新たな演目が始まって
「お前の社交界デビューが決まった」
父親の命令で女装令嬢として社交界にデビューしたシスル。
第二王子から提案された王立魔法学園への編入。
それはシスルが演じる新たな舞台となるのかーー
王都のタウンハウスを発った馬車には、シスルと姉のアナスタシアが乗っていた。向かい合う形で腰掛けたまま、二人の間に、しばし重たい沈黙が落ちる。
やがて、その沈黙を破るように、アナスタシアが口を開いた。
「お父様からも聞いているでしょうけれど――
くれぐれも、我が伯爵家の家紋に泥を塗るようなことは、しないように」
言い終えると、アナスタシアはつんと顎を上げ、シスルから視線を背ける。
「まったく。殿下にも困ったものだわ」
先日の夜会のあと、第二王子のことをそれとなく尋ねたとき、姉は「気心の知れた学友よ」と、こともなげに答えた。
――意外だった。
伯爵の言葉ぶりから、アナスタシアも距離を置いているものだと思っていたが、どうやらそうではないらしい。
「それにしたって、一人部屋を与えられるなんてずるいわ。私だって、二人部屋なのに」
今日から、学園での寮生活が始まる。
本来、公爵位以上の家柄でなければ、一人部屋は与えられない。それでもシスルは、中等科への編入という事情から、特別措置を受けたらしい。
伯爵が、裏でどこまで手を回したのか。
――シスルには、分からない。
馬車が静かに止まり、御者が扉を開けて待つ。
シスルが足を下ろした、その先にあったのは、優雅な装飾を施された王国立魔法学園の石門だった。高くそびえる門柱。精緻な紋章彫刻。魔力を帯びた結界の気配。
そして――
「やぁ。待っていたよ」
門の内側に、第二王子が立っていた。
「これは、殿下。
わざわざお出迎えだなんて、大袈裟ですわね」
「やぁ、アーニャ。実家ではゆっくりできたかい?」
「ええ。お陰様で」
実際、アナスタシアは――
シスルの編入が決まってからというもの、毎週末タウンハウスに戻ってきては、学園の規則や、子息子女たちの間にある暗黙の了解を、容赦なく叩き込んでいた。
それは、優しさというよりも、備えだ。
知らなければ、足を掬われる場所なのだと。
「改めて自己紹介をしよう。
僕は、エルドリック・アウレリオン・シルサール。
君の姉――アナスタシアとは、同期なんだ」
エルドリックの黄褐色の瞳が、人懐こく細められる。
差し出された右手を、シスルは一拍だけ迷ってから、控えめに握り返した。
「ようこそ、王立魔法学園へ。歓迎するよ、シスル嬢」
「ありがとうございます。殿下」
これから始まる学園生活と、至近距離に立つ王子を前にして。少女は、少しぎこちない笑みを浮かべた。
「色々と、便宜は図っておいたよ」
「父と姉から、伺っております」
「何かと――君には、都合がいいだろう?」
くすんだ金髪を風に靡かせて、王子は悪戯っぽく笑っていた。
***
王立魔法学園の敷地は、大きく三つの区画に分けられている。学術区、共通区、そして生活区だ。
シスルが最初に足を踏み入れた共通区には、初等部と中等部の教練棟、そして教員棟が集まっている。
遠くには、野外訓練場や実験棟、高等部の教練棟を擁する学術区が見え、反対側には、管理棟と男女それぞれ二棟ずつの寮が並ぶ生活区が広がっていた。
教員棟へ向かうため、シスルは共通区の入口でエルドリックとアナスタシアと別れる。
各区画の入口には必ず警備員が駐在しており、学生証を所持していなければ中へ入ることはできない。
警備員に取り次いでもらい、迎えに現れた教員に先導されて、シスルは自分の教室へと向かった。
「皆さん、進級、おめでとうございます。
このクラスの担任を務めます、グレイシア・スーストです。気軽に“グレイ先生”って呼んでね」
分厚いレンズの丸眼鏡をかけた細身の女性――グレイ先生は、教卓の中央に立ち、名簿を手にして教室を見渡した。
教室内では、すでに顔見知りらしい生徒たちが、あちこちで小さな笑い声を立てている。
その中には、「またか」「はずれじゃん」といった囁きも混じっていたが、グレイ先生は気づかないふりをしているのか、まったく意に介した様子はない。
「さて。皆さんにも、これから改めて自己紹介をしてもらいますが――その前に、新しいお友達を紹介しましょう」
そう言って、教室の扉へ視線を向ける。
「シスルさん。どうぞ、入ってください」
深呼吸をひとつ。
