05.黒騎士ダンテは蘇る①
本日はジャックさんが朝から〈神の塔〉へ出向いているために、ジャックさんと会ってお話しすることができません。何とも張り合いのない一日ではありますが、仕事を疎かにすることはできません。冒険者の皆様を笑顔で送り出し、無事に帰って来たことと依頼の成就を共に喜ぶのが私達の仕事ですから。お座なりな態度で見送って、万一彼等彼女等に何かがあった場合、私は後悔するでしょうから。しかし、そうは言ってもだ。
――羨ましいなあ、アリスさん。
私は〈稀人〉の少女に思いを馳せます。
少しだけ年下の、礼儀正しくて勉強熱心な女の子。
これは嫉妬ではありません。ありませんが――生活の殆どをジャックさんに面倒見てもらっているのだから良いなあと思ってしまいます。尚、アリスさん本人はそれを良く思っておらず、自立したいと思っているがゆえに今日の一日冒険者体験指導が行われたわけですが――。
きっと、ジャックさんは気付いていないのでしょう。
ジャックさんがアリスさんを呼ぶ時、妙な間が空き、男らしい咽仏がごくりと動くのを。
そっと目を伏せて、妄執を振り払うかのように静かに頭を振ることを。
それを見たアリスさんが、寂しそうに首を傾げるのを。
ジャックさんは、未だ心の深層にベアトリーチェさんを住まわせているのでしょうか。忘れられずにいるのでしょうか。
――でも、それって残酷なことではありませんか。
死人に勝てる訳ないじゃないですか。
この感情は嫉妬です。言い訳はできません。私は内心溜息を吐いた――その時である。
ばたん、と裏口が乱暴に閉められる音がしました。何事かと振り返って見れば――アリスさんです。髪は蓬々(ほうほう)に乱れ、革の鎧はあちこちが傷付いております。私を見るなり、駆け寄って一枚の真っ白な紙切れを差し出しました。ジャックさんの文字です。それを見れば――。
『親愛なるシャルロッテ女史へ。五階層に飛竜が出た。騎士団と協力してこれを抑える。私が死んだらアリス君の面倒をみてやってくれ。どうか。ジャックより』
と書かれてありました。
訳が分かりませんでした。
浅い階層に竜が出た?
ジャックさんが戦う?
もしもの場合は?
私は、接客中の冒険者に一言断ってからアリスさんに向き直ります。
彼女は今にも泣き出しそうな顔をしておりました。
「アリスさん。落ち着いてください。ここに書いてあることは本当ですか?」
「はい。五階層にとても大きな化物が出て、ジャックさんが私を庇って、この紙をシャルロッテさんに渡すように言われました」
「……分かったわ。ところで、アリスさんはどうやってここまで?」
〈神の塔〉から辺境までは、早馬を何頭も乗り潰しても半日はかかります。乗り合い馬車なら三日はかかるでしょう。まさか転移魔法が使えるのでしょうかと思い尋ねれば。
「ジャックさんの車を運転してきました」
「え? 運転できるの」
「はい」
その時、私の中に天啓が舞い降りました。
ジャックさんのためにできることなど、ひとつしかありません。
「シャルロッテさん?」
「あ、ごめんなさい。私はこの件を所長に伝えてきますから、アリスちゃんは応接室の安楽椅子で休んでいてください。今は誰も使ってませんから」
「あ、はい――」
私は放置していた冒険者に詫びてから所長室へ向かいます。ジャックさんの元へ、騎士団でも冒険者でも、何でも良いから救援の派遣を求めるために。私が〈神の塔〉へ向かうことの許可を貰うために。まあ、断られたところで、勝手に動くことを決めていたのだが――ありがたいことに所長は即断即決してくれました。
「お待たせ、アリスさん」
私が応接室に戻れば、アリスさんは蹲るようにして座り、俯いておりました。
「大丈夫? 怪我はしていませんか」
「……はい。ジャックさんが助けてくれました。ただ、少しだけ驚いてしまって。あんなに大きな化物がいただなんて。私ひとりだけが逃げてしまって――」
「落ち着いて。大丈夫、ジャックさんなら大丈夫ですから」
