21:少女の瞳に映る光
コツ……、コツ……、コツ。
カラザムにある巨大な屋敷の暗闇に足音がこだまする。
その音は軽く、歩くというにはいささか遅すぎる歩みだった。
屋敷の一階。
ゆっくりと線の細い影が、その床下から現れた。
『今日のお役目』を終え、緑がかったメイド服を着た少女が身を引きずるようにして自室へと向かう。
地下も、この一階も吐き気の催す臭いしかしない。
血だまりの中にいるような気分で、彼女はこの赤錆色の絨毯の上を進む。
——わたしはあとどれぐらい生きていられるの?
とうの昔に、自らの誇りは全て奪われ、残ったのはこの身体と魂だけ。
いや、『それすら』もあの外道に手中にあると言っていいだろう。
——なら、わたしに生きる意味はあるの?
そう自分に問いかけるたびに彼女は何度、自らの命を絶とうとしてきたか。
今日屋敷を訪れたあの青年に、何度『助けて』と叫び縋りつきたいと思ったか。
その度に、ある『言葉』だけを寄る辺にして少女は衝動を堪え抜いてきた。
せめて《夜神》の姿だけでもと、傷む心と身体を彼女は窓のそばへ運ぶ。
しかし、その白い顔を照らされることはなかった。
「あ……」
まるで、そんなわずかな救いさえも許さないと告げるように。
雲は無情にも、その黒くぶ厚い身で空を覆いつくしている。
「……っ」
無慈悲な世界に、彼女は何度目かわからない絶望の闇に溺れそうになる。
しかし、声を上げることも彼女には許されない。
もし地下にいる男の耳に届けば、なにをされるか分からない。
最悪、自分が死んだとしても仲間に累が及ぶ。
それだけはたとえ絶対に避けねばならない。
でも、もう——、
ついに堪えきれない嗚咽が漏れそうになった、そのとき。
ドゴオオオオオオオォォォォォォォォッッッオオオオオオオッッ!!!!!!!!!
凄まじい轟音が闇に響き渡った。
ハッとした彼女は思わず身を乗り出して、先ほどまでの絶望など吹き飛ばしてしまった何かを窓の外に探す。
目に入ったのは、街の外壁の一部が崩れ落ちていく光景。
そして——、
紅が黒を席巻する。
煌々と屹立するその紅炎は、どこまでも、どこまでも高く昇ってゆく。
炎を柱が街を囲み、たちまち夜は昼となった
緑がかった髪の少女は、そのあまりの神々しさにあの『言葉』を、その『存在』の名をぽつりと呟く。
「……《大地照らす者》?」
——少女がこの光景を見る約一時間前まで、時はさかのぼる。
「クロさん、別にここまでしなくても……」
俺は眼下の彼らの姿に思わず口にしてしまう。
だが彼女は引き下がらない。
「いえ、理由があるとはいえ、我が君に牙を剥いたのです。にもかかわらず助けを乞うというのなら、当然でしょう」
クロさんは、これが正しい光景なのだと断じて憚らない。
いまだ彼女の身体からは魔力が陽炎のように揺らめいている。
——俺を襲ってきた六人は全員、俺の前に平伏していた。
「ナザの言う通りだセブンさん。ムシの良い話なのは分かってる。だけど、どうか俺たちを助けてほしい!」
ナベルは地に頭を擦りつけ、俺に頼み込む。
——やはり、よくよく見るほど彼らは獣人と呼ぶには異質な姿だ。
ナベルの両耳を始め、彼らはみな、どこか獣人としての特徴を失ってしまっている。
ある者は爪。ある者は尻尾。ある者は片目。ある者は牙の一部。
「わかってる。……まず、誰が俺たちを襲うように命じたんだ?」
「カラザムのアンヘル=フォグザミードという男だ」
——ここであの人の名が出てくるのか。
あの不定形だった金の壮年の姿が、形を得ようとしている。
「理由はなんだ?」
ナベルは目を伏せてから、
「ヤツは気に入った存在を見つけると、捕らえて屋敷に拘束する。——それは人間だけにとどまらず、獣人種、魔族——果ては死体まで」
「……捕らえて、どうするんだ」
「わからない。ただ、『価値』のない存在の変化がどうとか」
「——」
「だが非道なことをしているのは間違いない! 何人も、何人も、あの屋敷に消えたっきり戻ってこない。あの男は仲間を人質に俺たちの身体も求めた! ……これも、検証の一つらしい」
そう言って、悔しげにナベルは自分の獣人の証である耳があった場所に触れた。
他の仲間たちも、なにかが疼くかのように失った場所に手を伸ばす。
「——」
「最初は俺たちも抵抗して、今回のようにアンヘルを襲撃した。
でもヤツを護衛していた恐ろしく強い、異形の『何か』に手も足も出なかった」
おぞましいものを見たかのようにナベルは声を震わせる。
「どれだけ致命傷を与えても死なない。あれは、人間でも魔族でも獣人でもない!
