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02.稀人アリスは迷い込む②

 黄昏時。

 半ば沈みかけた夕陽が金黄色(こがねいろ)に輝く小麦畑を照らしている。

 冒険者ギルドから続く長い農道を、一台の黒い軽自動車が緩慢とした速度で走っている。


「済まなかったな。長く待たせてしまって」


 運転席に座る男――ジャックは、助手席のアリスに言った。

 日本語を話すのは久々であり、(なま)っているような気がしてならない。


「あ、いえ。大丈夫です」


 返事が来るのだから意思疎通には問題ないようである。

 尤も、会話が弾むかは別の問題であり、そこでジャックは、自身が口下手な人間であることを思い出す。こうして助手席に誰かを乗せて運転するなど懐かしいことであるとも。


「それにしても」


 近傍(あたり)の風景を気にしながらアリスは口を開く。


「まさか日本の自動車に乗れるとは思っていませんでした」

「私がこの世界に来た時、ちょうどドライブの最中だったからな。あの時は本当に驚いたよ。隧道(トンネル)を抜けたと思ったら雪国――じゃなくて暗い洞窟にいたからな」

「洞窟ですか」

「君の境遇と大差ないよ。〈怪物〉に囲まれて車ごとボコボコにされた。もう駄目だ殺されると思った時に、偶然通りかかった冒険者の一団が助けてくれたのだ。神様も相当に底意地が悪いと思ったよ。私なんかを神隠しに遭わせて一体なんのつもりやら」

「神隠し」

「ああ。私の語彙ではそうとしか表現できないよ」

「……それから、どうなったのですか」

「冒険者というものを二三年やった後、冒険者ギルドに務めることにしたよ。だからこの世界に来て、かれこれ五年目になるのかな」

「五年目」


 そこで会話が途切れる。


「ひとつ、聞いてもいいですか」


 アリスはおずおずと尋ねる。


「ああ、どうした」

「私は、日本に――元の世界に帰ることができるのでしょうか」


 ジャックは唇を噛んだ。

 想定していた質問ではあったが、答えを持ち合わせてはいなかったためである。横目でアリスを見れば、一言一句聞き漏らすまいとジャックを見詰めている。


「申し訳ない。私には、君を帰す方法が分からない」


 だがジャックは告げる。

 残酷なことと分かりながらも、告げねばならぬ真実があると知っているからである。


「もうそろそろで私の家に着く。今日はもう心身の休息に充てた方がいいだろう。具体的な話は明日以降にしよう」


 ジャックが言えば、辛うじてアリスは頷いてみせた。


 …………。

 ……………………。


 就寝前。婚約者の仏壇に手を合わせ、焼香と一日の報告を済ませた時である。

 薄い(ドア)叩音(ノツク)された。

 規則正しい、控え目な音であった。


「どうぞ。空いているよ」


 ジャックが返事をすれば、扉が静かに開けられる。

 入ってきたのはアリスであった。

 テーブルの上に置いた(ランプ)が白い顔を照らしている。

 私の婚約者が使っていた部屋だ、今日から自由に使えば良い――と半ば投げやりに案内してそれきりであった。


「どうしたんだ」

「あの。お礼を言いたくて」

「お礼? まあ立ち話も寒いだろうから部屋に入り給え。そこの安楽椅子(ソファ)に座りなさい」


 ジャックが(てのひら)で簡素な布製(ファブリツク)の椅子を示せば、アリスは一言断ってから腰を落ち着ける。


「今日は本当にありがとうございました。あと、いきなり抱きついて済みませんでした。痛かったですよね」

「別に気にしてないよ。誰だって恐慌(パニツク)になれば取り乱してしまうものだからな。こちらこそ、日本語を話すのが久しぶりだから、(つたな)いかもしれないが許してほしい」


 ジャックが丁寧に詫びれば、アリスは不思議そうな顔をする。


「どうしたんだい」

「いえ。ジャックさんは日本人――ですよね」

「ああ、そうだが。それが?」

「日本人にしては珍しい名前だなと。あ、すみません。他人の名前に失礼なことを」

「別にいいよ。そう思うのも無理はない。偽名だからね」

「偽名なんですか」

「本名はもっと日本人らしい名前だった(はず)だが、こちらの人間にとっては発音が難しいらしくて何度か改名させられたんだ。――ああ、君の場合は心配しなくていい。受付嬢のシャルロッテ女史が、問題ないと言ってくれたからな」


