第2章
とはいえ、僕は祥子のことを一度として恨んだりしたことはなかったし、彼女が今どこで何をしているにせよ、結婚していてもしていなくても、子供がいようといまいと、とにかく彼女が幸福であればいい、僕はそう思っている。おそらく男の大多数は、初めてつきあった女性に対して十年くらいあとに同じ感想を持つものなのではないだろうか――女の人は初めてつきあった男に対してどう思うものなのか、僕にはちょっとわからないけれど。
この頃の僕はとにかく、職場でも穴があったら入りたいような思いをしていたので――というのも、三階の従業員のみんなに結婚することを話してしまったあとだったから――リョウがいなくなったことに対するつまさなさや寂しさ、仕事のやりがいのなさなどが手伝って、デコラデパートを辞めようかと本気で悩んでいたりした。僕はそのこともメールでリョウに相談していたが、彼は「もしやめるなら、七十五日後にしろ」とリターンメールを送って寄こしたのだった。「つまらない人の噂話など気にするな。おまえが人間として本当にいい奴で、相手の女のほうがどうかしていたに違いないということは、職場の人間の誰しもがわかっていることなのだから」と。
そして僕はリョウの言ったとおりにし、結局この時はデコラデパートを辞めることを思い留まることにした。思い返してみると、僕はこの時期、至急返信を要するといったようなメールを毎晩のようにリョウに向けて送信し、夜中の二時とか三時くらいまでパソコンに向きあっていたことがざらにあった。メールの内容は主に僕の人生相談のようなもので、僕は職場で起こった些細なことまでリョウに報告し、また祥子のことでは随分愚痴めいたことをそれこそ愚痴愚痴と書き連ねていたような気がする。
リョウは僕の極粒単位の悩みに対してまで色々と適切なアドバイスをしてくれ、彼のそうした返答はいつも簡潔で的を得ており、スマートである場合が実に多かった。
僕はある時、自分の悩み事がある程度解決をみて一段落した時に、いつも僕のほうが相談事を持ちかけてばかりいるけれど、リョウには人に相談したいような悩み事はないのか、と尋ねたことがある。彼は簡潔に<ない>と即座に書き送ってきたけれど――でも、本当はそうではなかったのだ。
リョウにはリョウの、彼の魂に深く根差した解決不能にすら思われる<至高の苦悩>があり、その懊脳は簡単に人に打ち明けられる類のものではなかったのだ、おそらくは。それで彼は自分には今のところ京介のような悩み事はない、とそう書き送ってきたのだと思う。そうじゃなかったら、一体誰がある日突然自殺したりなんかするだろう?
リョウが阿寒町管内にある人里離れた山奥で自殺したらしいと僕が南山マネージャーから聞いたのは、僕が彼と離れて二年半近くが経過した、七月十七日のことだった。遺体は仁々志別川上流に釣りに来ていた男性が発見、鑑識の結果、死後二週間以上が経過しているものと思われる……と、新聞には報じられていた。無残な死だった。
僕は九月頃にまとまった夏期休暇がとれそうなので、リョウがもう二年半近くも暮らしいている釧路へ、一度遊びにいきたいと思う、と手紙に書いて送ったばかりだった。リョウから返答はなかったが、僕は六月の初旬頃に彼からパソコンの調子があまり思わしくないので、買い換えようと思っている、それで暫くの間はメール交換ができない、と言われていたので、それほど不思議にも思っていなかったのだ。それにこの頃にはもう、僕が祥子と別れたばかりの頃のような頻繁なメールのやりとりはなくなっていたので、便りがないのは良い便り、といったような空気がお互いの間にあったことも確かだった。
けれども僕は、リョウの死があまりにもショックで、暫くの間はあらゆることにおいて自分のことを責めた。心の中で何度も何度もリョウと対話を重ね、「何故なんだ、何故、何故」と闇の中の彼に向かって叫び続けた。
リョウの両親は釧路警察署の遺体安置室にまで彼の遺体を引きとりにいき、以前は息子だった変わり果てた亡骸を札幌へと連れ帰り、しめやかに身内の者たちだけで葬儀を執り行なったという。そして僕もリョウの思い出話をするために、その一週間後、リョウの真駒内にある実家を訪れたが、僕はリョウの位牌を目の前にしても、彼が死んだなどとは、到底実感として信じられなかった。
