怖がりな夫人が、一番怖い話をしてしまった夜
「今日もまだ起きているのか、夫人は」
モレノ伯爵家のビリヤードルームで、ブランコ伯爵が扉の方を見た。夫人とは、サムエルの妻ベロニカのことだ。
「ああ。休めと言っているのだが、義父の教育の賜物だ。主人が寝るまでは起きるように躾けられている」
少し面倒そうにサムエルが答えた。早く休んでくれた方が罪悪感なく飲める、という本音が見える。
五年前に伯爵位を継いだサムエル・モレノはここ数ヶ月、三日も空けずに客を招く。相手は、学生時代の旧友であるブランコ伯爵とガルシア伯爵だ。
皆、爵位を引き継いだ時期は同じ。爵位を継いですぐ、三人は紳士クラブにて再会を果たした。堅苦しい紳士クラブとは別で集まりたいと意見が一致し、一番条件が良かったのがモレノ伯爵家だった。
「しかし羨ましい。夫人は若いし、まだ新婚気分でいたいんじゃないのか? 三人目の誘いかもな」
短髪の黒髪を掻き上げて、ガルシア伯爵が笑う。
「勘弁してくれよ。子供はもう二人もいるんだ。後継は十分だよ」
照れ隠しなのか、鬱陶しそうにサムエルが言う。その時、コンコンコンと扉をノックする音がした。
「ベロニカだ。きっと、お前たちが早く帰らないかと様子を見に来たんだよ」
ブランコ伯爵とガルシア伯爵が顔を見合わせた。迷惑なことをしている自覚はある。あるのだが、この心地よくて楽しいひと時を手放すつもりはない。二人の顔を見ていたサムエルが、小さな声で二人に言った。
「そうだ。妻のベロニカは怪談話が嫌いだ。今から順番に話をして、降参した者が退場するって遊びを吹っかけよう」
サムエルの提案に、二人は眉を顰めた。女性の怖がる話をするなんて、紳士としてはいただけない。しかし二人とも、自分の妻より遥かに若いベロニカの怯える姿を見てみたいとも思った。
「ああ」
「乗った」
二人が答えたと同時に、チェイサー用の水が入ったボトルを持ってベロニカが入ってきた。
にこやかではあったが、化粧をほぼ落とし簡素なドレスを纏った姿は、昼間に来客を迎える姿とはまったく違っていた。
「何か、作らせましょうか?」
ベロニカの問いを遮って、サムエルは立ち上がると、自分の座っていたソファーにベロニカを座らせた。
「たまには、君もどうだ?」
サムエルは食器棚からグラスを一つ出すと、シェリーを注いだ。
戸惑うベロニカにサムエルはグラスをすすめた。
「今さ、みんなと怪談話をしていてね」
サムエルがイタズラっぽく笑いながら言う。ブランコ伯爵もガルシア伯爵も、サムエルに合わせて微笑んだ。ベロニカだけが不安そうに目を泳がせている。
「怪談話を順番に披露してね。怖いって降参した者から帰宅するんだ」
帰宅と聞いた途端、ベロニカの表情が変わった。しばらく考え込むベロニカに、三人は目配せをし合い、笑いを堪えた。
「でも私、本当に怖いのが苦手なの。怪談話なんて一つもないわ」
か細い声で訴えかけるベロニカの肩を、サムエルは優しく抱き包んで言った。
「何も怪談だけが怖い話ではない。ベロニカが今までの人生で味わった、怖い出来事を話すだけでいいんだよ」
優しげに頷く二人の伯爵に騙されて、ベロニカは最終的には頷いた。
「では、私から」
話す順番は、ビリヤード台に近い順に時計回りに決まった。一番手はブランコ伯爵。広い農地を収めるブランコ伯爵は、農地視察の際に見た、夜半に墓場でクネクネと踊る白い男の話をした。
サムエルもガルシア伯爵も、この話は飽きるほど聞いている。ベロニカだけが、自分の両腕を抱いてブルブルと震えていた。
「次は、俺が」
次のガルシア伯爵は、爵位を継ぐ前にいた騎士団の遠征での出来事を語り出した。大雨の野営中、配る食料や水の数はピッタリなのに、なぜか隊員の数を数えると一人多い。後に、昔、遠征中に不慮の事故で亡くなった隊員がいたと判明する。
「ヒッ」
ベロニカが顔を覆ってしまう。その初々しい姿を見て、ブランコ伯爵もガルシア伯爵も酒が進んだ。
次はサムエル。サムエルは、学生時代に聞いた先輩の話をした。夜に忘れ物を取りに学園に戻った先輩が、教室で亡くなった前学長を見た話だ。二人の伯爵は、先輩のホラ話だと知っていたので鼻で笑った。
ベロニカだけが、青い顔をして怖がった。
「さあ。ベロニカの番だよ」
サムエルがベロニカに言う。ベロニカはしばらく黙っていたが、やがてシェリーグラスをグイッと空けた。
「ヒュー」
ブランコ伯爵が口笛を吹く。サムエルは、普段酒を飲まないベロニカが一気にシェリーを飲み干したことに少し焦った。だが、ベロニカはフーッと息を吐くと、三人の顔を見渡してからゆっくりと話し始めた。
「私がまだ娘だった頃、乗っていた馬車が襲われたことがあったの」
意外な話の導入に、三人は息を呑んだ。
雇われたばかりの御者が迷ってしまい、ベロニカと侍女を乗せた馬車は慣れない山道を走っていた。そこへ、ならず者が三人現れた。御者は助けを求めてくると言い残し、さっさと逃げてしまう。庇ってくれるものの震える侍女とベロニカ。絶体絶命の中、ベロニカはあることを思い出していた。
それは、最近読んだ異国の話。
人間に、狐という動物が取り憑いてしまう話だ。怖いことが嫌いなベロニカは、その物語を読んだ翌日、熱を出してしまった。
これは使える……のかしら?