 ジャックは手製の仏壇に振り返る。灰入れに突き刺した線香は――甘い香りを発する香木を縦に切っただけの自作である――半分ほどが燃えていた。


「シャルロッテさん――」

「受付をしていた、上背の低い金髪の女性だよ」

「ああ、叫んでいた方ですね」

「あの時は(うるさ)くして済まなかったね。明日、私から言い聞かせておくから勘弁してくれ」

「明日、ですか。今日はもう来ないんですか」

「うん? それはそうだろう。もう寝る時間だからな」

「あれ? 今日は帰って来ないということですか」

「ちょっと待ってくれ」


 ジャックは会話の齟齬(そご)に気付く。


「君は何か勘違いをしているな。どうして彼女が私の家に帰ってくるという話になるんだ」

「えっと。ジャックさんの婚約者って、そのシャルロッテさんじゃ」

「違う」


 ジャックは即答していた。

 腹の底から飛び出した声が想像以上に大きく、何より冷たかったことに、ジャック自身も当惑してしまう。だがアリスはもっと驚いたようで、華奢な身体を緊張させてしまっている。


「済まない。きちんと説明しておくべきだったな。私の婚約者はこの通り死んでいるのだ」


 ジャックはつい先刻まで手を合わせていた仏壇を示す。

 仏壇とは(いえど)も、位牌も遺影もない。線香を立てる灰入れと、()けば鳴る銅製の杯を置いただけの、仏壇と呼ぶに呼べない代物であったが。アリスも少し遅れてから気付いたようだった。言ってはいけないことを言ってしまったという顔をして、開いた口に手を当てている。


「ご、ごめんなさい」

「いや、いいんだ。説明していなかった私が悪いのだ。とにかくそういう訳だから、君に与えた部屋は君のものだ。置いてあるものは好きに使えばいい。私ひとりではどうしても片付けられなかったから良い機会だよ」


 ジャックが言えば、アリスは考え込むように黙ってしまった。死人のものを使って良いと言われれば、誰だってそんな顔をするのだろうと、ジャックは分かったつもりになる。


「あの――」


 遠慮がちにアリスは切り出す。


「どうして、ジャックさんはこんなにも良くしてくれるのですか。こう言っては何ですが、私には、その親切に何も返せるものがありません」

「別に見返りなんて求めていないよ。だから気にする必要はないよ」


 ジャックは答えたが、アリスは納得がいかないのか、まだ続きがあるかのようにジャックを見ていた。ならば本当のことを言ってしまおうか、とジャックは考える。


 即ち。


 死別した女とアリスが、瓜二つとまでは言わないが似ているからだと。

 神の悪戯とでも言おうか、どこか運命染みたものを感じたからだと。


 ――何が神だ。馬鹿馬鹿しい。


 この世に神などいるものか。

 ジャックは首を横に振り、雑念を振り払う。


「私が君を保護した理由は、私自身が〈稀人〉であるからだ」

「〈稀人〉ですか」

「ああ。こちら側ではそのように呼ばれるのだ。帰りの最中にも説明したかもしれないが、私はドライブの最中に運悪く来てしまったところを助けられてな。途方に暮れていた私に手を差し伸べてくれたのが、その婚約者だった女性だった訳だ。彼女は私に、衣食住と、この世界で生きる為の知恵を授けてくれたのだ」


 ジャックは流暢に語る。

 最初から用意していた返答であり、語ることに苦労は要らなかった。


「知恵というのは」

「有り体に言えば、文字の読み書きから日常会話。この世界の常識と言ったところだな。そして私は彼女が立ち上げた、〈稀人〉だけを集めた冒険者の一行に所属した訳だが――まあ、それは置いておこう。そういう経緯があったものだから、私は君を放っておくことができなかったのだ。百パーセントの善意だよ。だが――そうだな。もし君が、私のような得体の知れぬ男と暮らしたくないのならば素直に言ってくれ。私からシャルロッテ女史に頼み、待遇の良い職と、良い住まいを提供してくれるように頼んでみるよ」


