。植物が跳ねる直前のような躍動感を備えているが、俺は長年、レモンだと思っていた。
この島で黄色ければ、大抵はレモンである。
浅草から見える金色の物体だって、説明を聞かなければ湯気ではなく金のうんこに見える。芸術とは、見る側が努力しなければならない分野なのだろう。
黒ギャルのよさなら、一目で分かるのに。
「さて、今日も働きますかね」
飲み終えた缶コーヒーをゴミ箱へ放り込み、海の家へ向かった。
夏は、生口島にとって勝負の季節である。海水浴客が押し寄せるわずかな期間に、焼きそばを焼き、酒を注ぎ、かき氷を削る。どれだけ汗を流したかが、観光客の減る秋以降を耐え抜く金に変わる。
その年は梅雨明けから天候に恵まれ、海の家も朝から家族連れで埋まっていた。父親が場所を取り、母親が日焼け止めを塗り、子供が水着のまま店内へ駆け込んでくる。大学の夏休みだけ島へ戻って働いている俺にとって、毎年見慣れた光景だった。
ただし、重大な異常が一つある。
「だあっ! 今日も黒ギャルはゼロ!」
「啓介、ええけぇ手伝え」
幼なじみの加藤大智が、鉄板に焼きそばを広げながら言った。俺より一つ年上で、高校を卒業してからも島に残り、両親が営む民宿と、夏だけ開く海の家を手伝っている。日に焼けた腕も、首に巻いたタオルも、夏が始まって二週間ですでに店の設備の一部のようになっていた。
「大智、俺もうやっていけそうにない」
「それ、毎年聞いとる。焼きそば二つ、三番テーブル」
「俺たちは何のために海の家をやっているんだ」
「金」
「はー、夢がない」
「お前は夢しか見とらん。五百円まだ貰ってないけぇ、ついでに回収してこい」
差し出された皿を受け取った。キャベツの間から湯気が上がり、紅生姜が鉄板の熱で少し乾いている。
「黒ギャルが一人もいない海で焼きそばを運び続けるのは、猫が一匹もおらん尾道で生態の観測を続けるようなものだ」
「猫がおらんかったら尾道の観光協会の方が困っとる。お前が困る話にすんな」
親子連れへ焼きそばを届けて五百円玉を受け取り、店へ戻ろうとしたところで、黄色いオブジェの前に人が立っているのが見えた。
海辺では不釣り合いなほど白い女だった。
つばの広い帽子をかぶり、薄手のブラウスは手首まで隠れている。足首まで届くスカートの下にはサンダルを履き、露出しているわずかな部分にも念入りに日焼け止めを塗っているらしい。夏の太陽と正面から戦うのではなく、徹底的な籠城を選んだ装備だった。
女は海を見ていなかった。黄色い物体の正面に立ち、少し首を傾げたあと、数歩横へ移動する。しゃがみ、立ち上がり、今度は後ろへ回る。十分近く眺めた末に鞄から小さな手帳を取り出し、何かを書き込んだ。
「レモンだぞ」
声を掛けると、女が振り返った。帽子の下から暗い髪が流れ、化粧の薄い顔に、明らかな不信の色が浮かぶ。
「何がですか」
「それ。ずっと見てただろ」
「レモンじゃありません」
「いや、黄色いだろ」
「黄色ければ全部レモンなんですか」
「ああ。この島では、大体そうだ」
女は俺とオブジェを順番に見た。この男は冗談を言っているのか、本気で言っているのか。たぶん、そこを判断していた。
残念ながら本気だ。
「島に住んでいるのに、作品名も作者も知らないんですか」
「プレートに書いてあることなら知ってる」
「読んだんですか?」
「そこにあることは知ってる」
「読んでないんですね」
「読まなくても黄色い」
女は小さく息を吐き、オブジェへ向き直った。
「私には、今にも走り出しそうに見えます」
「黄色いのに?」
「色は関係ありません」
「そもそも、黄色いレモンが走り出したら怖いだろ」
「だから、レモンだと思うのをやめてください」
そこで初めて、女の口元が少し動いた。笑ったのか、呆れたのかは分からない。
「あなた、芸術に興味ないでしょう」
「いや、ある」
「嘘」
「黒ギャルは人体における総合芸術だと思っている」
女は黙った。
波が砂を引く音だけが聞こえた。
「やっぱり、ないんですね」
* * *
海の家へ戻ると、大智がその女に麦茶を出していた。
「美咲さん、暑かったじゃろ。とりあえず飲んで」
「ありがとうございます」
女は帽子を取り、首筋の汗をハンカチで押さえた。
「三島美咲です。今日から一か月、お世話になります」
俺は大智の横へ立った。
「大智、知り合い?」
「ああ。今年、島のアートを調べに来た大学生。美術史だったか、地域文化だったか」
「地域文化学です」
美咲が訂正した。
「えっと、 島に点在している屋外作品が、観光客にどう見られているかを調査しています。宿泊費を安くしていただく代わりに、こちらのSNSやメニュー作りも手伝うことになりました」
「は? ついでにしては責任が重くないか」
「お前が何もせんけぇ人手がいるんじゃ。美咲さん、こいつは芳賀啓介。大学二年。夏休みだけ島へ戻って、働いとるふりをしとる」
「ちゃんと働いてる。さっき焼きそばも運んだ」
「金を回収しとらん」
握ったままだった五百円玉を差し出すと、大智は無言で受け取った。
「さっき会いました」
美咲が言った。
「啓介、失礼なこと言うたじゃろ」
「黄色い物体をレモンって言った」
「作品じゃ」
「なんか、レモンじゃないそうだ」
「それだけではありません」
美咲は麦茶を一口飲んでから、静かに付け足した。
「黒ギャルは、人体における総合芸術だそうです」
大智は鉄板へ目を落とし、焦げかけていた豚肉を裏返した。
「まあ、いつものことじゃ」
「いつもなんですか」
「夏になると悪化する」
「おい! 病気みたいに言うな」
「治る見込みがないけぇ病気より厄介じゃ」
美咲が俺を上から下まで眺めた。
「自分は黒くないんですね」
「黒ギャルは女性文化だ。俺が黒くなっても個体数には加算されない」
「加算……」
「現在、このビーチに生息している黒ギャルはゼロ。年々、観測例が減っている」
「人を数える言葉ではありません」
「絶滅を防ぐには、まず現状把握が必要だ」
美咲は麦茶の入ったグラスを両手で包み、少しだけ考えるような顔をした。
「女の人を絶滅危惧種扱いするの、普通に気持ち悪いですよ」
「安心しろ。君は保護対象外だ」
「安心できる要素が一つもありません」
「啓介」
大智が焼きそばを皿へ滑らせた。
「口を動かす暇があるなら、手を動かせ」
午前中から続いた忙しさは午後三時を境に急に途切れた。家族連れは宿へ戻り、自転車乗りは次の島へ向かう。さっきまで子供の声で満ちていた浜辺には波の音だけが残り、店先に並んだ空の椅子が潮風を受けていた。
大智はレジの横で売上を数え、美咲は過去二週間分の伝票をテーブルに広げている。俺はパラソルの下で浜辺を監視していた。
もちろん、黒ギャルは現れない。
「昼と夕方で、こんなに売上が違うんですね」
美咲が伝票を日付順に並べた。細い指の爪には透明なものしか塗られていない。
「夕方にここへ残っても、することがないけぇな」
「夕日はきれいです」
「きれいなだけで金は落ちん」
「身も蓋もないですね」
「海の家には屋根と床しかない。蓋まであったら暑うて商売にならん」
美咲は一瞬黙り、俺を見た。
「今の、突っ込むところですか?」