南区真駒内の瀟灑な高級住宅地が立ち並ぶ一角にリョウの生家はあり、僕が地図を片手にゆるやかな坂道のカーブを上りきり、二-三、菊池、二-四、森永……なんてやっていると、角地にある赤い瓦屋根の家がどうやらそうらしいということがわかった。そして僕がいざインターホンをと思っていると、不意に髪の毛を金茶に染めた男が、スケートボードを片手に玄関から出てきたのだった。
リョウはデパートに勤めるようになってからひとり暮らしを始めていたので、実は僕がリョウの実家を尋ねたのは、その時が初めてだったのだ。
「ウチになんか用?」耳にピアスをしたその男は、サングラス越しにそう言った。
「ええ。実は僕、良平くんの友達で、今日は彼に線香を上げさせてもらいにきたんです」
するとリョウの兄弟とおぼしきどくろマークのTシャツに破れたジーパン姿のその男は、後ろを振り返るなりこうがなりたてた。
「母さーん!リョウの友達が遊びにきてるぜえ!」
彼は二階のベランダで洗濯物を干している母親に向かって手を振ると、そんじゃ、とサングラスを外して会釈した――思わず僕はスケートボードに乗って走り去る彼の後ろ姿を目で追っていたが、彼は一度もこちらを振り返らずに、そのままゆるやかな下り坂の向こうへと、姿を消してしまった。
「……あら、どうなさったの?」
<西山>と木製の表札のかかった煉瓦塀を背にして、なかなかその場所から僕が動かないのを不審に思ったのだろう、二階のベランダから降りてきたリョウの母親は、気遣わしげ僕の顔を覗きこんでいた。
「……すみません。あんまりリョウに似ていて……びっくりしたんです」
リョウの母親の奏江さんは、頬を濡らしている僕の背中に手をまわすと、とにかく家の中にお上がんなさいと言って、彼女の出てきたサンルームから、居間へと通してくれた。サンルームにはオレンジ色の君子蘭やカランコエ、白や赤のシクラメン、その他ベンジャミンや宝珠やアジアンタムなどの観葉植物が置かれていて、七月下旬の強い陽射しを一身に浴びていた。僕はよく手入れのゆき届いている庭をちらと眺めやり、それから居間を通ってひんやりとする仏壇のある和室へと通された――遺影のリョウは、心持ち微かに笑んでいて、彼がどれほど苦しみ悩んでこの世を去ったのか、見る者に忘れさせてしまうくらいだった。
僕は線香を蝋燭の炎で焚きつけると、彼の位牌に向かって両手を合わせたが、それまで流していた涙が、その瞬間にすっと引いていくのを感じた。
「……いい写真でしょう?」お母さんは静かに語りかけるように言った。「その写真はちょうど去年の夏、リョウが帰ってきた時に拓也が……拓也ってさっきの子なんですけどね、あの子が家の庭先で撮ったものなんですの。なんだったかしら……あれはええと……デジタルカメラとかいうんでしたっけね。あの子がちょうどそのデジカメとかいうのに凝りだして、色々なものを馬鹿みたいに撮っていたうちの一枚なんですの。まさか一年後にこんなふうに遺影として飾られることになるとは、思ってもみませんでしたけど……」
「さっきのって、弟さんですか?」と僕が聞くと、お母さんは首を横に振った。
「いえ、兄なんですの。よく逆に見られがちなんですけどね。リョウは三人兄弟の一番末っ子で、二番目が拓也。一番上の子は結婚してもう家にはおりませんけど、竜一っていいます。竜一と拓也の間には年齢差が四つあるんですけど、拓也と良平は年子でね、本当に仲の良い兄弟でした。実をいうと竜一と拓也は物凄く仲が悪いんですけど、良平はどちらとも仲が良くて……本当に小さい頃からよく気の利く、いい子でした。あの子は昔から黙っていても人の気持ちのわかるようなところがあって、自分がどうすれば家族五人仲良く暮らしていけるのかが、よくわかっていたと思うんですよ。学校の先生も、家での良平はそんな感じだというと、学校でもやはり同じ感じですなあっておっしゃって……」
お母さんはベージュ色のエプロンの裾で目尻の涙を拭くと、ごめんなさいね、と言った。そして居間のソファに座るようにと、立ち上がって僕のことを促したのだった。