 アリスは少しばかり考えたが、大丈夫です、とはっきり答えた。


「大丈夫とは少し驚いたな。どういう心境の変化だね」

「いえ。もう帰ることができないのなら、覚悟を決めた方が良いのかなと思っただけです。ジャックさんも良い人みたいですし、安心したこともあります」


 アリスは照れ混じりの笑顔を浮かべた。その幼いながらも自らの生涯に向き合わんとする表情が喪った婚約者の面影を呼び起こし――ジャックは堪らずに顔を背けてしまった。


「どうしたんですか?」

「いや、なに。君は前向きなんだな。とても良いことじゃないか」


 ジャックが褒めれば、アリスははにかむように笑った。


「そういえば、ジャックさんは冒険者だったんですよね」

「……まあ、昔の話になるがな。それがどうしたのかい」

「そこに飾ってある鎧――」


 アリスは部屋の隅にある甲冑と大剣を指差す。


「随分立派なものですよね。博物館に展示されているみたいで格好いいです」

「…………」

「あれ、もしかして触れちゃいけないことでしたか」

「そういう訳ではない。ただ面映ゆくなったのだ。だが博物館というのは誇張があるな」

「そうですか? 黒い鎧も赤い外套も素敵だと思うんですが」

「見ていてくれ」


 ジャックは仏壇の前から立ち上がって甲冑に寄ると、胸部の板金を指でなぞる。

 指の痕跡が筋となって残る。


「この通り、もう何年も着ていない埃を被った鉄屑だよ。黒く見えるだけで、実際はただの錆汚れだ」


 おそらく、この甲冑を身に着けることは二度とないだろうとジャックは思う。


「冒険者というのはどのようなお仕事なんですか」

「簡単に言えば、危険を承知で〈神の塔〉に挑んでは一攫千金を夢見る――馬鹿者がするような仕事さ。いや、仕事ですらないのかもしれない」

「そうなんですか? 私はてっきり、冒険者というくらいですから、もっとこう、夢や希望に溢れたものとばかり思ってました」

「そういう認識も間違いじゃないさ。そういう者が冒険者になりたがるのだろうが、現実はそう甘くはない。書いて字の如く、危険を(おか)す者だからな。私だって冒険者時代は何度死にかけたか分からない。そうして得られる金だって、多い時もあれば少ない時もある。割には合わないだろうな。君が将来どう生きるかは君が決めるべきだが冒険者だけはオススメはしないよ。説教臭くなって悪かったね」

「いえ、教えてくださってありがとうございます」

「ああ、そうだ。冒険者と言えば、君がその冒険者に保護された時、辺りには〈怪物〉の死骸があったそうだが、それは間違いないかね」

「……はい」

「それなら、そいつらをやっつけた者の姿は見たかい」


 ジャックの質問に、アリスは小さく頷いた。


「どんな奴だった?」

「私も暗くて、はっきりとは見ていないのですが、黒い鎧を着た人でした」


 あの鎧にそっくりでした、とアリスは飾られた甲冑を見遣る。


「そうか。そいつは、君に何か言いはしなかったかい」

「いいえ。私を襲おうとした化物を倒したら、何も言わずにどこかへ行ってしまいました」

「なるほど。正体不明の冒険者か。嫌なことを思い出させて悪かったね」

「いえ、あの」

「どうした?」

「ジャックさんじゃないですよね」


 アリスが尋ねれば、ジャックは苦笑する。


「まさか。そう思う程に似ていたのかね」

「外見というより、雰囲気が似ていたので」

「雰囲気か」

「すみません、変なことを言って」

「まあ、私ではないことは確かだな。〈神の塔〉は遠いし、ギルドの許可証も必要になってくるから簡単に行けないのだ」

「〈神の塔〉ですか?」


 アリスは小首を傾げる。


「〈怪物〉が跋扈(ばつこ)する領域のことだよ。天高く(そび)え、実際に天上界まで繋がっているのだが、見なかったのかね」

「すみません。ちょっと、よく分からないです」

「塔から辺境まで真っ直ぐ来れば振り返りもしないか。まあ、焦ることはないさ。この世界のことは、おいおい学んでいけば良いだろう」

「はい。よろしくお願い致します」

「今日はもう遅い。部屋に戻って眠りなさい」


 ジャックが言えば、ありがとうございました――と言って、アリスは退室していった。


 閉じられた扉を見詰めながら、ジャックは死別した婚約者を思い浮かべる。


 ――ベアトリーチェ。


 確かに似てはいる。だがそれは黒髪と黒い瞳孔が(もたら)す錯覚であるのか、それとも事実として似ているのかは判別ができなかった。

 火を灯した線香を見れば、既に燃え尽きて灰になっていた。


 …………。

 ……………………。


 翌日、明け頃。寝床を抜け出したジャックは、井戸水で顔を洗った後、裏庭へ出た。

 桜の低木と香草ばかりが生い茂る手入れのされていない花壇と、墓石が並べられているだけの、奥行きも広がりもない空間である。空気は冷えこんで、草木は(つゆ)に濡れている。


