五 The Strange Dream
だいぶん暑くなってきた七月最初の定休日、午前中に母親のいる施設に行く。祖父、父、私の三代に渡って小鳩写真館の経理と助手を務めたが、緑内障から視力を失った。まだ六十代であり、それ以外は健康である。鍼灸師の訓練を受けて、社会復帰すると言っている。月に一、二度訪問するが、初めて、小窓を連れて行った。
「この人が、吉木小窓さん?」
「お母さん、こんにちは。小窓です。よろしくお願いします」
小窓は母親の手を取って、挨拶をした。
「小窓さん。若い手をしてるね。年はおいくつ?」
「二十一です」
「あら、芳樹の半分じゃない。こんな男でいいの?」
「母さん、何を言ってるんだ」
私は遮ったが、小窓は答えた。
「お母さん、芳樹さんは優しくしてくださいますよ」
「そう。芳樹をよろしくね」
「はい。ご安心ください」
婚約者でも紹介に来たみたいになってしまった。
母さんは妙なことを言い出した。
「小窓さん。私、なるべく早く家に戻りたいと思ってるのよ。いい?」
「私が、何か言うことではないですけど、早くお家に帰りたいですよねえ」
「うんまあ、それは芳樹にも言ってあるのよ。でね、今ここで職業訓練を受けててね。できれば、写真館の一角で鍼灸院ができたらいいなと思ってるの」
「いいですね。芳樹さんがいいと思うなら、私は大賛成ですよ」
「よかった。芳樹がよくても、お嫁さんに反対されたらやりにくいじゃない」
「ふふ。お嫁さん」
小窓は、私を見て笑った。
「母さん何を言ってるんだ」
「目の見えない人の伝統的な職業として、『針灸あん摩』の三療があるんだけどね。お灸臭い写真館なんて嫌でしょう。だから針とマッサージで行こうと思うの」
「なるほど」
「あ、そうだ。小窓さんにお願いがある」
「何でしょう」
「ツボってのがあるじゃない。ここのスタッフさんの身体を触りながら確認するんだけど、なんか、みんな柔道とかをやってた人で肉に指が入らないのよ。どこを触ってるのか分からなくなるの。もし、よかったら、小窓さんの身体、触らせてもらえないかしら」
「ああ、私でよければ」
小窓は母さんのベッドにうつ伏せになった。母さんは小窓の背中を手のひらや指で辿りながら、言う。
「ああ、筋肉の凹凸がはっきりしていて、ツボが分かりやすい」
「母さん、小窓の筋肉は最上級だよ」
「芳樹、見せてもらったの? 触ったな」
「触ってないよ」
母さんは、笑いながら小窓に何かを耳打ちした。
「はい。分かってます。ふふ」
母さんは、本格的に小窓の背中をマッサージし始めた。
「お母さん、無茶苦茶気持ちいいです。鍼灸院、きっと流行りますよ」
「そう? ありがとう。ほんと、小窓さんの身体、綺麗。見えたら、女の私でも惚れ惚れすると思うよ。だけど、見えないからこそ分かることもある」
「見えないからこそ分かることって、何ですか」
母さんはまた、小窓に耳打ちした。
「え、それなんて意味なんですか」
「分からなければ、帰って辞書でも引いてみて」
「ネットで調べます」
「帰ってからね。芳樹、いい人を見つけたね。大事にしなさい」
「母さん、だから何を言ってるんだ」
母さんの早とちりは昔からだが、誤解しているとも言えない。目が見えなくなって勘が鋭くなったようだ。
そのまま、瀬戸内海の島にドライブをした。小窓がフォトコンテストにチャレンジすると言うので、景色の良い場所を探す。天気も良い。
平日で誰もいない砂浜に三脚を据える。自分なりに勉強をしているようで、打ち寄せる波と流れる雲を長時間露光で撮ってみたいと言う。私は口を出さずに、やりたいようにやらせた。昼間は難しいはずであるが、フィルターとしぼりを調整しながら、シャッタースピードを伸ばしていく。何度もやり直しているうちに、写真になり始めた。
「なかなか、面白い絵になってるじゃないか」
「ほんと?」
「うん。技術的には面白いけど、ただの風景写真じゃ入選できないぞ」