ベロニカは半信半疑ながらも、覚悟を決めた。
ならず者が下衆な笑いを浮かべて近づいてくる。ボスであろう男がベロニカの手首を掴んだ。ベロニカは目を瞑った。
そして。
ベロニカは目を見開いた。白目で。
「コーーーーン!」
ベロニカは実際に叫んでみせる。サムエルはもちろんのこと、ブランコ伯爵もガルシア伯爵も椅子から転げ落ちそうなほど驚いた。ベロニカは三人の反応を見ることなく、話を続けた。
「男が怯んだので、私はヒールを脱ぎ捨てて裸足で馬車のステップに飛び乗ったの。そして振り返ると同時に、全力で飛びました」
ベロニカは貴族令嬢として育った。今まで裸足で走ったことなんてないし、ましてや飛び跳ねることもない。
初めてジャンプしたベロニカは加減がわからない。意外と身体能力は高かったらしく、ボスの目の前に着地した。
ベロニカの目の真ん前には、驚きのあまり目と口を目一杯開いているボス。
ベロニカは男性の近くに寄ったことはない。近いわ、と内心焦る。
しかし、怯んではいられない。ベロニカはすかさず、次の一手に出た……。
「コーーーーン!」
白目を剥き、叫ぶベロニカの声がビリヤードルームに響き渡る。
三人の伯爵は固まり、ただただベロニカを見続けた。
「男たちは、魔女だ悪魔だと叫びながら走り去ってくれたので、私と侍女はことなきを得ました」
ベロニカがにっこりと笑う。
三人はしばらく黙り込んでいたが、やがてぎこちなく笑い出した。
「な、なかなか面白かったですよ、夫人。では、次はまた私から」
気を取り直したブランコ伯爵が怪談を続ける。ブランコ伯爵は、今は廃墟になった屋敷から夜な夜な聞こえる女性の泣き声の話、ガルシア伯爵は幽霊船の話、サムエルは見ると死ぬという黒装束の男の話をした。
話の度に、ベロニカは小さく悲鳴をあげてガタガタと震える。
そして、ベロニカの番が来た。身構える三人をよそに、ベロニカは二杯目のシェリーグラスを空けた。
「今まで生きてきた中で一番を争うほど怖かったのは、船酔いです」
ベロニカの言葉に、三人はほっとしたのか笑い声すら上げた。船酔いが人生で一番怖いなんて、ベロニカはとんだ箱入り令嬢なのだなと笑う三人は、ベロニカの話が進むにつれて笑顔を消すこととなる。
「私の親戚は、海を渡った隣国に住んでいます。まだ娘の時、親戚を訪れるために侍女と船に乗った日のことです」
ベロニカは初めての船酔いに参っていた。船は午前に出航し、翌日の朝には目的地に着く。一晩という期間は、船酔いに慣れる時間すら与えなかった。夜中、どうしても外の空気を吸いたくなったベロニカは、侍女に無理を言ってデッキに出た。
デッキに出たベロニカの耳に、何やら楽しそうな笑い声が飛び込んでくる。
船酔いのあまり思考力が低下していたベロニカは、フラフラと声のする遊戯室へと向かった。
そこでは、隣国人であろう男たちが酒を飲み騒いでいた。男たちは、まだ幼いベロニカと侍女を見つけると声を掛けた。
「お嬢ちゃんたち。こんな夜中に一体どうしたんだ?」
戻りましょうと言わんばかりにベロニカの腕を引っ張る侍女を無視して、ベロニカは答えた。
「こんばんは。船酔いが辛くて、夜風に当たっていました」
男たちはガハハと笑う。その中の一人が、あるものをベロニカに見せた。
「お嬢ちゃん、これ、何だかわかるかい?」
それは男の両手の収まる、何やら鉄でできていそうなものだった。ベロニカが首を横に振ると、男たちからまた笑い声が上がる。だいぶ酔いが回っているのだろう、男たちはご機嫌でそれをベロニカに見せた。
「これをこうするだろう」
そういうと、男はそれに何かを一つずつ込めていく。クルクルクル……カチャン。ずっと見ていたいような手慣れた動作で、男はそれを扱う。
「そして、こうだ」
男はおもむろに筒状になった先を自分のこめかみに当てて、そして引き金を引いた。
カチッ。
静寂の後、男たちの怒声と歓声が飛ぶ。ベロニカは目を丸くした。その時の高揚感がすごかったことだけは覚えている。
男は、それをベロニカに渡そうとした。他の男たちからは下品なヤジが飛ぶ。
