その花の名前を知る人は
主人公シスルが女装令嬢となって、偽りの自分を演じながらも、自身の本音を探す物語が始まります。
流されながらも自分を持って立つ彼に、本当の幸せはあるのでしょうか。
「お呼びと伺い、参じました。伯爵様」
「入りなさい」
執務室の扉を開けると、窓際の書斎机に向かい、伯爵は紙束に視線を落としたままだった。こちらを一瞥する気配すらない。
「お前の社交界デビューが決まった」
感情の起伏を感じさせない声だった。
灰色の瞳が、僕を見ることはない。
「お前は、アナスタシアの妹としてデビューさせる」
「はい」
アナスタシアは、歳の一つ離れた姉だ。
気位の高い彼女とは、屋敷で暮らすようになってからも、ほとんど顔を合わせたことがない。たまに廊下ですれ違えば、鋭い視線を向けられ、無言のまま通り過ぎていく。それだけだった。
「病弱ゆえにデビューが遅れた、という体裁にする。そのつもりでいろ。名前は……そうだな」
「シスル、としてください」
僕の言葉に、伯爵は初めて視線を上げた。
「……ほう?」
屋敷に来てから、初めて目が合った。
灰色の瞳が、理由を求めるように、無言でこちらを射抜いてくる。
「母の、好きだった花の名前です」
嘘だった。
今世において、母親の記憶など欠片もない。名も、顔も、何ひとつ知らない。
それは、夢の中の彼女が好んでいた花の名のひとつであり、その響きだけが、不思議と記憶に残っていたものだ。きっと、この世界には存在しない花なのだろう。
「そうか」
伯爵が返した言葉は、それだけだった。
彼もまた、僕の母親について多くを知っているわけではないのかもしれない。
――これが、僕に与えられた役柄の始まりだった。
シスル・シルヴェスター。
念願叶って社交界にデビューを果たすことになった、十六歳の少女である。
***
僕は物心ついてまもない頃、屋敷の地下牢とも呼べる場所で暮らしていた。話し相手は、時折現れる耳の長い男だけ。彼は僕に文字を教え、言葉を教えてくれた。
そのような環境でも耐えられたのは、繰り返し見る奇妙な夢の存在が大きい。
夢は、彼女の視点で進んでいく。
その感覚はあまりに自然で、目覚めるたび、現実との境界が曖昧になった。
いつしか僕は、それらの夢が、僕自身の前世の記憶なのではないかと考えるようになっていた。
僕が十一、二歳の頃、それまで僕に関心を示さなかった父親が、突然地下室を訪れた。そして、僕の「利用価値」を見つけたのだと言った。
その日以来、僕は屋敷でドレスを着て過ごし、礼儀作法を学び、勉学にも励んできた。
数年を経て、ようやく父である伯爵に認められ、初めて外の世界に立つことを許されたのである。
シスルとなってから、ひと月。
明日はいよいよ、社交界デビューの日を迎える。
自室の大きな鏡の前には、質素なドレスに身を包み、髪を緩く片側でまとめた少女が立っていた。陶器のように白い肌。濡れた鴉の羽のように艶を帯びた黒髪。影を落とす長い睫毛に縁取られた瞳は、紫色をしている。
ただ、その顔に表情はない。
鏡に映る自分自身を、静かに見つめているだけだった。
「大丈夫よ、シスル。貴女は、ちゃんと出来ているわ」
鏡の中の少女が、口を開く。
落ち着いた声音は、年端もいかぬ少女には不釣り合いなほどだ。
けれどその姿は、誰が見ても“そうあるべき少女”として、完璧に整えられていた。
「相変わらず、姿見以外は何もない部屋ね」
ノックもなく扉が開き、アナスタシアが入ってくる。
艶やかに波打つ亜麻色の髪を高く結い上げ、気の強さを隠そうともしない灰色の瞳。長い睫毛が、その眼差しにより迫力を与えていた。
「アナスタシア様、私に何か御用ですか?」
鏡の中の少女が、柔らかく微笑む。
