変化の兆し
父親の命令で女装令嬢として魔法学園に通うシスル。
彼女の日常にも変化の兆しが…?
中等部教練棟の中庭。朝露を含んだ空気のなか、噴水を覗き込む人影がひとつあった。少女は透き通る水底に指を差し入れ、何かを拾い上げる。
「……こんなところで、朝から何をしている?」
不意に背後から声が落ちた。
びくりと、肩が跳ねる。
「ギルフェルド様。おはようございます」
「貞淑なシスル嬢にしては、ずいぶん珍しい光景だな」
シスルは居住まいを正し、静かにギルフェルドを見上げた。
「筆記用具が、噴水に落ちてしまいましたの」
事実だけを述べる、整えられた声音。
——実際のところは、誰かに投げ込まれたのだが。
けれど、そんなことは今はどうでもよい。
シスルはつまらなそうに視線を落とし、再び水へと手を伸ばした。その手首を、不意に掴まれる。
「冷たいだろう」
低い声が、すぐ傍で落ちた。
「……平気ですわ」
「平気かどうかは、俺が決める」
そう言って、ギルフェルドは自分の制服の上着を脱ぐと、噴水の縁に無造作に膝をついた。
「どれだ」
彼は水中に手を差し入れ、沈んでいた筆記用具をすべて拾い上げる。
「"水よ、集まれ"」
短い詠唱。
そっと触れられた指先に、ひやりとした感触が残る。
次の瞬間、シスルの右手と文房具から水気がほどけるように離れ、糸を引くようにギルフェルドの指先へと吸い寄せられていった。
しずくが弾け、朝の光を受けてきらりと瞬く。
やがて、何事もなかったかのように、シスルの手も筆記用具も乾いた姿に戻っていた。
目の前の光景に、シスルは大きく瞬きをする。
——緻密な魔力制御。
ほんのわずかな揺らぎもない。これほど滑らかな水操作は、そうそう見られるものではない。
驚きのまま、声が弾む。
「素晴らしい魔力制御ですね!」
「……君もはしゃぐことがあるんだな」
低く笑う気配。
視線が、まっすぐに落ちてくる。
「そっちの顔の方がいい」
その言葉に、シスルははっとする。
——どんな顔を、していたのだろうか。
頬が、ほんの少しだけ熱い。
「……淑女としてあるまじき行いでした」
「なぜそうなる」
くすりともせず、ギルフェルドは即座に返した。
「普段の君は人形のようだと、アナスタシアも言っていた」
その言葉に、シスルの睫毛がわずかに揺れる。
「そんな君が楽しそうにしているのは、悪いことか?」
シスルは言葉に詰まった。
「ですが……はしたないと」
「誰が決めた」
低い声が、やわらかく遮る。
二人の距離が、わずかに詰められる。
「少なくとも、俺は嫌いじゃない」
「えっと……」
何か返さなければと思うのに、うまく言葉が見つからない。そのとき、校舎の方から予鈴が響いた。
はっとして顔を上げる。
「さぁ、もう行くといい。遅刻するぞ」
ギルフェルドはそう言って話を切り上げると、そっとシスルの背に手を添えた。
触れたのは一瞬。
シスルは促されるまま歩き出し、やがて小さく振り返った。
彼はまだ、噴水の傍に立っている。その視線が自分を追っていることに気づいたが、何も言えないまま、シスルは教室へと向かった。
***
「今朝は随分とぎりぎりだったのね、シスル」
教室に入ると、リュシエラが自分の隣を指して手招きする。シスルはいつものように静かにその隣へ腰掛けた。
「ちょっと寝坊してしまって」
そう答えながら、無意識に右手を握り込む。
「あら、珍しいわね。いつも早いのに」
——少なくとも、俺は嫌いじゃない。
胸の奥が、まだほんのりとあたたかい。
——初めて言われた。僕自身へ向けられた言葉。
家の名でも、淑女としてでもなく。
ただ、今の僕を見て。
なんだか、とてもむずがゆい。
「そんなことより! ねぇ聞いた?」
リュシエラが身を乗り出す。
「また編入生が来るんですって!」
「……こんな時期にですか?」
シスルもまた、中等部の半ばという異例の時期に編入してきた身だ。それが続くとなると、偶然とは思いにくい。
——誰かの思惑か。
「なんでも隣国の貴族らしいわよ」
「皆さん揃っていますね?
それでは今日は編入生を紹介します」
グレイ先生の言葉とともに、教室の扉が静かに開いた。
入ってきたのは、淡く輝く白金色の髪を片側で束ねた美少年。制服をきちんと着こなしながらも、その佇まいはどこか場慣れしている。
千草色の瞳はまだ幼さを残し、柔らかく細められると、あどけなさがいっそう際立った。
教室の空気が、わずかに揺れる。
どこかで見たことがあるような気がして、シスルはわずかに眉を寄せた。
「初めまして。エラルド・エルヴェインです。
今後ともよろしく」
透き通るような声が、静かに教室へ広がる。
その視線が一瞬、まっすぐシスルに向いた気がした。
——エルヴェイン?
聞き覚えのある名だ。
——ベリル卿の縁者だろうか。
そう思った瞬間。ふと、既視感の正体に触れかける
——あの夜会で見た、あの人の……
彼は丁寧に一礼する。
その所作は、年若い少年にしてはあまりにも隙がなかった。だが次の瞬間、あどけない笑みが浮かぶ。
——気のせい、か。
そう結論づけながらも、視線は彼を追ってしまう。
ふと、目が合った気がした。
千草色の瞳が、こちらを見ている。
次の瞬間には、彼は穏やかに微笑み、こちらへ軽く会釈した。
「エラルド君はそうね…あそこに座ってくれる?」
グレイ先生が教室の後方を指し示す。
エラルドはもう一度丁寧に礼をして、指定された席へと向かった。歩き方も、背筋の伸びも、どこか無駄がない。
けれど座った瞬間、隣の生徒に柔らかく声をかけられ、年相応に照れたように笑う。それだけで、教室の空気はすぐに和らいだ。
シスルはそっと視線を前に戻す。
——やはり、気のせいだ。
そう思いながらも、なぜか背中のあたりが落ち着かない。
ほどなくして、始業の鐘が鳴った。
魔術の詠唱には必ず呼格がつきます。
命令文としてより明確なほど、複雑に構成された魔術式となり、発動するのに必要な魔力が減少する代わりに、詠唱時間が長くなるのです。




