商人の正体
目が、熱い。
人目につかないよう、どこかへ行ってしまったイリス様とジェストの背中が、瞼に焼き付いている。
血糊の服を外套をかきあわせて隠したアキディスに手を引かれて、野次馬と祭りの人混みの中を縫うように歩いてきた。
どこに向かっているのか、ふと静かな道に出て、小さなハーゼが私の背中を押してきてくれたことに気付く。
「大丈夫ですか? もう少しです」
アキディスの声に改めて周りを見ると、いつのまにか旅楽師の姿は無いし、気のせいでなければ、貴族地区に入ってきている。
「あの、弟さんは……?」
「イリスさんの言っていた噂を作りに別行動です。貴女を守ってるのが俺ひとりで、すみません」
それに大きく首を振って、目を擦った。
祭りに浮かれた場所から少し外れただけで、冷たい夜風が差し込んでくる。
ぼうっと熱に浮かされていた頭が醒めてきて、長く、息をつく。
打ちひしがれてぼうっとしてても、何もならない。
「あの、どこに向かって――」
あげた声を制されて、いきなり小さな横道に引っ張り込まれた。
「静かに……」
アキディスの低い声に導かれて、そっと横道の奥に入っていく。
壁と壁の間に入ってしまうと、暗くて、足元もよく見えない。
そのまま壁にぴったり寄りかかって息を潜めていると、さっきまで通っていた大通りを、金属音を鳴らしながら大勢の警護官が市街地に向かって駆けていくのがみえた。
多分、教会の火事に駆けつけるための一団だろう。
なのにどうして隠れる必要があるんだろう?
一団が通り過ぎて小さく息をつくと、今度は突然後ろから口を塞がれて、ぐいと引っ張られる。
黒い手袋だけが、少しだけ視界に入った。
「誰だ?!」
一瞬遅れたアキディスが身構える。
「――怖いなぁ。びっくりさせようと思っただけですよ」
甘い小声が、耳元をくすぐる。
口を塞いでいた手袋がするりと頬に流れて、そっと顎を上げた。
「怪我はありませんでしたか? 火事だというので、心配しましたよ。ミラノちゃん」
黒い。
全身真っ黒の服に身を固めたユリウスの青い瞳が、夜の闇の中に薄く光る。
咄嗟に、言葉が出ない。
「ユリウス。……ユリウスだ」
ハーゼがつんと彼の外套を引っ張って、ようやくアキディスも見覚えのある人間だと気付いた。
「ここは貴族地区の筈ですが、奴隷の貴方が、どうしてここに? それに、その格好は……」
「格好というなら、お互い様ですよ。――凄い血ですね」
一瞬、空気が凍り付く。
「ち、違うんです。アキディスさんはアリスちゃんを運んでくれて、それでっ……」
息が切れて、声が続かない。大事な事なのに。
「では、旋風のゲイルを追い払った魔法使いは、貴方でしたか」
「いえ――。どうして、そのことを?」
「……聞いたからですよ。ゲイル君に。聖女に致命傷を与えたのに、すぐ強力な魔法使いに追い払われたと。すると、傷を受けたのは、アリスちゃんだったんですね」
倒れた白い聖衣の姿が、脳裏に蘇ってくる。
乾いた筈の涙が零れて、少しだけ、黒い手袋を濡らした。
「――ミラノちゃん。ゲイルは人事院の刺客です。イリスがどんなに頑張ってみても、必ず犠牲は付いてくるでしょう。それが必要最小限であるように……どうか、祈っていてください」
する、と引いていく黒い影を、咄嗟に掴んだ。
ユリウスまで、どこかへ消えてしまう。
このまま、何の役にも立たないまま、何も知らないまま、守られているだけなんて――。
「ユリウスさん! 私も……私を、一緒に連れて行って下さい!」
捕まえていた手をさっと取られて、トンと唇を落とされる。
「寂しくなったら、いつでも呼んで下さいね。私は、貴女の奴隷なんですから」
「いや、ちがっ……」
ふと手が軽くなって、あっというまに黒い影が闇の中に消えていってしまった。
どうして、さらっとそういう事が、できるんだろう。
「――――っ……馬鹿……」
伸ばした手が、闇を掴む。
真っ暗な足元まで、空っぽになっていく。
誰も、いない。
ぎゅっと手を掴んできてくれたハーゼの不安な眼差しが覗き込んで来なかったら、どうにかなってしまったんじゃないかと思うぐらい、小さな手の温かさが、強く身に染みる。
「……行きましょう。官公庁は、もうすぐです」
「官……?」
「総議長のもとで、ゆっくり、休んで下さい」
遠くからしか眺めた事のない大きな建物。
側面の小さな入口を通って、教会に負けない年季に溢れた行政機関の中に入る。
勿論、普段一般の平民が入れる筈もない所だ。
守衛にアキディスの外套の中の血を見咎められないかヒヤヒヤしたのに、あっさりと顔ひとつで通れた事にびっくりさせられた。
人気の少ない長い廊下に、所々燭台の灯りがちらつく。
通り過ぎていく部屋の中からは、時折、仕事に追われているような声が聞こえてきていた。
「今日は祝日で業務も終了している時間ですが、まだ終わり切れない部署もあるようですね」
ぽかんとした顔を見つけられたのか、アキディスがやわらかい声をかけてくれる。
政治の場所っていうのを、想像したことがなかった。
何となく堅苦しくてきちっとした世界、みたいな漠然とした感じが、一気に物凄く現実的で事務的な、人間味に溢れた印象に染まる。
いくつかの階段を登って、ようやく濃赤色の敷物に彩られた高級そうな廊下に出た。
たぶん、ちゃんとした正門から入れば、こういう空間が続いているんだろう。
外とは違って緑色の制服に身を固めた警備官が、ここではじめて声をかけてきた。
「おい――」