「放っておけ。本人はうまいこと言ったと思ってる」
「思っとらん。事実を言うただけじゃ」
俺は浜辺の向こうへ目をやった。日差しはわずかに傾き、海面に長い光の道が伸びている。
「この時間なら来る」
「何がですか」
「黒ギャルだ。黒ギャルは真昼の紫外線に焼かれるためだけの存在じゃない。平成の黒ギャル文化は夜の街と切り離せない。日が沈んでから――」
「そんなに欲しいなら、呼べばええじゃろ」
大智が売上を数える手を止めた。
「毎日ゼロゼロ言うとるだけで、お前は何もしとらん。黒ギャルが来ん言うなら、来る理由を作れ」
「来る理由」
「夕方までここに残る理由じゃ。美咲さんは調査が進む。うちは客が増える。お前は黒ギャルが見られる。三人とも得するように考えろ」
俺は浜辺を見た。
海はある。夕日もある。焼きそばと酒もある。レモンもある。だが、それだけなら去年と変わらない。
黒ギャルは来なかった。
「何があれば、黒ギャルは来るんだ」
「私に聞かないでください」
美咲はそう言いながら、少し考えた。
「少なくとも、真昼の浜辺で長時間過ごさせる企画は嫌がられるでしょうね。日陰と、着替えられる場所は必要です」
「鏡もいる」
「鏡?」
「海へ入ったあと、メイクと髪を直せない場所に黒ギャルは定着しない」
「渡り鳥みたいに言わないでください」
「音楽もいる。夕方から流す」
「夕方からって、七つの子でも流すんですか」
「それはもう流れとる」
言いながら、頭の中で浜辺の形が変わり始めた。店の横に日陰を作る。倉庫を着替え場所にする。大きな鏡を置く。夕日が海へ沈む時間に音楽を流す。
ただ黒ギャルが現れるのを待つ場所ではない。黒ギャルが来ても、浮かずに過ごせる場所だ。
「ここを、保護区にする」
美咲が眉を寄せた。
「その言い方は嫌です」
「黒ギャルが安心して生息できる海の家だ」
「もっと嫌になりました」
「まあ、 名前はあとで直せばええ」
大智が伝票の裏へ、必要になりそうなものを書き始めた。
「日除け。鏡。延長コード。着替える場所。音楽は近所から苦情が来ん音量まで」
「景色も必要だ」
「海と夕日があります」
「それだけじゃ、この島でやる意味がないでしょう」
美咲は鞄から、何度も折り畳まれた島の地図を取り出した。白い庭園には大きな丸が付き、島内に点在する作品には小さな青い印が付いている。その横には、観光客が立ち止まった人数や時間らしい数字が書かれていた。
「人が素通りしている作品を巡って、最後に夕方の海の家へ戻るルートを作れます。黒ギャル体験と撮影を組み合わせれば、私の調査にもなる」
「黒ギャルをアート巡りの付属品にする気か」
「アートを黒ギャルの背景にする気でしょう」
大智も別の紙に、時間帯ごとの売上を書き始めた。
「午後三時から客が減る。けど夕日を見る人は西側へ残る。そこから店へ戻ってくれば、飯も飲み物も売れる」
「黒ギャルがいない場所なら、島全域だ」
俺は余っていたメニュー表の裏へ、黒ギャルの目撃地点を書き込もうとした。
何も書けない。
観測例がないからだった。
三枚の紙が、一つのテーブルへ並んだ。美咲の地図には作品があり、大智の紙には金の流れがあり、俺の紙には何もなかった。
「お前の地図、いらんじゃろ」
「ゼロであることを可視化している」
「白紙じゃ」
「絶滅の深刻さが一目で分かる」
美咲は俺の白紙を見て、少しだけ笑った。
「では、この三つを重ねましょう」
大智が三枚の紙をそろえ、風で飛ばないよう空のグラスを置いた。
「どっちが上でも下でもええ。ただし、金がかかる話は先に言え。お前ら二人とも、思想の話になると値段を忘れる顔をしとる」
三枚の紙を重ねたところで、馬鹿げた名前にようやく中身ができた。
『黒ギャル保護区』
俺は、その響きがかなり気に入っていた。
* * *
企画名は俺が決めた。
『黒ギャル絶滅防止プロジェクト』
内容も俺が書いた。
一日黒ギャルメイク体験者募集
令和にガングロの火を取り戻せ
この夏、あなたも保護対象になりませんか?
美咲は投稿前に文章を確認し、三分ほど黙った。
「顔が怖いぞ」
「これを書いた人に、文章の意図を確認しています」
「読めば分かるだろ」
「檻に入れますか?」
「誰を」
「応募者を」
「入れない」
「では、なぜ保護対象と呼ぶんですか」
「絶滅危惧種だからだ」
「最初へ戻りましたね」
大智は横から画面をのぞき込み、参加費の記載がないことだけを指摘した。
結局、美咲の反対を押し切って投稿した。
三日後。
表示回数は千二百を超え、いいねは十二ついていた。うち三つは俺、美咲、大智で、二つは大智の母親と従姉だった。
応募者はゼロ。
「おかしい」
俺はスマートフォンを見つめた。昼下がりの海の家には客が一組しかおらず、美咲は日傘の下でアイスコーヒーを飲みながら、屋外作品の写真を整理している。
「何がおかしいんですか」
「千人以上に届いて、一人も保護を求めてこない」
「誰が保護されたいんですか」
「黒ギャルになれるんだぞ」
「この文章を読んだら、檻より先に標本にされそうです」
美咲は俺の手からスマートフォンを取り上げ、投稿文を修正し始めた。
『いつもと違う自分で、島のアートを巡ってみませんか』
「待て。黒ギャルが消えた」
「下へ書きます」
「最初に書け。黒ギャルが結論だ」
「普通の人は結論を見て逃げます」
「黒ギャルを見て逃げる人間を集めても仕方ない」
「集める気はあるんですか?」
画面を奪い返すと、美咲は指に付いた水滴をハンカチで拭いた。
「あなたが好きなのは分かりました。でも、参加する人はあなたの文化を背負いに来るわけではありません」
「黒ギャルの格好をすれば、誰だって今より輝く」
「誰だって?」
「ああ」
「私でも?」
美咲が日傘を少し持ち上げた。
薄い化粧、暗い髪、白いブラウス。海の家へ来てから一週間、形や色の違う服を何着も見たが、白か淡い色以外を着ているところは見たことがない。
黒ギャルとは正反対だった。
だが、顔の骨格も目の形も悪くない。髪を変え、目元を強くすれば、かなり化ける。
「素材としては悪くない」
「素材って言うな」
「骨格も目の形も――」
「分析を始めないでください」
美咲はアイスコーヒーのストローから手を離した。
「じゃあ、 そこまで言うなら、私を黒ギャルにしてみてください」
「本気か?」
「似合ったら、企画用の写真を撮ります。似合わなかったら、この募集文は消す。それでどうですか」
「言ったな」
「条件があります。肌は焼かない。一日で落とせるものだけ。写真を公開するかは、完成してから私が決める。それから、作業中に一度でも私を個体と呼んだら終了です」
「交渉成立だ」
手を差し出したが、美咲は握らなかった。
「何でだよ」
「今のところ、あなたに肌を触らせる決断だけで精いっぱいです」
* * *
海の家の裏にある倉庫へ折り畳み机を持ち込み、長年集めてきたギャル雑誌と、企画のために新しく揃えたメイク用品を並べた。スポンジやブラシは使い捨て、つけまつげとネイルチップは一人分ずつ、ウィッグは洗浄済みである。黒ギャル文化を復活させた結果、参加者の目にものもらいが発生しました、では歴史に顔向けできない。
