日常という名の 1
立て続けに学園を騒がせた鶏事件。
そして部屋荒らしの犯人を追い詰めたシスル。
騒ぎはあっという間に過去となり日常は進むーー
「どうして、メルシー嬢が犯人だって先生達に言わなかったの?」
シスルの荷解きを手伝っていたリュシエラが、唐突に口を開いた。
「……なんですか。藪から棒に」
「気になったの。いいでしょ、別に」
こともなげに言って、リュシエラは運び終えた鞄の山にひょいと腰を下ろす。足を組み、頬杖をついてこちらを見る。
「彼女を罰したところで、無駄だからですよ。
それに、いずれ学園も犯人を見つけるでしょう」
ああいった悪意ある行為には、実行犯と先導者がいる。
実行犯だけを罰しても、根は断てない――シスルは、そう考えていることを、そのまま口にした。
「それだけ?」
リュシエラが眉を寄せ、なおも食い下がる。
しばしの沈黙。
「……いつバレるのかと、ヒリつく時間も楽しいかと思いまして」
さらりと告げる。
一瞬、空気が凍りついた。
「……そんな事だろうと思ったわ」
呆れとも納得ともつかない声音でそう言い、リュシエラは鞄の山から軽やかに降りると、真新しい壁紙の貼られた部屋をぐるりと見渡した。
「それにしても、今度の部屋は当たりよね!
一人部屋な上に浴室付きだなんて。エルドリック様のご配慮でしょ?」
シスルは答えず、浴室へと続く扉へ、ほんの一瞬だけ視線を向ける。
「……まあ、いい部屋なのは確かよね」
そんなシスルを見て、リュシエラがくすりと笑った。
確かに、良い部屋だ。
本来なら侯爵位以上の家柄でなければ許されない待遇である。
「シスル、寮の大浴場嫌いだし。
ちょうどいいんじゃない?」
実のところ、この二週間、風呂事情には難儀していた。
部屋に風呂桶を持ち込むなど、場当たり的な対応でしのいでいたのだ。その点、専用の浴室が備え付けられているのは、正直ありがたい。
件の事件を受け、以前の自室は使えなくなり、新しい部屋へ移ることになった。予想外の厚遇に、戸惑いがなかったわけではない。だが――
シスルは、それを甘んじて受けることにした。
***
いつものように身支度を整え、鏡の前に立つ。
映り込む少女に表情はなく、その瞳の色は冷たい。
声色を変える魔法を自身にかけて、発声確認をする。
――これは、毎朝欠かすことのないルーティンである。
やがて、鏡の中の少女が、ようやく微笑む。
「さぁ、今日も演じましょう」
***
今日も午前の授業を終え、午後の魔法実技へ向かうため野外訓練場へ移動していたところで、エルドリックと出くわした。
「やぁ、シスル嬢。それからリュシエラ嬢も」
「またおひとりですか、殿下」
「友人は居ないのか、って? 君も存外失礼だね」
本当は“護衛はどうなさったのですか”と問うつもりだったが、面倒になり、シスルは代わりにリュシエラへ目配せをする。
「殿下のお側には、いつも沢山いらっしゃるではありませんか!」
「そうだよ。撒いてくるのが、毎度大変でね」
「やっぱり撒いてるんですね……」
さすがのリュシエラも、呆れを隠しきれない。
乱入してきた王子を交え、三人でとりとめのない雑談をしていると――
「先日は、大変だったそうだな」
低く落ち着いた声が、不意に横合いから差し込んだ。
エルドリックの隣に、いつの間にか一人の青年が立っている。驚いて視線を向けると――
「やぁ、ギル。奇遇だね」
エルドリックは気軽にそう呼びかけ、親しげに肩へ手を乗せる。
「またお前は……。
俺を撒くなと、あれほど言っているだろう」
呆れを隠しもせず、肩に置かれたその手を払いのけたのは、いつか目にした“お目付役”の小公爵――ギルフェルドだった。
「言っても無駄でしてよ、ギルフェルド様」
「なんだ、アーニャ。君も来たのか」
更にギルフェルドの背後から姿を現したのは、姉のアナスタシアだ。シスルを見るなり、フンと小さく鼻を鳴らし、亜麻色の髪を払い上げる。その仕草が、いかにも姉らしい。
「お久しぶりです、お姉様。それに――」
「あぁ、お前は初めてだったかしら?