「どうしてそんなことが言えるんですか。相手はあんなに大きな〈怪物〉なのに」
「それは――」
最初は、隠しておこうと思いました。言わない方がいいこともあるのだと。
でも言うことにしました。不安そうなアリスさんを見ていられなかったために。
「ジャックさんこそが黒騎士ダンテだからですよ」
「え、でも――」
「疑問はあるかと思います。どうして黒い甲冑で塔に出没するのか。なぜ他の冒険者に忠告して回っているのか。なぜアリスさんだけを助けたのか。でも、私は。私だけは知っているんです。私も昔、冒険者をやっていて、その頃、ダンテさんに助けられて、短い間ですが一緒に旅をしたこともあるんです。会話だっていっぱいしました。素顔だって見たことがあります。だから――ジャックさんはダンテさんですし、とっても強い人ですから、きっと大丈夫ですよ」
アリスさんは深く考え込んでいます。
「どうしたのアリスさん?」
「お言葉ですが、それは違うと思います」
戸惑いながらもアリスさんは言いました。彼女にしては珍しい断言でした。
「どうしてそう思うの?」
「私達が竜に襲われた時、攻撃を食い止めてくれたのがキールさんで、ジャックさんは私にメモ書きを渡してくれて――それでも足が竦んで動けなかったのに――私の手を引いて一緒に走ってくれた人がいたんです」
「え、もしかしてその人」
「はい。黒い鎧を着ておりました」
「え?」
それはどういうことでしょうか?
ダンテ氏=ジャックさんという私の推察が誤っていたのでしょうか。
「その人、何か言っておりましたか?」
「いいえ。私を詰所まで送ると、すぐにまた塔へ戻って――お礼を言うことすらできませんでした。皆のことが心配です」
アリスさんは言いました。余程怖かったのでしょう。細い躰は小刻みに震えております。
そんな彼女に頼むのは酷ですが、言わなくてはなりません。
「アリスさん。お願いがあります。私をジャックさんの許まで送ってはいただけませんか」
「え?」
「私はジャックさんが好きなんです。好きな人がきっと今も戦っている。それをただ待つことなんて私にはできません」
「……分かりました」
少々の間の後、アリスさんは頷いてくれました。
「お疲れのところ済みません」
「いえ、私も、あの人に今度こそお礼を言わなければと思っていたので構いません。でも、覚悟はした方がいいかと思います」
「え、覚悟?」
…………。
……………………。
アリスさんの運転はお世辞にも上手いとは言えず、何度も身体が跳ね、頭が天井にぶつかりそうになりましたが、アリスさんなりに必死に急いで走らせていることを思えば、とても文句を言うことができませんでした。
「済みません、マニュアル車なんて全然下手で――ごめんなさいっ」
運転席の前方にある、木製の輪っかを掴んだアリスさんが申し訳なさそうに言いました。
「――いえいえ。馬車よりも全然乗り心地が良いですから」
どうか運転に集中してください――と言おうとして舌を噛んでしまう。
「シャルロッテさん?」
「何でもありません」
どうか無事に詰所に着きますように――と私は密かに祈りを捧げました。
…………。
……………………。
私達がギルドの詰所に着いた時には、太陽も傾きつつありました。
車を降りた私達は、詰所の入口に立っていたキールさんに状況を聞きに行きます。彼も伝えたいことがあったのか、私達を見て包帯を巻いた手を挙げます。
「シャルロッテさん。これはちょうどいいところに」
「どうされましたか。私達はジャックさんの応援に参りました」
言外に、他のことに関わるつもりはありません、と伝えれば、そのことなんですが、とキールさんは言います。
「ジャックさんは詰所の医務室に寝てもらっています。どうか奇跡で治してあげてください」
「医務室に? やっぱり怪我をしたんですか」
「僕を庇って、飛竜の吐息を浴びてしまったんです」
「――え?」
飛竜の吐息を浴びた?
