一 The Old Magazine
広島市郊外のどうということのない町。古い写真館に、夕暮れが迫る。
苗字をもじって「小鳩写真館」という。従軍カメラマンだった祖父が、終戦後に創業、平和の鳥の名を付けた。二代目の父がトンビくらいに成長させたが、私は鷹になれず、時代の逆風に流されて閑古鳥に没落させた。
三月の終わり、卒業式と入学式の間のわずかな端境期ではあるのだが、今日はついに客がなかった。
一階が写真館で二階が自宅。父は亡くなり、母は視力を失って施設で暮らしている。結婚はしていない。ひとり暮らし、何かと弱気になる。
扉に「CLOSED」の札を掛けようとしていたところに、若い女が現れた。
「もう閉店ですか」
「いえ、大丈夫ですよ」
笑顔で店に招き入れた。大学生だろうか。リクルートスーツを着て、長い髪を後ろで結んでいる。
「就職用の証明写真ですか」
「ええ、まあ。この履歴書に貼りたいんです」
透明フィルムに包装された白紙の履歴書を見せた。
「かしこまりました」
最近は、コンビニの軒先の写真ボックスでもある程度の写真は撮れるし、若者はスマホで撮って、アプリで背景加工や美顔補正をしてしまうらしい。もちろん、そんなものに負けない自負はあるが、わざわざ写真館に来たのは、勝負の履歴書なのだろうと思った。
「気合いを入れて撮りますね」
「よろしくお願いします」
彼女を鏡の前に促しておいて、ブルーのバックペーパーを引き下ろし、カメラ、レフ板、照明を準備する。建物は古いが、現代の写真館としてひととおりの機材は揃えてある。
テープでバミった位置に椅子を置き、「ここにお座りください」と言うと、彼女は「はい」と言って腰をかけた。襟元や髪の乱れを確認しながら、さりげなく観察する。整った顔立ちで、美術解剖学的にスタイルがいい。
「背筋を伸ばして、肩は張らずに、少し顎を引いてください」
スタンドにセットしてある大きめのカメラ。そのファインダーを覗くと、彼女は上目遣いでレンズを睨みつけていた。
…この目。
責めるような強い眼差し。証明写真には向かないが、アートセンスを刺激する目だ。気を取り直して言う。
「ちょっと硬いですね。肩の力を抜いて、レンズの少し上を見ましょうか」
最近の履歴書は、真顔より自然な笑顔が好まれる。
「猫の目四分の三で、アヒルのくち三分の二」
出版社時代、読者モデルに表情をつけるために、私が編み出した言い回しだ。説明し直そうとしたが、彼女は一瞬にして意図を汲み取り、視線をやわらげて、適度に口角を上げた。
「そう! 上手! いきます」
なぜか、私まで緊張している。この被写体に特別な興味を抱いているようだ。息を止めて、シャッターを切る。微妙に表情を変えてもらいながら、二十枚ほどを撮った。
「はい、お疲れ様でした。パソコンに出しますので、選んでください」
彼女は画面に表示された自分の顔をひととおり見て、悩むこともなく一枚を選んだ。プリンターから出てきた写真を専用のカッターで切る。
「すみません。スティックのりか両面テープはありませんか」
「履歴書、書く前に写真貼っちゃいますか」
「今晩、ホテルでゆっくり書こうと思いますが、貼るもの持って来てなかったので」
「ホテル? ああ、広島の方ではないのですね」
「ええ。広島の会社から、急に面接に来ないかと言われて」
「それは慌てましたね」
…なぜ、うちなんかに撮りに来たのだろうか。
ここは、広島市ではあるが、飛び地になった弓野という町。広島駅から四駅ある。
写真とスティックのりを渡すと、「あっ」と言って内ポケットからボールペンを出して、写真の裏に名前を書き始めた。
「よくご存知ですね。写真が剥がれても誰だか分かるようにするためですけど、履歴書の裏から名前が透けて見えると、採用担当者にちゃんとした人だと思われるみたいですよ」
「そうなんですか。ネットで読んだだけなんですけど」
最近は個人情報の管理がややこしいので、証明写真ではすぐにデータを削除している。普通は名前も聞かないが、つい見えてしまった。「吉本小窓」。
「『こまど』さんと、お読みするんですか」
「はい。変な名前でしょ」
「かわいい名前だと思いますよ。実は私の苗字、駒沢の駒と戸口の戸で『駒戸』というんですよ」