雑誌、ウィッグ、アクセサリー、色とりどりのメイク用品が折り畳み机を埋めると、美咲は倉庫の入り口で足を止めた。
「どうして、こんなに持っているんですか」
「雑誌は長年の収集。顔に使うものは新品だ」
「そこは意外とまともなんですね」
「黒ギャルの復興を感染症で潰すわけにはいかないだろ」
「言い方はやっぱりおかしいです」
黒ギャルを死ぬほど好きだと言うと、多くの人は見た目だけの話だと思う。肌を黒くして、髪を明るくし、濃い化粧をすれば完成だと考える。
それは違う。
年代によって流行は変わる。俺が初めて黒ギャルを見たのは、小学五年の夏だった。島の外で暮らす従姉が、黒く焼けた肌に金色の髪で、親戚の集まりへ現れたのだ。
派手すぎる。
島で浮く。
少しは周りを見ろ。
大人たちに好き勝手言われても、従姉はかき氷で青くなった舌を見せて笑った。
「私が好きなんじゃけぇ、ええじゃろ」
当時の俺は、あの人が誰にも謝らず笑える強さまで、黒い肌と金色の髪が与えたものだと思った。だから、黒ギャルの格好をすれば、誰だって今より強く、自由に笑えると信じていた。
もちろん、見た目も好きだ。そこをきれいな理由へすり替えるつもりはない。
雑誌によっても系統は違う。服と髪と化粧を一つずつ派手にすればいいのではなく、全体の重心を合わせなければ、ただ強い要素が喧嘩する。
俺は美咲を椅子へ座らせ、髪をまとめた。
「顔、近くないですか」
「化粧するんだから当たり前だ」
「そうなんですけど、心の準備が」
「目を閉じろ」
「命令しないでください」
口では反発しながら、美咲は目を閉じた。
最初は、俺の中にある理想をそのまま当てはめた。ブロンザーで肌を濃くし、目元を白く囲み、太いつけまつげを乗せる。ウィッグは明るい金色を選び、髪の高さを出した。途中で、美咲が鏡越しに俺を見た。
「これ、私に似合うものを選んでいます?」
「黒ギャルとして必要な要素を入れている」
「それは、誰にとって必要なんですか」
「黒ギャルにとってだ」
「黒ギャルという人が、一人だけいるみたいに言いますね」
美咲は鏡を伏せた。厚いまつげの下から見上げられると、いつもより目が鋭く見える。
「あなたが見たい黒ギャルを、私に着せているだけでしょう」
「黒ギャルにするんだから、当然だろ」
「だったら、私じゃなくていいですよね」
手にしていたブラシが止まった。
「私である必要は、どこにあるんですか」
机には何十色もの化粧品が並んでいる。俺は黒ギャルについてなら、いくらでも話せる。どの雑誌にどんな系統があり、どの時代に何が流行り、肌と髪の色をどう合わせるか。しかし、美咲が何を好きなのかは知らなかった。
「じゃあ、お前はどれが好きなんだ」
「何がですか」
「色。似合うと言われた色じゃない。自分で好きな色」
美咲は机へ目を落とした。並んだ色を端から端まで眺めたあと、鮮やかな青のアイシャドウへ指を伸ばす。その動きには、誰かの許可を待つようなためらいがあった。
「これ」
「青?」
「悪いですか」
「いや。白しか好きじゃないと思ってた」
「白が好きだと言ったことはありません」
「いつも白いだろ」
「似合うと言われるから着ているだけです」
言ったあと、美咲は少し気まずそうに顔を背けた。その隣にあった大きな銀色のピアスを手に取り、耳の横へ当てる。
「これも好きです」
「趣味、派手だな」
「うるさい」
最初からやり直した。
美咲が選んだ青を目元へ置き、肌の濃さも一段落とした。髪はただ高く盛るのではなく、銀色のピアスが隠れないよう片側を上げる。美咲が雑誌をめくり、自分から意見を言うたび、先ほどまでの借り物めいた顔が少しずつ消えていった。
完成後、鏡を戻す。
美咲はしばらく自分の顔を見つめ、正面、横、斜めと角度を変えた。口元へ手を当て、次の瞬間、声を上げて笑った。
「あははっ。何これ、すごい!」
いつもの笑い方ではなかった。
美咲は普段、口元だけを少し緩めて笑う。相手へ不快感を与えないために用意した、音のない笑い方だった。
今は違う。
口を大きく開け、肩を揺らし、自分の顔を指さして笑っている。その声が、狭い倉庫の空気を押し広げた。俺は手にしていたブラシを置くことも忘れ、美咲が笑い終えるまで見ていた。
「何ですか、その顔」
「いや」
「失敗?」
「想像してたより、ずっといい」
「黒ギャルとして?」
答えようとして、言葉に詰まった。
黒ギャルとして。そのはずだった。
だが、俺が見ていたのは肌の色でも、青い目元でもない。鏡の中の自分を見て、遠慮なく笑っている美咲だった。
「……じゃあ、写真、撮ります」
「いいのか」
「一枚だけ。公開する写真は私が選びます」
「分かった」
美咲は立ち上がり、机の上の青いアイシャドウを見た。
「これ、落とす前に名前を控えておいてください」
「買うのか?」
「また使うとは言ってません。知っておきたいだけです」
* * *
撮影場所として美咲が選んだのは、最初に出会った黄色い作品だった。
「白い庭園じゃないのか」
「有名な場所だけ撮っても、ここで企画する意味がないでしょう」
「こいつ、レモンだぞ」
「まだ言ってる」
夕方の光が黄色い表面を照らしている。美咲はその横へ立ったが、いざカメラを向けると、顎を引き、両手を前で重ねた。
大学の案内冊子に載っていそうな立ち方だった。
「それ、いつもの美咲だろ」
「では、どうすればいいんですか」
「知らない」
「黒ギャルに詳しいんじゃなかったんですか」
「俺が指示したら、また俺が見たい黒ギャルになる」
美咲は黙り、黄色い作品を振り返った。
潮風が明るい髪を揺らす。彼女は作品をしばらく眺めたあと、片足を後ろへ上げ、両腕を広げた。
今にも走り出しそうな形。
黄色い物体と美咲が、同じ方向へ飛び出そうとしている。
「何だ、それ」
「走り出しそうに見えると言ったでしょう」
「本気だったのか」
「笑わないで」
「笑ってない」
「笑ってます」
美咲も笑った。
その瞬間、シャッターを切った。
投稿された写真には、黄色い作品と、青い目元の黒ギャル姿の美咲が並んでいた。どちらも、海へ向かって飛び出そうとしているように見えた。
翌朝、応募が一件届いた。
* * *
最初の応募者は、福山市から来た十九歳の大学生だった。
石川望と名乗った彼女は、黒いTシャツとジーンズ姿で海の家へ現れ、受付の前で十分近く参加内容を確認していた。メイク用品は参加者ごとに使い分けるのか。写真を掲載しない選択はできるのか。肌を濃くしなくても参加できるのか。
美咲が、スポンジとつけまつげは一人ごとに新品を使い、リップやマスカラは使い捨てのブラシで取ると説明する。望はそれをスマートフォンへ記録したあと、ようやく受付表に名前を書いた。
「確認、多いな」
「初めて会った男の人に、顔を触られるので」
「美咲もいる」
「だから来ました」
隣で美咲が小さくうなずいた。
「俺の信用は?」
「これから判断します」
「黒ギャルになりたいんじゃないのか」
俺が尋ねると、望は少し考えた。
「その、 なりたいかは、まだ分かりません」
「応募したのに?」
「写真の人が楽しそうだったので、一回やってみたいと思いました。でも、来月から病院実習があるので、髪は染められません。肌も濃くしすぎたくないです」