リョウのお母さんはお盆にカステラと麦茶をのせて紺色の暖簾をくぐってくると、どうぞ、と言って僕にそれを勧めた。僕とお母さんは深緑色のビロードのような肌触りのソファに向かいあうような形で腰かけると、話を続けた。
「西川さんて、デコラデパートの以前の同僚の方でしたよね?あの子、そういえば言ってましたわ。職場に自分の名前に似た、画数まで一緒の奴がいるって」
お母さんは力をこめずに自然に微笑むと、もう一度どうぞ、と言って僕に麦茶を勧めた。
「本当にねえ……母親のわたしがこんなことを言うのもなんですけど、本当にあの子はいい子でしたよ。それはもうわたしのお腹にいる時から。わたし、一番上の子の時も二番目の子の時も、陣痛に苦しんで苦しんでやっとこ産んだっていう感じだったんですけどね、良平の時には嘘みたいに苦しみませんでしたの。あ、来たな、と思ったらすぐに産まれて……きっとあの子は生まれる前からそういう運命にあったんじゃないかって、そんな気がわたしはこのごろはしているんですよ。自分のことよりも周りの人のことが一番で、母親の苦しむことすら気遣って生まれてきたような子なんですもの。きっとそういう子は神さまがとても大切に思うので、長生きできない運命にあるのだと、このごろやっとそんなふうに思えるようになってきたんです」
僕がよく冷えた麦茶を一口飲むと、お母さんはこちらもどうぞ、と言って抹茶のカステラの乗った小皿を差しだした。
「……リョウは本当に、僕にとっても物凄くいい奴でした。こんなことをいうのは不謹慎かもしれませんが、僕も含めて世の中にはくだらない人間がたくさんいるのに、何故彼のような人が死ななければならなかったのか、僕にはわかりません。僕はパソコンでリョウとこの二年半あまりのうちに、何百回メールのやりとりをしたかわからないくらいなんですが、彼は一度として僕に弱音を吐いたりしたことはなかった。いつも僕がひとりで仕事の愚痴をこぼしたりして、彼は僕のそういう気持ちをとてもよくわかるというような返事をくれるのだけれども、自分からは何ひとつ悩みごとのあるようなそぶりを見せたことがなかった。僕はそのことを四つある年齢差のせいにこれまでしていたんですが、今から考えてみると、リョウは物凄く秘密主義の人だったような気がするんです。彼は一度メールで彼女ができたと書き送ってきたことがあったんですが、詳しいことは問いつめてもあまり教えてはもらえなかった……お母さんはもしかして、リョウから何か聞いてますか?」
「いいえ、何も」とお母さんは弱々しく首を振った。「でも良平は確かに昔からそういう子でしたよ。大学時代にガールフレンドが初めてできた時も、あまり自分からはそういう話をしなくてね、竜一や拓也が根掘り葉掘り色々と聞きたがるものだから、ようやくそれで一言二言彼女について話すっていったような具合で……そういえばおとつい、高校時代のクラスメイトの女の子が、やっぱりあなたみたいにお線香を上げに来ていましたよ。高校の三年間ずっと好きだったんだけど、良平くんは気づいていないみたいだったって、そう言ってね。あの子はどうしてか、小さい頃から女の子にとてもよく好かれる子でした。もともと色白で線が細いほうだから、あんまり男だっていうような圧迫感がないせいだったのかもしれませんね。それに……」
「彼は誰にでも優しかった」僕はお母さんの言葉を先回りしてそう言った。「じゃあお母さんは、リョウが釧路に赴任してからできた彼女のこと、本当に何も御存知じゃないんですか?僕は実をいうと来月の下旬に夏期休暇がとれそうなので、釧路まで行ってリョウの彼女に一目会いたいと、そう思っていたんですが……」
「残念ながら何も」お母さんは丸みを帯びたグラスに両手をそえると、麦茶を丁寧に飲んでいた。