それは、とても危険な状態ではないでしょうか。
「こちらでもできることは尽くしました。ですが、応急処置にも限界があります」
そう言うキールさんを見れば、鎧のあちこちが焦げているし、足甲は半ば潰れて血に塗れておりました。立っていることが不思議なくらいです。鎮痛剤を服用したのでしょうか。
「……飛竜は撃退することができたのですか?」
今すぐ医務室に駆け込みたい衝動を堪えて尋ねます。忘れてはならない。怪我をしているのはジャックさんだけありません。キールさんだって傷付いています。そして私はギルド職員であり、現状回復の奇跡を使えるのは私だけなのです。
キールさんは首を横に振りました。
「いいえ。僕達が撤退すると同時に王都の騎士団が到着して――戦況は分かりません。今も戦っているのか、或るいは全滅したのか」
「そうですか。騎士団の皆様は心配ですが、今はキールさんですね」
私は腰に差した短杖を取り出し、回復の奇跡を唱えます。
――慈悲深き女神よ。どうか、この者の傷を癒し給え――。
周囲が光に包まれ、キールさんの傷が癒えていきます。
「僕なんかのために。ありがとうございます」
「いえ、当然のことですから。では、私達はこれで」
私とアリスさんが詰所に入ろうとした時、その詰所からジャックさんが出て来ました。その姿は酷くぼろぼろであり、顔の右半分は焼け爛れ、瞳は白く濁っております。髪だって殆どが抜け落ちています。立っているのがやっとという有様でした。
私は驚いてしまいました。
ジャックさんの怪我が想像以上だったことではありません。
彼に肩を貸しているのが、かつてダンテと名乗っていた黒い甲冑の騎士様であったからです。
「シャルロッテ女史。これはちょうど良いところにやって来たものだな。私にも回復の奇跡を施してもらえないか」
ジャックさんは半ば癒着した唇を動かしながら、何でもないことのように言いました。
アリスさんが息を呑む音がやけに大きく聞こえました。
「ジャックさん、大丈夫ですか!」
「なに、心配無用だ。それよりも奇跡を頼みたい。私は急がなくてはならない」
「急ぐって、何を」
「無論、竜退治だよ。あいつは、あいつだけは、この手で殺さなくてはならんのだ」
「…………」
ああ、やはり。
この人は諦めてなどいないのだ。
喪った仲間達のことを。
復讐に、骨の髄まで浸っているのだ。
私は先刻と同じように回復の奇跡を唱えようとしました。このまま放置していれば、ジャックさんは間違いなく死んでしまうと思ったので。その程度には酷い火傷でした。
――けれども。
私が奇跡を行使したらどうなるでしょうか。ジャックさんはまた竜に挑んでしまう。そうなった時に、無事に帰ってくれる保証などどこにもありません。私はどうすれば良いのでしょう。私が本当にすべきことは何だろうかと考えた時――。
「駄目ですよ、休んでいないと」
止めに入ったのはアリスさんでした。ジャックさんを押し留めようとしますが。
「ベアトリーチェ」
ジャックさんの放った一言で、アリスさんの動きがぴたりと止まってしまいました。
「どうか、どうか止めないでおくれ。俺は、君にだけは止められたくはないのだ。否、仮令君がどう思おうとも、俺にはもう復讐を止められないのだ」
さあ道を空けてくれ――とジャックさんがアリスさんを押しのければ、可哀想なアリスさんはその場にへたり込み、茫然とジャックさんを見上げます。
「シャルロッテ女史。回復だ。頼む」
アリスさんなど眼中にないと言わんばかりに、ジャックさんは乞いました。
事実、その片眼は機能を失い、残された反対の目には、大切な者を喪った者に特有の憎悪がありありと灯っております。この場にいる私達など最初から映していないようでした。
「……分かりました。ですが、一つだけ約束をしてください」
「約束?」
「必ず帰って来てください。あとは――」
私は、ジャックさんの肩を支えている黒騎士様を見ます。
「そちらの御方について、説明をしてください」
「承知した。事が済んだら説明しよう」
「嘘じゃありませんよね」
「諄い。私が君との約束を破るわけないだろう」
本当は行かせたくありませんでした。私達は所詮ギルドの職員でしかありません。騎士団なんかとは違います。いくら過去に因縁があったとしてもです。
けれど――駄目でした。ジャックさんに迫られて、断れる訳がありませんでした。
むしろ、彼が窮地にある今、私を頼ってくれた事実の方が嬉しいと思ってしまいました。
死んだ女に勝てないのなら、せめてこれくらいは役に立ちたいと思いました。
――女神よ。この者の傷を癒し給え――。
――加護を与え給え。力尽きて斃れる事のないように――。
私は空に杖を掲げて奇跡を発動させます。
ジャックさんの身体はみるみるうちに回復して、抜け落ちた毛髪も生え替わり、濁った水晶体も、黒曜石の如し輝きを取り戻しました。
「――有り難い。では、私はこれで失敬する。ダンテ、征くぞ」
ジャックさんが声を掛ければ、黒騎士様はアリスさんを一瞥したのち、頷きました。
――ダンテ?