「それだと黒ギャルとしては――」
美咲が隣で咳払いをした。
大智は少し離れたところで、参加費二千円をレジへ入れている。
「目元と爪だけ派手にしてみたいです」
望は青と紫のネイルチップを指した。
「それでも参加できますか」
俺は、机に並べたメイク用品を見た。黒ギャル体験へ来て、肌を黒くしたくない。最初なら断っていたかもしれない。
「目元は、どれくらいなら大丈夫なんだ」
「自分で落とせる範囲なら」
「じゃあ、肌はそのままにする。髪も変えない。その代わり、目と爪は妥協しない」
望は小さくうなずいた。
完成した彼女は、黒ギャルと呼ぶには肌が白く、髪も暗いままだった。だが、目元には強い紫が入り、指先には大きな青い石が並んでいる。鏡を見た望は笑わなかった。代わりに、指を一本ずつ広げ、長い時間かけて眺めた。
「すごい」
声は小さかった。
「似合ってる?」
美咲が尋ねる。
「うーん、 似合ってるかは、分かりません。でも、好きです」
望が撮影場所に選んだのは、海沿いの小さな銀色の作品だった。爪を作品へ重ねるように写真を撮り、本人の希望で顔は掲載しなかった。
投稿されたのは、銀色の作品と、青紫の指先だけ。
その写真を見て、次の応募が二件入った。
「顔も出してないのに、増えたな」
俺が言うと、美咲は画面を見たまま答えた。
「顔を出さなくていいと分かったから、応募できた人もいるんでしょう」
「黒ギャルは顔まで完成させてこそだ」
「本人が選んだところまでが完成です」
言い返そうとしたが、銀色の作品へ伸びる望の指先を見ているうちに、何を反論したかったのか分からなくなった。
* * *
次に海の家へ現れたのは、母娘だった。
母親の真美は四十歳で、海の家へ入ってくるなり、机の上に並んだ古い雑誌へ飛びついた。
「うわ、これ持ってた! この号、表紙の子のネイル真似したんよ!」
娘の陽菜は十八歳。母親の二歩後ろを歩き、周囲に知り合いがいないか何度も確認している。
「お母さん、声大きい」
「ええじゃん、島まで来たんじゃけぇ。知り合いおらんよ」
「ネットにはいる」
真美は結婚後、化粧も髪も落ち着いた。職場や保護者会では、昔ギャルだったことを知る人はほとんどいないらしい。
「娘がね、一回見てみたいって言うけぇ」
「言ってない。お母さんが勝手に応募した」
「でも昔の写真、見せてって言うたじゃん」
「一回だけ」
二人は話すたび、互いの顔を見ずに雑誌へ視線を落とした。真美は迷わず、最も長いつけまつげと、濃い色のブロンザーを選んだ。
「啓介君、この色ある? 昔よく使っとったんよ」
名前で呼ばれたことに少し驚いている間にも、美咲が希望を確認するより早く、真美は当時の色や髪の盛り方を説明し始めた。
黒ギャル文化を語るとき、真美の言葉は速かった。
俺が集めた雑誌の年代を当て、当時のメイク用品の使いにくさを笑い、髪を盛るために友人同士で何時間も掛けた話をする。
「雑誌で読んだ話と、本人から聞くのは全然違うな」
「何じゃと思っとったん」
「雑誌の中にいる人」
「生きとるわ」
真美は笑った。
その横で、陽菜はスマートフォンを触り続けている。
「陽菜ちゃんは、やらないの?」
美咲が尋ねた。
「私はいいです。似合わないし」
「やったことあるの?」
「ないけど、分かります」
「私も同じことを言っていました」
美咲は自分のスマートフォンから、黄色い作品の前で撮った写真を見せた。陽菜は画面を見てから、美咲本人へ視線を移す。
「同じ人ですか?」
「失礼ですね」
「いや、全然違うから」
「どちらも私です」
陽菜は返事をしなかった。
完成した真美は、最初に来たときより十歳ほど若く見えた。顔立ちが変わったのではない。笑うたび、顎を引いたり口元を隠したりする動作が消えたのだ。
「やばい。これ、やばい!」
鏡の前で真美が声を上げる。陽菜は最初、恥ずかしそうに目を逸らしていたが、やがてスマートフォンを構えた。
「こっち向いて」
「撮るん?」
「いいから。顎上げないで。昔の写真、全部その角度だった」
「今もかわいいじゃろ」
「早くして」
撮影場所へ向かう途中、陽菜が美咲の袖を引いた。
「口だけ、少し色を変えるのってできますか」
美咲は俺を見た。
「できる」
金色を少し混ぜたリップを塗り、髪の一部へ明るいエクステを足した。肌は白いまま。目元も変えない。陽菜は鏡を見て、唇を何度か結んだ。
「これくらいがいい」
「もっとやっても似合うぞ」
「これがいいです」
はっきり言われ、口を閉じた。
真美は黄色い作品の前で大きく足を開き、片腕を上げた。その横に、金色の唇をした陽菜が立つ。撮影した写真の中で、二人が同時に笑っているものは一枚しかなかった。
美咲は迷わず、それを選んだ。
* * *
そこからの日々は、忙しいという言葉では足りなくなった。
午前中は海の家で働き、午後から参加者の希望を聞き、夕方は島の作品を回る。髪を整えるための延長コードが足りず、大智が倉庫から古いものを引っ張り出した。ドライヤーとヘアアイロンを同時に使って店の電気が落ち、かき氷機まで止まった日には、大智が本気で保護区の閉鎖を宣言した。
「黒ギャルを増やす前に、店が絶滅する!」
「電力不足は保護活動の予算で解決する」
「その予算はどこにあるんじゃ」
「参加費」
「お前、化粧品を三万円分追加しとるじゃろ!」
「必要経費だ」
「必要かどうかを決めるのは金を出す方じゃ!」
結局、大智は新しい延長コードを買い、翌日から黒いレモンスカッシュを販売し始めた。竹炭で色を付けただけだが、『保護区限定』と書いたところ、普通のレモンスカッシュより百円高くても売れた。
「文化を商売に利用している」
「お前が一番高い化粧品を買うためじゃ」
「そのうち保護活動協力金も取ろう」
「それが参加費じゃ」
美咲は、俺たちの口論を聞きながら、参加者一人ずつの希望をノートへ書いていた。
好きな色。変えたい場所。変えたくない場所。顔を出せるか。撮影されたい作品。
当初、美咲のノートには作品名や観光客の反応しか書かれていなかった。ページをめくるたび、そこへ人の名前と好みが増えていく。俺の目撃地図にも、少しずつ印が付いた。ただし、美咲は「観測地点」と書くことだけは許さなかった。
ある日の夕方、二人で島の南側へ置かれた作品を見に行った。自転車を止め、海の向こうへ傾き始めた太陽を眺める。美咲は作品の周囲を歩きながら、どの方向から撮れば背景に民家が入らないかを確認していた。
「そこまで作品を見ても、分からないことはないのか」
「ありますよ」
「分からないまま見続けるのか」
「まあ、 一度で分かるものだけが、見る価値のあるものではないでしょう」
美咲は作品へ近づき、表面に落ちる木の影を指でなぞるように見た。
「白い庭園は、何も知らなくてもきれいです。写真を撮れば、どこへ行ったかすぐ分かる。だから人が集まる。それが悪いとは思いません」
「でも、こっちも見てほしい」
「はい」
「黒ギャルと同じだな」
「何でも黒ギャルに結びつけるの、やめてもらえます?」
「美白や透明感は、誰が見てもきれいだと分かる。黒ギャルは見ようとしないと分からない」
