森からの来訪者
「お前の社交界デビューが決まった」
父親の命令で女装令嬢として社交界デビューをはたし、魔法学園に通うシスル。
偽りの自分を演じながら、青春は過ごせるのかーー
「現在のシルサール王国の成立は、建国神話にその端を発します」
グレイ先生は黒板に年号を書きつけながら、静かに語る。
「人間の王と緑の森の妖精王は、北方より侵攻した魔物の軍勢に対抗するため同盟を結びました。両者は共同戦線を張り、これを退けたと伝えられています」
教室は静まり返っている。
「戦後、人間の王は森の近くに国を開き、森を他国の干渉から守ることを約しました。対して妖精王は、森の恵み――すなわち肥沃な土壌と豊かな水脈を、人間の国へ分け与えると誓ったのです」
黒板に記される文字。
同盟。相互不可侵。恩恵の共有。
「この盟約により成立したのが、現在のシルサール王国です。以後、王国は農業と水利において他国を凌ぐ発展を遂げました」
一拍置いて、先生は続ける。
「ただし、初代国王の崩御後、緑の森は外界との接触を大幅に制限しました。森との交流は、現在に至るまで極めて限定的です」
そこまで述べると、チョークが止まる。
「――もっとも、盟約そのものは今も有効とされていますが」
教室に、わずかなざわめきが走る。
森は閉ざされている。
それでも盟約は続いているという、どこか曖昧な関係。
シスルは無意識に視線を窓際へ流した。
エラルドは、ただ静かに話を聞いていた。
背筋を伸ばし、視線は黒板へ。表情は変わらない。
頷きも、驚きもない。
まるで――
すでに知っていることを、改めて確認しているだけのように。
チョークの音が、再び教室に響く。
「現国王陛下は、緑の森との交易再開をお考えです」
グレイ先生の声は、あくまで淡々としている。
「両国の交流を深めるため、その一環として留学生を受け入れることとなりました。エラルド君は、その代表です」
教室が小さくどよめく。
「え、森から?」「本当に?」と、抑えきれない囁き。
エラルドは立ち上がり、軽く一礼した。
「微力ながら、学ばせていただきます」
声音は穏やかで、先ほどと変わらない。
その横顔は静かで、感情は読み取れない。
——交流の再開。
それは喜ばしいことのはずだ。けれど。
政治は、いつだって単純ではない。
チョークが黒板を叩く。
「静かに。授業を続けますよ」
ざわめきはゆっくりと収まり、再び教室は日常へと戻っていった。
「緑の森から来たって本当?」
抑えきれない好奇心そのままに、生徒たちがエラルドを取り囲む。
「エルドアの森だね。そうだよ」
屈託のない返事。
「じゃあエルフってことでしょう?」
その問いに、教室の空気がほんの少しだけ張りつめる。
エラルドは瞬きを一つしてから、ふわりと笑った。
「どう思う?」
からかうようでもなく、否定も肯定もしない声音。
「えー、ずるい!」
「でも髪の色とか、それっぽいよね」
「耳は? 耳!」
無遠慮な視線が集まる。
エラルドは肩をすくめた。
「森の者、ということで」
やんわりとした答え。それ以上は語らない。
けれど拒絶もしていない。
その曖昧さが、かえって想像をかき立てる。
「やっぱり本物なんだ……」
「すごい……」
興奮気味の囁きが広がる。
少し離れた席で、シスルは静かにその様子を見ていた。
笑顔は柔らかい。立ち居振る舞いも自然。
——けれど。
どこまでが本当なのだろう。
そんな疑問が浮かんだ自分に、シスルは小さく眉を寄せた。疑う理由など、何もないはずなのに。
「一躍人気者ね」
リュシエラは頬杖をつきながら、少しだけ唇を尖らせた。
「珍しいものね。森からの留学生なんて」
「……そうですね」
シスルは視線を落とす。
笑い声が、まだ教室の中央で弾んでいる。
「でも彼、ただ者じゃないわね」
リュシエラは小声で続けた。
「立ち振る舞いから気品が違うもの」
ふっと視線を流す。
「あなたも、そう思ったでしょう?」
シスルは一瞬、言葉を失う。
「……以前一度会ったことがある気がするんです」
静かにそう答える。
「本当に? どこで?」
リュシエラの声は好奇心に満ちている。
「……夜会、かもしれません」
曖昧な答え。確信はない。
「森の方が王都の夜会に?」
リュシエラが小さく首を傾げる。
「交流が制限されているはずでしょう?」
「……ええ」
だからこそ、おかしい。
しかし、言葉にはしない。
そのとき。
ふと、視線がこちらへ向いた。
人波の向こう。
エラルドの瞳が、一瞬だけ、まっすぐに。
すぐに別の生徒へと向けられたけれど。
胸の奥が、かすかに揺れる。
——気のせいだ。たぶん。
「まあ、似た顔なんていくらでもいるわ」
リュシエラはあっさりと言って、肩をすくめた。
「それに、森の方って皆きれいなんでしょう?