そちらの御仁がダンテならば。
ジャックさん、あなたは一体何者なのですか――。
私が声を上げる前に、二人の戦士は〈神の塔〉へ去って行きました。
残されたのは、混乱している私と、名前すら呼ばれなかったアリスさん、そしてキースさんだけでした。
…………。
……………………。
私とアリスさんは、辺境の地に戻ることをせず、詰所でジャックさんの帰りを待つことにしました。ですが――。
「…………」
空気が重いです。
ジャックさんの安否が気になって仕方ないのもありますが、私は、ダンテ氏=ジャックさんという図式が覆されて、先刻の光景が信じられずにいたし、アリスさんに至っては、自分が他人として扱われたことのショックを隠せずに、すっかり塞ぎ込んでおりました。
何と声を掛ければ良いのか分からず内心まごついていれば。
「シャルロッテさん」
アリスさんは私を呼びました。その目は涙に濡れていました。
「教えてくれませんか」
唐突な言葉でした。
「いいけれど、何について?」
私が尋ねれば。
「ベアトリーチェさんとは一体誰なんですか?」
彼女は至極当然なことを問いました。その表情には苛立ちすら浮いておりました。
それは自然な発想でしょう。きっと、私が知らないところでもベアトリーチェさんに間違われてきたことであろうことを思えば。自分がいるところに、他人がいるのは――自分の存在が許されないのは――さぞかし不快なことでしょう。それが親愛を寄せるジャックさんからの反応ならば尚更でしょう。
けれど私は上手く説明することができません。何故なら私自身そこまでベアトリーチェさんのことを知らないからです。けれども、この期に及んで何も言わぬのは――狡いでしょう。
アリスさんはもう辺境の住人なのです。私達冒険者ギルドの仲間なのです、秘密にしたままでは筋が通りません。誠実ではありません。ゆえに私は。
「ダンテさんの婚約者ですよ」
正直に告げることにしました。
「そして〈異邦の騎士団〉の総長として、前人未踏の四十九階層の攻略を打ち立てた伝説的な冒険者です」
「……その人は、今何をしているのですか?」
「死にましたよ」
「――え?」
「五十階層に到達した彼等は、ダンテさんひとりを残して全員死にました。飛竜に殺されてしまいました」
「…………」
「生き残ったのはダンテさんだけなんです。その後〈異邦の騎士団〉は解散しました。ダンテさんは行方不明になり、その直後にギルドにやって来たのがジャックさんです。私は、冒険者時代にダンテさんと交流があり、ダンテさんの素顔を知っていたからこそ、ジャックさんはダンテさんなのだとずっと思っていました。思っていましたが――」
先刻、ジャックさんとダンテさんが一緒にいたのです。それならば、ジャックさんとは一体何者なのでしょうか。なぜ、ああまでベアトリーチェさんの敵討ちに拘泥るのでしょうか。
駄目だ、分からない事が多過ぎる――。
「ジャックさんは、ベアトリーチェさんのことが好きなのでしょうか?」
「それは――きっと、そうでしょう」
「私は、それほどその女性に似ているのですか」
「はい。こう言っては失礼だと思いますが、まるで生き写しのようです」
「――そうですか。納得がいきました」
「え?」
納得とは。
「ジャックさん、私を見て、時々、とても辛そうな顔をするのです。それがどうしてなのかずっと気になっておりましたが――今、やっと理由が分かりました」
そう言って、アリスさんは笑って見せました。
その表情の儘。
「ジャックさんは、本当に残酷な方ですね」
と言いました。
…………。
……………………。
私達はジャックさんの帰りを待ったが、彼が帰ることはありませんでした。
〈神の塔〉に入るのは応援に招集された全土の騎士団であり、出てくるのは傷付いた者達ばかりで、私とアリスさんは彼等の治癒や介抱に奔走することになりました。
