二 The Venus Line
美大生だった頃、私は「筋肉オタク」と呼ばれていた。自分がボディビルダーのように身体を鍛えていたわけではない。筋肉を絵に描くのが好きだった。それはもう、子どもの頃からのことで、絵の上達の要因でもある。
一年生のデッサンの実習で、初めてヌードモデルが現れた日には、位置を何度も変えて、教官に注意された。数か所の筋肉を部分的に描いて提出した。全身を描くという課題だったらしいが、案外、評価は高かった。
美学の授業では、「人体は何故かくの如く美しいのか」というテーマで論文を書いて、マルAをもらったことがある。何かの本で読んだ「神は自らの姿に似せて、人間を作ったと言われる。つまり、人体は神の姿なのだ」という言葉を冒頭に置き、自分なりの解釈を論述したのだ。「人体は神が作りだした最高の芸術であり、その美は骨格と筋肉、とりわけ筋肉の曲線が作りだしている」という論旨であった。男性の力強い筋肉も美しいが、やはり、女性の優しい筋肉の方が、「美」というテーマに相応しい。
ヌードモデルは、年に何度も現れない。図書館でポーズ集を借りたり、恥ずかしい気持ちを乗り越えて、成人向け雑誌を買ったりしたが、いずれもポーズはありきたりで、筋肉が意識されていない。そして、気付いた。平面の写真を見ながらでは、表現も平面的になる。筋肉は立体なのだ。
サークルは写真部に所属。家業のお陰で基礎知識を持っている私は、上級生からも頼りにされていた。
秋の大学祭、講堂のロビーで写真部の作品展を開いていた。受付係を交代して、ホールに入ってみると、ステージは舞踏サークルのコンテンポラリーダンスの時間だった。スポットライトの中に、半裸の男女が集団で不思議な動きを見せている。
…筋肉が躍動している。
ときめいた。私は最前列の席に座った。そして、間もなく一人の女性に視線を捕らわれた。センターのダンサーを引き立てるように、二列目で踊る女性。肩から背中への筋肉の陰影、ふくらはぎからアキレス腱への曲線がひと際美しい。
彼女がステージを下りるのを待ち、自分のスケッチブックを見せて、「筋肉モデル」になってもらえないかと依頼した。
「高いわよ」
彼女はいたずらな笑みを浮かべながら、そう言った。
「お金…払います」
実家には授業料と寮費を振り込んでもらっているが、その他の仕送りはない。自分が稼ぐわずかなバイト代は食費や教材費に消える。
「ごめん、冗談よ」
「いえ、絶対に払います」
「そう…」
二人でカラオケボックスに行き、肩や足の筋肉を描かせてもらった。さすがに、ボックス代は私が払った。
堂園祐子という名前の女性は、二つ年上で彫刻科の三年生。サークル活動の舞踏で鍛えた筋肉は、しなやかかつ、女性的で美しかった。彼女も筋肉の表現には興味があり、私のマニアックなテーマに理解を示してくれた。
それから何度か二人で会って、スケッチをさせてもらった。私が二年生、祐子さんが四年生になった頃、彼女はカラオケ代がもったいないと言って、自分のアパートに私を案内した。
初めて、女性の部屋に入った。それだけでもドキドキしている心臓に、とどめを刺すような提案をする。
「ヌード、描く?」
「え?」
生唾を飲む。
「いいんですか」
「いいよ」
祐子さんは私の前で裸になった。バランスのよい、美しい人体。特に、背骨の陰影が見せるヴィーナスラインはため息が出るほど神々しい。「神は自らの姿に似せて人間を作った」という言葉を思い出す。
美の女神は、ポーズのまま私に聞く。
「駒戸君には彼女いないの?」
それまで、そういう話はしたことがなかった。
「…いませんよ」
「私、なってあげようか」
祐子さんには彼氏いないんですか、という言葉を飲みこんだ。
「ごめん。冗談よ」
そう言って笑った。冗談でないことは分かっている。誰も、好きでもない人の前で、ただで裸になったりしない。
「ごめんなさい。モデル代はいつか必ず払います」
それも、彼女の求めている言葉ではない。
「本当にアートのことしか頭にないみたいね。私の友達にもそんな子がいるわ。話が合うかもよ。紹介してあげようか」
「いえ…」
私の心の中にはアートと祐子さんしかない。
都合さえ合えば、祐子さんの部屋に行った。筋肉の質感を確かめると言って、肌を触らせてもらうこともある。二人のそういう関係は誰にも知られてはいなかった。そういう関係といっても、実際は一緒に食事さえしていない。あくまでも筋肉モデルと筋肉オタクだった。プロの作家を目指す者として、絶対にモデルに手を出してはいけないという自制もあったが、極限的な禁欲に自らを追い込んで、マゾヒスティックな飢餓感に浸ろうともしていた。満たされない精神状態こそが、アートの原動力であると信じていたのだ。