「これはステージだから。さあ、ヒロインの登場よ」
自分が被写体となってダンスをする。
「もっとゆっくり動かないと、掠れすぎると思うよ」
「そうだね。分かった。ありがとう」
そして、日没。
「マジックアワーだ。長時間露光には最適な時間になってきたぞ」
「私、脱ぐ」
「ばかばか。それはやめろ」
「ちゃんと水着着てるよ」
小窓は水着になって、カメラの前で緩急を付けて動いた。暮れていく太陽に、筋肉の陰影があやしく動いては止まり、また動いて止まる。舞踏だ。
…祐子さん。
初めて会った大学祭のステージを思い出す。
暗くなって撮影終了。小窓は私に近寄り、「ありがとう」と言って、頬に軽くキスをした。
「おいおい」
「照れてる」
帰ると夜になった。潮風に当たった小窓に一番風呂を譲った。
いつもは、お湯を張って着替えを準備して、「お先にどうぞ」と言ってくれる。甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる小窓。結婚したことのない自分には、よく分からないのだが、新婚生活のようだ。
あの写真で受賞した時は、祐子さんを探してプロポーズしようと思った。見つけられないうちに挫折。売れる作家になったら迎えに行くと約束していたが、その資格を失った。そして、広島に戻り、古い写真館を継いだ。祐子さんのことは忘れることにした。
堅物と思われる私だが、女性と縁がなかったわけでもない。出版社に勤めていた頃、女性ライターに二人きりの宿泊取材を入れられて、布団を並べて寝た。その時はまだ祐子さんへの想いがあり、その女性に心を許すことができなかった。受賞後、写真家になってからは、あるモデルに猛烈なアタックを受けた。祐子さんを忘れようと、酒の力を借りて狼になったが、途中で意識朦朧となり、「祐子さん」と口走ってしまった。二人とも美しい女性だった。ほかにも、デートや食事をする女性は何人かいた。しかし、心に引っ掛かるものがあり、モテ期を逃した。引っ掛かるものというのは、祐子さんへの罪の意識と恋慕の情である。
今、小窓が現れて、あの引っ掛かりが蘇っている。小窓が過去の女性と違うのは、祐子さん自身を感じさせる点である。祐子さんを思い出させておいて、上書きしようとしているかのようだ。
スタジオの椅子に座って考えていたら、背中から抱きついてきた。
「何を考えているの? ダーリン」
パジャマ姿は、嫁さんというより娘にしか感じない。
「ダーリンはやめろ」
「じゃあ、お父さん」
「お父さんもやめろ」
「んじゃあ仕方ない、オーナー。お母さんに聞いたよ」
「何を」
「芳樹は子どもの頃から、女の裸ばかり描いてたって。スケベーだから気をつけてねって」
「母さん、何を言ったのかと思えば」
「私、『分かってます』って言ったでしょ」
物心がついた時から写真館で暮らしていた。マガジンラックに並んだ写真雑誌には、必ずヌード写真が掲載されている。子どもながらに、エッチな気持ちを抑えながら、その写真をアートとしてスケッチしていた。
「裸を描いてたわけじゃない。人間の肉体を描いてたんだよ」
「子どもの頃から女性の肉体を?」
「そういう言い方をしたら、やらしいだろ。男も描いてたよ。体操選手とか水泳選手とか」
「なんか引くわあ」
「なんで引くんだよ。筋肉の名前や役割を調べて、スケッチに書き込んで夏休みの宿題にした」
「やっぱ、引くわあ」
風呂に入ってから、また思いを巡らせる。
お父さんとかダーリンとかは、ただの冗談なのだろうか。さらには、雑誌に掲載された祐子さんの写真を見て「お母さん」と言った。突飛な仮説が湧く。祐子さんは小窓の母親で、私の苗字を娘の名前に付けた。「吉木小窓」という名前は奇遇が過ぎるような気がする。苗字も本当は「堂園」ではないのか。あの雑誌を見せて、「この写真を撮ったのが、あなたのお父さんよ」と教え込む。小窓は母親の魂を抱いて、恨みを晴らすために、私に近寄った。つまり、「ダーリン」は呪いの言葉。私を殺そうとしているのか。妄想である。そもそも、私は祐子さんに対して、子どもができるようなことはしていない。