ギルフェルド様、ご紹介いたしますわ。
こちらは私の妹の――」
「シスルでございます」
丁寧な所作でカーテシーをとる。
対するギルフェルドも、改めて一礼した。
「私はギルフェルド・フォン・ローゼンヴァルト。
君の姉、アナスタシアとは同期生だ。それから――」
わずかに肩を竦め、苦笑する。
「殿下の見張り役でもある」
「だから人聞きが悪いってば。
まるで僕が問題ばかり起こしているみたいじゃないか」
「似たようなものでしょう」
「いやいやいや」
軽口を挟んだエルドリックを、アナスタシアは冷ややかに一瞥した後、シスルに視線を向けた。
「聞きましてよ。お前、騒ぎを起こしたんですって?」
「申し訳ございません。お姉様」
シスルは素直に頭を下げる。
おそらく、先日自室で起きた騒ぎの件を指しているのだろう。
「アーニャ、シスル嬢は被害者だよ?」
「我が家名に泥を塗れば同じことですわ!」
「それは厳しすぎないかい?」
「……彼女に非はないだろう」
一瞬、場の空気が張りつめる。
だが、低く落とされたギルフェルドのその一言が、確かにシスルを救った。
「おや、ギルが庇うなんて珍しいね」
「うるさい。どうせお前が巻き込んだクチだろう」
はっきりと明言されたわけではない。
だが、学園で“冠を戴く鳥”を吊るすという行為は、悪戯で済ませられるものではない。そこには明確な悪意がある――王族への悪意が。
「処理はしたんでしょうね?」
「もちろんです」
「どうせ、詰めは甘いのでしょうけど。
くれぐれも気を抜くのではありませんよ」
それだけ言い残し、アナスタシアは踵を返した。
「君の前では、彼女はいつもああなのか?」
ギルフェルドが、わずかに眉を寄せる。
「姉は、自他ともに厳しい人ですから」
なんでもないことのように、シスルは答えた。
「……君も苦労しているようだ」
低く呟くと、ギルフェルドはエルドリックの腕を掴んだ。
「何か困ったことがあれば、頼りなさい」
そう言い残し、そのまま高等部の教練棟へと引っ張ってゆく。エルドリックは「まだ話の途中だよ」と一応の抵抗を見せたものの、すぐに観念したようだった。
「……なんだか嵐みたいな方々よね」
ずっと黙っていたリュシエラが、ようやく口を開く。
「ごめんなさい。あなたを紹介する暇もなくて」
シスルは小さく肩をすくめた。
「気にしないで。お姉さま、厳しい方なのね」
リュシエラは苦笑する。
「あの小公爵様を間近で拝見できたのだもの。むしろ役得よ」
魔法実技とは、魔法および魔術の実技技能を伸ばすことを目的とした授業である。
両者の違いは、世界式への干渉過程にある。
魔法とは、世界式そのものへ直接干渉する行為――すなわち“奇跡”を指す。
その多くは、ルーン言語の中でも古代語術式と呼ばれる体系で構成されている。
緻密な魔力制御と高度な理解を必要とするため、扱いは極めて難しい。
一方、魔術はルーン言語によって構築された魔術式を媒介とし、間接的に世界式へ干渉する技法である。
再現性と安全性に優れる反面、魔法のような自由度や即応性には及ばない。
そのため、学園における中等部の魔法実技で扱われるのは、原則として魔術の行使訓練である。
「シスルはどの属性が得意なの?」
準備運動をしながら、リュシエラが問うてきた。どうやら体を動かすのが好きらしい。柔軟性も高そうだ。
「入試は、風属性で受けました」
「じゃあ、私と同じね!」
リュシエラは嬉しそうに笑うと、ひょいと立ち上がって背筋を伸ばす。肩を回し、足首を軽く捻る。その一連の動きからも、日頃から体を動かすことに慣れているのが分かる。
「となると、次の実技試験ではライバルね」
「……そうですね」
シスルは、曖昧に頷いた。
実技試験――属性ごとの成績上位者は、特待枠の評価にも影響すると聞いている。
それを冗談めかして口にできるのは、リュシエラが自分の実力に相応の自信を持っているからだろう。
「遠慮しないでいいのよ?」
くるりと振り返り、いたずらっぽく笑う。
「考えておきますね」
シスルは、困ったように微笑むにとどめた。
「紳士淑女の諸君!」
朗々とした声が、野外訓練場に響き渡った。
気づけば、訓練場の中央に、小柄な老人が立っている。
胸元まで届く白い長髭をたくわえ、背筋は年齢を感じさせぬほど真っ直ぐだ。小柄な体躯とは裏腹に、その場の空気はぴんと張り詰めている。
「皆よく聞けい。今日は特別な授業じゃ」
老人は長髭を撫でながら、ゆっくりと周囲を見渡した。
「覚えておいて損はない。
身を守るための――“魔法”の訓練じゃ」