「それに、そのおつきあいしていた女の人と会ってみたところで、良平の死の原因について何かわかるだなんて思わないほうがいいんじゃないでしょうか。もしかしたら良平の死についてその女の人こそ一番わからないと思っているかもしれないし……大学時代におつきあいしていた女の子とも、なんていうか、そんな感じだったんですよ。わたしは良平と相手の女の子を見ていて、友達以上の感情を良平がその子に対して持っていないっていうことが、すぐにわかりましたから。もちろんその女の子はとても可愛らしいお嬢さんでね、良平もまんざらでもないとは思っていたでしょう……でもあの子にはどこか、人間としてというべきか、男としてというべきか、何かが欠けている、何かが足りないというように、わたしは母親として感じ続けてきました。思えばあの子には反抗期というものがなかったんですよ。うちは上のふたりがふたりとも物凄い反抗期にあったことがありますから、良平はこんなことで大丈夫なのかと、わたしと主人はずっと違う意味で心配ではあったんです。でもわたしたちは良平が黙って何も言わないのをいいことに、あの子の反抗期を見逃してしまったんですね、きっと。その報いが最後の最期になってやってきたのかもしれないと、そんなふうにもこのごろは考えるようになりました……」
サンルームにかかっている風鈴が、その時ちりん、と涼やかに鳴った。お母さんは声も立てずに静かにエプロンで頬の涙を拭い、震える指で麦茶のグラスを掴むと、それを一気に飲み干していた――最後にカラン、と氷が鳴り、お母さんはまるでお酒でも注ぐかのように、ポットから麦茶を注ぎたしている。
「本当に、僕はなんていったらいいか……」
僕が気詰まりな沈黙に耐えかねてそう口を開くと、お母さんはか細い声でいいのよ、と優しく言った。
「本当に、いいんです。わたしはあの子から母親として十分にたくさんのものを貰いましたから。これ以上はもう望めないくらい、本当にあの子はわたしたち家族に良くしてくれたんです。わたしはあの子がもうちょっと悪い子だったら、もっと長生きできたんだろうにとも思うのだけど、でもそこがなんといってもあの子の一番いいところだったんですわ。本当にいい人間というのは、悪い人間のふりをしようとしてみたところで、そのふりすらできないものですものね……よく、わかってます……」
風鈴がまたちりん、と鳴り、僕はそろそろ暇を告げることにしようと思った。本当はもっとリョウの話をお母さんの口から色々聞きたいような気もしていたけれど、僕はそれ以上にお母さんの顔を見ているのがつらくてたまらなかった。それでお母さんが引き止めようとするのを何度も丁重にお断りして、サンルームから庭に出、門のところでもう一度、お母さんに深々と一礼したのだった。
僕は真駒内駅から発車した南北線に揺られて、終点の麻生駅まで辿り着くまでの間、リョウが何故あんなふうに死を迎えなくてはならなかったのか、ますますわからなくなっていた。居間のサイドボードの上には、家族五人が庭を背にして笑っている写真が飾られてあったし、お母さんも見るからに目許がリョウにそっくりの、とても感じのいい、品のある、優しそうなお母さんだった……彼には一体何が問題だったというのだろう?あんなにいいお母さんや家族を残して死ななければならないほどの理由が、一体どこにあったというのだ?
澄川――平岸――中島公園――大通り……と、過ぎゆく地下鉄の構内の、毎日変わり映えのしない光景を眺めながら、僕は今ここでもし自分がプラットフォームから飛び降りたとしたらどうなるのだろう、という想像をしてみた。人がひとり死のうと生きようと、運行の正常化が極めて早くスムーズに行われるであろうことは予想に難くない。リョウは多分、最も人に迷惑のかからない方法で死んだつもりだったのだろう。手首を切るか首を吊るか列車にはねられるか、ビルから飛び降りるか、きっとありとあらゆる自殺の手段を頭に思い描いたあとで、最も人に迷惑がかからないと思われる方法を選びとったつもりだったのだろう……そのことを思うと僕は胸が詰まって息苦しくなり、車両の一番隅の席で声を押し殺して泣いた。まわりには大勢の人間が吊り革に掴まっていたが、僕の涙を特別心に留めるような人間もなく、そのことがますます僕をたまらなく惨めな気分にさせたーーもちろん「大丈夫ですか?」と言われてハンカチを差しだされたりしたら、僕は恥かしげもなく大声で泣きわめいてしまいそうなくらいだったから、それはそれで良かったとは思う……僕は親友の死のために少しばかり感傷的になりすぎているということも、自覚してはいるつもりだった。
