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48/54

48:初めて見たよ

 大きく膨れ上がった邪精霊はみるみるうちに姿を変え、次の瞬間には兄の姿となった。

 あのとき、水中にいた俺たちに当てる気など最初からなかったんだ。

 まさか邪精霊の狙いが外にいた兄上だったとは思うはずもない。


 それよりも驚いたのは、まだシックス兄上が退却していない事だった。

 目の前で俺たちが湖に引きずり込まれたのを見たのだから、きっともう逃げ帰っているものだと思っていたのに。


 いや、一つだけその行動の理由に心当たりがある。

 この兄は他の兄たちと違い、俺に加虐してきたことは一度もない。

 絶対に人前で、自ら俺に関わろうとはしなかった。

 それが破られることがあるのは、ある二つの場合のみ。


 一つは、痛い目にあうのが嫌で俺に責任をなすりつけるとき。

 そしてもう一つは、——そのせいで俺が『仕置き』を受けたときだ。


 そのときだけは、深夜に傷を負った俺のもとへと密かに訪れて、治癒魔法をかけてくれていたな。

 この人は兄弟の中でも特に気配を消すのが下手だったから。

 きっとバレていないと思っているのだろうけど。

 真意が明かされる日は来ないだろう。だが、ひょっとしたら今回も——、


 闇に侵されていくシックス。

 邪精霊の本体に直接取り込まれたその身体の様子は、クロさんたちのときとは異なっている。


 放たれる禍々しい力に変わりはない。

 しかし、邪精霊の黒い気配は彼女たちのように体表にまとわれてはおらず、精霊知覚でその気配を辿れば、完全にその身体の内に入り込んでしまっていた。

 つまり——、


「クロさんのように掃うことはできそうにないな」


 シックスごと斬ってしまえばそれも可能かもしれないが。


「よこせ、その身体。その、聖の思念」


 邪精霊の居た場所に立つシックスの口が、ぱくぱくと動いたかと思えば、その口から彼の声で邪精霊が漏らしていたのと同じ言葉をうわごとのように吐き出す。

 聖の思念。その言葉の意味は分からないが、やはりご所望なのは俺の身体らしい。

 きっと彼の身体を奪ったのは、エル・スルトによって斬られることを避けるための策なのだろう。

 

 ……はぁ。仕方がないか。

 両手を腰に当て、溜め息一つ。

 それから、正面にいる兄の姿をしたそれを見据え、歩き出そうとしたとき。


「我が君っ!」

「——!」


 後ろを見れば、立つこともままならないのか、クロさんが地を這いながら悲痛そうに表情を歪めてこちらに手を伸ばしている。

 そんな目で見ないでくれよ……。

 怒り、悲しみ、悔恨。その瞳には様々な感情の気配がないまぜになっている。


「お身体を、明け渡すおつもりですね……!」


「……うん、そうだ」


「なりませんっ。いくらご兄弟とはいえ、あんな輩など——」


「さっき。ガイランドの上位兵士と戦ったとき。クロさんは俺の言おうとすることを先んじて言ってくれたね、『わかっている』と。なら、いま俺が言いたいことも分かってくれるよね?」


「なればこそですっ!」


 血を吐くように叫び、必死に止めてくれるクロさんへ微笑みかけ、腰の剣帯から鞘ごと剣を取り外しながら、明るい口調で告げる。


「クロさんは戻ってくることができた。それに邪精霊が満足したら、ひょっとすると身体を返してくれるかも知れないし、自力で戻ることもできる可能性だってある。……もし俺が暴れたり、戻ることが叶いそうにないときは、クロさんの判断で良い。その剣で斬ってくれ」


 そして、取り外したエル・スルトを自分の足元に置くと、身を翻して、返事を待たずに邪精霊のもとへと歩き出す。


「うぅっ! ……くっ!」


 言うことをきかない体を、必死に動かし追ってこようとしているのだろう。

 ざりざりと金属と地面が擦れる音と、彼女の呻く声が耳に残響する。

 ……あのとき、身を挺して庇ってくれたのに、ごめんね。


 彼女への謝罪を済ませたと同時に、ゆらゆらと身体を不規則に揺らすシックス——邪精霊のもとへと辿りつく。

 こちらを見た邪精霊の口端が不気味なほどに吊り上がり、膝も曲げずに飛び跳ねると俺の眼前に降りてきた。


「よこせ」


「ああ、来い」


 がっ、と俺の両腕をつかんで三日月を浮かべている邪精霊に短く応えると、その身体から闇が染み出て溢れてくる。

 むせかえりそうな程の濃密な気配に眉一つ動かさず、目の前の兄の顔を見つめて——、


「兄上。あんたの笑った顔、初めて見たよ」


 その言葉を最後に、すべての景色が黒にかえった。

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