六 The Gentle Stalker
翌朝、脱衣所に私のパンツが干してあった。
顔を洗って、リビングに行くと、小窓が朝食の準備をしていた。
「おはよう」
「おはよう」
「パンツ、干しといたよ。殺されそうな夢で、寝汗かいたんでしょ」
「う、うん」
「なんで、パンツだけ? シャツは?」
「洗い忘れた」
「変なの」
私はテレビの天気予報を見ながら話題を変えた。
「今日は大雨になるみたいだ」
「そうなの」
予報どおり、大雨が降りだした。
午後からどんどん酷くなり、スマホの警報のアラートが鳴る。
小窓は、予約のお客さんに「無理をされないように」と連絡をしている。当然の気配りかもしれないが、私だけでは気が回らなかった。
夕方から夜にかけては、激しい雨が降り出した。避難指示とか大雨特別警報とか、けたたましく、アラートが鳴る。弓野の町は、三方から山が迫り、そこから二本の川が流れ出し、海に注ぐ地形。写真館はそれらから少し距離があり、避難区域ではないが、尋常でない雨が古い建物の屋根を叩く。とても眠れず、小窓と私はリビングでテレビを着けた。浸水した町や雨雲レーダーの画像、避難所の情報が繰り返し放送されている。
朝が来た。雨は止んだようだ。
店のドアを開けると、泥を含んだ水が流れ込んできた。スタジオ部分には入らなかったが、受付の辺りは浸水してしまった。とりあえず、できるだけ水を掻き出しておいて、ドアを閉め、タオルで目張りをした。
…商売どころじゃないな。
停電はしていない。小窓はパソコンを見ながら、予約のお客さんに臨時休店を知らせた。
二人で裏口から長靴を履いて外に出る。少し歩くと、信じられない光景が目に入った。川は土砂に埋まり、橋に流木が引っ掛かって、溢れた水は道路を流れている。
小窓は泣きそうな顔で、その光景をみつめていた。感受性の強い子なのだろう。
「よし、行くぞ」
「記録すること」はカメラマンの重要な使命である。左腕に、父が使っていた腕章を巻く。小窓にも渡した。
流されて折り重なった車、一階が埋まった家。シャッターを切った。小窓はひどく心を痛めているようだが、ここはカメラマンの卵として頑張ってもらおう。
私が小学生の時、近所で夜火事があった。父が腕章を付けて出掛けたのを追いかけた。燃え盛る建物に向かってカメラを構える父を見た。普段は優しい父が、鬼のような顔になっていた。あとで写真を見ると、赤い炎を背景に、呆然と立つ家主の姿が黒い影となり浮かんでいた。許可はもらったのだと思うが、ジャーナリズム系の写真雑誌に投稿して受賞した。父は多くを語らなかったが、それは、祖父が従軍記者として戦場で培った魂を受け継いだものだと思う。
悲惨な現場写真をアートと言えば不謹慎に思われそうだが、人の心を動かすための表現という点では、アートもジャーナリズムも同じなのである。
そんな話を小窓にした。
店は休んだまま、復旧作業や避難所などを撮らせてもらった。本来、大変な思いをしている人にカメラを向けるのは慎むべきことである。被災者や支援者には不快そのものであろう。しかし、腕章を巻いた私には、辛い心情をそのままに目線をレンズに向けてくれた。そこには、「小鳩さん、ちゃんと記録してくれよ」という地域の期待があるのだと感じる。そのあとには、一緒にスコップを振るったり、差し入れを持って行ったりする。小窓の気遣いである。
全国からボランティアが集まり復旧が進むと、町にも少しずつ笑顔が戻る。小窓にもカメラを持たせた。
「猫の目四分の三、アヒルのくち三分の二ー!」
笑顔と明るい声が、避難者やボランティアに元気を与えている。その親衛隊、中学生のファンクラブも小窓を助けて目覚ましい活躍をしていた。「小窓ちゃん」はボランティアセンターや避難所のアイドルだった。
ある日、避難所となっている体育館のステージでダンスを披露した。ユニット名は「小窓姫と七人の侍」。前衛舞踏とヒップホップを組み合わせたシュールなものではあったが、ストーリーが「天の岩戸」なので高齢者にも楽しんでもらえた。アマテラス役の小窓が、神々しく表れるシーンは、被災者に希望を与えた。
ある夕方、二人でスタジオに戻って腕章を外す。
「オーナーは腕章をすると、ヒーローに変身するんだね。頼もしくてかっこいいよ」
「そうかあ。小窓も強くなったよな」
「そう? うれしい。私も腕章をすると、カメラを人に向ける勇気が出る」
「覚悟が決まるんだよ」
「オーナーが、モデルとしてヌードになるのと、お風呂で裸になるのとでは、全然意味が違うんだと言ってたのも、その『覚悟』のこと?」
「そういうことだな。表現というのは自分を曝け出す行為だ。モデルになることも、人にカメラを向けることも、覚悟がなければお風呂で裸を見られたように恥ずかしいだけだ」
小窓は腕章を畳みながら言う。
「この腕章は、撮る者の覚悟だけじゃなくて、撮られる人には安心を与えるみたい」
「その腕章には祖父の時代から培った、地域の信頼があるんだろうな」
「オーナー、この写真館を潰しちゃダメだよ。みんなに愛されてる」
「私が老いぼれたら、君が継いでくれるか」
「私でいいの?」
「あのF2は、君にあげるよ」
「ありがとう。でも、まだ老いぼれないでね」
「当たり前だ。まだ四十二だぞ」
小窓は目を潤ませながら、笑った。
アシスタントというより、もはやパートナーだ。私に自信を与え、自らの成長も見せてくれる。彼女がいれば、どんな困難も乗り越えられそうな気がする。
八月、発災から一か月して。店を再開した。