見分けがつかなくなりそう」
冗談めかして笑う。シスルも小さく相槌を打った。
「……そうかもしれません」
そう、かもしれない。血縁なら尚更。
人波の向こうで、また笑い声が上がる。
エラルドは誰かの問いに丁寧に答えている。
自然で、穏やかで、隙がない。
ざわめきがひと段落した頃。
「少し、よろしいかな」
柔らかな声が、すぐ傍で落ちた。
顔を上げると、側にエラルドが立っている。
近くで見ると、白金の髪は光を含んで淡く透けるようだった。
「エラルド・エルヴェインです。改めて、ご挨拶を」
丁寧に一礼する。
その所作は、先ほどと同じく隙がない。
「シスル・シルヴェスターです」
名を告げ、同じように礼を返す。
「先ほどは、授業中に視線が合ったような気がして」
ふわりと微笑む。
「ご不快でしたら、失礼を」
思いがけない言葉に、シスルは瞬きをした。
「いえ……そのようなことは」
むしろ、こちらが見ていたのだ。
「同じ編入生同士、仲良くしていただけると嬉しい」
穏やかな声音。
だが、“同じ”という言葉が、妙に引っかかる。
彼は王の意向で来た留学生。
自分は——。
「……こちらこそ」
短く答えると、エラルドは満足そうに頷いた。
「では、これからよろしく」
それだけ告げて、すっと身を引く。
取り囲まれていたときよりも、静かな背中。
「……感じのいい方ね」
隣でリュシエラが小声で囁く。
「ええ」
素直に、そう思う。
礼儀正しく、言葉も柔らかい。
けれど。
——同じ編入生。
その一言が、胸の奥に小さく引っかかったままだ。
***
一日の授業を終え、シスルは図書室へと足を向けた。
なくなった教科書を探すためだ。
「優等生には図書室がお似合いですわよ」
そんな言葉を、昼休みに耳にしたばかりだ。
あからさまな響きだったが、いちいち気にするほどでもない。
――どうせ、誰かが隠したのだろう。
静かな廊下を抜け、重厚な扉を押す。
紙とインクの匂いが、ひやりと迎えた。
返却棚を一通り確認し、ついでにと魔術関連の書架へ向かう。せっかく来たのだ。無駄にはしたくない。
背表紙を指先でなぞりながら、適当な一冊を抜き取ろうとした、そのとき――
「本が好きなの?」
すぐ背後から、柔らかな声が落ちた。
振り返ると、エラルドが書架の端に寄りかかるように立っている。足音は、聞こえなかった。
「……ええ、まあ」
短く答え、本を胸元に引き寄せる。
「静かですし、落ち着きます」
「なるほど」
小さく頷く仕草も、どこか優雅だ。
「森でも、本をよく読んでいたよ」
さらりと言う。
「僕らには長い時間があるからね」
その言葉が、ほんのわずかに引っかかる。
長い時間。
冗談のようにも聞こえるが、声音は真面目だった。
「エルドアの森では、どのような書物を?」
問い返すと、彼は少しだけ目を細める。
「歴史書が多いかな。忘れないために」
その答えは、曖昧でいて意味深だ。
図書室は静まり返っている。
窓から差す夕暮れの光が、二人の間に細い線を落とした。
「シスルは、何を探していたの?」
自然な問い。
だが、視線はまっすぐだ。
素直に答えるべきだろうか。
わずかに迷いが生まれた、そのとき。
すっと手が伸びる。
彼の指先が、書架の一角に触れた。
「これ、君のだよね」
抜き取られたのは、見覚えのある一冊。
淡い色の革表紙の端に、小さく刻んだ自分の印。
なくなっていた教科書だった。
「……どうして、私のものだと?」
思わず問いが零れる。
「魔力の残り香……とでも言うのかな」
言葉を選ぶように、少しだけ間が置かれる。
「見えるんだよ、僕たちには」
それ以上、彼は語らなかった。
「返却棚に紛れていたから、気になって」
穏やかな声音。差し出される本。
その仕草はあくまで自然で、押しつけがましさはない。
「……ありがとうございます」
受け取ると、エラルドは小さく微笑んだ。
「困りごとがあれば、遠慮なく」
その言葉は柔らかい。
だが、どこか距離を測るようでもあった。
夕暮れの光が、白金の髪を淡く縁取る。
静まり返った図書室で、ページをめくる音だけが遠く響いていた。




