鏡に映り込む世界で 1
「お呼びと伺い、参じました。伯爵様」
父親の命令で女装令嬢として社交界にデビューすることになったシスル。完璧な所作と容姿で臨むのはシスルにとって晴れの舞台か、それともーー
滑稽な舞台の幕が上がった。
城で開かれる夜会――
それが、彼女。シスルの社交界デビューである。
無数の燭台が並び、天井の豪奢な装飾を鮮やかに照らし出していた。楽団が音楽を奏で、香水と、飾り立てられた花の香りが、広いホールを満たしている。
光で、むせ返りそうになる。
伯爵にエスコートされながら、シスルはホールへと足を踏み出した。
――病弱で内向的、社交に不慣れな少女。
それでいて、慎ましく、美しい。
そう在るべき役柄を、彼女は正確に演じる。
シスルは静かに微笑んだ。視線を伏せ、背筋を伸ばし、呼吸の深さまで計算する。美しい旋律を奏でる楽譜をなぞるように、正確に、澱みなく、完璧に。
ほんの一瞬でも綻べば、それは文字通り、命取りだ。
ホールに足を踏み入れた、その瞬間。
視線が、一点に集中した。
誰もが足を止め、息を呑む。
それほどまでに、美しく完成された少女が、そこにいた。
淡い空色のドレスは、露出を控えたつくりだ。飾り襟と繊細なレースが首元から鎖骨にかけてを彩り、細い腰から裾へと広がるスカートは、背後にわずかなボリュームを持たせながらも、全体として装飾は慎ましい。華奢な身体の線を、かえって際立たせていた。
「シスル。皆様にご挨拶を」
物珍しい夜の花に惹かれて集まった人々を前に、伯爵が静かに告げる。
「シルヴェスター伯爵家が次女、シスルでございます。皆様、お見知りおきくださいませ」
顎をわずかに引き、カーテシーをとる。
完璧な角度、完璧な間。教え込まれた所作を、そのままなぞって。
恥じらうように一度伯爵へ視線を戻すと、彼は満足げに頷いた。
――さあ。踊りましょう。
与えられた舞台で、私の役を。
「良い夜ですね、伯爵。
こんなにも美しいお嬢さんがいらっしゃったとは、私は今日まで存じ上げませんでしたよ」
「生まれつき身体が弱くてね。長らく領地で静養させていたのだよ」
「ご挨拶が遅くなり申し訳ありません、子爵様。至らぬ点がありましたら、どうかご容赦くださいな」
貴族たちは伯爵に声をかけていく。
その合間に、品定めするような視線が、シスルの頭からつま先までをなぞった。
そんな不躾な視線にも微動だにせず、彼女は微笑み続ける。
次々と入れ替わる人々の中で――
ただひとり、シスルに直接声をかける男がいた。
「こうしてお会いするのは、久しぶりですね」
淡く輝く白金色の髪を後ろで束ね、品の良い薄鈍色の礼服に身を包んだ美青年。千草色の瞳が柔らかく細められ、低く穏やかな声音が、耳に心地よく届く。
――知らない。はずだ。けれど、否定もできない。
シスルは静かに微笑み返した。
その隣で、伯爵がわずかに眉をひそめる。
「エルヴェイン卿。
王の客分である貴方がこのような場にいらっしゃるとは、珍しい」
「今宵は、珍しい花が見られると、風の噂で耳にしたものでね」
紹介を受けてもなお、エルヴェイン卿は周囲へ軽く一礼しただけだった。社交に慣れた所作ではあるが、この場そのものには、さほど興味がないようにも見える。
「王の客分、とは言え……」
伯爵が探るように言葉を継ぐ。
「随分と長く、この国に滞在しておられると聞く」
「ええ。帰る理由が見当たらなくて」
冗談めいた口調で返されるその言葉は、どこか現実味を欠いていた。
そんなやり取りの中、シスルは、彼の横顔から目を離せずにいた。白金の髪も、薄鈍色の礼服も、この場に溶け込むには、あまりに整いすぎている。
――この男は、本当に“招かれた”客なのだろうか。
「陛下も、ずいぶんと寛大だ」
伯爵の声が、わずかに低くなる。