リビングに戻ると、小窓がビールを出してくれた。
「何に乾杯する?」
「小窓の作品が入賞しますように」
「ありがとう。じゃあ私は、オーナーにいいお嫁さんが見つかりますように」
「なんだそれ?」
「乾杯」
最高に旨い。一気に飲んだが、一気に眠くなった。私は酒に弱い。
我慢できなくなり、部屋に戻って寝床に入る。
夜中の何時だか分からないが、気が付くと、私の布団に小窓が滑り込んできた。暗くてよく見えないのだが、パジャマを着ていないようだ。
「おい、ばかなことをするんじゃない」
「大好き。大好きなのに」
「何を言ってるんだ。いい加減にしなさい」
私は金縛りに遭ったように動けない。その身体を愛おしそうに抱きしめて、口づけを求めてくる。
「落ち着きなさい。ダメだ。それはダメだ」
「相変わらずなのね。駒戸君…」
「駒戸君って…」
「私よ、祐子」
「どうして、その名前を知ってる?」
「私が祐子だからよ」
「祐子さん?」
信じられる訳がない。やはり、小窓は祐子さんのことを知っていて、あるいは本当に祐子さんの娘で、私の仕打ちに対する仕返しをしに来たのか。
私の身体を強い力で、痛いほど抱きしめる。
「小窓、やめなさい」
「この子の若い身体を借りているけど、中身は私よ。祐子の魂よ」
「魂。祐子さんは死んだの?」
「…。駒戸君のこと、大好きなのに」
「祐子さん。本当に祐子さんなの?」
「…」
「冷たくしてごめん。本当にあなたを迎えに行くつもりだった」
「好き、好き、好き」
情念の炎に包まれて口づけを受け入れると、金縛りが解けて手足が自由になった。私は祐子さんの魂を抱きしめた。性愛の情の大波は、それが小窓の身体であるという抑制の堤防を越えてしまう。
「祐子さん、ごめん。愛してると言ってあげればよかった」
「言って…愛してると言って」
「祐子さん、愛してる。ずっと後悔していた」
「ありがとう。駒戸君…ありがとう…」
熱い口づけに溶かされて、彼女に包まれた。行きつ戻りつ、迎え送りつのリズムに、二人の呼吸がシンクロする。左右の大臀筋、大腿四頭筋に下腿三頭筋までが参加して、狂おしさを押し上げ、一点に集めて行く。
「祐子…」
体が硬直して息が止まる。
「芳樹…」
そして、筋肉の緊張が解けていった。
「オーナー、オーナー…」
潜っていた水から飛び出したように、大きく息を吸い込んで、目が覚めた。
小窓の顔。一瞬、現実だったのかとも思ったが、ちゃんとパジャマを着ている。枕元に跪いて、私を揺り起こしていた。
「良かった。生きてた」
「どうした?」
「どうしたじゃないよ。苦しそうに呻いてたから、飛んできたのよ。そしたら、息をしてないし」
現実感のある夢だった。身体を起こすと、人間を抱いた感触があちこちに残っている。
「そうか。起こして悪かったな」
「夢を見てたの」
「あ、いや。覚えてない」
「そう。もう大丈夫?」
「大丈夫だ」
「じゃあ、おやすみなさい」
「おやすみ」
小窓はドアのところまで行って振り返り、少し、躊躇うように聞く。
「ねえ、『ゆうこさん』って誰?」
額から生汗が吹き出す。うろたえているのが自分でも分かる。
「何か寝言でも言ってたか」
「ゆうこさん、ゆうこさんって」
小窓は、その名前に心当たりがないということか。祐子さんは、あの写真のモデル。そして、その人の魂がのり移った小窓の身体と抱き合った。そんなことは言えない。
「いや、分からない」
「そう」
小窓は自分の部屋に戻って行った。
自分の股間が濡れていることに気付いた。
…この年になって夢精とは。
起き上がって、脱衣所に行き、パンツを洗濯機に入れて、スイッチを入れた。電子音のメロディが夜の静寂に響きわたる。