それに——、おい! どこへ行くんだ!?」
ナベルの話の途中で、俺は身を翻し、来た道を戻りはじめる。
それで悟ったのか後ろから引き留める声がした。
「一人で行く気か!? 危険だ! アンヘル自身も見たこともない魔法を使う。おそらく《ユニーク》だ」
——《ユニーク》か。
たしか、その『個』しか使えない能力を持つ者。
魔法に限らず、その者にしか使えない力の総称。
あの背後から受けた奇妙な感覚はそれか?
——まぁ、どうでもいい。
「やつが魔法を唱えた途端、身動きが出来なくなり。死んだはずの仲間は襲い掛かって来た! だから俺たちも一緒に——」
「俺が一人でアンヘルと会いたいんだ」
溢れ出しそうな感情を必死に押さえつけ過ぎた結果、まったく感情のこもっていないような平坦な声を発してしまう。
「——ッ!」
「……我が君?」
ナベルの息を呑んだような気配とクロさんの訝しげな声がする。
困惑しているのだろう。
特に彼女は理由はともかく、《拓かずの森》で俺が過去を思い出して怒りに震えていたのを見ている。
彼女には似ているようで、まるで違う様子に見えるはずだ。
——あのときはここまでではなかったから。
俺が止めてしまっていた足を進めようとしたとき、
「我が君! 私も——」
従者であるクロさんは当然、ともに行こうとする。
そんな彼女に俺は、
「ついてくるな」
もう、いっぱいいっぱいで彼女に優しく諭す余裕すらない自分が情けなかった。
でも——、
「危ないから、巻き込みたくない。ごめん」
「それでも——ッ!?」
——。
なおも言い縋ろうとするクロさんを一瞥すると、その唇が時を止める。
夜目の効く彼女のことだ。きっと見えてしまっただろう。
——こんな顔を見せたくなかった。
だけどもう、どうにもできない。
クロさんから顔を背け、再び歩き出す。
たったいま傷つけてしまった彼女のあの表情に。
噛み切った唇から血が溢れたが、すぐに止まってしまった。
「すぐに戻るから」
「あ……」
背を向けたままそれだけ言うと、返答を待たず、俺は闇の向こうへ跳躍した。
カラザムの街まで戻ってきた俺は、外壁を飛び越えて内側へ入ると、外へ向けて拳を放ち——目の前の壁を吹き飛ばした。
まるで嵐が訪れたかのような音だった。
雷鳴のような轟音が夜をつんざき、爆発したかのように弾け飛んだ瓦礫が雨のごとく街の外へと降り注ぐ。
すかさず立ち残っている外壁の上へ飛び乗ると呪文を唱えた。
「《天を支えろ業炎》!」
直後、街の周囲に、地から天へ向かって伸びる極大の火柱が出現し始める。
一本ではなく、幾本もの紅い柱が次々と立ち並び、街を囲んだ。
まるで時が巻き戻ったかのように、一瞬でカラザムは昼に返る。
ごうごうと放たれる熱波は周囲の大地を赤熱させ、風景はさながら地獄へと変貌していた。
——逃がしはしない。
「きゃぁぁあああ!!」「な、なんだ! なにが起こっている!?」「この世の終わりだ!」
ふと眼下を見れば、天変地異のような光景を前に、街中が蟻の巣を突いたような騒ぎになっている。
俺は地面に降りると、阿鼻叫喚の渦中を悠然と歩き、アンヘルの屋敷へと向かった。
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