祐子さんは卒業制作で裸婦の塑像を作った。私はそれが彼女自身の身体であることを知っている。スケッチブックを貸した。いろんな角度から描かれた裸体は、今でいえば3Dスキャナー、祐子さんが3Dプリンターとなって立体に再現したのだ。彼女をアーティストと認めるに十分な、魂のこもった素晴らしい作品だ。顔は描いていないので塑像もトルソであるが、虚空を抱きしめるようなポーズは、彼女の創作。求めても求めても与えられない愛の狂おしさを訴える。それが私に向けられたものだと思うと、えも言えぬ感情に身悶えるのであった。
祐子さんは就職活動をしなかった。かと言って、作家になるという強い意志もなかったようだ。とにかく、お互いのプライバシーには触れなかった。私の「ポリシー」を彼女が尊重してくれていたということなのだろう。
年が明けて、祐子さんの卒業が迫ったころ、私は一つのお願いをした。
「写真を撮らせてください」
「ヌードの?」
「絶対に誰にも見せません。現像も自分でします」
立ったり座ったりの止まったポーズでは現れない、動きながらの一瞬の筋肉の表情を捉えたかった。しかし、それがアートのためだけだと言えば嘘になる。
彼女は少し悩んだが、顔を撮らない条件で、承諾してくれた。
白いシーツを背景に、二つあった卓上電気スタンドの光をあてて、筋肉の陰影をつくった。彼女は髪で顔を隠した。カメラは実家に伝わるニコンF2。自分で現像するのでフィルムは白黒だ。
彼女は私の指示を待つことなく、自らの意思で舞踏のように筋肉を動かす。
「今よ!」という心の声が聞こえる。その声にリードされて、私はシャッターを切る。妖しくうねる身体を、息を止めてファインダーに捉え続け、無言の合図に促されて、その一瞬を切り取る。集中力が増して、呼吸も心臓の鼓動もシンクロしているような気がする。それは神聖なアートであるとともに、プラトニックを続けてきた二人にとって代替行為であった。
約束どおり、二十四枚撮りを一本だけ。
撮り終わると、彼女は息を切らせて裸のまま私に抱きついた。私は受け止めて、ハグした。
「あなたの子どもが欲しい」
彼女は耳元で言う。
「…」
目を潤ませる祐子さんの体を押し返した。
「ごめん、ごめんごめん。冗談よ」
私も男である。裸の女性を見れば、反応する。これまでも、ずっとそうだったが、一線を超えると、全部が壊れてしまう気がしていた。
「必ず、売れる作家になってみせるから」
その時こそ彼女を受け入れるつもりだった。
「待ってるわ」
ちょうど、二十歳の誕生日だった。彼女は冷蔵庫から缶ビールを二本出して、お祝いしてくれた。初めてのお酒を祐子さんと飲んだ。自分は酒に強い方ではないらしく、すぐに酔っぱらった。つい彼女の顔をじっと見つめてしまう。素敵な微笑を返してくれた。祐子さんは私の不器用な青さを無理に破壊するようなことはしない。それに乗じて、彼女の裸を搾取してきた私である。その代償は、もちろんお金では払えない。必ず成功して祐子さんを迎えに行く。私が彼女を幸せにする。私は間違いなく、祐子さんを愛していた。
その後、もう一度会ったが、その時はヌードにならなかった。なんとなくよそよそしい感じもした。最初から大学では会わないという約束をしていたが、卒業作品展にも卒業式にも来ないでと言われてしまった。そして、祐子さんは卒業したのであろう。携帯電話は繋がらなくなった。引っ越し先も知らない。連絡を待ったが、それっきりになった。自分とのことには、区切りを付けたのだろうと思った。
わずか一年半足らずの関係で、交わした言葉もそれほど多くない。しかし、二人きりの密室で過ごした時間は、私にとって青春のすべてだった。
二年後、私も卒業し、画家ではなくカメラマンになった。さらに、五年ほど経って、都内で二度目の引っ越しをするとき、何冊もある筋肉のスケッチブックの間から数枚、名刺サイズのモノクロ写真が零れ落ちた。フィルムもある。
その中の一枚、あのトルソのポーズ。虚空を抱きしめながら背を向け、振り返った横顔は長い髪に隠れている。肩の三角筋、肩甲骨と僧帽筋の作る陰影、うっすらと肋骨の浮かぶ広背筋、腰のくびれから広がる引き締まった大臀筋、そして中央を貫くヴィーナスライン。まるで、「美」という漢字のようだ。
「この写真なら勝負できる…」
落選し続けたアート系雑誌のコンテストに応募したい。祐子さんには、当然承諾を得るべきだが、連絡を取る術がない。小さな写真を両手に挟んで額に当て、目を閉じて拝むように許しを請うた。
「許してください」
そして、誰にも見せないという約束を破った。
出版社の現像室を借りて、応募規定のサイズの印画紙に焼き付けた。像が浮かび上がる。大学の写真部の暗室で焼き付けた、小さな写真では分からなかったのだが、顔を覆う髪の隙間から目が見えている。レンズを睨みつけている。心が疼いた。
「祐子さん…どうして、愛してると言ってあげられなかったのだろう」
「悲しき女神のヴィーナスライン」とタイトルをつけた。そして、アート写真の有名な雑誌のコンテストで一席を取り、雑誌に掲載された。