「あなたは最初から黒ギャルしか見ていないでしょう」
「選球眼がいいんだ」
「視野が狭いんです」
美咲は自転車へ戻り、前籠へノートを入れた。手元を見て、初めて気づいた。
爪の一本だけが青く塗られている。
「それ」
指を向けると、美咲は慌てて手を握った。
「何ですか」
「青」
「試しただけです」
「似合ってる」
口にしてから、黒ギャルの格好でもない爪の一本を、どうしてすぐに見つけられたのかと思った。作品を見るより先に、俺は美咲の手を見ていたらしい。
美咲は何も言わず、自転車へまたがった。
「早く戻らないと、大智さんに夕食を抜かれますよ」
先に走り出した背中を追う。自転車のハンドルを握る左手で、青い爪だけが何度も光った。
* * *
企画の写真が増え、島のアートを巡る投稿が拡散され始めた頃、美咲が調査を依頼されている団体から連絡が入った。
観光協会の佐伯という女性が海の家を訪れ、印刷した写真をテーブルへ並べた。美咲の写真、望の爪、真美と陽菜の母娘、ほかの参加者たち。最初は一枚しかなかった写真が、すでに十枚以上になっている。
大智は佐伯の前へ、一番高いアイスコーヒーを置いた。
「これは?」
「一番高いやつです」
「種類を聞いたんですが」
「アイスコーヒーです」
「まだ注文もしていません」
「長い話になりそうじゃったけぇ」
佐伯はグラスと大智を一度ずつ見たあと、写真へ視線を戻した。
「そうですね。 では、長くならないよう本題からお話しします。とても面白い企画だと思います。若い方にも反応されていますし、正式に島の夏イベントとして扱えないかという話が出ています」
「扱うというのは、具体的には?」
「耕三寺の庭園を会場にして、週末に一度、大きな撮影イベントを開きます。交通案内や広報はこちらで支援できます。地元のメディアにも声を掛けられます」
「白い庭園で?」
美咲の声が少し低くなった。
「参加者が集まりやすく、写真を見ただけで生口島だと分かりますから。島内の作品を巡る企画は、規模を縮小して関連展示として残しましょう」
「でも、この企画は、見過ごされている作品を回ることにも意味があります」
「もちろん、その視点は大切です。ただ、まず人を集めなければ、ほかの作品にも興味を持ってもらえません」
反論しようとして、佐伯の資料に並ぶ想定来場者数へ目を落とした。大智は売上へつながる数字を追い、俺は広報案の表示回数を見る。島の公式アカウントで紹介されれば、現在の何十倍もの人間へ届く。
黒ギャルの個体数を、一気に増やせる。
「やろう」
俺が言うと、美咲がこちらを向いた。
「作品巡りはどうするんですか」
「後からでもできる。まず黒ギャルを増やす」
「後から見る人は、ほとんどいません。みんな庭園で写真を撮って帰ります」
「黒ギャルが増えなければ、巡る人自体がいないだろ」
「啓介さんの言うとおり、入口として有名な場所を使うことも必要です」
佐伯が資料をめくる。
「美咲さんには、当日の案内役をお願いしたいと思っています。大学の広報活動でも使われている、清潔感のあるイメージがありますから」
「私は、黒ギャル姿ではなく?」
「黒ギャルの方々との対比が分かりやすいでしょう。通常の美咲さんが企画を案内し、その後、変身後の写真を紹介する構成です」
美咲は返事をしなかった。
「悪くないんじゃないか」
俺は資料に載っている来場者数から、参加可能人数を計算していた。
「白い美咲と黒い美咲、両方出せる」
「両方、出す」
「変化が分かりやすい」
美咲は指先で青い爪を隠した。
大智はしばらく三人の顔を見ていたが、最後には契約書の内容を確認し、海の家の代表として署名した。
「客が来れば店にも流れる。うちは協力する」
大智は来場者数を見て署名し、美咲は青い爪を隠し、俺は増やせる人数を数えていた。同じ企画を受け入れながら、三人が見ていたものは別々だった。
* * *
公式企画になった翌日から、美咲の地図と俺の雑誌はテーブルの端へ追いやられ、代わりに観光協会の書類が広がった。ポスター撮影、参加者の選考、当日の進行表。大智は海の家のメニュー数を増やし、追加の食材を発注した。俺は美咲とメイク用品の在庫を数えながら、一日に対応できる人数を計算した。
観光協会が作ったポスター案は、数日後に届いた。
左側には、白いブラウスを着た美咲。
右側には、黄色い作品の前で笑う黒ギャル姿の美咲。
中央に、大きく文字が置かれている。
『透明感女子が、一日で平成ギャルに大変身!』
美咲は画面を見たまま動かなかった。
「この左の写真、誰が選んだんですか」
「大学の活動紹介に載っていたものを、協会が許可を取って使ったそうだ」
「私には?」
「大学経由で確認したと聞いています」
「私には、確認されてません」
美咲の声は静かだった。
その日の午後、望からも連絡が来た。
公式イベントの撮影参加者から外れたという。理由は「黒ギャルとしての変化が写真で伝わりにくいから」。
「目元と爪だけだと、公式の写真では弱いらしい」
俺が説明すると、美咲はすぐに顔を上げた。
「誰が決めたんですか」
「協会と、俺」
「啓介も?」
「人数が増えたから、見た目の変化が大きい人を優先した。望には、もう少し肌を濃くできないか聞いたけど、断られた」
「当然でしょう」
「黒ギャルのイベントなんだぞ」
「本人がやりたいところまででいいと言ったのは、あなたです」
「公式イベントになったんだ。分かりやすさも必要だろ」
真美と陽菜の母娘にも、真美だけで出演してほしいという話が来ていた。元黒ギャルの母親が復活する方が記事にしやすく、陽菜の変化は弱い。望の青紫の指先も、陽菜の金色の唇も、公式案へ移した途端に「変化が弱い」の一言へ縮んだ。
縮める側には、俺もいた。
「美咲も案内役として出るんだろ。お前が白いまま立てば、対比が――」
「私の白い顔を前に置いて、黒い私を後ろに置くんですね」
「それが一番、変化が分かる」
「どちらも、あなたたちにとって都合のいい私でしょう」
「何を怒ってるんだよ。白い美咲も黒い美咲も、お前じゃないか」
「だったら、どうして私が選べないの?」
言葉が止まった。
美咲はポスターの画面を閉じた。日差しの強い日だったが、今日は日傘を持っていなかった。
「白い庭園だけを見て帰る人に、あなたは何も見ていないと言いましたよね」
「言ってない。お前が言ったんだ」
「今、あなたが同じことをしてる」
「企画を成功させるためだ」
「成功って何ですか。黒い肌の女の子をたくさん並べて、その中に私も数えること?」
「違う」
「何が違うの?」
すぐには答えられなかった。
美咲が俺を見た。厚いつけまつげの下から見上げてきたあの日より、今の目の方がずっと強かった。
「私は、あなたの好きなものを増やすための個体数じゃない」
美咲は机に置いていたノートを取り、海の家を出ていった。青く塗られていた爪は、透明に戻っていた。公式企画を失うかもしれないことより、その色が消えたことの方がなぜか胸の奥へ長く残った。
* * *
その夜、大智と二人で店を閉めた。
海から戻った客が落とした砂を掃き、使い終わった油を片づけ、翌朝のために鉄板へ薄く油を引く。大智は普段より長く黙っていた。