北二十四条、北三十四条へと向かうにつれて車内にはだんだん人がまばらになってゆき、やがて僕は平常心を取り戻したが、終点の麻生駅で地下鉄を降りた時、汚い音で鼻をかんだ僕をあからさまに蔑視したご婦人がいて、何故かそのことに例えようもない喜びを感じたことを、僕は今もよく覚えている……それが何故だったのかは、うまく言葉で説明することは難しかったけれど。
僕は麻生の大通りに立ち並ぶ商店街の前を歩いてゆき、五叉路から創成川に向かって十分ほど歩いたところにあるアパートに辿り着くと、剥きだしのコンクリートの階段を上って、一番奥の自分の部屋の鍵を開けた。この南向きの部屋は陽当たりが抜群で、大家が他の部屋の住人より二千円高く家賃を徴収していることを僕は知っていたが、敢て抗議するというようなこともなく、越してきて5・5年近くにもなろうとしていた――陽当たりが良くて2LDKで家賃が月四万二千円。僕にはそれで十分なように思われた。
僕はリビングにあるパソコンの前に座ると、これまでリョウとやりとりしたメールのすべてを、もう一度よく読み直してみることにしようと思った。といっても、二・五年分のメールを全て保存してあるというわけではなかったし、特に祥子のことを相談していた頃のメールは、読み返してみる気にもなれないほど恥かしいものが多かったので、僕はそれらをすべて破棄してしまっていた。だから記録として残っている分をすべて、ということではあったのだけれど。
――よう。元気だったか?こちらは相変わらずの冴えない日々だけど、なんとか<九時五時の才能>を活かしてがんばってます。京介はもう当分の間彼女は作らないと思う、と大分前にメールに書いて寄こしていたけれど、俺のほうは作るつもりもなかったのに、彼女ができてしまいました。だから京介にもこれからきっといい人ができるんじゃないかと、俺は本気でそう思っています。
影ながらあなたを応援する腹心の友 西山 良平
――彼女ができたって?マジか(笑)。
相手はどんな女の子?年上か年下か、髪は長いのか短いのか、ブスなのか美人なのか……その他名前、血液型、生年月日、知っていることを至急すべて知らせてよこすべし。
樹々の間からあなたのことをそっと見守る、星明子のような西川京介より
――なんで俺が京介に自分の彼女のことをそこまで教えなきゃならないんだ?まあべつにいいけどさ(笑)。彼女は綾川綾さんといって、自分で「上から読んでも下から読んでもアヤ川アヤ」と言って笑っているような、そんな人です(笑)。飛びきりの美人とは言い難いけれど、俺はどうもなんていうのか、容姿にコンプレックスを持っている女の人が、実は結構好きなのらしい……どうしてかはわからないけれど、どうやら自分の内側にあるコンプレックスと相手の女性の内側にあるコンプレックスが惹きあうためなのらしいということが、先ごろ判明した。だからといって彼女は飛びぬけて太っているというわけでもないし、そんなに特別ひどい顔をしているというわけでもない……もし綾が俺が友達に向けてこんなことを書き送っていると知ったら怒ると思うのでこのくらいにしておくけど、俺が言いたいのはとにかく彼女が俺にとってとびきりのいい女だ、ということです。彼女は相当の変わり者で、よくおかしなことを言うし、何を考えているのかよくわからないところもあるけれど、俺はそういう彼女の存在の性質に惹かれてやまないのだと思います。俺がほんのついきのう、綾の話す言葉を<詩>だというと、彼女は死ぬほど笑いこけていました……そうです。奥様は魔女なのではなく、俺の彼女は詩の言葉で話す彼女なのです。
おつかれサマンサ(←死語) 西山 良平
僕はクリックボタンを二度押してメールの画面を閉じると、文章を打ちこむための画面を開いた。
――詩の言葉で話す彼女
綾川 綾
(推定年齢二十三歳)
血液型 ? 型
誕生日 ? 月 ? 日
(たぶん)釧路市在住
僕がリョウの彼女について知っていることといえば、この程度のことでしかない。リョウは確かメールの中で二三度、今日は綾と阿寒湖畔のほうへドライブをしに行ったとか、別海の山のほうにピクニックをしに行ったとか、そんなようなことを書き送ってはきている。けれども具体的にその時彼女とどんな話をしたのかといったようなことについては、何ひとつ詳しくメールの中で述べてはいなかった。