「あら、そうなんですね。ごめんなさい、変な名前とか言って」
初めて笑った。人を引き付ける笑顔だ。面接写真はこの笑顔の方が良かったかもしれない。
写真を白紙の履歴書に貼って、もう一度微笑んだ。かわいい。
「ありがとうございます。次の電車に乗りたいので、帰ります」
広島のどこに会社があって、どこのホテルに泊まっているのだろうか。自分で言うのもなんだが、わざわざ電車で来るような写真館ではない。
「面接、頑張ってくださいね」
「はい」
彼女はドアを開けて帰って行った。
私、駒戸芳樹、四十二歳。父から写真館を継ぐ前は、プロのフォトグラファーだった。横浜にキャンパスのある美大で絵画を学んでいたが、カメラマンとして東京の出版社に就職。ライターに同行して、記事に添える風景や料理、商品などを撮っていた。数年後、学生時代に撮った人物写真をアート系の雑誌に投稿して一席を受賞。それを機に独立して、「写真家」になった。
しかし、すぐに行き詰った。アーティストとしてのテーマが定まらず、迷走。あの受賞作品を超える写真は撮れなかった。生活費さえ不安な状態に陥り、勤めていた出版社の編集部に相談に行くと、「隣の編集部がカメラマンを探していたよ」と言われた。隣の編集部というのはハード系のエロ雑誌だ。少し迷ったが、それは断った。
そんなとき、父が倒れた。母に頼まれて、父が依頼されていた小学校の運動会と中学校の修学旅行の写真係を務めることになった。地元の子どもたちの、作り物でない表情に心を洗われ、自分の本当の仕事を見つけたような気がした。
結局、父は亡くなり、私は広島に戻って写真館を継いだ。父に継いでほしいと言われたことはないが、高校生の時、古いカメラをもらった。電池さえ使わない機会式、そのニコンF2は父が祖父からもらったものらしい。今から思えば、それは小鳩写真館、継承の神器だったのだ。
翌日の夕方、小窓さんがまた現れた。大きなキャスターバッグを引きずっている。
髪を下ろして、大人びたメイクをしているので、少し印象が違う。
「いらっしゃいませ。今日は何の御用でしょう」
「就職試験、落ちちゃいました」
「はあ、そうですか。それは残念です。私の写真が良くなかったのかもしれませんね」
「そんなことないです。面接で落ちたので、私のせいです。家族のことを聞かれて、父親は誰だか分からないみたいなことを言ってしまって」
「それは酷い。そんな会社、入らなくてよかったじゃないですか」
「そうですね。そう思うことにします。母も昨年亡くなったので、大学を辞めて、就職することにしたのですが…」
「そうなんですか。言葉もありません」
「すみません。湿っぽい話で。今日はまた写真を撮っていただきたくて来ました」
「なるほど。昨日の写真は縁起が悪い。撮り直しましょう」
「いえ、証明写真ではなくて…」
「はい…」
「ヌード写真を撮っていただきたいのです」
「え?」
…何を言い出すのかと思えば。
「ダメですか」
「うちのメニューに、それはないので…。そうだ、市内のフォトスタジオをご紹介しましょう」
「いえ、駒戸さんに撮っていただきたいのです」
「あんまりからかうと、いくらお客さんでも怒りますよ」
「ごめんなさい。ダメですか…」
どうも冗談ではないようだ。本気だとしたら、一大決心のはずである。真面目に答えなければならない。本当に人生を賭けた勝負の面接試験だったのかもしれない。それに敗れて、生まれ変わりの意味で、生まれたままの姿になってみる。理屈として成立しないわけではないような気もするが、普通はやらない。見るともなく見ると、スポーツでもやっているのか、短いスカートから伸びた両足は筋肉質だ。
「しかし、どうして私に撮らせたいのでしょうか」
彼女は鞄から古い雑誌を取り出して、付箋を貼ったページを開いた。
「駒戸さんが受賞されたヌード写真。こんな風に撮られたいと思って、あなたを探していました」
…いったいどこで、こんな古い雑誌を。
「これと同じように、私を撮ってください」
それでここに来たというのか。ならば、面接試験というのは何だったんだろう。
それはともかく、これと同じように撮ってほしいなどと言われても、もはや女性のヌードを芸術的に撮る自信がない。しかも、この写真は、あの時のモデルの迫力があってこそ撮れた写真だ。