「何か言えよ」
「何を」
「俺が悪いと思ってるだろ」
「俺も同じじゃ」
大智は売上帳を閉じた。
「客が増えるけぇ、白い庭園でやればええと思った。俺も、参加する子が何をしたいか見とらんかった」
「でも、商売なら客が多い方がいいだろ」
「客が選んだもんを、店の都合で削ったら、もうそいつらのための店じゃない」
鉄板の向こうで、大智は濡れた布巾を絞った。
「黒ギャルのイベントなんだぞ」
「お前が好きな黒ギャルのイベントじゃ」
言い返せなかった。
「公式の話、どうする」
「俺が決める。明日の朝までには」
「食材はもう頼んどるけぇな」
「そこは現実的なんだな」
「金は現実にしかないけぇ」
* * *
眠れず、夜の浜辺を歩いた。
黄色い作品の前で足を止める。昼間は目立っていた黄色が、街灯の下では鈍く沈んでいる。
作品名の書かれたプレートを、初めて読んだ。
読んでも、よく分からなかった。
作者の名前、制作年、短い説明。その意味を理解したからといって、急に芸術が分かるわけではない。それでも、以前とは違うことがあった。
美咲は黄色い作品に、走り出しそうな形を見た。
望は銀色の作品に、自分で選んだ青い爪を重ねた。
真美は黄色い作品の前で昔の自分を取り戻し、陽菜はその隣で金色の口紅を選んだ。
俺には色と形しか見えていなかった島の作品を、四人はそれぞれ違う理由で選んでいた。
どの見方が正しいか、俺には判断できない。判断する必要もなかったのかもしれない。あの夏に見た従姉は、黒ギャルの格好をしていたから、自分の好きなものを選べたわけではない。自分で選んだ姿だったから、誰に何を言われても笑っていられたのだ。
俺は、その順番を逆にしていた。自分で選ばせる前に、俺の答えを着せれば自由にできると思い込んだ。
俺が好きになった黒ギャルとは、正反対のことをしていた。
スマートフォンを取り出し、佐伯へ電話を掛けた。呼び出し音を聞いているあいだ、黄色い作品のプレートへもう一度目を落とす。作者の名前も、制作された年も読める。それでも、何を表しているのかは分からない。
分からないままでも、ここにあることだけは、もう無視できなかった。
『はい、佐伯です』
「夜分にすみません。芳賀です。公式イベントの件ですが、辞退します」
『辞退、ですか』
「会場は海の家へ戻します。参加者の選考もやめます。最初に応募してくれた人を、全員受け入れたいんです」
電話の向こうで、紙をめくる音がした。
『辞退すること自体は可能です。ただ、今はもう、芳賀さん一人の思いつきを止めるだけでは済みません』
「どういうことですか」
『協会名で会場を仮押さえし、広報枠と当日のスタッフを確保しています。印刷はまだ止められますが、すでに発生した費用は残ります。大智さんの店も、追加の食材を発注しているのでしょう』
「協会にかかった金は、俺が払います」
『お金だけの問題ではありません。協会が一度取り上げた企画を、主催者側の事情で白紙にすれば、次に似た提案が来ても支援しにくくなります』
波が砂を引き、黄色い作品の影が足元で揺れた。
「それでも、今の形ではやれません」
『では、元の企画を別案として提出してください』
「別案?」
『安全管理、必要な人員、予算、島内を回遊させる方法、観光への効果、写真を使用する際の同意確認。公式企画として扱うなら、最低限それらを説明してもらいます』
「それを出せば、海の家でやれるんですか」
『内容を見て判断します。それから、もう一つ』
佐伯の声が、少しだけ厳しくなった。
『肌を黒くしない人も参加できる。黒ギャルでない人も入場できる。それなら、なぜ黒ギャル保護区でなければならないのですか』
「俺が、黒ギャルを好きだからです」
『それは企画を始める理由になります。ですが、公的な支援を出す理由にはなりません』
返す言葉がなかった。
『必要な資料は先ほど伝えました。明日は、「好きだから」以外の言葉で説明してください』
「いつまでですか」
『正午までにお願いします。通らなければ協会主催は中止し、発生済みの費用は海の家側に負担していただきます。来年以降の支援も難しくなるでしょう』
「分かりました。明日の正午までに提出します」
『正午に海の家へ伺います』
俺は小さく息を呑んだ。
『芳賀さん』
「はい」
『あなたが守りたいのは、黒ギャルですか。参加者ですか。それとも、企画の名前ですか』
黄色い作品へ目を向けた。
「明日までに、考えます」
通話が切れると、波の音が戻ってきた。
失うものを数えれば、今の公式案へ戻る方が簡単だった。
それでも、今の公式案へ戻るつもりはなかった。
俺は海の家へ戻り、パソコンで新しい告知画像を一から作り始めた。中央に島の地図を置き、海の家と島じゅうの作品を線でつなぐ。それぞれの作品の横には、写真を入れられる空白を残した。
誰が、どんな姿で、どこに立つのか。
そこを埋めるのは、俺ではない。
* * *
翌朝、海の家のテーブルには、三種類の紙が広がっていた。俺が書いたのは、新しい利用規約と、黒ギャル保護区を続ける理由だった。
『黒ギャル保護区・利用規約』
一、本人が望まない黒ギャル化を禁止する。
二、肌を黒くしない者も、体験と撮影に参加できる。
三、服、髪、化粧、撮影場所は本人が選ぶ。
四、写真の掲載には、本人の許可を得る。
五、参加者を個体と呼ばない。
六、黒ギャルでない者も入場できる。
大智がまとめたのは、これまでの売上、必要な人員、当日に使える設備と金額だった。体験参加者が来た日は、午後三時以降の売上が普段の倍近くになっている。思想より先に数字を見せろ、と大智は言った。
「佐伯さんに俺が好きだからでは通らん言われたんじゃろ」
「始めた理由としては認められた」
「公費を出す理由にはならんかったんじゃろ」
「そこまで聞いたのか」
「お前、電話しながら声がでかいんじゃ」
利用規約を書いた黒板を撮影し、美咲へ送った。
『助けてくれ』
送信してから三十分後、海の家の前に自転車が止まった。美咲は白いブラウスではなく、濃い青のシャツを着ていた。
爪も一本だけではなく、左右すべてが違う青で塗られている。
徹夜で固まっていた胸の奥が、わずかにほどけた。十本すべての爪に色が戻っていることまで、一目で数えてしまった。
「地図、間違っています」
挨拶より先に、美咲はテーブルへ紙を広げた。
「南側の作品は工事で道が狭くなっています。この経路では参加者同士が重なります。それから、日陰と休憩場所が足りません」
「来てくれたのか」
「あなたを許したわけではありません」
「分かってる」
「私の調査結果を使って事故を起こされたら困るだけです」
美咲の地図には、作品を巡る三つの経路が引かれていた。短い経路、海沿いを回る経路、夕日に合わせて西側へ向かう経路。それぞれに休憩できる場所と、海の家へ戻る時刻が書き込まれている。美咲の地図、大智の数字、俺の利用規約。最初に企画を作ったときと同じ三枚だった。
ただし、今度の俺の紙には、空白ではなく参加者の名前が書かれていた。
「その…… お前や望たちを、俺の好きな形に並べ直そうとした。悪かった」
美咲は地図へ線を引く手を止めた。
「はい」