 ジャックは墓石の一つに近付き、両手を合わせる。

 これも日課としていることであった。


 墓とは雖も、石材は御影石でも大理石でもないただの砂岩であり、刻まれるべき墓碑銘すらない。形状も、丸いものから角張ったものまで様々である。

 そもそも、土の下には誰の遺体も遺品も埋まっていないため、墓ですらないのかもしれないが、それでもジャックは真摯に祈りを捧げる。かつて仲間だった者達が安らかに眠れるように。いつか必ず、復讐を果たしてみせると。


 ジャックの祈りは、背後の戸口が開かれることで中断される。

 振り返れば、昨日預かった娘――アリスがそこにいた。


 不安げな表情が、ジャックを認めた途端安堵したものになる。よくもまあ、たった一日で信用されたものだと驚く反面、自らの(うち)に秘めた神域が踏み躙られるような不快を感じた。死者の面影が、生者によって上書きされることを忌避する本能的な恐怖であった。


「おはようアリス君。昨日はよく眠れたかい」

「おはようございます、おかげさまでゆっくりと休むことができました」

「それは何よりだ。今、湯桶と手拭いを用意するから、部屋で待っていてくれ」

「いいんですか。ありがとうございます。実はここに来てからお風呂にも入れなくて気持ち悪かったんです」

「その気持ちは非常によく分かるよ。私もここに来て長いが、人間染みついた衛生観念は消えないものでな。やはり風呂やシャワーを浴びないと落ち着かないよな」


 ここの人間はよくもまあ我慢ができるものだ、とジャックが言えば、分かります臭いとか気にならないんでしょうか、とアリスも同意する。


「君は部屋で待っていてくれ。早速準備をしてくるよ。衣類については――そうだな。私が洗う訳にもいかないから、あとで洗濯の仕方を教えよう。着替えについては、あれのお下がりを着てもらうとしよう。それでいいかね」

「何からなにまで済みません」

「気にしなくて結構だ」


 ジャックはアリスを部屋に下がらせ、桶と手拭いを片手に井戸へ戻る。

 桶に水を入れた後、左手を浸して魔術『発火』を唱えれば、水はすぐ熱湯となる。

 その桶を持ち、(こぼ)さぬように気を付けながら、アリスの待つ部屋へ向かう。


「アリス君。開けてくれないか」


 ジャックが声を掛ければ、扉が静かに開かれる。


「わ、早いですね。すごい、綺麗なお湯だ!」

「火傷しないように気を付けてくれよ。置く場所は寝台の横でいいかな」

「はい。お願いします」

「着替えについてだが、そこの衣装棚にあるものを適当に着れば良いだろう。私は朝食の用意をしてくるから、ゆっくりとくつろいでくれ」


 ジャックは服を脱ぎだしたアリスを視界に入れないように退室する。


 朝食の献立は何にしようか、できれば喜んでくれるものにしたいと考えて――浮かれている自身を発見する。


 ――落ち着け。私は何を喜んでいるのだ。


 あれはただの〈稀人〉だ。愛した女に似ていても、所詮は他人の空似でしかない。甘い考えは捨てろ。私は復讐をしなければならないのだ。皆の魂を取り戻さねばならぬのだ。

 結局、ジャックが用意できたのは、バゲッドと屑野菜のスープという、代わり映えもない質素な食事であった。


 アリスの部屋に行き、扉を軽く叩けば、すぐに返事がくる。


「もし、食事の用意ができたよ」 

「はい、今行きます」


 勢いよく扉が開けられる。

 こちら側の礼装に身を包んだアリスを見て――ジャックは後頭部を殴られたかのような衝撃に襲われる。事実、浮遊感を伴った眩暈(めまい)に呑まれ、その場に崩れ落ちてしまう。