思わず竦む。
素早く近付いてくる低い声が怖い。
アキディスは血糊を隠した商人だし、私もハーゼも平民の私服姿。
とてもこんな所にいていい人間じゃないのは、一目でわかる。
「この前貰った土産、嫁さんが凄く喜んだぜ。ありがとな、商人」
強面が真面目な顔のまま、くだけた声をかけてきたのに、一気に緊張が弛んだ。
「それは良かった。また掘り出し物があればお持ちしましょう。ところで、ウインツ総議長は、今、どちらに?」
「執務室だ。どうした、女連れで。逢引の手引きか?」
「そんなところです。ありがとうございます」
あっさり頭を下げたアキディスに手を引かれながら、違います、という声は、しまっておく。
またひとつ階段を登って、重厚な雰囲気の階層に出た。
行政施設というより、貴族の空間だ。
アキディスの足取りに迷いはない。
高級そうな装飾の扉を、遠慮なく叩く。
「総議長。お花をお持ちしました」
入れ、という小さな返答があって、扉の鍵が開く。
緊張している暇もなくさっと手を引かれて中に入ると、扉が勝手に閉まって、鍵がかかった。
いくつもの燭台で明るく照らされた一国の盟主の執務室は、濃赤色の長椅子や重厚な机のそこかしこに雑多に書類が積み上がり、最初に通り過ぎてきた下層の部屋に負けないくらいの事務色に溢れていた。
特に酷いのは、総議長様の机まわり。
机に積み上がった紙の量が、周囲の床にまではみ出して、白い壁が出来上がっている。
「手伝いに来たのか、邪魔をしに来たのか、まずはそれを申すがよい」
長椅子の書類の壁の中から女性の声がして、ちら、と顔を覗かせる。
黒髪の、切れ味の良さそうな目をした美人と目が合って、おもわず硬直した。
「どっちもです。人事院の刺客が動きました。聖女が襲われ、教会は火事です」
「教会が――?!」
白い壁の奥から声がして、かきわけるように総議長が書類の中から顔を出す。
私の姿をみつけて、あわてて立ち上がってきた。
「ミラノさん。ご無事で良かった。聖女が襲われた……とは、無事なのか?」
「本物の聖女、イリス=ローグは無事です。妹が取り違いで殺されました。ハーディスが追い払ったんですけど、間に合わなかった」
外套の下の商人服にどす黒い血の染みがひろがっているのに、小さく息をのむ。
「それは……それで、本物は?」
「聖女を死んだ事にして身を潜める、と。現在ハーディスが、火事を聖女の奴隷保護活動をやっかんだ人間の仕業として、噂を拡散しています。それも、本物――イリス=ローグの依頼で。妹を亡くしたばかりなのに、機転が速い女性ですね。心配するなと姿を消しましたが、刺客が人事院の者であったことを知れば、報復として活動を始める可能性もあります。火事には警護官が出動しています」
一気に喋ったアキディスの言葉を噛みしめるように訊いた総議長は、茶色のくせっ毛をくしゃりと掻いた。
「――人事院に、蜂の巣を突かれたな」
「あ、あの、それと人事院の刺客は、総議長様を狙ったあの旋風のゲイルっていう人です」
大事な情報が抜けてるのに気付いて咄嗟に声をあげると、総議長の愁眉が濃くなった。
「なるほど。そうくるか」
「感心しておらんで、早急に手を打たぬか。人事院を押さえつけるか、元聖女を押さえておくかせぬと、法案を立てる土壌が崩壊しよう」
ずばりと総議長を叱りつけた女性は、手元の作業を続けながら、黒い瞳をきっとアキディスにも向けた。
「人事院の動向と元聖女の所在についてのみではない。民意を落とさぬよう、吹聴の操作を怠るでないぞ。ここが勝負処と思うがよい」
「わかります。その前に、ちょっと着替えを頂けませんかね」
慣れているのか、彼女の厳しい眼光をするりとかわして血糊のついた服をサッと脱いだアキディスに、おもわずどきっとした。
総議長様が放り出してあったらしい服を掴んで、ポンと彼に投げる。
「――国防院を、すぐに動かせるようにしておく。だがどうしても、衝突は避けなければ。人事院内部に、取り入る事は出来ないか」
「シャロン=イアが院長になって、無駄がなくなりましたからね。以前から試みていましたが、現状では伝手がありません」
「じゃあ人事院は刺客の件で出来るだけ足を引っ張るか。アキディスは、イリス=ローグの所在と動向、世論のほうに力を入れてくれ。正使には、魔女探しの協会を通してフェリア中央教会の保全を依頼して欲しい。警護官が教会に詰めっ放しになれば、人事院に教会を乗っ取られるような形になりかねない」
「ふむ、私に出来るのはそのぐらいか。ではこの資料の山は片づけておく。心置きなく働いてくるが良い。刺客に殺されるでないぞ」
喋りながら簡単な身支度を済ませた総議長がそれに頷いて、私の肩をぽんと叩いた。
「ここは安全です。隣に仮眠室もあるので、散らかっていて申し訳ないけど、今日はここにいて下さい」
「えっ……でも……」
「ミラノさん、ハーゼの事をお願いできますか? 流石にこの立ち回りに連れては行けないので」
平服に着替えたアキディスに真顔でそう言われてしまうと、反論できなくなった。
「あ、あのっ……どうか、お気を付けて――」
それしか、かける言葉がみつからない。
一度に沢山の事をして貰っているのに、私に出来るのは、皆の無事を祈ることぐらいだなんて。
小さく笑みを残して、急ぎ足に出て行ってしまった二人の無事を、改めて、祈る。
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