「怪我人が絶えませんね。ジャックさんは大丈夫なのでしょうか」
アリスさんが漏らす。
詰所は野戦病院さながらの光景であり、至る所に怪我人を寝かせています。私の得意とする回復の奇跡も精神力が枯渇して、打ち止めになってしまいました。果たして、この中で何人が明日を無事に迎えられるのでしょうか――。
これが神に挑むということなのです。
これが神話の怪物の力なのです。
「……大丈夫と信じましょう。ジャックさんは嘘を吐いたことがないんです」
私は努めて明るく答えます。
ですが、アリスさんには響かなかったようで。
「いくら嘘を吐いたことがなくたって。いくら誠実そうに見えたって」
アリスさんは表情を変えずに言いました。
「私はアリスです。ベアトリーチェさんなんかじゃありません。私は、ジャックさんのことが信用できなくなりました」
俯いたアリスさんの頬を、透明な涙がつう、と伝います。
「どうして、こんなに胸が苦しいのでしょうか。自分の存在が認められないのは、こんなにも辛いことだと初めて知りました」
アリスさんは涙を拭いながら言いました。
私は見ていられず、寄り添って背中をさすります。
「落ち着いて、アリスさん。きっと、ジャックさんだって大怪我をして、正気ではなかったと思うの。片眼だって見えてなかったでしょう」
「でも、こんなのって酷いと思います。アリスさんもジャックさんの味方なんですね」
「そういう訳じゃないけれど」
「ならどういう訳ですか!」
目を見開いたアリスさんは言い放ちます。
「私は所詮、ベアトリーチェさんの代替品なんですよ。だからジャックさんはあんなにも優しくしてくれたんです。それなのに私は、自分が、自分だけが特別扱いされていると勘違いして、喜んで――そんなの馬鹿みたいじゃないですか!」
そう言うと、アリスさんは本格的に泣き出してしまいました。大きな黒い瞳からは大粒の涙がぼろぼろと零れて、止まってくれません。
私は、その無垢なる眼孔に射貫かれて、何も言えなくなってしまいました。怪我人の障りになるからこの場を離れましょうだとか、私はあなたの味方ですなどという阿りの言葉も用意しておりましたが――。
ただひとつ理解できたのは。彼女もジャックさんに惹かれていたであろうことと、それゆえに酷く傷付いてしまったこと。ジャックさんに対して、何てことをしてくれたんだという八つ当たりに近い感情でした。
「……すみません。シャルロッテさんは何も悪くないのに。ちょっと頭を冷やしてきます」
アリスさんは言うなり、ふらふらとした足取りで詰所を出て行ってしまいました。
残されたのは私と物言わぬ負傷者ばかりです。
私は形容し難い居心地の悪さを感じてしまいますが――。
「何があったのだ。外まで聞こえていたぞ」
入れ替わりに入ってきたのはユリアでした。相変わらずの仏頂面で、私と、周囲に横たわる数多の怪我人を見て顔を顰めます。
「ユリア、何しに来たの?」
「何しに来たとはご挨拶だな。私達〈盾の騎士団〉に要請を出したのはそちら冒険者ギルドであろう。飛竜が出たということで支援に来たのだ」
「それなら、どうしてあんたはここにいるのよ」
「私は荒事にはさっぱり役に立たないからな。負傷者の受け容れ先になっている詰所の手伝いをしようと思ったら、何やら言い争う声が聞こえてきたのだ。それで、何があったのだ」
「……聞こえていたんでしょう」
「そこまで鮮明には聞こえなかった。だが、先輩が話に出ていたことだけは分かった。先輩が関わっているなら話は別だ。何があったのだ?」
「あんたは相変わらずブレないわね。まあいいわ。手伝いながら聞いて頂戴」
最初は黙っていようと思いました。
だが、この問題は、私だけのものにするには少々重過ぎます。また、こう言うのは癪なのですが、ジャックさんと交友のあるユリアならば、解決策を――何と言ってアリスさんを励ますべきなのか、そも、慰めるべきなのかどうかを――見出してくれるような気がしました。
