第二十二話 凛水・@一軒目
ぐつぐつと煮えたミルクパンからコーヒーカップにお湯を注ぐ。
あっという間に液体が深みのある茶色に変わると同時に、水面にベージュの小さな泡が浮かぶのが見えた。
ちらっと時計を見ると、まだ4時。
今日は部活に出ずにすぐ帰ってきた。
月樹と玲香が帰る前に、家事の練習をしようと思ったのだ。
大体の日はそれぞれの里親さんが家事や面倒を見るためにやってきてくれるが、今日はみんな忙しいらしいので私が家事をしないといけない。
――親がいない分、最年長として兄弟を支えなきゃ。
「でも……」
私は盛大な溜息をついた。
「なんで私はこんなに不器用なんだ……」
とりあえずアイロンをかけてみようと思い制服の替えにアイロンをかけてみたが、全く上手くいかない。
まず温度調節がわからないし、布にすべらせてもひっかかってなかなかすべらないし、重くてコントロールできないし、しまいにはアイロンの熱くなっている部分に触れて火傷してしまった。
水ぶくれになった人差し指を見て再度溜息をつく。
あーあ。
晩御飯も作らないといけないなぁ。
料理なんかほとんどしたことないや……
弱気になる自分を、必死にフォローする。
ううん、そんなこと言ってちゃいけない。
私は親の代わりにちゃんと兄弟を支えなくっちゃいけないんだから。
目の前にあったインスタントのブラックコーヒーを一気に飲むと、しゃんと背筋を伸ばしてキッチンへと向かう。
さぁ、何を作ろうか。
あ、そういえばあの頃、月樹と玲香は……
――お母さん、今日の晩御飯は?
――あら、凛水。晩御飯何にしようかしら、まだ決めてないのよ。凛水は何か食べたいものある?
――私?私は別に何でもいいよ。るきあとれいっかは?
――僕オムレツ食べたい!
――私もオムレツ食べたいよ!ねぇ、作ってよお母さん!
――もう、月樹と玲香はいつもオムレツを食べたがるわね。そんなに好きなの?
――うん!お母さんのオムレツ、大好きだから!
――そう言ってくれて嬉しいけど、さすがに食べ過ぎよ。今日はダメ。
――えぇー、食べたいのに。
――別に食べ過ぎてないもん!
――いいえ、最近ほぼ毎日食べてるじゃない。またいつか作ってあげるからそれまで待ってて。
――はぁい……
――仕方ないなぁ……
そうだ。
いつもお母さんのプレーンオムレツを食べたがっていた。
ほんのりとバターの香る、ふわっふわのオムレツ。
たしかにあのプレーンオムレツはものすごくおいしかった。
オムレツなら卵を焼くだけだし私にもできるよね。
じゃあ作るものはそれに決定!
えーっと、材料は何がいるんだろう……
とりあえず卵を買いに行こう!
近くのスーパーは歩いて五分ほどのところにある。
財布の中身を確認すると、私はスーパーへと歩き出した。
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スーパーへと続く坂を下りていると、ポロンと微かなピアノの音がして無意識に立ち止まる。
小さな、でも決して弱々しくなく、芯だけを残したような力強さのある響き。
あの二軒目のアパートの前だった。
……あのストリートピアノかな。こんな美しい音、どんな人が奏でているんだろうか。
スーパーに行かないといけないのはわかっているものの、足が勝手にアパートのほうに吸い寄せられていく。
ついに玄関までやってきてしまった。
ギギギという音とともにドアを開ける。
と、そこにはパンク風な服装をしてヘッドフォンを首にかけた、私くらいの年の男の子がいた。
――私と同い年くらいの子がこんなにきれいな音を出せるなんて。
すごいな。
単純に、尊敬した。
一音一音を大切に弾いている感じがして、互いの音がそれぞれを引き立てるようなしっかりした音。
いつしかうっとりと聞き惚れていた。
ダンッと力強い和音で曲が終わる。
――最後まで、力強くてきれいな音だなぁ。
「ピアノ……お上手、ですね」
だから、無意識にそう話しかけていた。
次の瞬間少年は鬼のような形相でこっちを振り向いた。
「はぁ??ピアノ?!お、おいお前そこで何してた!!」
「何してたも何も……あなたのピアノを聞いていました」
「聞いてただと?!俺の許可もなしに?!」
「はい。ダメでしたか?」
「ダメに決まってるだろ!」
「そうですか。それは申し訳ありませんでした」
なぜかこの人の前だと言葉がすらすらと口から出てくる。
――私、初対面の人ともちゃんとコミュニケーション取れてる!