 ジャックの変調に慌てたのはアリスであった。


「ジャックさん? 大丈夫ですか」

「……ああ、問題ない」

「問題ないって」

「気にするな。立ち眩みがしただけだから」


 ジャックは歯を食い縛りながら立ち上がる。覚悟を決めて、もう一度アリスを見れば――何てことはない。死んだ婚約者に似た娘がいるだけであった。


 己の目の前で、ばらばらになって死んでしまった女はいない。


「その服、よく似合っているじゃないか」

「本当ですか。どこかおかしくはないですか」


 アリスはその場で一回転してみせる。袖や裾が余るらしく、捲ってはいるものの、奇異に映る箇所はない。

「ああ。まるで貴族の令嬢のようだよ」

「この世界の衣服は日本とそう変わりはないんですね」

「同じ人間が考えたものだからな。発想は似通うのだろうよ。洗濯物については朝食後に片付けるとしよう。冷めてしまうからな」

「はい。分かりました」


 ジャックが食卓に着けば、アリスもその対面に座る。

 アリスは湯気の立つ汁物を珍しそうに眺めている。


「日本から来たばかりの君にとっては(いささ)か粗食に過ぎるのかもしれないが勘弁してくれ。こちら側は食文化が発達しているとは言い難いし、何より私自身調理が得意ではないのだ」

「いえ、温かいものをいただけるだけで本当に嬉しいです」

「そうかい。それなら良いのだが――食べながらでいい。改めて自己紹介をしようじゃないか。私はジャックと名乗っている。元の名前は忘れてしまったよ。昔は冒険者をやっていて、今では冒険者ギルドの職員をやっている。こちら側に飛ばされたのは五年くらい前だろうか。年齢は今年で二十五になる。寂しい男寡婦(おとこやもめ)だよ。得意な魔術は炎術と――いや、それぐらいだよ」

「魔術?」

「ああ。君には奇妙に聞こえるかもしれないが魔術や奇跡なんてものがこの世界にはあるのだ。まあ百聞は一見にしかずだ。お目に掛けようじゃないか」


 ジャックはそう言うと、一切れのパンを手に取り、魔術『発火』を発動させる。

 (たちま)ちパンは火に包まれ――黒焦げになってしまった。

 アリスはその様子を、目を丸くして見詰めていた。


「この通り、魔術ゆえに種も仕掛けもないよ。しかし火加減を誤ったな。これじゃあ炭だよ」


 ジャックがそのパンだったものを(かじ)り、苦いと言えば、アリスも笑い出す。

 それからは話す順番が変わり、アリスの話を聞いていた。


 高校を卒業したばかりの十八歳であること。自動車学校からの帰り道に気が付けば暗い洞窟のような場所にいたことを。見たこともない化物に襲われ、必死に逃げていたところを、黒い甲冑の騎士に助けてもらったことを。化物達を丁寧に(ほふ)ったのち、騎士は何も語ることなく去ってしまったことを。茫然としていたところを、冒険者に保護されたことを。三日あまり時間をかけてこの田舎町へやってきたことを――。


「成る程、成る程。君の事情は相分かったよ。だが安心してくれ。君の今後は、私を始め、冒険者ギルドで補助させてもらうからな。だが将来を焦っても仕方ない。まずはこの世界の文化に慣れていくところから始めれば良いだろう」

「はい。お手数をお掛けしますが、よろしくお願い致します」


 ぺこりと頭を下げたアリスは、黒焦げになったパンを見遣る。

 その目には好奇の光が灯っていた。


「ジャックさんは魔法? 魔術? が使えるんですよね」

「ああ。生きるために必要だったから覚えたが、それが?」

「なんだが、本当に異世界に来てしまったんだなあという気がして。そういう魔法は私も使うことができるのでしょうか」

「それは素質次第だな。興味があるのかい」

「はい。普段の生活で使えたら便利そうじゃないですか。それに子供の頃から、魔法使いというものに憧れていたんですよね」


 アリスは嬉々と語る。

 そこに臆病な少女の影はない。

 精神的に安定しているようであった。


「そういうことならば〈盾の騎士団〉も帰ってきていることだし、聖女殿にひとつ頼んでみることにしようか。勿論(もちろん)、互いの時間に都合がつけばの話になるが」

「えっと。頼むって何をですか?」


 耳慣れない言葉が多かったのか、アリスは不思議そうに尋ねる。


「〈盾の騎士団〉というのは、昨日君を連れてきた一行の名前さ。そこに所属している女性が――私は敬意を込めて聖女殿と呼んでいるのだが――他人の素質を鑑定したり、能力を引き上げたりなどといった、冒険者にとってなくてはならぬ特殊な力を持っているのだよ。無論、それ相応の〈魂〉は要求されるがね」