またあの男が訪ねてきた。小窓のストーカーだ。小窓は避難所にボランティアに出掛けていた。
「如月弥生は、小窓さんといわれるのでしょうか」
思いっきり警戒の表情を作った。
「いったい何のことでしょう」
男は、この町の人がSNSに投稿した写真を、スマホに出して見せた。「小窓姫&七人の侍」が避難所になった体育館のステージで踊っている。
「コメント欄に『小鳩写真館の小窓さんと弓中ダンス部の七人』と書いてあります。この女性、如月弥生ですよね」
小窓がうちに勤めていることは認めざるを得ないかもしれない。しかし、それを言う必要はない。
「あなた、いったい何なんですか」
強い語気に怯んだようだ。
「失礼しました。関根と申します」
差し出した名刺、関根雄介の肩書きは、聞いたことのある外資系IT企業の日本法人のエグゼクティブエンジニアだった。身なりもちゃんとしていて、善人そうな紳士である。
「すみません。少し、事情を説明させてください」
「なぜ、私があなたの事情を聞かなければならないのでしょうか」
小窓が帰って来るまでに、こいつを追い返さなければならない。
「こちらの如月弥生、つまり、こちらの小窓さんは…」
「ちょっと待ってください。うちに小窓という女がいて、それが如月弥生だと決めつけているようですが、私は何も言っていませんよ」
「ああ、それはすみません。説明させてください」
「歪んだストーカーの熱愛談など、聞きたくありません」
「ストーカーではありません。私、あの子の父親かもしれないのです」
「え?」
意外な答えが返ってきた。
「状況的にあり得るというだけですが…」
男は語り出した。
「あの子の母親とは大学の同期生でした。内緒でしたが、ま、友達以上の関係でした」
「あの、そんな話、私にされても…」
「ごめんなさい。ここからお話しないと、なぜ私がここに来たのか説明ができません」
小窓の父親かもしれないという根拠が出てくるなら、本当は私も聞きたい。
「そうですか。それでは伺いましょう」
「私は大学を卒業して、今の会社に入り、間もなく海外勤務を命じられました。あの子の母親に、一緒に海外に行かないかと相談をしました。プロポーズです。しかし、その後連絡が取れなくなってしまいました。結局それっきりに」
大学を卒業してからそれっきりというのは、私と祐子さんの状況と同じだ。
「今は日本にいるのですが、大学時代の共通の友達が、SNSの私のアカウントを見つけたらしく、去年、彼女が死んだとメッセージをしてきました。そして、彼女には父親の分からない子どもがいるとも」
小窓の「父親は誰だか分からない」、「母親は去年死んだ」という話に符合する。
「その友達も私が父親かもしれないとまでは書いていませんでしたが」
「そんな中途半端な根拠で名乗り出るつもりですか」
「DNA鑑定をしてもらえないか、お願いしてみようと思います。もし、私の子でないにしても、お母さんへの贖罪として、その子にできるだけのことをしたいと思うのです」
「できるだけのことって、あなたには奥さんや子どもさんはいないのですか」
「独身です」
…きっと、私と同じように不器用な人なんだ。
この男に、少し親近感を覚えた。
「なぜ、その子が如月弥生だとか、小窓さんだとか思うのですか」
「はい。先ほど言った共通の友達が、二年ほど前に撮ったという母子の写真を送ってくれたんです」
「これです」と言って、また、スマホの画面を差し出した。
私は激しく動揺した。子どもは間違いなく小窓。そして、母親は懐かしい面影。
…祐子さんだ。
私は思わず聞いてしまった。
「このお母さんが、あなたの交際相手だったという人ですか。お名前は?」
「はい。高坂祥子さんといわれます」
…別人か。
私の意識が、母親の顔に捕らわれていることに気付かず、男は娘の話に戻す。
「この写真の子の顔を、顔認証アプリを使ってインターネット検索したところ、一致率九十パーセント以上という地下アイドルの写真に当たったんです。それが如月弥生」
私は平静を装う。
「そんなことができるんですか。怖い時代ですね」
「人間の顔の検索は、技術的には一般的な検索エンジンでも可能なんですが、厳しく自主規制されています。そこで、警察庁はうちの会社に委託して、独自に精度の高いものを開発させています。私的に使ったことがバレたらクビです」
「大丈夫なんですか」
「いえ、逮捕されるかもしれません。それで、所属事務所に問い合わせたら、彼女はすでに引退していて、個人情報は教えられないと言われました」
「でしょうね」
「はい。それで、現在のメンバーをライブ会場で出待ちして、彼女のことを聞こうとすると、事務所の男性が出てきて、私の顔写真を撮り、『ストーカー行為で通報します』と言って追い返されました。実際には通報はされなかったみたいですけど」
「いろいろ危ない橋を渡っていますね」
「そのアプリが今度は、先日お見せした、この町の学校行事の写真に写り込んだ、女性にヒットしたんです。一旦、あなたに追い返されましたが、さらに探していると、今日最初にお見せした、町の人のSNSの写真。今度ははっきり顔が写っていました」
執念深い男のようだ。
「私を警戒しているようですが、ストーカーではありません。信じてください。私の話を小窓さんに伝えていただけませんか。そして、もし、もし、小窓さんが私に会ってもいいと言われるなら、名刺の携帯番号に連絡をください」
「だから、私は何も言っていませんよ」
関根は私の言葉を聞いていなかったかのように、「よろしくお願いします」と言って、帰って行った。