「素性の知れぬ者を、これほど長く客分として遇するとは」
その言葉に、エルヴェイン卿はほんの一瞬だけ目を細めた。
警戒とも、あるいはこのやり取り自体を楽しんでいるとも取れる、曖昧な表情。
「ええ。陛下の寛大さには、とても感謝しています」
そう言って、視線がゆっくりとシスルへ移る。
「こうして、美しい花に、再び巡り会えたのですから」
ふわりと微笑み、ためらいのない仕草で手を差し出す。
「シスル嬢。
初めてのダンスのお相手をつとめる栄誉を、私に与えてくださいますか?」
差し出されたその手を前に、シスルは、ほんの一瞬だけ躊躇した。
――知っている。この男を。
王の客分で、社交界でも一目置かれている美丈夫。
そして、昔の私を知っている存在。
――落とし込め。
鏡に映る、彼女の中に。
「ええ。もちろん、喜んで。
お父様、構いませんわよね?」
憧れの貴公子に胸を弾ませる乙女のように。
無邪気に、愛らしく――あどけなく。
「……もちろんだとも。踊って来なさい」
伯爵の言葉を背に、シスルは一歩前へ出た。
エルヴェイン卿の手を取り、ホールの中心へと歩み出す。
指先に触れる温度は、暖かくも、冷たくもない。
彼は何も語らず、ただ優しく微笑んでいた。
――彼は、何を考えているのだろう。
楽団が、次の曲へ移る。
シスルは息を整え、彼を見上げた。
人々のざわめきが、波の音のように遠のいていく。
視線も、眩い燭台の灯りさえも、すべてが押し流され――伯爵の存在さえ、今この瞬間だけは意識の外へ追いやられた。
「……ずいぶん、綺麗になったね」
「え?」
懐かしい、その名を呼ばれたことに気づくよりも先に、曲が始まる。
貴公子は優雅に、そして完璧に、初々しい少女を導いた。
軽やかなステップとともに、空色のドレスが艶やかに揺れる。
そのとき、視界の端に煌めくものが映り込んだ。
「まぁ、綺麗! 魔法かしら?」
貴婦人の感嘆の声とともに、ホールの天井から光る木葉が舞い落ちる。燭台の光と溶け合い、幻想的な情景を描き出していった。
木葉の舞うホールで踊る、色とりどりのドレス。
それはまるで、風に揺れ、踊る花々のようだった。
「一体、どなたが?」
「ホール全体に展開するとは……」
「国王主催の夜会で、このようなことが許されるのは――」
大広間全体を覆う大掛かりな魔法に、驚嘆と非難の視線が交錯する。
それでもなお、すべての視線は、ホールの中心へ集まっていた。
「エルヴェイン様――」
「どうか、ベリルと。シスル嬢」
「ベリル様。これは……ベリル様が?」
ベリルの千草色の瞳が、いっそう細められる。
「お気に召して、いただけましたか?」
「……とても。ベリル様は、魔法がお上手なのですね」
曲が終わり、シスルはベリルにエスコートされながら伯爵のもとへ戻った。
ふと、探るような伯爵の視線と目が合う。
その間に入るように、ベリルが一礼する。
「とても楽しい時間でした」
「こちらこそ、夢のような時間でしたわ」
伯爵は一度、咳払いをして二人の言葉を切った。
「エルヴェイン卿は、随分と大胆なお方のようだ」
「少々、張り切ってしまいました」
穏やかな笑みを浮かべたまま、ベリルは言う。
「シスル嬢のデビュタントのお祝いに。
心ばかりの贈り物です」
伯爵は一瞬だけ目を細めた。しかし、すぐに何事もなかったかのように表情を整える。
「娘を、そこまで気にかけてくださるとは。光栄です」
「とても愛らしいお嬢さんですからね。
紳士であれば、皆、同じようにするでしょう」
あれだけのことをしておいて、ベリルはさも当然のように言ってのける。
伯爵はわずかに眉を寄せ――すぐに皮肉めいた笑みに変えた。
「さすがは“紳士の鏡”と評されるお方だ」
ベリルは胸に手を当て、恭しく一礼する。
それを見た伯爵は、今度は盛大に眉をひそめた。