「魂、ですか」

「ああ。君にはピンと来ないかもしれないが。そして食事中に話すことでもないかもしれないが――この世界では〈怪物〉を殺めた際に〈魂〉というものを得ることができるのだ。それは私達の体内に蓄積され、能力を底上げする糧になるのだよ。あとは、そうだな」


 ジャックが左の掌に力を込めれば、白い光が溢れ、氷柱の如し透明な結晶が生成される。

 数多の生命を奪ってきた証左である、神秘的でありながらも(おぞ)ましい光景であった。


「このように使える者は限られてしまうが、〈魂〉は実体化させることで通貨の代わりにもなるのだ。こういう訳だから、危険を承知で〈神の塔〉に挑む者が後を絶たないのだ。私達冒険者ギルドは、せめて彼等が無事でいられるように多種多様な援助(サポート)をするのが仕事なのだよ」

「〈神の塔〉――」


 輝く光の結晶を見ながらアリスは呟いた。

 ジャックは具現化させた生命を光の粒子に戻し、手の内に収める。


「あ――」


 アリスは、餌を取り上げられた子猫のような顔をする。


「あまり見るものじゃない。外見は綺麗でも、血腥(ちなまぐさ)い仕事の証でしかないからな」

「そういうものなのですね。どれくらいの価値があるんですか」

「さあな。鑑定に出したことはないが――そうだな。立地の良い一軒家を買える程度だろうか。少なくとも、向こう十年は食うに困らない金額になるとは思う」

「十年ですか。そんなの、どうやって溜めたんですか?」

「冒険者時代の貯金のようなものだよ。元々浪費する性格でもないからな」


 ジャックは、嘘と悟られないよう淀みなく答える。

 仲間と婚約者を喪って以来、血反吐を吐くような思いで貯めた文字通り努力の結晶である。


 …………。

 ……………………。


 洗濯を終えて、井戸横の物干し竿に洗濯物を掛けていた時である。


「――何ですか、あれは」


 アリスが声を上げた。

 視線の先には、天高く聳える巨大な塔があった。

 否、聳えるどころの話ではない。石を積み上げた塔の先端には、天涯(てんがい)を多う広大な土地から生える巨大な樹根が絡みついている。天に広がる大地は、地上からはあまりに離れ過ぎているために、肥沃(ひよく)な土地であることしか分からない。


 星が球体であることも、重力法則も無視した光景であり、日本から来たばかりのアリスにとっては頭の痛くなる景色であろうとジャックは思う。案の定、アリスは口をあんぐりと開けた儘、その場に尻餅を突くように倒れてしまった。


「アリス君、大丈夫かい」

「ジャックさん。あれは何ですか。空が、空に――」

「落ち着くんだ。ちゃんと説明するから。だが、その前に仕事を終えてしまおうじゃないか」


 ジャックはアリスに手を差し伸べる。アリスも掴んで立ち上がろうとするが、腰が抜けたようにへたりこんでしまう。


「済みません。腰に力が入りません」

「そのようだな。――失敬」

「わっ!」


 面倒になったジャックは、アリスを抱えると、玄関側の段差に置くことにした。

 人間ひとりを移動させるなど、日頃鍛えているジャックには簡単なことであった。


「そこで休んでいてくれ。すぐに終えるから。それが終わったら、この世界について説明しようじゃないか。君の分を干すのは、君が回復してからだな」

「……済みません、お願いします」


 アリスの顔は青ざめていた。それを見て、ジャックは己がこの世界に馴染んでしまっていることを自覚する。自分も、最初は空に大陸が浮いているなど――しかも頭をこちらに向けているのだと――とてもではないが信じられないと思っていたのだ。


 自身の洗濯物を干し終えたジャックは、少し空間を空けて、アリスの隣に座る。

 その間、アリスはずっと空を見上げていた。


「さて。何から話したら良いものか」


 ジャックは迷う。この世界の起こりから説明したのでは長くなり過ぎる。何より己もそこまで理解していない。悩んだ末、自分が初めて出会った女性――ベアトリーチェから受けた説明をそのまま真似することにした。