扉に手をかけ、ゆっくりと教室へ足を踏み入れる。
グレイ先生の隣に立った、その瞬間――幾つもの視線が、一斉にシスルへと突き刺さった。
その中には、先日の夜会で見かけた顔もある。
シスルは緊張を押し隠すように背筋を伸ばし、皆の前で静かにカーテシーをとった。
静まり返った教室の奥で、
「おお……」と、抑えきれない感嘆が低くこぼれ落ちた。
「皆様、お初にお目にかかります。
シスル・シルヴェスターです。どうぞ、よろしくお願いいたします」
波打つ黒髪をそっと耳にかけ、シスルはにこりと微笑んだ。その柔らかな笑みに、先ほどまで張り詰めていた教室の空気が、わずかに緩む。
――けれど、それもほんの束の間だった。
「ふぅん。伯爵家の次女、ねぇ?」
教室のあちこちから、ひそひそと囁きが漏れ始める。
「この間の夜会に来てた子だよね。綺麗だったけど……」
「一人部屋なんでしょ? 特別扱いじゃない」
好奇の視線と、値踏みするような眼差し。
好意と警戒がない交ぜになり、じわじわと教室を満たしていく。
「シスルさんは、分からないことも多いと思います。
皆さん、ぜひ助けてあげてくださいね」
「……」
――ああ、そうだ。
“学校”とは、こういう場所だった。
シスルは胸の奥でそう呟き、わざと視線を落として肩をすぼめる。
「それでは、シスルさん。空いている席にどうぞ」
グレイ先生の声に促され、シスルは小さく頷いた。
教室の中央を抜けていく、その一歩一歩に、絡みつくような視線を感じながら。
それでも彼女は、足取りを乱さなかった。
「よろしくね」
隣の席の生徒に、そう声をかけてみた。
けれど、返ってきたのは沈黙だけだった。
言葉は返されず、ただ――
探るような視線だけが、静かに向けられた。
ホームルームが終わると、教室は一斉にざわめき始めた。席を立つ者、友人のもとへ向かう者。
けれど、シスルの周囲だけは、不自然なほど静かだった。
視線は、確かに感じる。
ひそひそと交わされる囁きも、耳の端に届いている。
だが、誰ひとりとして、彼女の席には近づいてこない。
まるで、そこだけ目に見えない境界線が引かれているかのようだ。シスルは席に座ったまま、ただ静かに、その時間をやり過ごしていた。
そのとき――
硬い靴音が、一定の調子で近づいてくる。
つかつかと、ためらいのない足取り。
周囲の視線を意にも介さず、一人の少女が、シスルの前で足を止めた。
「私はリュシエラ・アッシュフォード。
学級委員長よ。よろしくね」
一瞬、教室のざわめきが遠のく。
「……よろしくお願いします。リュシエラ様」
シスルは椅子から立ち上がり、丁寧に一礼した。
「ふふっ。
今、『お茶会でも見ない顔だな』って思ったでしょ?」
「えっ? いえ、私は……」
言いかけて、言葉を探す。
素直に、茶会そのものに縁がなかったのだと言っていいものか。これまで、そうした場に招かれたことすらないのだと――
けれど、その説明が口をつくより早く、声が重なった。
「いいの、いいの!」
ぱっと空気を切り替えるような、明るい声。
リュシエラは肩をすくめ、からりと笑う。
「家は男爵家だし、領地もないから。
学費も特待生枠で免除だしね。そんな余裕、なくてさ」
自嘲とも誇りとも取れる、曇りのない笑顔だった。
「だから、あんまり堅苦しいのは苦手なの。
シスルって呼んでもいい?」
「え、ええ。どうぞ」
あまりの軽やかさに、シスルは少しだけ目を瞬かせながら答える。
「えへへ、ありがとう!」
「リュシエラ様は――」
「“様”はいらないわ」
きっぱりと、けれど嫌味のない口調で言い切られた。
「……リュシエラさんは、
私に話しかけて、大丈夫なのですか?」
「えっ? なんで?」
ちらりと周囲を見渡してから、すぐに納得したように頷く。
「ああ、そういうこと」
リュシエラは一度だけ肩をすくめ、あっさりと言った。
「ぶっちゃけ、私も除け者なの。だから大丈夫よ」
その声には、慰めるような湿り気はない。
「男爵令嬢ごときが、学級委員長を務めるのが気に食わないみたいなの。ほんと、器が知れるわよねぇ?」
からりと笑うその表情に、卑屈さは微塵もなかった。
「だからこれは、哀れみでも、馴れ合いでもないわ」
リュシエラは、まっすぐにシスルを見る。
「――“同盟”よ」
……少なくとも、シスルが想定していた学園生活とは、
少し違うものになりそうだ。