笑顔にならずにはいられない。
「おい、何笑ってんだ!」
「笑ってません」
「笑ってるだろ!」
「笑ってないですってば」
「って言いながら笑うな!」
「もしかしたら、あなたの演奏が素晴らしすぎて笑顔になっちゃったのかもしれません」
「なっ……」
少年はピアノの椅子から立ち上がると、私に背を向けた。
後ろから見える少年の耳が赤くなっている。
ふふふ、ピアノを褒められて照れちゃったのかな?
「本当にあなたの奏でる音はすごかったですよ。はきはきしていて、力強くて……聞き惚れちゃいました」
「そ、そうか。……わかった、今回だけは許してやるからもう俺のピアノを勝手に聞くな!」
「はい」
「絶対だぞ!次やったら許さねえからな!」
少年はその言葉を残してピアノの部屋から出て行ってしまった。
せめて名前だけでも聞いておけばよかった。
弾き方のコツとか教えてもらいたかったのに。
「こんにちは。さっきは私の息子が迷惑をかけてしまって、ごめんね」
「あ、こんにちは」
話しかけられて顔をあげると、優しい笑顔の大家さんがいた。
さっきの子は大家さんの息子さんだったのか。
「おや?」
私の顔を見て、大家さんの眉がぴくりと動く。
「どこかで見たことがあると思ったら君は前ここにピアノを弾きに来た子かい?」
「はい!覚えてくれていたんですね」
そうだ。私は一度、ここでピアノを弾いた。
引っ越してきた、その当日。
せっかくここの近くのアパートなんだからたまに行ってピアノ弾いてもいいよねと思い、兄弟には遊びに行くと言ってこのピアノを弾きに来ていたのだ。
そういえば、あのとき帰った後の部屋でるきあとれいっかが……
――もういいよ別に。るきあはれいっかと一緒にいなよ。私は別にあんたなんて……
ふっと心に影が差す。
るきあとれいっかが私とより仲が良いのは知っていた。
知っていたのに……
なのに、私はあのときなぜかすごく落ち込んでしまった。
るきあなんて私を置いてれいっかとずっと一緒にいればいいんだって、本気で思った。
……だって私のるきあへの気持ちは恋愛感情じゃないもん。
だから私は関係ない、もうるきあのことなんて気にしなくていいって思ったら、気が楽になると思っていた。
なのに。
なぜか、部屋の近くに座ったまま泣いていた。
Q.これは本当に恋愛感情じゃないといえる?
A.……。
何度自問自答したって、はっきりしない答えしか出てこない。
恋愛感情なら早く捨てないと。
「大丈夫?すごく険しい顔になっていたよ」
「あ……大丈夫です」
「そうならいいんだけど。何か悩みがあるの?」
「いやぁ……お気遣いありがとうございます」
「なにか悩みがあるならいつでも相談に乗るよ。最近悩んでいる若者が増えている感じがするんだ。悲しくて仕方がない」
何か相談したいことあったらこの機会に相談したいな。
悩み……るきあのことなんて話せないし。
あ、そうだ!
「じゃあ、私の今の悩み、相談していいですか?」
「もちろん」
「今日は里親さんが……いや、両親がいつも忙しそうにしているので私が家事をしようと思っているんです。今から夕食を作ろうと思ってるんですけど、料理なんてやったことなくて……どうしたらいいでしょうか」
「おー、親孝行だね。偉いなぁ……。夕食のメニューは考えているの?」
「一応、プレーンオムレツを作ります。ご飯や汁物とかは決まってないです」
「ふーん……炊飯器使ったことある?」
「ないです」
「じゃあ今日はとりあえずパンにした方がいいかもね。汁物は簡単なスープの作り方を教えてあげるよ。あとは野菜を洗って切るだけだからサラダも作ったら?」
メモ帳を持ってきて正解だった。
ペンを取るとメモ帳にさらさらとメモを取る。
「詳しい作り方は今から教えるね」
そう言って歩いていく大家さんの後に続くと、台所についた。
手取り足取り教えてくれる大家さんの説明はとても分かりやすかった。
気づいたらメモ帳のページを5枚も使ってしまっている。
実際に私も大家さんの台所でオムレツを作ってみると、最終的にちゃんと形になったし味も不味くはないものができた。
うちで卵が余っているからと卵などの材料もくれた。
――山脇さんが言ってた通りだ。すごく優しいしいい人だなぁ。
「ほんとにありがとうございました」
「いや、私も楽しかったよ。また何かあったら来てね」
「ありがとうございます」
大きなエコバッグを持って、私はアパートを後にした。
もうれいっかとるきあが帰ってきているかもしれない。
……急ごう。
私は夕暮れの道を駆けだした。