先ほどよりわずかに甘さを帯びた声色は、年相応の愛らしさをきちんと演出していた。
「――お姉様、よ。忘れたの?」
「はい。お姉様」
「ふん。お父様の言いつけでなければ、お前に姉だなんて呼ばせないわ」
アナスタシアは女性にしては背が高い。
男であるとはいえ、まだ背の伸びきらぬシスルよりも、さらに高いヒールを履いて立つ彼女は、鋭い眼差しでシスルを見下ろしてくる。
「お父様がお呼びよ。明日のデビュタントについて、お話があるのでしょう」
「承知しました」
つん、と顎を上げて、アナスタシアは部屋を出ていった。
シスルは、ふと鏡へ視線を戻す。
そこには、無表情の少女がこちらを見つめ返していた。感情の読めない、よく出来た人形のような顔。
姉に続いて廊下へ出ると、静かに自室の扉を閉める。柔らかな絨毯が足音を吸い込み、廊下は静まり返っていた。窓の外には青白い月が浮かび、屋敷の裏手に広がる森では、木々がざあざあと葉を揺らしている。
執務室の前で足を止める。
扉の向こうから、紙を繰るかすかな音が聞こえた。
アナスタシアがゆっくりと扉をノックする。
「お父様、連れてきました」
「入りなさい」
扉を開け、姉に続いて部屋へ入る。
伯爵は以前と変わらず、紙束に視線を落としたままだった。
「お呼びと伺い、参じました。お父様」
形式ばった挨拶を口にし、一礼する。
伯爵はようやく顔を上げ、アナスタシアに向かって告げた。
「お前は下がりなさい」
姉が舌打ちを堪えるように踵を返すのを見届けてから、伯爵はシスルを一瞥する。
「準備はできた様だな」
「はい。お父様」
「明日の夜会は、規模こそ小さいが、王族主催の夜会だ。第二王子も出席される」
再び視線を手もとに戻し、伯爵はこともなげに言った。
この国の第二王子。
学問に秀で、剣の腕も悪くはないが、兄である王太子には及ばない――若いメイドたちが、そんな噂話をしていた人物だ。
「第二王子殿下の気を、引けばよろしいのですか」
あえてこちらに口に出させるのが、伯爵のやり方だ。
だから僕は、考え得る命令を、そのまま言葉にした。
「いいや」
間を置かず、答えが返ってくる。
「第二王子には近づくな」
そう言ってから、伯爵は一瞬だけ視線を上げた。
灰色の瞳が、値踏みするようにこちらに留まる。
「有力貴族達の相手をしておけ」
「承知しました」
シスルは表情を変えることなく応えた。
***
――私は、あの子が嫌いだ。
お母様を死に追いやったことも理由のひとつ。
けれど、それ以上に――あの人形のような瞳が、どうしても受けつけない。
あの子は体が弱く、ずっと領地で療養していた。
愛人だった母親が死に、引き取ったのだと聞かされている。
お母様は、その存在に耐えられなかった。
心を病み、やがて命を絶った。
母が生前、うわ言のように憎悪を吐き出していた女。その子供だと思うと、憎くはある。私と違い、何の義務も課せられず、領地で穏やかに暮らしていたと思えば、なおさらだ。
今日も、扉を開ければ、鏡の前に表情の抜け落ちたあの子が立っている。
整った顔立ちと、物静かな仕草。――見目は確かに美しい。
けれど、あの瞳がこちらを映すたび、胸の奥に、言葉にならない違和感が澱となって沈んでいく。
お父様の言いつけで、あの子を連れて執務室へ入った。
お父様は私を見ることもなく、すぐに部屋を出ろと言った。
扉を閉める直前、ふと目に入った光景。
あの子を見るお父様の瞳は――
いつも私に向けられるそれとは異なり、鏡の前のあの子の瞳と、よく似ていた。
あぁ。
あの子もまた、私と似た苦しみの中にいるのだ。
貴族階級の娘に生まれ、家を継げず、家のために生きることを義務づけられた私と。
そう思うと、胸の奥に澱んでいたものが、ほんの少しだけ溶けた気がした。