僕はパソコンの前で腕を組み、深い溜息をひとつ着くと、目を閉じて去年の夏にリョウと会った時のことを思いだそうと努めた。
――去年の夏の八月下旬頃、リョウは夏期休暇を利用して一週間ほど札幌の実家のほうへ帰ってきていた。そして彼は僕のアパートに毎日のように遊びに来、毎晩のようにふたりで夜の街へと繰りだしたのだった。
男同士で何を気持ちの悪いことを、と思う人もあるかもしれないけれど、それは僕とリョウの、ちょっとしたデートのようなものだった。僕たちは男ふたりで恋愛ものの映画を観にいったし(しかもレイトショーの恋愛ドラマ三本立て)、男ふたりでボーリングやビリヤードをやったり、またカラオケではエコーをきかせてふたりではもったりしていた。僕かリョウのどちらか片方が女だとしたら、これは紛れもない純粋なデートだったといって間違いなかっただろう。はっきりいってセックスという肉体交渉がなかっただけなのだから。
メールだとあまり詳しいことまで教えてもらえないので、僕はこの機会をみすみす逃してなるものかとばかりに、リョウに彼の彼女のことを繰り返し質問してばかりいた。綾川綾の年齢を聞いたのもその時だったし、その他血液型や星座などについては、リョウも詳しくは知らなかったのだった。
「そういえば、俺も綾にそんなことを聞いたことはなかったな」とリョウは言った。「確か京介はメールの中で、俺のことを秘密主義に過ぎるとかって書いてたけど、彼女も相当な秘密主義の人でね。俺たちふたりは本当にどこかおかしいんだ。俺もイカレてるし綾もかなりのところイカレきってるから、大した素晴らしいイカレカップルだよ。まあお互いにイカレあってるからつきあってもいるんだろうけどな……」
ススキノの小さな居酒屋の片隅で、酒を飲んだり食事をしたりしている時に、リョウは自分の彼女のことをそう言っていた。少し頭がおかしい、と。
「で、どっちのほうから先に誘ったんだ?リョウはメールでどちらからともなく、なんて書いてたけど、やっぱりきっかけのようなものはあるだろう?食事やデートに誘ったのはどっちが先なんだ?」
「どちらからともなく」リョウは照明の具合によって、琥珀色にもセピア色にも見えるグラスをくゆらせながら言った。「そうだな。俺も往生際が悪いよな。詳しいことを話したくないなら、最初から京介に彼女ができたなんて言わなければよかったんだ。わかったよ。最初から話すよ」
リョウは見るからに気の進まない様子で、アイスペールから氷を二三個グラスの中に運ぶと、角瓶からウィスキーを注いで、それを一息に飲み干していたーー彼の口から綾川綾のことをやっと聞くことができるのだと思った僕は、酒に、というよりは好奇心に酔ってしまいそうなくらいだった。
「まあはっきり言って、誘ったのは俺のほうなんだ……といっても、自分のほうから綾を食事に誘ったことを京介に言いたくなかったわけじゃない。ただ、京介にどこで知りあったのかと聞かれた時、なんて答えたらいいのかわからなかっただけだ。俺はさっき、綾のことを少し頭がおかしいと言ったね……それに俺のほうも頭がイカレてると。一応最初に言っておくと、それは何も言葉のアヤなんてものじゃなくて、本当に彼女は精神病理学的に頭がおかしいということなんだ。そして俺は精神病理学的にはどうやら正常らしいのだが、彼女の頭のおかしさに、どうにも惹かれてやまないところがある……そのうち彼女に感化されて、自分も病気になってしまうんじゃないかというくらいにね」
そう言うとリョウは空になったグラスにウィスキーを注ぎ、呷るようにそれを飲み干していた。大丈夫かな、と僕は思いもしたが、彼が酒に強いということは重々承知していたし、何より話の続きを聞きたくもあったので、止め立てするような野暮なことはしなかった。
「……精神病理学的にっていうと、早い話が精神病っていうことなのか?」
「ああ、そうだ」とリョウはもう0.1リットルも残っていないであろう角瓶を振りながら、幸せそうな笑みを浮かべている。「でも俺は綾のことを愛しているし、彼女がどんな病気であろうとそんなことは少しも構いはしないんだよ。俺は綾のことを愛している。ああ、愛しているとも」
