一介の魚は竜の門を昇る
ノベルアップ+に投稿していたものを少しだけ改稿してこちらへ持ってきました
吾輩は魚である。名前はあるかもしれないが、知らない。そこまで大きくもない魚である。
どこかの川で生まれたことは分かっているが、どこに向かえばいいのかも分からず彷徨っている。偶然見つけた大きな魚に話を聞くと、君の生きる場所はここだからここにいていいのだと話してきた。
そんな大きな魚に君のように大きくなりたいと話すと、面白い話を聞かせてくれた。
「登竜門という言葉がある。この河の上流にある竜門という場所を超えると竜になれるらしい」
「面白いな。ならばそこへと向かおうじゃないか。君も一緒に行くかい?」
だが彼は拒否した。なぜなら私は既に龍なのだと、龍の魚であるから行く意味がないと。
ならば私が証明しよう。竜門を超えた私が、君と同じ姿になればきっと君みたいに大きな存在になれると。
「それなら帰って来ようじゃないか。竜となった私を見ておくれ」
「なるほど、ならば待とう。私の生息はここであることに変わりはない。帰ってきた姿を楽しみにしているよ」
穏やかな流れ、変わらない水。それから私は泳ぎ始めた。
それからというもの、川の流れに逆らい泳ぎ続けた。幾度も幾度も流されては逆らい、逆らっては耐え切れず、途轍もなく勢いが増したときには河の端に隠れてやり過ごそうとして流された。
生命を削っているのが分かっていた。残っている命は帰ることができなくなるかもしれないという恐怖を襲わせてきた。
だが私の生命だ。誰よりも分かっているのが私だ。帰られるだけの生命を残しながら少しずつ上り、遂に辿り着いた。
「なるほど、途轍もない急流だ。これほどを上るならば竜になってもおかしくはないだろう」
かなりの上流まで上がってきた。下流にいた私からすればここにくるまでもかなりの流れだった。
そして目の前にある竜門。上り切れば龍になるとさえ言われる急流。そう思わせるだけの迫力が、流れが、力が、確かにそこにあった。
魚は試しにと急流を駆けあがり、流された。次は成功すると信じ、それを何度も何度も繰り返す。この流れを登ればあの大きな魚になれるのだと信じ、ただ上る。
大きな魚のところに戻るつもりはあった。だがこれを登らなければ戻ってはいけない。もしこの流れを超えれば竜になれるならば……最早この身体はいらぬとその生命を燃やし、急流を少しずつ上る。
そして燃やし尽くすほんの少しだけ手前で、魚は竜門を登り切った。
やった、これで私はあの大きな魚になれるのだ。今のままでは帰ることさえままならないのは分かっている。だが竜門を登るということは今のままではないはずだ。
それほどに疲れ切っていたのだから、目の前に美味しそうな虫が落ちてきたら飛びつくのは当然だっただろう。そこに針がさされており、既に動くのも面倒にさえ思えていた身体は引っ張られるままに陸へと釣られていく。
ああ、こんな終わりなのか。大きな魚よ……龍よ。私はまだ帰っていない、だが必ず帰るぞ。
それからというもの、身体に何かを塗り付けられ、身体を動けない程に押し付けられた。何度も、だ。
私を釣った人間は「いい魚拓だ。歴戦を超えたような……」などと言っていたが、既に満身創痍な身体は動かない。
しかし人間は何を思ったのか、そのまま私を竜門の上に帰した。「私の記録には残ったから十分だ」などとほざきながら。竜門を登れば死ぬと思っていた私には最早泳ぐ力はなく、ただ流れに身体を任せるだけ。
竜門の上である以上、その流れは竜門へとなだれ込む。流れの上にいた私もまた竜門へとなだれ込む。
竜門の急流に打ち付けられ、身体は少しだけ動けたものがほぼ動けなくなる。流れは変わらないがままに、これまで乗り越えてきた道をただ眺めるだけしかできずに戻っていく。
意識もなくなりつつあるが……、このまま戻れば龍のところまでいけるだろう。なら……そこまでは意識を保とう。そして竜門を超えたのだと……言ってやるのだ。
行くときは逆らうが故に途轍もない疲労があったが、ただ任せるだけというのは心地よさすら感じられる。気づけば昇天してしまいそうになりそうだ。
そして周りを見渡せばいつかの故郷。そうだ……、……ここは私が居ていい……場所なのだ。そう告げてくれた……大きな魚は……変わらず……。
「超えたのかい?」
「ああ、龍の……。こえ…………た……よ…」
約束した……から……帰っ……て…。
「君は魚だ、竜じゃない。もし竜になったとしたら君は……。……例え骸となっても、本当に帰ってくるとは思っていなかった。一時の約束とはいえ守り切った君だ。せめてもの手向けとして、私の糧となってくれ」
龍は竜となった魚の亡骸を喰らう。どこか寂しさに包まれながら。大きな魚の周りの水は、少しだけ冷たくなっていた。
竜門の上にて象られた、かの魚の魚拓はいつの間にか消えていた。飛び散らした墨はそのままに、ただ魚だけが抜け出したかのように。