そして、それ以上に。
ダンテさんとジャックさんの関係を知っているような気がしました。
ゆえに私は、先刻の出来事を詳細に述べます。
ジャックさんが大怪我をしたことを。その肩をダンテさんが支えていたことを。心配するアリスさんを、ベアトリーチェとジャックさんが呼んでしまったことを。その事実にアリスさんが酷く傷付いていることを――。
私の話を、最後まで聞いていたユリアは、二三度頷いてから。
「状況は把握したぞ。アリス殿は気の毒だな。先輩も罪作りな男だ」
などと暢気な感想を漏らします。
「そんなこと言っている場合じゃないでしょう。あんた、何か知っているんでしょう?」
「何か、とは」
「ダンテさんとジャックさんのこと」
私が聞けば、ユリアは思案するように口を閉ざします。
「知っていると言えば確かにそうだが勝手に話すことはできないぞ。それに、先輩が帰ってきたら説明するように約束しているのだろう。ならば大人しく待っているのが筋だろう」
「それは――そうね。その通りだわ。でも、心配なのはアリスさんよ」
「そうだな。この件については私も擁護はできないな」
「珍しい。あんたがジャックさんのことをそう言うなんて意外」
「私だってアリス殿の気持ちが分かるからな。想い人が、自分を通して自分ではない誰かを見ているのはとても悲しいことだろうよ。先輩が無事に帰ってきたら、たんと説教をしてやらねばな。乙女の尊厳を踏み躙った報いを与えてやらねばなるまい。しかしだな」
「しかし、何よ」
「いや、なに。先輩は本当に無事に帰ってくるのか」
「……ちょっと。どういう意味よ」
「深くは言えないが、先輩にとっての竜退治は、非常に大きな意味のある仕事なのだ。それこそ、深手を負っても退けぬくらいにはな。五体満足で帰ってくれる保証はどこにもないことだけは覚悟しておくべきだ」
ユリアはそう言うと、重症の者から順番に回復の奇跡を掛けていく。私ほど優れたものではなありませんが、多少の気休めにはなってくれたことでしょう。
「それにしても、アリスさん、遅いわね」
私が言えば、ユリアは顔を上げます。
「確かに。頭を冷やすとは言っていたが、そこまで遠出をするわけでもないだろう。少し心配だな。まさか先輩を追って〈神の塔〉に行った訳ではあるまい」
「怖いこと言わないでよ」
「そうだな。一応、念のため門衛に聞いてくる」
ユリアは部屋を出て行きました。
残された私は、ジャックさんについて考えます。
正確には、ジャックさんが何者であるのかを。
私は冒険者時代、ダンテ氏に救われ〈神の塔〉の深部を共に歩いたことがあります。その際、彼は素顔を見せてくれました。その顔は間違いなくジャックさんのものでした。ゆえに私は、ダンテ氏=ジャックさんだと思っていたけれど――違いました。
まるで意味が分かりません。別人だとすれば、何故、ベアトリーチェさんの復讐をあのように希うのでしょうか。私室に黒い鎧を飾っているのでしょうか。ああも強いのか――分からないことだらけです。
当然〈異邦の騎士団〉には、ジャックという名の冒険者は所属しておりません。ギルドに残された資料から分かるのは、四十九階層を攻略後の戦闘で、ダンテさんだけが生き残ってしまったことだけです。以来その一行は解散してしまったというのは有名な話でありますが――。
血相を変えたユリアが戻ってきました。何があったというのでしょうか。
「シャルロッテ、大変だ。アリス殿は塔に行ったらしい」
「え? 何でそうなるのよ」
「門衛のキース殿だ。制止を無視して走っていってしまったそうなのだ」
私は、驚きのあまり卒倒しそうになりました。
アリスさんに何かあったら、今度こそジャックさんは壊れてしまう――と思いました。