美咲はすぐには答えなかった。
「保留にします」
「許すかどうかを?」
「あなたが本当に分かったのかを、です」
「今日の正午には結果が出るな」
「企画が通るかどうかと、私が許すかどうかは別です」
「厳しい」
「自業自得です」
大智が三枚の紙をそろえ、風で飛ばないよう空のグラスを置いた。
「あと二時間じゃ。仲直りは後にして、企画書を作れ」
* * *
正午になる少し前、佐伯が海の家へ戻ってきた。
テーブルには、昨夜の電話では存在しなかった企画書と、空になったコーヒーの缶が並んでいる。佐伯は缶の数を見てから、俺の顔を見た。
「眠りましたか」
「横にはなりました」
「寝てない人の答えですね」
「目は閉じた」
「誤字は三つありました」
美咲が企画書の端をそろえながら言った。
「二つは直しただろ」
「表紙だけで『黒ギャル』が六回出てきます」
「そこは誤字じゃない」
「減らせ言うたんじゃけど、聞かんかった」
大智が空き缶をまとめてゴミ袋へ落とした。佐伯は企画書へ手を伸ばしかけ、先に美咲へ向き直った。
「その前に、ポスターに使用した写真について謝らなければなりません。大学経由で確認すれば十分だと判断したのは協会側の誤りでした」
美咲は佐伯を見た。
「次からは、大学ではなく私に確認してください」
「はい。申し訳ありませんでした。現在のポスター案は破棄し、今後は使用する写真ごとに本人へ確認します」
美咲は短くうなずいた。
企画書には、昨夜まで欠けていた数字と役割が埋まっていた。佐伯は最後まで読み、最初のページへ戻った。
「黒ギャルでない人も参加できる。それでも、名前は変えないのですね」
「変えません」
「なぜですか」
「誰でも好きな格好をしましょう、というイベントに変えるつもりはないからです」
佐伯が顔を上げた。
「中心に置くのは、黒い肌、明るい髪、強いメイクを選んできた黒ギャルの文化です。俺は、それが好きです。そこを曖昧にするつもりはありません」
「ですが、肌を黒くしない人も受け入れる」
「最初から全部できなければ入れない場所にもしたくないんです。一部だけ試す人も、昔の格好へ戻る人もいる。その先を選ぶのは、本人です」
「では、何を保護するのですか」
「黒ギャルを選べる場所です」
「芳賀さんが、黒ギャルにする場所ではなく?」
「本人が選んだときに、出てこられる場所です」
佐伯は何も言わず、美咲の地図へ目を移した。
「観光への効果は?」
美咲が、三つの経路を指した。
「有名な庭園へ人を集めるのではなく、参加者が撮影したい作品を自分で選びます。受付と帰着の記録を取れば、どの作品へ人が動いたか、どれくらい島へ滞在したかも調べられます」
「作品を背景として消費するだけになる可能性は?」
「撮影前に、作品を一度、自分の言葉で説明してもらいます。正しい意味を答える必要はありません。何に見えたか、なぜそこで撮りたいのか。それを記録します」
佐伯は今度は大智を見た。
「採算と安全管理は?」
「参加者が入った日は、午後三時以降の売上が普段の倍近い。二十人までなら、追加の人間を一人雇うても赤字にはならん。店に救急箱と飲み水を置いて、各経路に連絡係を一人ずつ付けます。天候が崩れたら、島巡りは中止して海の家だけでやる」
「費用が想定を超えた場合は?」
「啓介の化粧品代を削ります」
「そこは削るな」
「一番無駄が多い」
佐伯の口元が、わずかに緩んだ。
しかし、企画書を閉じた顔はまだ厳しかった。
「協会主催の公式イベントにはできません」
胸の奥が沈んだ。
「ただし、試験協力という扱いなら可能です」
「試験協力?」
「白い庭園の会場と、メディアへの取材依頼は取り下げます。代わりに、港と協会の案内所へ島内マップを置き、公式サイトのイベント欄には情報を残します」
「会場の仮押さえに生じたキャンセル料は、海の家側で負担してください。ただし、ポスター制作にかかった費用は、写真確認に不備があった協会側で処理します」
大智が小さく息を吐いた。
「分かりました。当日の売上で取り返します」
佐伯は企画書の条件欄へ、ペンで書き加えた。
「参加者は二十人まで。事故、無断撮影、本人の許可がない写真掲載が一件でもあれば中止。終了後一週間以内に、来場者数、島内を回った人数、海の家の売上、参加者の感想を提出してください」
「それで十分です」
「十分だったかどうかは、結果を見て判断します」
佐伯は三枚の紙をまとめず、そのままテーブルへ残した。
「この企画が、白い庭園より人を集めるとは思っていません」
「はい」
「それでも残す価値があると言うなら、当日、見せてください」
「見せます」
今度は、迷わなかった。
* * *
夏最後の日曜日。
海の家を黒ギャル保護区に変える日が来た。海の家の前には、昨日まで何度も書き直した利用規約の黒板を立てた。
開場前から問題は起きた。
ヘアアイロン三本、照明二台、音響機器、かき氷機を同時に動かし、電気が落ちた。大智はブレーカーを戻しながら、黒ギャルの生息環境には発電所が必要だと本気で主張した。
参加予定者の一人はフェリーを乗り間違え、別の港へ到着した。
望のネイルチップが一つ砂浜へ落ち、真美と陽菜、大智の母親まで加わって捜索した。発見したのは、近くで遊んでいた五歳の男の子だった。
大々的な公式広報はなく、港と案内所に小さな島内マップが置かれただけだった。白い庭園へ向かう観光客の流れも変わらない。それでも、正午を過ぎる頃には海の家の前へ人が集まり始めた。
海の家の前には、普段から肌を焼いている女子の隣に、ブロンザーで色だけを試した参加者が立ち、髪だけを明るくした女子が望の青紫の爪をのぞき込んでいた。昔の服を引っ張り出した真美の横では、金色の口紅と青いエクステを選んだ陽菜が、母親の写真を撮っている。
誰一人、同じ格好をしていなかった。
「黒ギャル保護区なのに、白い人も多いですね」
観光客の一人に言われ、俺は黒板を指した。
「六番目をご覧ください」
「黒ギャルでない者も入場できる」
「保護区として矛盾してません?」
「生態系は多様な方が強い」
大智が横から口を挟む。
「難しい話はええけぇ、入場するなら飲食券買うて」
参加者たちは地図を手に、島へ散っていった。
三つの経路には、それぞれ連絡係を置いた。短い経路は大智の父親、海沿いの経路は美咲、西側へ向かう経路は臨時で雇った島出身の大学生が担当する。参加者が海の家を出た時刻と、戻ってきた時刻は受付表へ記録し、連絡係とはスマートフォンで常に連絡を取れるようにした。
望は前回と同じ銀色の作品を選んだ。ただし、今度は顔も写すと言った。真美と陽菜は黄色い作品ではなく、木々の中にある赤い作品を選んだ。母娘で意見が割れ、三十分口論した末の決定だった。海沿いの経路を担当する美咲は、参加者の希望を確認しながら、それぞれが選んだ撮影場所へ案内する。濃い青のシャツは汗で背中の色を変え、爪の色も一部が剥げていた。
それでも、白い服を着ていたときより、ずっとこの島の風景へ馴染んで見えた。
「美咲」
呼ぶと、彼女は参加者へ説明していた顔のまま振り返った。
「何ですか」
「お前は、やらないのか」
美咲は少しだけ考えた。
「まだ決めていません」