「お嬢ちゃんも、その引き金を引いてみな。きっと船酔いなんて一発でなくなるぞ。なんて、冗談……」
船酔いがなくなる。その言葉だけがベロニカの頭に入ってくる。男が最後まで言い終えないうちに、ベロニカは男の手からそれを奪った。息を呑む音だけがする中で、ベロニカをそれを両手に持つと筒先を自分の額に当てて引き金を引いた。
最後に、侍女の小さな悲鳴が聞こえた。
カチッ。
あれだけ騒がしかった男たちが、誰一人として声を上げない。男たちは、ベロニカを揶揄いたかっただけなのだ。
ベロニカはニッコリと笑うと、それを男に返した。
「本当に船酔いがなくなったわ! ありがとう、優しいおじ様たち」
そういうと頭を下げ、おやすみなさいと言い残してベロニカはその場を去った。
船室に戻ったベロニカは、すぐに眠りに就くことができた。侍女の方が先に寝台に倒れ込んでしまっていたが。
「翌日、どれだけ待っても朝食会場への案内がなかったのです」
あっけらかんと話すベロニカに、三人は黙り込んだ。
サムエルは背筋が寒くなった。ベロニカはそれが命を奪ったかもしれない危険な遊びだったということに、未だ気づいていないだろう。
パァァァーンッ。
ベロニカが突然、その両手を打ち鳴らす。三人は思わず悲鳴をあげそうになった。
「寝ている時に、こんな音が聞こえたような気がしたの。でも、私、眠くって起きなかったの」
翌日、港に着いた時は大騒ぎだったらしいが、ベロニカは親戚に会える嬉しさでさっさと下船したらしい。
「あの時の船酔いは、もう勘弁よ」
シェリーが回ったのか、少し赤い顔をしたベロニカが艶っぽく笑う。三人は、ベロニカに対してある種の恐怖を覚えた。
「今日は、そろそろ……」
そう言おうとしたガルシア伯爵を、ブランコ伯爵が制した。ここで退散するのは、男が廃ると考えたらしい。
三巡目。ブランコ伯爵、ガルシア伯爵、サムエルは、同じような怪談を話す。目新しくもなんともない話だった。むしろ、ベロニカの話の方が薄ら寒い。しかし、当のベロニカは今までと同じように怯えていた。
本当に怖いのだろうか。三人の頭に疑問がよぎったが、顔を覆って怖がる姿は演技ではなさそうだ。
「ベロニカの番だが……」
サムエルがベロニカに声を掛ける。ベロニカはゆっくりと顔を上げた。
一話目、二話目とは違って、もう何を話す決めているようだ。ベロニカは酒には手を出さず、視線を窓の外にやると静かに話だした。
「バルの赤毛の女性」
それだけ言うと、一瞬だけサムエルに目をやったベロニカは、また窓の外を見ながら続ける。
「左耳にほくろがある花売りの女。青い髪が特徴的な未亡人……」
サムエルの顔色が変わる。他の二人は訳がわからないという表情を浮かべて首を傾げた。
「ブランコ伯爵家の未婚の家庭教師。ガルシア伯爵家の髪の短い侍女」
ベロニカは淡々と続ける。ブランコ伯爵とガルシア伯爵は、ようやく何かに気づいたようだ。気まずそうに、サムエルとベロニカを交互に見た。
ベロニカは沈黙する。
三人は、誰一人、言葉を発せないでいた。
壁に掛かる時計の秒針の音だけが、場違いのように一定のリズムを奏でた。
誰かが唾を飲み込む音がする。ベロニカがようやく唇を開いた。
「ある日、突然消えたでしょう? 彼女たち」
サムエルはベロニカの顔を見つめたまま動けない。その顔は、青を通り越して白かった。
ベロニカも微動だにしない。いつ開くかわからない唇だけが、赤く艶やかだった。
サムエルが、ベロニカの視線の先を目だけ動かして辿る。やがて何かに辿り着いたサムエルは、驚愕のあまり充血した目を見開いた。
――まさか。
サムエルの口から、声にならない息が漏れる。
「ああ、怖かったわ。降参よ。私は先に休ませていただきますね」
明るいベロニカの声に、ブランコ伯爵とガルシア伯爵が弾かれるように立ち上がった。
「わ、私たちも失礼しよう」
「遅くまですまなかったね、夫人」
お見送りしますと言うベロニカを追うように、旧友たちはビリヤードルームを後にした。
ひとり残されたサムエルは、立ち上がることもできないでいた
ただ、窓の外――存在も忘れていた、廃井戸から目を逸らせなかった。