「まずは名前から覚えようか。重力法則に喧嘩を売りながら浮いている大陸が〈神の都〉と呼ばれる場所だ。そして私達のいる大陸から天に向かって真っ直ぐ伸びているのが〈神の塔〉だ。私や君が迷い込んだところだな。ここまでは良いだろうか」

「――はい、大丈夫です」

「地球というか日本では、神様といえば私達に現世利益を齎したり、加護を与えてくれたりという側面が強いだろうが、こちら側では勝手が違うらしくてな。人間を忌み嫌って滅ぼそうとしているのだ。人間の味方をしてくれる神もいない訳ではないのだが、たった二柱しかいない。いずれにせよ、神と人の対立構造ができあがるという訳だ。大丈夫かい」

「大丈夫です」

「それでは具体的に、どのような争いが繰り広げられているのかというと、舞台は(もつぱ)ら〈神の塔〉になる。天空の大地から、神の被造物である〈怪物〉が地上に押し寄せてくるのだ。人間社会を滅ぼさんとしてね。そしてそれら怪物の侵攻を食い止めんとするのが冒険者や騎士団と呼ばれる者達だ。私も影ながら冒険者ギルドの一員として、人類の勝利を願っているのだよ」


 ここまでが概要だ、とジャックが言えば、アリスはジャックを見遣る。その目は続きを乞うていたが、ジャックに語るつもりがないことを察すれば、視線は〈神の塔〉に戻される。


「神様は、どうして人間を滅ぼそうとしているのですか」

「一説には〈神の塔〉を建てたからだと言われているよ」

「なぜ、人間は塔を建てたのでしょうか」

「大昔に洪水があったらしくてね。その対策として、人間が集って建てられたと聖典には載っていたような気がするな。それが人間の傲慢であるとして神が怒ったとも」

「何だか、ノアの箱舟やバベルの塔を彷彿(ほうふつ)とさせる話ですね」

「まさにその通りだよ。よく知っているね」

「大学では神学科に行く予定だったんです」


 まあ勉強した意味もなくなってしまいましたが、とアリスは気落ちしたように呟いた。


「魔法があって、化物も存在するのだから驚くことはないだろうと思っていましたが、まさかあんなものが存在するなんて。もしかしたら神様も実在するのでしょうか」

「それはどうだろうな。私はいないと思うぜ」


 ジャックは断言する。


「え、でも最前(さつき)――」

「それは、この世界の大多数が抱く価値観であって、私自身の信仰ではない。最初に説明しておくべきだったな。私個人としては、神など存在しないと思っている。いたとしても、人間をいかに甚振(いたぶ)るかを考える邪神や悪神と呼ばれる類のものだろうよ。考えてもみ給え。善い神というものが本当にいるのならば、私や君がこんな世界に招かれはしないだろう。脅かすようなことを言って悪いが、覚悟すべきだ。この世界は、君が思うよりもずっと残酷なのだ」


 ジャックは自棄めいた笑みを浮かべる。

 犬歯を剥き出しにした獰猛(どうもう)な笑顔であった。

 その様子にアリスは一瞬だけ怯えたようだったが、すぐ反発するように()め付けた。


 その表情の(まま)


「でも、私は善い神様がいると信じたいです」


 と言った。


「理由を聞いても?」

「私とジャックさんが出逢えたからです」


 アリスは答えた。

 凜然とした口調であった。


「私は〈神の塔〉で殺されてしまうところを運良く助けられて、ジャックさんに出逢うことができました。これって凄い偶然だと思いませんか。私は運命を感じました。それとも、こういう考えを持つこと自体が、甘かったり、幼かったりするんでしょうか」


 ジャックは反論しようとして――止めた。

 信仰は他人に強制されるものではない。

 少なくとも、個人で完結しているのならば。

 アリスに、これ以上の精神的負荷(ストレス)をかけたくないと思ったこともある。


「とても立派な姿勢だと思うよ。私も見習わなければな」

「ありがとうございます」

「なに。礼を言うのは私の方だよ」


 ありがとう、とジャックが言えば、どういたしまして、とアリスは首を傾げながら言った。


 その時になって、ジャックは初めて、アリスのことを、死別した婚約者に似ている〈稀人〉から、アリスという名前をした一個人として認めることができた。


 果たして、それが善いことなのか悪いことなのか。

 畢竟、己が復讐の、何の役に立つのかは。

 ジャックには判別することができなかった。

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