「そうか」
「勧めないんですね」
「選ぶのは俺じゃない」
美咲は何も言わず、次の参加者を案内した。
夕方になり、海の家へ戻る人が増えた。撮った写真を見せ合い、知らなかった作品の場所を教え合う。黒レモンスカッシュは売り切れ、大智が予想していた以上の焼きそばが出た。
白い庭園ほど人はいない。
新聞社もテレビ局も来ない。
それでも、浜辺に置かれた椅子はすべて埋まっていた。
夕方、佐伯が受付へ戻ってきた。手には、参加者へ書いてもらった簡単なアンケートと、帰着時刻を記録した用紙を持っている。大智はレジを閉める手を止め、佐伯が近づく前から身を乗り出していた。
「先に売上を聞きたい顔をしていますね」
「顔に出とりました?」
「電卓を持ったままなので」
大智は手元を見た。
「これはたまたまです」
「さっきから同じ数字を三回計算しとるぞ」
「啓介は黙っとけ」
佐伯は用紙の一枚目へ目を落とした。
「では、来場者数からお伝えします。白い庭園で開催した場合の想定人数には、届きませんでした」
「やっぱり駄目ですか」
「最後まで聞いてください」
佐伯は用紙をめくった。
「参加者の多くが、三か所以上の作品を回っています。島で過ごした時間も、通常の観光客より長い。午後三時以降の海の家の売上も、これまで体験を実施した日を上回っています」
大智が、レジの横から身を乗り出した。
「じゃあ、 来年も協力してもらえるんですか」
「来年の話をする前に、確認したいことがあります」
佐伯は、店じまいの始まった海の家を見渡した。
「海の家は、あと一週間で閉まりますよね」
「夏だけなんで」
「芳賀さんも美咲さんも、夏休みが終われば大学へ戻る」
「はい」
「では、九月から、この保護区はどこに置くのですか」
答えられなかった。その問いだけは、企画書のどこにも書いていなかった。
「来年まで休眠ということで」
「絶滅危惧種を九か月も放置するんですか」
「それは保護活動として問題があるな」
「今さら気づいたんですか」
美咲がスマートフォンを取り出し、画面をこちらへ向けた。
共有フォルダの名前は、『黒ギャル保護区・秋以降』。
「いつ作ったんだ、これ」
「佐伯さんに説明している途中です」
「企画が通る前から?」
「通らなかったら、別の名前に変える予定でした」
「俺の黒ギャルは消すな」
「では、毎週水曜日の二十時からオンライン会議です」
「俺の予定を先に聞け」
「聞いたら断るでしょう」
「水曜はサークルがある」
「何のサークルですか」
「入ってないけど、今後入る可能性がある」
「では、可能性がなくなる二十時から」
「大智も参加だからな」
「何で俺まで大学生二人の予定調整に入っとるんじゃ」
「企画会議です」
「今のどこが企画じゃった」
佐伯が、二人の間に表示された共有画面をのぞいた。
「秋の企画書も、今日の結果と一緒に提出してください」
「まだ何も決まってません」
「だから、次の企画になるのでしょう」
佐伯はそれだけ言い、参加者のアンケートを大智へ渡した。
日が傾き始めた頃、美咲が倉庫の前に立った。
「啓介」
「何だ」
「あの、 これ、使いたいです」
手にしていたのは、以前選んだ青ではなく、金色のアイシャドウだった。アクセサリーも、俺が用意したものではない。島へ来てから自分で買ったらしい、形の不揃いな大きなピアスを持っている。
「肌は?」
「少しだけ。前より薄くします」
「髪は?」
「色は変えません。上げるだけ」
「分かった」
美咲は椅子へ座った。
最初の日のように、俺がすべてを決めることはなかった。金色をどこまで入れるか、肌の色をどれだけ変えるか、一つずつ尋ねる。
「もう少し濃くてもいいです」
「肌?」
「目元」
「分かった」
「ピアスが見えるように、左は上げて」
「こう?」
「もう少し」
鏡を見せると、美咲は笑わず、長い時間自分の顔を眺めた。
「どうだ」
「好きです」
その一言で、十分だった。
* * *
美咲が選んだ撮影場所は、やはり黄色い作品だった。
夕日が海へ近づき、黄色い表面を橙色に変えている。美咲は作品の横へ立ったが、最初の日のように同じ形をまねることはしなかった。
まっすぐこちらを見る。
「撮らないんですか」
「今、撮る」
カメラを構えた。
「何、その顔」
「いや、 前と違うなと思って」
「当たり前でしょう」
美咲は風で乱れた髪を押さえた。
「今日は、あなたに作られたんじゃないから」
言ったあと、少しだけ視線を逸らす。
「私が、これで来たかったの」
シャッターを切る前に、ファインダーの外から美咲を見た。金色の目元や青いシャツより先に、自分で選んだ姿で立ちながら、それでも少しだけ俺の反応を待っている顔が見えた。
「似合ってる」
「黒ギャルだから?」
「美咲だから」
ファインダー越しに、美咲の目が大きくなる。視線が重なったまま、どちらも先に逸らさなかった。シャッターを押すだけなのに、胸の音が夕方の波より近くに聞こえた。
「そういうの、急に言う?」
「聞かれたから答えた」
「聞いてない」
「黒ギャルだからって聞いただろ」
「そういう意味ではなくて」
「じゃあ、どういう意味だ」
「もういい。早く撮って」
美咲は顔を背けた。
肌をどれだけ濃くしても、耳が赤くなっていることだけは隠せない。その顔を見て笑うと、美咲も堪えきれずに笑った。口を大きく開け、肩を揺らす。最初に好きになった笑い方だった。
美咲ではなく、笑い方が。そう言い直してから、誰に言い訳しているのかと思った。
その瞬間、シャッターを切った。
* * *
イベントが終わり、二人で浜辺の椅子を片づけた。
大智は売上を数えながら、一人で満足そうにうなずいている。黒ギャル文化には最後まで興味を持たなかったが、来年はパラソルを増やし、専用の電源を引くと言い始めていた。
「結局、黒ギャルは何人増えたの?」
「ゼロ」
美咲が、抱えていた椅子の脚を砂浜へ下ろした。
「ゼロ?」
「今日来た黒ギャルは、最初から黒ギャルだった。お前たちが明日から何を選ぶかまで、俺の成果にはできない」
「じゃあ、企画は失敗じゃん」
「黒ギャルを増やす計画としては、完全な失敗だ」
「潔いね」
「ただ、保護区はできた」
「黒ギャルじゃない人の方が多い保護区だけど」
「生態系は多様な方が強い」
「それ、便利に使いすぎだから」
美咲は椅子を持ち直しかけて、もう一度こちらを見た。
「じゃあ、私は?」
「数えない」
「どうして?」
「お前は俺が増やしたんじゃない。自分で選んだんだ」
美咲はしばらく黙ったあと、抱えていた椅子の脚で俺の脛を軽く蹴った。
「遅い」
黄色い作品は、夕暮れの中に立っていた。相変わらず、レモンには見えない。けれど、今にも海へ向かって走り出しそうには見えた。
「少しだけ分かった気がする」
「何が?」
「こいつ、案外いいな」
「今さら?」
「黒く塗ったら、もっとよくなる」
「何も分かってないじゃん」
「個性は尊重している」
「色を変えようとしてる時点で尊重してないから」
美咲が笑った。
その夜、肌に重ねた色は、洗い流せば元の白さへ戻る。髪も、化粧も、服も、一日限りで終わる。
それでも、彼女の笑い方だけは白く戻らなかった。