リョウは角瓶の中に残っている僅かばかりの液体を喇叭飲みしていたが、こういう彼を見るのは、僕は初めてだった。
「結婚しようと思ってるのか?」僕がそう聞くと、彼はしようと思っている、と言った。
「俺は綾と結婚できなければ、一生誰とも結婚なんていう愚行を犯したりはしないだろう。京介は前に言ってたよな?運命なんていうものは、所詮まやかしにすぎないんだと。自分は祥子のことを一時期運命の女だと思ってのぼせあがっていたが、しょせんそんなものは運命でもなんでもなかったんだと」「確かにそう言ったな」僕は古傷が疼きだすのを感じながら認めた。
「だけど、俺には綾が運命の女なんだ。これは一時的な感情なんかじゃない。おそろしいことに、俺が今綾に対して抱いている感情は、一生続くものなんだ…… それでいて俺は綾のことをとてつもなく、どうしようもなく愛しているんだ……京介、俺は一体どうしたらいい?おまえはどうするのが一番いいと思う?」
リョウは僕のグレイのシャツに掴みかからんばかりにしてそう凄んだが、結局そのあとすぐに、僕の肩に身をもたせかけて、眠りこんでしまった。
僕はリョウの目が自然に覚めるまでの間、酒の摘みとしてとったツナのサラダや魚料理などをあらかたひとりで平らげーーリョウはどちらかというと酒だけを嗜むのを好む質だったが、僕は彼とは違って摘みがないと酒の進まない質だったのでーーリョウが今話してくれたことと、彼がこれまでにメールで書き送ってくれたことなどを材料に、総合的な判断を導きだそうと努めた。けれども結局僕には何ひとつ答えがわからない、と思った。僕にわかったことはといえば、リョウが今とても苦しい恋をしているらしいということと、彼はどうしたらいいのかと僕に聞きはしたけれど、結局は彼女の何をそんなに悩んでいるのかを打ち明ける気はおそらくないのだろうということだけだった。
僕はその翌日も夜のススキノへとリョウとふたりで繰りだしたが、もう恋人の綾川綾さんについて彼に何か聞こうという気持ちは消えてなくなっていたーーいや、リョウの彼女についてもっと詳しいことを色々と知りたいと思う気持ちはまだ根強くあったのだけれど、リョウから綾さんについて何かを話そうとするまでは、僕のほうから問いただすような真似をするのはもうよそうと思ったのだ。そして僕はその最後の夜、ススキノのタクシー乗場で別れる際に、「来年の夏は僕のほうから釧路へ遊びに行くよ」と彼に言ったのだった。
「その時は必ず綾のことを紹介するよ」リョウは真夏の夜気の中で固く約束してくれた。「たぶん京介と綾はとても気が合うと思うよ。なんていうか、人の体にもしオーラみたいなものがあるとしたら、京介は綾のそれに惹きつけられるんじゃないかと思う……俺とおまえはなんとなく好きになる女の趣味が似てるからな。そういう意味では京介に祥子を紹介したことは失敗だったのかもしれない。まあこんなことを言うのは今さらなことではあるけどな。来年、もし綾に会ったとしたら、親友の彼女に惚れないように気をつけてくれ。じゃあな」
リョウはタクシーに乗りこむと、窓越しにいつまでも手を振っていた……思えば、僕が直接リョウに会って話をしたのは、この夜が最期だった。
その後リョウは、時々メールで彼女と山菜を採りにいっただとか、川に魚釣りをしにいったというようなことをメールに書き送ってはきていたけれど、肝心なことについては何ひとつ詳しいことを教えてはくれなかった。でも僕はもうそれでいい、と思うようになっていた。いくら僕がリョウの親友だからといって、彼が恋人のことを何もかもすべて話すような必要はないし、来年になって直接綾さんに会ってみれば、なんとなくある程度のことはわかるのではないかと、そんな気がしていたからでもある。
この夜、僕は帰りのタクシーの中で、窓ガラスに映るきらびやかなネオンサインと闇のコントラストを眺めながら、ほろ酔い気分を楽しんでいた。そして早く来年の夏が巡ってくればいいのにと、意味もなく指を十二回折って数えたりしていた……僕はその年の秋にも冬にもカレンダーを見上げながら、指を折って彼ともう一度会える時のことを夢見ていたが、実際にその夏が巡ってきた今はこう思う――彼が死ななければならなかった夏など、永遠に来なければ良かったのに、と。




